図書室の小夜子さん
その日、僕がいつものように登校すると、校門の横にちょっとした人だかりができていた。
皆ひそひそ小声でささやき合ったり、興味本位で写真を撮ったり、何だか怖いもの見たさとしか思えない雰囲気だ。僕もつい好奇心に負けて、人だかりの向こうから『それ』を見ようとする。
「うわぁ」
思わずそんな情けない声が出てしまった。薄茶色の枯れ草を束ねて作ったシンプルな人形が、校門横の植木に靴紐のようなもので結び付けられていた。いわゆるわら人形というヤツだ。
胴体のあたりを握ったら持ちやすそうな大きさで、頭や手足に手作りらしい雑さがある。市販品じゃないことだけは僕にも一目で分かった。
校門にこんな呪いのアイテムがあったんじゃ、そりゃ人だかりもできるわけだ。誰だって怖いもの見たさで足を止めるに決まってる。
「うーん、また小夜子さん案件かなぁ」
「おいこら! お前達! 早く教室に行きなさい!」
学校一の怖い顔で評判の先生が駆けつけてきて、あっという間に人だかりが散ってしまう。わら人形よりもこっちの方がずっと怖い。僕もお説教のターゲットにされる前に逃げてしまうことにした。
――そして時間は過ぎて、待望の昼休憩。想像通り、クラスの話題は例のわら人形のことで埋め尽くされていた。
学校に恨みがある不審者説はまだいいとして、ああ見えて恋愛のおまじないだとか、宇宙人からのメッセージだとか、わけの分からない噂話まで発生してしまっている。
特に恋のおまじないってどういうことだ。どう考えても呪いだろ、あれ。
聞いているだけで疲れる話題に背を向けて、僕はいつもの場所へ行くことにした。
「小夜子さん、もういますか? 入りますよ」
この市立夕霧中学校には二つの図書室がある。
一つは普通の小説や授業で使う資料をメインに置いてある第一図書室。もう一つはめったに読まれない小難しい本や、何に使うのか分からないような資料が置いてある第二図書室。
僕が今いるのは、その第二図書室に繋がるドアの前だ。第二図書室は第一図書室のすぐ隣にあって、図書室同士が内側のドアで繋がっている。第二図書室に入る手段はそのドアだけだ。
他の教室と同じように廊下へ繋がるドアもあるのだけれど、本棚で内側から塞がれてしまって通ることができなくなっている。それでも誰一人困らないくらい第二図書室の利用者は少ないのだ。
「……小夜子さーん?」
ノックをしてからドアを開けると、ちょうどそのタイミングで女子生徒が飛び出してきた。
「ありがと、小夜子さん! 私がんばってみるね!」
その女子生徒は、僕にぶつかりかけたことも気付かずに、ゴキゲンな様子で図書室を出ていってしまった。あまりに突然の出来事すぎて、図書室で騒がないとか走らないとか、当たり前の注意をする暇すらなかったくらいだ。
「小夜子さん、いるなら返事くらいしてくださいよ」
「巽君か。すまないね、さっきの子の声が大きくて聞こえなかったみたいだ」
学校指定の黒い冬服に長い黒髪。襟元に付けられた二年生の校章。誰が持ち込んだのかも分からない事務机を堂々と占領し、古びた本のページを愉快そうにめくっているこの人こそ、僕が第二図書室にやってきた理由なのだ。
「小夜子さん。今朝の話、聞きました?」
「呪いのわら人形のことならもう知ってるよ」
「ですよね。ひょっとして、さっきの人もそれ絡みの相談とか」
「いや、あれは別件さ」
神宮寺小夜子さん。クラスは二年一組で僕よりも年上。美人といえば美人だけど、ミステリアスなんて言葉が泣いて謝るレベルの変な人だ。
何故なら、小夜子さんは第二図書室の主だからだ。
入学式からもうすぐ二ヶ月。未だに信じられないのだけれど、小夜子さんは名実ともにそう認識されているらしい。他の生徒からだけでなく先生からもそうなのだから驚きである。
「さっきの子は『チャーリーゲーム』に失敗したから呪われるんじゃないかという相談をしに来たんだ」
小夜子さんが図書室を自分の部屋のように使うことが黙認されている理由。それは小夜子さんが趣味でやっている『相談室』があるからだ。
「恋愛の占いをしたかったらしいけど、完全にチョイスを間違えているね。それならタロットの方がまだマシだ」
「チャーリーゲーム?」
「『コックリさん』や『エンジェルさん』と言えば分かるか?」
「どっちも知りませんけど」
小夜子さんは少しだけ不満そうに「そうか」と言って、いつものように妙な知識を説明し始めた。
「降霊術みたいな雰囲気の遊びだよ。チャーリーゲームは本場だとチャーリーチャーリー・チャレンジと言って、鉛筆を十字に重ねて四隅に『イエス』と『ノー』を二つずつ書き、呪文を唱えてチャーリーという悪魔を呼び出すと鉛筆が動くというものさ」
「あー……どこかで聞いたことがあるような」
「コックリさんやエンジェルさんは紙に五十音表や『はい』『いいえ』を書いて、参加者全員が十円玉の上に指を置いて呪文を唱えると、十円玉が勝手に動いて質問に答えてくれるというものだ。四十年くらい前の流行だったかな」
「そんなに古いんですか?」
「元をたどれば百年以上前のウィジャ盤や二百年くらい前のテーブル・ターニングだよ。ルネサンス期の十五世紀にも似たようなモノがあったという説まであるくらいだ」
この通り、小夜子さんはこの手のオカルトな知識にとても強い。そのせいか、一年生の頃から幽霊やオカルトに絡む相談事を持ち込まれるようになり、いつの間にか先生達からも信頼されるようになってしまったらしい。
小夜子さんの『相談室』の設置場所はこの第二図書室。相談を受けるボランティアをする代わり、小夜子さんはここを自由気ままに使うことができる、という仕組みだそうだ。
そんな仕組みが学校の中で成り立っているなんて、未だに信じられない。けれど確かに相談者は小夜子さんのところにやって来ていて、そして悩みを解消してもらって晴れ晴れした顔で帰っていくのだ。
「で、タネ明かしは何なんです?」
「タネ?」
「ほら、チャーリーゲームの鉛筆が動く原理ですよ」
僕はいつものように、テーブルの上に積み上げられた分厚い本を元の場所へと戻していく。これでも僕は図書委員なので、散らかったままの本の整理整頓は当然の仕事だ。
第二図書室は窓際以外の全ての壁が金属製の本棚で囲まれていて、部屋の中にも高さ二メートルくらいある本棚が並んでいるので、まるでちょっとした迷路のように思えてくる。
部屋の広さは第一図書室の半分くらいなのに、ひょっとしたら本の量はこっちの方が多いんじゃないだろうか。
「仕組みは単純さ。チャーリーゲームの方は面白みがなさすぎて好きじゃないね。コックリさんやウィジャ盤の方がまだロマンがある」
「と言いますと?」
「鉛筆の表面はすべすべしているだろう? そんなものを素人の手で十字に重ねたところで、吐息とか振動とかのちょっとしたことで簡単に滑って動くに決まってるじゃないか」
「ああ……確かに。でも、呪文を唱える前に動いたらどうなるんです? デタラメだってバレるじゃないですか」
「そのときは置くのを失敗したと思ってやり直すだけさ。人間は都合よく物事を受け止めるものだからね」
ここまでスッパリ言い切られると、納得することしかできなくなる。
「とにかく、重ねた鉛筆が動くのはお風呂場にビー玉を置いたら排水口に向かって転がっていくくらいに当然だ。その点、筋肉性自動作用や自己暗示との関連が考察できて、古来の神託にも通じるコックリさんは――」
小夜子さんのスイッチが不機嫌なまま入りかけたところで、第一図書室に繋がるドアがコンコンとノックされた。
「どうぞ。入って下さい」
僕は部屋の主に代わって勝手に返事をした。ああなった小夜子さんは簡単には止まらない。次の相談者に来てもらって空気を変えるのが一番だ。
入ってきたのは二年生の男子生徒だった。見覚えのない顔だけれど、何となく運動部っぽい雰囲気がする。
「ええと、ここが神宮寺さんの?」
「ああ、そうさ。君は二年二組、サッカー部の高町雅紀だね。相談の内容はわら人形の件かな。大方、あの人形が自分をターゲットにしたものじゃないかと疑っているんだろう」
「ど、どうして分かるんだ?」
「詳細は秘密にしておくよ。それより本題に入ろうか。ぼうっとしてたら昼休憩が終わってしまう」
今のは小夜子さんがよく使う手だ。大抵、初めて相談に来た人は小夜子さんのことを信頼していない。誰かから勧められて疑いながらやって来ることがほとんどだ。
そこにいきなり予言じみた先制攻撃をぶつけられると、大抵の人はびっくりして、ちゃんと話を聞いてくれるようになるのだとか何とか。
「とりあえず座ってくれ」
「あ、ああ……」
第二図書室の事務机には椅子が二つある。一つは小夜子さんが座っているもので、もう一つは机を挟んで反対側の相談者が座るためのものだ。
「ところで、そこの一年生は?」
「柊巽。一年一組の図書委員で、私の助手みたいな子だよ」
「あ、やっぱり僕って助手認識なんですね」
まぁ、実際にそれっぽいことをやったりしてるから、強く否定はできないのだけれど。
そもそも僕が本棚に戻している本は、小夜子さんが読み散らかしたものなわけで。片付けの手伝いをしている時点で助手とかアシスタントとか思われてもしょうがない。
「神宮寺さんの言うとおり、今朝のわら人形は俺を標的にしたもので間違いないと思うんだ」
「その根拠は?」
「わら人形を縛ってたっていう紐、たぶん俺のスパイクの靴紐だ。昨日、右足の方の紐が行方不明になってたんだ。妙なイタズラだなって思ってたんだけど……それに、前にも通学路で似たような人形を見たことがある」
高町先輩は嫌なことを思い出したように顔を青くしている。
「あのときはただの悪趣味な人形としか思わなかったし、自分が狙われてるかもしれないなんて考えもしなかったんだよ。見かけたのは朝だけで帰りにはもうなくなってたしさ……」
「通学路か。具体的にはどこで?」
「ああ、それは……」
前にわら人形を目撃したという場所を聞いて、小夜子さんは意味深な笑みを浮かべて頷いた。
高町先輩がわら人形を目撃した場所は、本当にただの道端というか、マンション前のフェンスに雑にくくりつけてあっただけだった。一体、小夜子さんはそれのどこに興味を持ったんだろうか。
「なるほどね。それじゃあ、オカルト的な説明と現実的な説明、どちらから聞きたい?」
「……オカルト的な方から」
「分かった。結論から言うと、あれは呪いとして全く成立していない」
容赦ない即答だった。
「いわゆる丑の刻参りのつもりなら、せめて神社でやらないと意味がない。あれは神様への祈願なんだ。単純な類感呪術のつもりにしても、ただ縛って固定するだけじゃ不十分だね」
「るいかん……?」
「似た者同士は影響し合うっていう理屈の呪いだよ。人形を痛めつけると相手も痛がるとか、そういうイメージだ。あのわら人形は、呪いとして成立するための要素を全く満たしていないわけさ」
高町先輩は納得と困惑が半々ずつ混ざったような表情を浮かべ、説明の続きを小夜子さんに求めた。
「なぁ、呪いってのは本当にあるのか?」
「それは現実的な説明の方の領分だね。プラセボ効果というのは知っているかな。プラシーボ効果とか偽薬効果とも言うんだけど」
「偽物の薬でも、本物だって信じてたら効果が出るって奴だったっけ」
「そうそう。マイナス方面のプラセボ効果はノセボ効果と言って、実際には無害でも思い込みで悪い影響を受けてしまう。呪いもそれと同じさ。目に見えない神秘的なパワーは存在しないけれど、そういう意味では呪いはあると言える。人間が今よりも迷信深かった時代なら効果は抜群。思い込みから病気になって死んでしまうことだってあっただろうね」
高町先輩がごくりと唾を飲み込むのが見えた。もうすっかり小夜子さんのペースに飲まれてしまっている。
そういう僕もつい作業の手を止めて、二人の会話に耳を傾けていた。
「裏を返せば、君が呪いを信じていない限り、アレはただの枯れ草人形だ。あんな燃えるゴミよりも、君を呪いたいと考えている人間が近くにいることの方に危機感を覚えるべきじゃないかな?」
「あっ……! た、確かに! わら人形のターゲットが俺なら、俺を恨んでる奴がいるってことだよな! そりゃそうだ!」
「犯人に心当たりは?」
「ええと……何つーか……」
言葉を濁す高町先輩に、小夜子さんは意味深に笑いかけた。
「事実なんだから自惚れてるとか思ったりしないよ。サッカー部の新キャプテン君は女子から大人気らしいじゃないか。それだって立派な動機だ」
「……俺はサッカーに集中したいから、そういうのは全部断ってるんだけど、断るなんてひどい!とか言い出す人もいてさ。逆恨みみたいな手紙を送りつけられたこともあるんだ」
モテる男子ならではの悩みということか。申し訳ないけど全く共感できない。
「呪いとして成立していない……と言われても不安だろうね。だから安心できる材料をあげよう。君は呪いのわら人形で警察は動かないと思っているようだけど、本当は逮捕される可能性が十分にある行為だよ」
「え、ほんとか!?」
「『高町雅紀を呪っている』というメッセージが今以上に明確になれば脅迫罪。敷地の所有者が訴えれば住居侵入罪。取り付けたことで物を壊したり使えなくしたりすれば器物損壊罪。そうでなくても場合によってはストーカー規制法違反。刑法がよりどりみどりだ」
それを聞いて、高町先輩はようやく安心したような表情を浮かべた。どうやら警察が動いてくれないと思いこんでいたことが、不安を何倍にも増幅させていたらしい。
「あんなことされても手も足も出ないってわけじゃないんだな。相談してよかったよ」
「それはなにより。ああ、そうだ。もしも何か新しい情報が入ったときのために、住所と連絡先を教えてもらえるとありがたいんだが」
「いいよ。できればもう何も起こって欲しくないけどさ」
高町先輩は住所と連絡先を小夜子さんに教え、軽い足取りで第二図書室を出ていった。悩みも不安も無事に解消されたようだ。
オカルト的には呪いとして成り立たず、現実的には気にしなければ意味がなく、エスカレートすれば警察のお世話になるだけ。高町先輩が安心感を得るには十分過ぎる情報だったんだろう。
僕は抱えていた最後の本を棚に戻し、小夜子さんのデスクのところへ移動した。
「小夜子さん。高町先輩の相談の内容とか、警察が動かないって思ってるとか、どうやって見抜いたんですか?」
「簡単なことさ。ここに来る前に二年二組の教室の前を通ってね。彼と他のサッカー部員があれこれ話し合っていたのを偶然聞いたんだ」
「え、それだけ?」
呆気にとられた僕の顔を見て、小夜子さんはにやりと笑った。
「あらかじめ得ていた情報を利用する話術。こういうのをホット・リーディングと言うんだ。占い師や霊能者の常套手段さ。観察眼を駆使してアドリブで立ち回るコールド・リーディングとの二枚看板だね。君は人が良いから、騙されないように気をつけるといい。さてと……」
小夜子さんは事務机の引き出しから折りたたまれたコピー用紙らしきものを取り出すと、机の上に広げて赤いペンで何やら書き込み始めた。
「何ですか、それ」
「何って、わら人形が発見された場所だよ。最近の一ヶ月間で十一ヶ所。妙に配置が偏っていると思ったけど、さっきの相談のおかげで謎が解けた」
「え、ええっ!? そんな地図、どうして持ってるんですか!」
状況が全くつかめない。この人は一体いつからわら人形事件のことを追っていたんだ。一ヶ月も前から? 十一ヶ所も? 僕は今朝になるまで何も知らなかったっていうのに。
小夜子さんは僕の反応が理解できないと言いたそうな顔をしたが、すぐに自分で納得したように頷いた。
「そう言えば教えてなかったか。私の家は神社だから注意喚起のための連絡が回ってきたんだ。うちの祭神に呪いを祈願しても意味は無いと思うんだけど、犯人がそこまで考えるとは限らないからね」
「知らなかった……小夜子さんの親って神主さんだったんですね」
「正確には叔父が宮司をやっていて、私はそこに居候させてもらっている立場だよ」
更に、神主は通称で宮司が正式な肩書だ、という豆知識が付け加えられる。
「わら人形の発見場所の偏りの理由は、こうして高町雅紀の自宅と、彼がわら人形を発見した場所を地図に書き加えれば一目瞭然」
「あっ! 高町先輩の通学路か!」
「少し遠回りになっているのは、途中でマンションに立ち寄って他の部員と合流しているからだろうね。本人が気付いていなかっただけで、実は既に十体以上のわら人形を叩きつけられていたわけだ」
僕の頭の中で、わら人形事件の犯人の悪質さが一段階レベルアップした。これじゃあ本当に悪質なストーカーだ。
「うち三件は建物の所有者が不気味がって廃棄してしまったけど、残りは証拠保全も兼ねてうちの神社が預かっている。なかなかに興味深いよ。ほら、この写真。並び順は左から発見が早かった順番だ」
訂正。二段階アップした。
小夜子さんが見せてくれた写真には、畳の上に並べられた八体のわら人形が映っていた。古いものは作りも甘くて適当だけど、新しくなるほどに少しずつ上手になってきている気がする。
「とりあえず、彼に連絡を入れて容疑者の心当たりを教えてもらおう。早く見つけないと手遅れになるかもしれない」
「犯人探しまでするんですか? 相談は終わってるんだから、そこまでしなくたっていいでしょう」
「手遅れになるのは彼じゃない。犯人の方だ」
小夜子さんは不意に声のトーンを落とし、デスクの前に立つ僕の顔を真剣な眼差しで見上げた。
「人を呪わば穴二つ。呪いの影響を受けるのはターゲットだけじゃない。ましてや丑の刻参りは『宇治の橋姫』の呪法からの派生なんだ。本人が影響を受けないわけがない」
「橋姫とか何とかは知りませんけど。それってつまり、呪いが本物だと信じ込んでたら、呪いに失敗して反動をくらうと思い込んで自爆するってことですか? でも、別に信じてなくて単なる嫌がらせって可能性が……」
「プラセボ効果にもノセボ効果にも限界がある。青酸カリじゃなくて薬を飲んだのだと思い込んでも普通に死んでしまうように、呪いというものは信じていなくても毒性を発揮してしまうんだ」
小夜子さんは綺麗な顔を不愉快そうにゆがめた。小夜子さんのこんな表情を見るのはこれで二回目だ。神秘が人を不幸にすることを、小夜子さんは本当に心から嫌っているらしい。
「また君に色々とお願いすることになるかもしれないけど、構わないかな」
「ええ、分かってますよ。もう慣れました」
こうして、僕達は犯人のための犯人探しに乗り出したのだった。
◇ ◇ ◇
僕が小夜子さんと出会ったのは、今年の入学式から間もなくのことだった。きっかけは『人喰い桜事件』だと言えば、この学校の生徒ならすぐにあのことかと気付くだろう。
おどろおどろしい呼び名とは反対に、尾ひれのついた噂と勘違いが生んだささやかな事件。僕は不幸にも事件の容疑者の一人とされて――本当は犯人なんていなかったのだけれど――小夜子さんと出会った。
本格的に助手扱いされるようになったのは、四月末の『青い首飾り事件』だった。こちらは正真正銘の『事件』で、警察沙汰にならなかったことが不思議なくらいだった。
とにかく、僕は図書委員として第二図書室に出入りしながら、小夜子さんの助手のようなことをやっている。例えば今日も――
「……やっぱり、クラスと名前だけじゃよく分かんないよなぁ」
高町先輩の相談を受けた翌日の放課後。僕は小夜子さんに頼まれて、高町先輩が怪しい相手として挙げた女子生徒の様子を見るために、上級生の教室がある階を訪れていた。
小夜子さんは自分が動くと目的に気付かれやすいとか言って第二図書室にこもっているし、高町先輩はサッカー部のキャプテンだから放課後は忙しいので、僕一人だけで動くことになってしまった。
これからどうしたものかと悩んでいると、一年生の校章をつけた女子生徒がひょっこりと目の前に現れた。
「柊巽君ですか?」
「え、そうだけど……君は?」
「一年三組の高町愛佳です。お兄ちゃんのことでお手伝いに来ました」
「お兄ちゃんってことは、もしかして」
「はい。サッカー部の高町雅紀の妹です。お兄ちゃんが疑ってる人達の顔なら、私もよく知ってますから」
これは本当に心強い味方だ。相手の顔を知っているのといないのとでは動きやすさがぜんぜん違う。
「じゃあ、まずは……」
高町さんの案内で、高町先輩が心当たりとして挙げた先輩達を順番に訪問していく。といっても、話しかけたり問いただしたりする勇気はないので、遠巻きに様子をうかがうだけなのだけれど。
女子テニス部のエース。二年二組の女子の中心人物。成績トップクラスの三年生――こんなことがなければ顔を見ることもなかったかもしれない先輩ばかりだ。
「何ていうか、凄いね。色んな意味で上から数えた方が早い人ばっかりだ」
「これでもほんの一部なんですよ。リストに載ってるのって、お兄ちゃんが気付いてる人だけですから」
「気付いてる人?」
「直接アプローチして断られた人だけってことです。行動に移してないからお兄ちゃんに気付かれてないって人は、この何倍もいると思いますよ。それに……」
高町さんと話しながら廊下を歩いていると、不意に数人の上級生が道を塞いできた。校則違反一歩手前の派手めの格好の女子達だ。
「あ、高町の妹じゃん」
「例のアレ、ちゃんとトってきてくれた?」
にやにやと笑う上級生達に対して、高町さんは控えめな態度で睨み返した。
「お断りしますって言いましたよね」
「固いこと言うんじゃねーよ。何かテキトーに抜き取ってくりゃいいんだからさ。ワケマエもやるし。な?」
「やりません! 今は先を急いでるので! それじゃ!」
高町さんは僕の服の袖を掴んで、早足で上級生のクラスの階から立ち去ろうとする。事情がよく飲み込めないけれど、僕もそれに合わせて駆け足になった。
教室から十分に離れ、他の生徒の声も聞こえなくなった辺りで、高町さんは気まずそうに口を開いた。
「えっとですね。さっきの人達は、お兄ちゃんの持ち物を転売しようっていう人達でして……」
「うわぁ。その発想はなかった。ていうか需要あるんだ……」
本当に僕の理解が及ばない世界だ。片思いしている相手の物を持っていたいと考えるだけなら、まだ分かる。けれど他人から買うとか、ターゲットの妹に持ち物を盗ませて売りさばくとかは完全に想定外だった。
「高町さんも大変だね」
「ほんとですよ。女子同士の足の引っ張り合いもひどくって。しかもその八つ当たりを私にぶつけたりする人もいるんです」
「好きな相手の妹には優しくした方がいいと思うんだけどなぁ」
「やっぱりそう思いますよね。私からしたら、お兄ちゃんのどこがいいんだろうって思いますけど。いっつも忘れ物ばっかりで情けないですし。今日だって部活で使う道具とか忘れてて、わざわざ届けに行ったんですから」
その後、しばらく高町さんの愚痴を聞いてから、僕は彼女と別れて小夜子さんと連絡を取ることにした。
連絡手段は僕の入学前に持ち込みが解禁されたスマートフォンだ。小夜子さんとの連絡は長話になりがちなので、文字を打つ手間の掛からない電話で済ませることになっている。
「――あ、小夜子さん。柊です。例の用事終わりましたよ」
『お疲れ様。詳細は戻ってきてから聞くとして、とりあえず要約を報告してくれ』
一階の廊下をのんびり歩きながら、高町先輩の妹と一緒に観察した結果を簡潔に報告する。
個人的には大した成果はなかったと思ったのだけれど、小夜子さんの反応はそこそこ良好だった。
『持ち物を転売する連中か。面白いな』
「興味持つのそこですか」
『当たり前だ。この前、呪いのわら人形は類感呪術に分類されると言っただろう。あれは少し説明を省いていてね。世間一般に広まったわら人形の呪術は共感呪術でもあるんだよ。私達が調べている例のわら人形もそうだ』
「よく分からないんでもっと詳しくお願いします」
小夜子さんの長話はスマホ越しでも手加減がない。なのでテキストで対話してるとそれはもう凄いことになってしまう。
『共感呪術とは、一度触れ合ったモノ同士は離れていても影響し合うという理屈の呪いだ。例えば髪の毛を人形に入れて呪いを掛けるとかいう話は聞いたことがあるだろう? それが共感呪術の典型例だ』
「それも相手に知られなきゃ現実的には効果がないんですよね」
『多少気分が晴れる程度だろうね。共感呪術に限らず、人知れず実行する呪術はそういう傾向にあるものさ』
なんて陰湿な……と思ったが、よく考えれば呪いなんてどれもこれも陰湿だ。どんなやり方だろうと、呪いである時点で陰湿さは五十歩百歩、似たり寄ったりだ。
『ちなみに共感呪術では体の一部以外も利用される。衣服や所持品は当然として、足跡を利用する呪術すらあるそうだ』
「所持品……そっか! 高町先輩の持ち物を買うっていうのには、そういう意味が!」
『さぁ、どうだろうね。無関係だと断言はできないが、関係あると断定しまうのも性急だよ』
「でも他に可能性は……」
そのとき、僕は運動部の部室の方で何やら騒動が起こっているのを目にした。しかもその中心にいるのは高町先輩だ。
僕は様子を見てくると小夜子さんに伝え、念のため通話は繋いだままでサッカー部の方へ駆け寄った。
「高町先輩。何かあったんですか?」
「あ、図書委員の! どうなってんだよこれ! くそっ! 説明してくれよ! ストーカーか? そうなんだな?」
「わわっ! 落ち着いてください!」
すっかりパニックを起こして混乱している高町先輩の代わりに、他のサッカー部員が事情を説明してくれた。
高町先輩はわら人形事件の犯人が荷物にイタズラをするんじゃないかと考えて、普段使っている場所とは別のロッカーに荷物を入れておいたそうだ。ところが、それにも関わらず入れ替えた先のロッカーにわら人形が入れられていたのだ。
現物も見せてもらったけど、これがなかなかえぐい有様だった。百均で数本セットで売られているようなボールペンが何本も突き刺されていて、犯行がエスカレートしていることが一目で理解できた。
しかも事件はそれだけじゃない。今朝、高町先輩は用心のために通学路を変えてきたのだが、その途中にもわら人形が設置されていたというのだ。
「くそっ! 通学路のことは他の奴には教えてなかったんだぞ! どうしてだよ! なぁ!」
「だから落ち着いてくださいって。今から小夜子さんに報告しますから。小夜子さんなら何か分かるかもしれません」
僕としては気休めとしてそう言ったのだけれど、小夜子さんは僕からの報告を電話で聞いただけで、あっさりとこう言ってのけた。
『なるほどね。犯人の目星が付いたよ。九割確定だ』
「……だ、そうです」
「ほ、ほんとか? ほんとなんだな!?」
高町先輩に肩を掴まれて思いっきり揺さぶられる。必死なのは分かるけれど本気で落ち着いて欲しい。
『だが残り一割の可能性も詰め切ってしまいたい。柊君、彼にこう伝えてくれ。明日の通学ルートは私が指定するコースに変えてくれ、とね』
◇ ◇ ◇
更に翌日の放課後。僕はサッカー部の練習を終えた高町先輩を連れて、小夜子さんが待つ第二図書室へ向かった。
「いやぁ、良かったよ。今日の朝は変なことも起こらなくってさ。結構遠回りだったけど、神宮寺さんが教えてくれたルートで登校して正解だったかな」
今日の高町先輩は上機嫌だ。昨日と違ってわら人形に悩まされなかったことを、さっきからずっと嬉しそうに語っている。
その喜びに水を差すようで申し訳ないけれど、第二図書室に着く前に伝えておかなければならないことがある。
「高町先輩。実はわら人形は今朝もあったんです。それも小夜子さんが指名した通学路のコース上に。先輩が登校する前に……いえ、もしかしたら設置された直後に撤去されていただけなんです」
「え、ちょ……何だよそれ」
「詳しい説明は小夜子さんの話を聞いて下さい。ただし……」
廊下の途中で立ち止まり、自分の口の前で人差し指を立てて、ここから先は静かにするように要求する。
「立ち聞きです。何があっても声を上げないでください。小夜子さんと話している相手に気付かれないようにしてください」
「まさか……話の相手って、犯人なのか?」
高町先輩は表情をこわばらせた。僕はその質問には答えず、事前の打ち合わせ通りに、第二図書室の廊下に面した方の扉を静かに開いた。
第二図書室に入る方法は、隣の第一図書室から内扉を通ることだけだ。廊下に面した本来の扉は本棚で塞がれている。しかし、その本棚はメタルラックに近いタイプで、本と背板の隙間から向こうを見ることができる構造になっている。
僕達はその隙間を利用して、廊下から第二図書室の中の様子をこっそりと覗き込んだ。
事務机にはいつものように小夜子さんが座っている。そして僕達に背を向ける位置取りで、女子生徒が一人。
高町先輩が驚きの声を飲み込む気配がした。当然のリアクションだ。何故ならその女子生徒は、高町先輩の妹の高町愛佳だったからだ。
「あの、神宮寺先輩。用事って何でしょうか」
「単刀直入に言うとだね、君に掛かっている呪いを解こうと思うんだ」
「呪い……? あ! もしかして、あのわら人形のターゲットって、お兄ちゃんじゃなくて私だったとか……!」
「いいや。あれは間違いなく高町雅紀を標的にしたものだよ」
そして小夜子さんは当たり前のような流れで続きを口にした。
「術者は君だ。君が仕掛けた呪いだ」
「え……? ちょ、ちょっと待って下さい! どうして私がお兄ちゃんを呪わないといけないんですか!」
「もちろん根拠ならある」
小夜子さんの視線、口調、態度。それらの全てが有無を言わさない圧力を放っているように感じられた。高町さんもそれに圧倒されたのか黙り込んでいる。この場のペースは完全に小夜子さんのものだった。
「順番に説明しよう。一昨日以前の十数件を含め、全てのわら人形には彼の毛髪や私物の一部とみられるものが入れられていた。わら人形を使った呪いや呪いの典型だな。同じ家で暮らす肉親の君なら調達は容易だ」
高町先輩の持ち物を売りさばこうという計画を聞いたとき、小夜子さんが注目したのは、それを計画した生徒ではなく彼女達が調達手段として目をつけた生徒――つまり高町愛佳の方だったのだ。
「次に、昨日の朝の通学路にあったというわら人形だ。彼は通学路の変更について他の人には教えていなかったと言っていたそうだが、改めて本人に確認を取ったところ、家族には事前に相談していたことが分かった。家族は『他の奴』には含んでいなかったわけだね」
「…………」
「そしてサッカー部のロッカーに入れられていたわら人形。こちらはもっと簡単だ。その日、君はお兄さんに忘れ物を届けたそうだけど、一体どうやって届けたのかな?」
「それは……」
言葉に詰まる高町愛佳。それでも小夜子さんの追及は止まらない。
「君は忘れ物を届けるという名目で部室に入った。部長の妹で、なおかつよく忘れ物を持ってきていたから、目撃者がいたとしても疑いは抱かなかっただろうね。全く同じ理由で、顧問から部室の合鍵を借りることも容易だった」
「……違……」
「本来のロッカーに荷物がないことに気付いて、片っ端から開けて探したとしても、言い訳はとても簡単だ。仮にその場面を見られても、忘れ物を入れるべき兄のロッカーが見当たらないと説明すればそれで済む」
空きロッカーに荷物を入れ替えるという高町先輩の作戦には欠陥があった。高町先輩の荷物を見分けられる人が相手なら、全てのロッカーを開けて中をチェックされるだけでバレてしまうのだ。
「そうして君は、忘れ物と一緒にわら人形を仕込んだ」
「違います! 全部想像じゃないですか! 証拠になりません!」
「当然だ。証拠の提示はこれからだからね」
小夜子さんは事務机の引き出しから一枚の写真を取り出した。僕も事前にあの写真を見せてもらっている。あれこそが、高町愛佳がわら人形事件の犯人であると実証する証拠。
「君が月夜見神社の柵にわら人形を結びつけている姿、防犯カメラにしっかり映り込んでいたよ」
「――――っ!」
高町愛佳が写真をもぎとって小刻みに肩を震わせる。
「ど、どうして……どうして神宮寺さんがこんな……」
「君が知らないのも無理はない。巽君に教えたのもついこの間のことだからね。月夜見神社は私の家なんだよ。第二図書室の主みたいな比喩表現じゃない。文字通り、その敷地内の家で寝起きして暮らしているんだ」
僕も初めてそれを聞いたときには驚いた。神社の敷地に人が住んでいるというイメージが、どうしても頭に浮かんで来なかったのだ。
「まさか、お兄ちゃんが今日も通学路を変えたのって……」
「その防犯カメラは私の提案で悪戯防止のために取り付けたものでね。まさかこんな形で活用することになるとは思わなかったよ」
昨日、小夜子さんは高町先輩に再度の通学路の変更を要請した。今回のルートは小夜子さんの自宅がある月夜見神社の前を通過するコースであり、高町愛佳はそれと知らずに、小夜子さんの思惑通りにわら人形を設置してしまったわけだ。
「うちの神社は雰囲気があるからね。数日中には網にかかるだろうと思っていたけれど、初日に成功したのは少し以外だったな」
「…………」
高町愛佳は押し黙り、そして。
「……そうですよ。私がやったんです。だからどうしたっていうんですか!」
叫びのような声が第二図書室に響き渡る。その声は当然第一図書室にも聞こえ、壁の向こうが何事かと騒がしくなったが、小夜子さんは相変わらずの涼しい態度を崩さなかった。
それでも人が乱入してこないのは、第二図書室の方から鍵を掛けてあるからだ。
僕は高町先輩が騒いでしまうんじゃないかと冷や汗ものだったが、先輩は声を出すのも物音を立てるのもちゃんと堪えていてくれていた。
「お兄ちゃんのせいで私も苦労してるんだって愚痴ったとき、あいつなんて言ったと思います? お前は良いよなって言ったんですよ! 私、怒っていいですよね! 仕返ししてもいいですよね! 違いますか!」
「まいったな。呪いは二つあったのか」
小夜子さんは小さくため息をつき、高町愛佳の顔をまっすぐ見据えた。
「わら人形の呪い……丑の刻参りの原型の一つは『宇治の橋姫』だと言われている。橋姫は自分を捨てた恋人に復讐するために、奇怪な格好で神に祈願し続けたわけだが、彼女が神に願ったのは恋人に罰を下すことじゃない。鬼にしてくれと願ったんだ」
昨日、僕は小夜子さんに言われて宇治の橋姫について書かれた本に目を通した。
橋姫の呪術は恋人を呪うためのものではなく、恋人に復讐できるように自分自身を作り変える、いわば自己改造的な行為だったのだ。
「結局、橋姫は恋人の身内を何人も殺すことに罪の意識を感じなくなった。儀式を通じて人格が歪んでしまったんだ。歪んだ形で恨みを表現すれば良心まで歪んでしまう。君にも徴候がある。最初の一体は可愛げのある人形だったのに、うちの神社に置いていった人形はこんなにも――」
「……っ!」
小夜子さんは足元に置いた鞄からその現物を取り出した。
それを見た瞬間、僕の背中に強烈な寒気が走った。わら人形の胴体を何本もの金属棒が貫通し、太い縄が人形の首をぎっちりと締め上げている。まるで悪意がそのまま形になったかのような姿だった。
これまでに発見されたわら人形は、新しくなるほどに作りが本格的になり、演出もエスカレートし続けていた。悪い意味で遠慮がなくなり、ブレーキが効かなくなっていったのだ。これから先も同じことを続けていたとしたら、一体どこまで悪化し続けてしまったのだろう。想像するだけで恐ろしい。
「人を呪わば穴二つ。呪いなんていう陰湿な手段を続けていれば、君自身の心までもが悪影響を受けてしまう。自己暗示というのは明確に意識していなくても起きてしまうものなんだ。無事に引き返せるとしたら今のうちだよ」
「でも……あんなこと言われて……」
「それが君に掛けられたもう一つの呪いだ。こっちは本当に予想外だよ。まったく、妹とはいえ女子に向かってこんな呪詛を無自覚に吐くなんて。この呪いを解く方法は一つしかないね」
小夜子さんが僕に目配せをする。たったそれだけで、小夜子さんが何を伝えたいのかが分かってしまった。これじゃ本当に助手やアシスタントのようなものだ。
「先輩。妹さんに謝りにいきましょう」
「うん……迷惑かけた人達にも、後で一緒に頭下げて謝らないとな。元をたどれば俺のせいなんだし」
高町先輩はすっかりうなだれて落ち込んでいた。これまでの騒動の原因が全部自分にあったと分かってショックを受けているようだ。
それでも自分のせいじゃないと開き直ったりせずに、ちゃんと責任を受け入れることができるあたり、この人が大勢から好かれている理由が分かる気がした。
ドアの前を離れようとしたところで、第二図書室の中の小夜子さんと目があった。淡い春の日差しを背負った小夜子さんは、僕の視線に気がつくと、綺麗な顔に優しい微笑みを浮かべた。
僕はたったそれだけで心臓が止まりそうになって、逃げるように図書室の中へ駆け込んだ。
――この事件には全く関係のないことなのだけれど、橋姫は結局、自分を捨てた恋人だけは殺さなかったのだそうだ。
僕が読んだ本の記述では、恋人が自分の代わりに選んだ女性も、恋人の親類縁者も、果ては無関係な人達も殺し続けたというのに、恋人を殺したとは記されていない。小夜子さんは「あえて生かしておいて長く苦しめたかったんだろう」と言っていたけれど、僕は違う感想を思い浮かべていた。
きっと橋姫は恋心を捨てきれなくて、復讐心がそれに負けてしまったんだ。
だとしたら、僕にも少しだけ橋姫の気持ちが分かる。誰かを好きになるという気持ちは本当に強力だ。裏返ってしまえば人間を止める理由になるほどに。
僕の場合はそこまで大袈裟じゃないけれど、そういう気持ちに背中を押されていることに変わりはない。だから僕は小夜子さんの助手の真似事をしているんだ。好きになってしまった人と少しでも長く一緒にいられるから。