魔王が消えた商店街
「魔王がいたころは良かったなぁ……」
冒険者ギルドの脇の酒場で、三人の男がため息を漏らした。
周囲では、大勢の人間が真っ赤な顔に笑みを浮かべて何回も杯を打ち鳴らしている。その表情は一様に明るく陽気なものであった。
それもそのはず。
この国では先日、千年もの間続いていた魔王による支配が一人の勇者の手によって終止符を打たれたのである。人々は三日三晩祝いの宴を続け、一か月以上たった今でもなお酒場は平和への喝采と歓声で満たされている。
笑顔で溢れかえった酒場に不似合いな、頭を抱えたさえない中年三人組。
彼らはそれぞれこの国の武器屋、防具屋、道具屋であった。
「ちくしょう! 武器が! 全然売れねぇ!」
筋肉質な男が持っていた杯を乱暴にテーブルに叩き付けながら、大きな声を張り上げる。他の二人は思い悩むように腕を組み、このマッチョな男――武器屋の嘆きに深く頷いた。
「うちもだぁな。平和になりゃあ防具なんて誰も欲しがりはしねぇ。閑古鳥がないてらぁ」
「私の店もですよ。傷薬も毒消しもさっぱり売れなくなりました」
彼らはこの国で何代も店を構え続けている、老舗商店街のメンバーである。
魔王の支配が世界中に及んだこの数百年の間、人々は騎士団も国民も冒険者も、大人も子供もエルフでさえもこぞって武器と防具で武装し、道具屋でアイテムを買いそろえた。
しかし世界が平和になると事態は一変した。
誰ひとりとして武器や防具、戦いに使う道具に見向きもしなくなったのだ。有事には欠かせないそれらの商品は皮肉にも、平時にはただ値が高くかさばるだけの無用の長物になりはてたのである。
「商品は全く売れないってのによ、世界は平和になったもんだから流通が盛んになってきちまった」
腕をくんで唸る武器屋に、顎ひげをたくわえたタレ目の男――防具屋も頷いた。
「全くだぁな。貴重品だった鉄や薬も、今じゃどこからでも入ってくるしなぁ。これだけ物資の流れが盛んになっちゃあ、商品の値段も下げるしかねぇ」
「そこに来て、今まで税を免除されていた魔物との戦いに使う武具や道具に関しても税率を設けるっていうんでしょう? 我々の商売、あがったりですよ。もう終わりだ……」
ひょろりとした痩身のキツネ目の男、道具屋が頭を抱えた。
需要の低下、流通の活性化、そして有事には手厚く保護されていた武具への関税の開始。
王国の商店街を取り巻く空気は、魔王が去った人類の光明とは程遠く重苦しく暗い影がのしかかっていた。そのうえ、国を治める王は英邁にして、その王を守る騎士団の長は魔王を倒した勇者本人と来ている。
王国に不満をもった人間は王の善政で立場を失い、平和になって仕事にあぶれた傭兵たちが暴力に訴えれば勇者率いる騎士団に鎮圧される。平和な王国に背く反乱分子は目立った抵抗もできないままに、その動きを抑えつけられていった。
野盗もでなければ不平も出ない。
小さな不満や仕事を失った者たちの声なき声さえ、平和への喝采にかき消されてしまう。
武器や防具、戦いに使う道具を扱う商店街にとっては、もはや成す術なしの見通しなし。お先真っ暗状態である。
光があれば闇もある。
そんな言葉を持ちだすには、この闇はあまりにも所帯じみていて湿っぽい。今にもカビが生えてきそうで、それでいてどうしようもなく根が深い問題であった。
「はぁ、うちの長男が騎士団の養成所に通いだしたばっかりだっていうのに」
なおも杯を重ねる武器屋が眉間にしわを寄せた。
騎士団の養成所はその名の通り、国の花形である騎士団への入隊を目指すエリートが通う場所である。世界の恐慌が商店街の好況になっていたからこそ、庶民の武器屋が進学費を捻出することができていた場所だ。
「俺のとこの娘もさぁ、踊り子学校とかいう訳のわからんとこに行ってらぁな。学費も馬車代も馬鹿になんねぇ。将来は踊り手だの歌い手だの、よくわからんものを目指すらしい」
防具屋の一人娘は流行りの歌って踊れる看板娘に憧れ、離れた街にある踊り子学校に馬車で毎日通学していた。いうまでもなく、馬車だってただでは人を運んでくれない。
高い学費と往復の馬車代は静かに確実に、防具屋一家の財政を圧迫しているのである。
「私の家は父がもうボケちゃってるんです。妻も私も店に付きっきりで、介護ギルドに世話を全部お任せしていたのに……。こんな不況じゃあそれも続けられそうにありません」
一人では動けない人間やボケてしまった老人たちを専門に介護する組織、介護ギルド。
ギルドの施設は設備が充実している分、かかる料金も高額である。特にこの王国ではしっかりとした介護の担い手を育成しているため、よその国よりも割高な料金が設定されていた。
「はぁ……」
「ったくよぉ……」
「もう一家で死ぬしか……ああ……」
テーブルを囲んでいる三人が、がっくりと肩を落とした。
このままでは、こうして酒場で安い酒を飲み卓を囲むことさえできなくなるかもしれない。いや、最悪路頭に迷ってしまうことだってありうるのだ。
「本当に、魔王がいたころは良かったなぁ」
不謹慎だとは思いながらも、ついつい口からこぼれ出す本音。
武器屋の呟きに、防具屋と道具屋はもう一度深く頷き返した。
「いないものは、つくっちゃえばいいんだよ」
不意に三人の卓に、場に不似合いなあどけない少女の声が響いた。
「おじさんたち、魔王がいなくて困っているんでしょ? だったら、おじさんたちで魔王をつくっちゃえばいいじゃん」
小さな身体に大きな本を抱えた、好奇心旺盛そうな瞳が三人の顔を順番にのぞきこむ。
金色の髪を綺麗に切りそろえたこの少女は、少し前からこの酒場に出入りするようになった不思議な子供であった。
「おいおいお嬢さん、魔王を作るって言ったってな」
「私たち一般庶民にそんな事、できるわけないでしょう?」
「ねぇ、おじちゃんたち魔王って見たことある?」
彼らの言葉を無視して、少女が重そうな本を開いて三人に問いかける。三人は顔を見合わせ表情を曇らせた。武器屋が口を開く。
「いや、ないよ。あるわけないだろう」
「でも魔王の存在は知っている。そうでしょ?」
「そりゃあ、誰だって知っているさぁ」
「どうして?」
「どうしてって、皆が口々に噂をしていますし……」
道具屋の言葉に、少女が頷き微笑んだ。
「そう、噂だよ。皆は魔王のこと、噂で聞いて知っているの。怖い噂が流れるから、皆、魔王を怖がるの。おじちゃんたちも、魔王の噂を作ればいいんだよ」
少女の言葉に、三人はハッとなって顔を見合わせた。
自分たちが魔王の噂を流す。
それにどれほどの効果が出るかはわからない。それに何より、存在しない魔王の噂を意図的に流すなど、不謹慎極まりない。
しかし、商品が売れず家計が風前のともしびに晒されている今の彼らには、少女の言葉がまるで天の啓示のように神々しく響くのであった。
なにより、ここでまずい酒を飲みながら延々と嘆きの言葉を吐き出し続けるよりも、ずっと前向きな行動である。
「……魔王が消えてから、まだ一か月ちょっとか」
「なぁ、心の底では不安に思っている奴は多いかもしれねぇぞ。もしかしたらこれはいけるんじゃねぇかい?」
「あ、あくまでこれは噂ですよね。誰かが被害をこうむるわけでもない。不幸になるわけでもない、噂ですもん……」
「そうだ、あくまで噂だ。だがその噂で商品が売れるかも……」
三人が顔を寄せあい、頷きあった。
「お嬢さん、こいつはいいアイデアかもしれねぇ。ありがとうよ! ……おや?」
三人がさっきまで少女の居た場所に視線を戻すと、そこには先ほどまで本を開いていた少女の姿がなくなっていた。
三人の会話に退屈して、どこかのテーブルに本を読みにいったのだろう。彼らは少女のことは頭の隅っこにおいやって、早速魔王の噂についてあれこれと考えを巡らせた。
「さてと、噂を作るとして、どんなものがいいか。魔王はまだ生きている、というにはどうだろう?」
「んー、それだけでよぉ、信じる奴がいるかねぇ?」
「まずはそれでいいんじゃないでしょうか。やってみましょう。私たちの家族に、店でお客さんに聞いた噂なんだけど……という感じで話してみませんか?」
物は試しということで三人は早々に酒場を後にすると、家に帰って自分たちの家族に魔王の噂を吹き込んだ。
『魔王復活』という単純明快にしてセンセーショナルな噂に、三人の家族は大いに驚愕した。驚いた勢いもそのままに、彼らはいたるところで聞いた噂を話して回ったのだ。
武器屋の息子は騎士団の養成所で神妙な顔で騎士見習いの友人たちに噂を話し、防具屋の娘は馬車の中や学校でぺちゃくちゃと無邪気に噂を語って回った。道具屋の父などは身ぶり手ぶりも交えて、大張りきりで介護ギルドで噂をまくし立てたのであった。
三人が作り出したウソの噂は瞬く間に王国に広がり、噂を流し始めて三日も経過したころには武器防具、傷薬などを買いに来る客がぽつぽつと現れ始めた。騎士団の見回りも強化され、お祭りムード一色だった国は緊張感に包まれ始めた。
そんな王国全体に垂れこめた重い空気をよそに、三人はこっそりと酒場に集まっては祝杯をあげて笑い合った。
噂を流し始めたころに感じていたかすかな罪悪感は、次々に売れていく商品とともにいつの間にかどこかへと消え去っていってしまっていた。
だが人々に再び芽生えた魔王に対する警戒心も、相変わらずの平和な日々が二週間も過ぎた頃にはすっかり薄れてはじめていった。それとともに、回復の兆しが見えた商店街の売り上げも再び右肩下がりへと変わっていく。
「一時は効果があったものの、噂話程度じゃあこんなもんか」
酒場の隅のいつもの卓で、武器屋が愚痴を漏らした。
防具屋も道具屋も、眉間に深いしわをよせている。
「噂で警戒するような奴は一握りなんだろうなぁ。そういう連中も、装備を一式買いそろえればなんだか安心したような顔になっちまうしなぁ、それっきりだ」
「結局国は平和なまま。今は前の売り上げに逆戻りです。はぁ、産まれてこのかた、この商売以外やったことはないというのに。我々の商店街はもうダメなんでしょうかね? 一家で毒消しの薬を大量摂取して、死ぬしか……」
道具屋の弱々しい声に俯く三人の前に、先日の少女が現れ声をかけた。
「おじちゃんたち、凄いね! 皆、魔王が蘇るかもしれないってお話していたよ」
少女は目を輝かせて三人を見つめていたが、返事もせずにうなだれている彼らの様子に首を傾げた。
「あれ、どうしたの? おじちゃんたちの噂がちゃんと流れたのに、元気がないね」
「確かに噂は流れたけどな、何も起こらなければ皆すぐに忘れてしまうんだ。俺達はもう店じまいかな」
肩を落とす武器屋の言葉に、少女は口元に手を当て考えるしぐさを見せた。抱えていた本を開いて三人のテーブルにのせると、そのページをめくっていく。
「うーんとね。噂が曖昧だから、皆すぐに忘れちゃうんだよ。もっと具体的な噂なら、皆きっと覚えていてくれるよ。おじちゃんたちの売り物も、もっともっと沢山売れるんじゃないかな」
「具体的な噂ねぇ、それっていうのはどういうことだい?」
「うふふ、秘密。そういえば、もうすぐ嵐が来る季節だね! じゃあ、おじさんたち。またね」
本を閉じた少女が、ひらりと身をひるがえして駆け去っていく。
残された三人は顔を見合わせて、唸り声をあげた。
「ふーむ、具体的な噂と言われてもな」
「魔王の具体的な噂って、ちょっと怖いものがありますよね」
「いやぁ、むしろ怖いからこそ効果があるのかもなぁ……。あっ!」
目を閉じて考え込んでいた防具屋が、不意に手のひらを叩いた。
「さっき、あの子は嵐の季節になるって言っていたよなぁ。実は石職人の奴が言っていたんだがよぉ、教会の石像が今にも壊れそうな状態らしいぜ」
「えっ、あの立派な石像がですか?」
「修理をしようにも教会がケチって費用を出してくれないんだとよ。このままじゃ次に嵐でも来たら壊れちまうってぇよ、この間うちで愚痴を言ってたなぁ」
「それを魔王の噂と重ねれば……」
「魔王の怒りが教会の石像を破壊した、とかな」
具体的な噂のコツを掴んだ三人は、早速自分たちの売り物の特徴や職人仲間の言葉をもとに、いくつかの噂話を考え出した。
防具屋が嵐の夜、教会の石像が魔王に破壊されるという噂を作る。
武器屋は古い武器を使っている騎士団の親衛隊には、魔王の呪いで武器が壊れ怪我人が出るだろうという話を考えた。
道具屋は、扱いが難しく誤飲が多い痛み止めを大量に買っていった大臣のことを思いだし、彼が魔王によって病にふせるという噂をつくったのである。
そんな風にして、三人は自分たちの専門知識や店で聞いたとっておきの話を、魔王になぞらえた噂話へと作り変えていった。そして山のように作った噂話たちを、家族や客にまことしやかに吹聴していったのである。
平和慣れして刺激に飢えていた人々は、これは面白い噂を聞いたと色々な場所で彼らのつくった噂を至る所で話して回った。武器屋に訪れた客が道具屋の作った噂話を始めた時には、武器屋は笑いをこらえるのに必死であった。
三人がつくった話は回り回って、人の口から口へ駆けまわり、瞬く間に噂は王国中に浸透していった。
三人が再び酒場に集まって顔を合わせたころには、酒場のあちらもこちらも彼らの流した魔王の噂話で持ちきりな状態であった。
「さあて、この噂がどうなるかな」
「何かひとつでも当たれば儲けものってところだろうなぁ。しかしよぉ、街の連中も噂が好きだねぇ」
「もうすぐ嵐もやってくるでしょう。まずは銅像がどうなるかを待ちましょう」
三人がそんな話をした数日後、彼らが待ちに待った嵐が王国にやってきた。
毎年この時期に来る嵐は凄まじい。とくに今年の嵐は今までにない程に激しく吹き荒れて、例年にない被害の数々を産みだした。その被害のひとつに、教会の石像の倒壊があった。
噂を問題視した騎士団は、勇者を筆頭に臨時の訓練を開始した。
しかし訓練の矢先に素振りした親衛隊の剣の刃が外れ、勇者が怪我をするという事故が起きた。挙句の果てに、王国で会議を招集しようとしたところ、頭痛を訴えていた大臣の一人が薬の誤飲で倒れてしまう。
それらは本来、どれもひとつひとつは運の悪い出来事として処理されるような事案であった。
けれども今や王国中に溢れかえっている噂たちによって、その出来事の全ては復活しつつある魔王の手によるものと国中に恐れられたのである。
それからというもの、国家は非常事態宣言を出し、騎士団は武器防具を新しいものへ買い替えを行うことを決定した。
閑古鳥がないていた武器屋と防具屋には騎士団から注文が殺到し、道具屋には傷薬や毒消しを求める民衆が押し寄せ長蛇の列が出来た。
「今日もバカ売れ、商売繁盛! かんぱーい!」
「いやぁ、こんなに上手くいくとはなぁ」
「今でも信じられませんよ。何事もやってみるものですね」
商売が大繁盛し多忙を極める中、三人は時間を見つけては酒場でテーブルを囲み乾杯を繰り返していた。互いの店の売れ行きの良さを語り合っては、自分たちの成功に酔いしれる。
それにしても、不思議なこともあるものだ。
彼らが流した噂の内約は、冷静になればその道の人間であれば誰もが予見しうる出来事ばかりなのである。嵐が来て物が壊れるなど、毎年王国内で何度も起きていることなのだ。
その出来事に、魔王の仕業という噂がくっつくだけで人々は恐怖におののき、それに備えるために武器や防具、道具を買いに走るのである。
王国の会議では、武器や防具へ税率をかけることを中止する議論まで進んでいるらしい。
「そういえばこの間、石職人の奴までびびって防具を買いに来たなぁ。あの時は笑っちまったさ」
「天候を読む天文学者まで、うちの商品を買いに来ていましたよ」
「まったく、冷静になれば気付くような連中までこんな噂を信じたりするんだから、おかしなもんだ」
ひとしきり笑い合い、噂を盲信し怯える人々の様を酒のつまみに三人は杯を重ねた。
その時、酒場に一人の男が駆け込んできた。情報屋を生業にしている青年である。
「魔王だ、魔王が復活した!」
青年の言葉に、酒場が騒然とする。
もう終わりだ、勇者様は何をしているのかと呼び交す喧騒の中で、三人は顔を寄せ合い小声で内緒話を始めた。
「魔王って、そんなバカな。どう思う?」
「噂に乗じて、盗賊か何かが魔王を自称しているんじゃないですか?」
「なるほど、ありそうな話だなぁ。けしからん奴もいるもんだねぇ」
自分たちのことは棚に上げ、彼らは口々に迷惑な奴もいるものだと言い交した。
しかし、情報屋の青年に続き傷を負った騎士まで酒場に駆け込んでくると、さすがに上機嫌で飲んでいた三人も血の気が引いてしまうのであった。
「おいおい騎士さん、一体どうしたってんだい!?」
武器屋の問いかけに、騎士が大きな声で答える。
「国境線に魔物の大群が現れた! 今警備隊が国中にこの事態を触れ回っている。国の出入り口は全て騎士団で固める。皆、無用な外出は避けてくれ!」
そう言い残して、騎士は酒場の外に駆け出していった。
酒場は騒然としている。
勇者は先日の訓練中の事故で未だ負傷中だ。
一体どうなってしまうのかという嘆きの声がそこかしこから聞こえてきた。
三人は背を丸め、身を寄せ合って再び話し始めた。
「どういうことだ? あれは俺達が流したのはありもしない偽物の噂話だぞ?」
「偶然が重なっただけだよなぁ、そうだよなぁ?」
「この間の嵐で、魔物も飢えているのかもしれません。それがたまたま人里に降りてきたとか、そういうことでは……?」
額に幾筋も冷たい汗を流した道具屋の言葉に、ほかの二人もそうに違いないと言い聞かせ合う。
当たり前だ。
石像は壊れるべくして壊れ、剣は使い古されたから外れて事故に繋がったのだ。魔王とか呪いとか曖昧なものが入り込む余地は、そこにはただの一つもないはずである。
三人が偶然が重なっただけであることを確認し合っているうちに、酒場に居た他の客たちは次々と自分の家に戻っていった。中には彼らの店に駆け込んでいる人間もいるかもしれない。
だが、三人には商売が繁盛する予感を喜ぶ余裕など、とうに消え失せてしまっていた。
「おじちゃんたち、こんにちは」
酒場にポツンと残った三人の前に、大きな本を抱えた少女がやってきた。ちょっとした悪戯が成功したように楽しげに笑っている少女に、武器屋が軽く手を払う仕草をする。
「お嬢さん、悪いが今は大事な話の最中なんだ」
武器屋の言葉を聞いた少女は、ますます嬉しそうに微笑んだ。そして三人のすぐそばまで歩み寄り、彼らのテーブルにずっと抱えていた本を置き、小さな声でささやいた。
「あのね、おじちゃんたち。魔王様がね、蘇らせてくれてありがとうって言ってたよ。それを伝えにきたの」
「お嬢さん、何を言って……」
「それじゃ、おじちゃんたち……またね」
妖しく微笑んだ少女が、いつものように酒場の奥へ駆け去っていく。
「おい、ちょっと待ってくれ! 魔王って……あっ!?」
慌てた武器屋が少女を呼び止めようと腰をあげかけた刹那、彼らの目の前で少女の姿はゆらりとかすんで消えてしまった。
驚いた武器屋が腰を抜かしてテーブルに思い切りぶつかり、テーブルの上に置いてあった本を落した。
床に転がった拍子に本が開き、吹きこんできた風が本のページをめくりあげる。
その全てのページには、たったひとつの文字さえ書かれていない。
ただ真っ白な空間が広がっているだけであった。
「あの子はこんな真っ白な本で、一体何を読んでいたっていうんですか?」
「知るかよ、そんなもん! ……なぁ、みたか? 煙みたいに消えちまいやがった……!」
「俺たちは化け物にそそのかされていたのか? まさか、俺たちは本当に……」
静かになった酒場に、いつまでも三人のうめき声が響いているのであった。