海は修羅場
やばい。
大きく開けた唇から、いや、頬に鋭い痛みが走った。それと同時に凄まじい力で身体が引っ張られた。
まずい。このままだと、己の命が奪われてしまう。凄まじい力が緩んだ一瞬に己の力を掛けるが、ある一定までしか自由に動けず、そのうえ、動ける範囲が狭められている。
これは危険な物かも知れない。という予感というか本能というべきか、その感覚に従って行動すればよかった。だが、生きるための欲には勝てなかった。
後悔しても遅い。だが大人しく己の命を差し出すつもりはさらさらない。生き続けるために、何としてもこの修羅場から切り抜けねばならない。
「かかったぞ!」
船長の声に船内は色めきたち、ウインチがうなりをあげ、テグスが一気に巻き上げられる。海面へと続くテグスがピンとはるにつれて、ウインチは苦しそうな音をあげ始める。
「切れてしまいそうだ。一度、止めてくれ」
その声と同時にウインチのうなりが止まり、巻き上げられたテグスが、ずるずると海の中へと戻っていく。
「あたりが強いな」
「ああ、見ろ。ウインチ止めたとたん、ずいぶん沖に持っていかれた。これは、長丁場になりそうだ。気を抜くなよ。
おい、お前はレーダーと無線に集中しろ。捕まりたくないだろう?」
その言葉で男の一人が、慌てて持ち場に戻ったが、やはり仕掛けにかかった獲物が気になるのだろう。ちらちらとその顔が見える。
「よし、スイッチを入れろ」
再びウインチがうなりをあげる。
くそっ、まただ。
凄まじい力で引っ張られ、同時に頬に鋭い痛みが走った。
忌ま忌ましい。この頬に走る痛みの大元が全ての元凶だ。これさえ取れれば、おそらく修羅場から逃れられる。
海面からその姿が一瞬現れた。
たちまち、船長の頭の中の算盤が音を立てる。はじき出された額は少なく見積もって、一年間遊んで暮らせる額だ。
――ただし、闇のルートの話だが。
「大物の中の大物じゃないか。何としても釣り上げろ。各自、気を抜くな!」
獲物は確実に近寄ってくる。レーダーと無線を見張る者も、獲物が海から引き上げられる様に目と耳を奪われ、無線から雑音混じりの音が聞こえていることに気づかない。
「最後の悪あがきか。船の真下に潜り込みやがった。ウインチを止めろ」
海中に沈むテグスの残りはあと僅か。もうすぐ獲物を捕まえることができる。男達が思った瞬間、この船の所属、船名、目的をたずねる無線が轟いた。
「おい、見張り!」
その無線の発信元であろう物体は、目視でも確認することができない。
「何処から発信されているのだ?」
その無線の発信元は、今まさに釣り上げようとしている獲物の方向と重なった。
「大物が発信元だと? くそっ、全速前進しながら獲物を離せ。今すぐだ!」
船は一気に加速しだす。男達は船から落ちないようにテグスを切ろうと試みるが、なかなか切れない。やがてこちらに向かって一直線に向かう飛行物体が見えてきた。
「くそっ、くそっ、くそっ!」
引っ張られる力が突如消え失せ、上空に頼もしい銀色の翼が見えた。
頬に針が残ったままだが、なぁに、生きのびた代償としては小さいものだ。
それは大海を泳ぐ。生まれ育てられ海に離される前に背中に付けられた、海洋調査、兼、違法操業取り締まりの発信器と共に。