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彼の王は成れの果てに  作者: 楢原波乱
第一章 白の首輪、枯れ木の男爵
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散歩

 すっきりとした目覚めだった、人生でこれほど目覚めの良い朝はなかったのではないか、そう思った。寝具が眠りの質を左右する、頭では分かっていたが、身を持って体験すると天と地どころではなく、天国と地獄だ。まぁ、茣蓙を敷いた石の床に寝た後では、誰でもそう感じるのかもしれないとも思うけれど。昨晩、私は結局フルールの部屋に行くことはなかった。フルールと別れ、明かりのついていない自分の部屋に戻って来た時は、少しだけ寂しいという感覚を覚えたが、結局明かりをつけることもなく、倒れ込むようにして眠りについたのだった。

 起きてすぐに着替えを行う、昨日聞かされた朝食の時間までに少し余裕があったので、外の空気でも吸おうかと思ったが、よくよく考えれば、首輪もつけていない奴隷が外に出れば何か企んでいると思われても仕方がないと思いとどまる。御主人様の許可を取りに行こうかとも考えたが、まだ寝ているかもしれない御主人様を起こすのは気が引ける。

 じっとしているのもつまらないので、私はとりあえず部屋から出た、昨日屋敷を案内してもらったときにベランダがあったのを思い出した、まぁお茶を濁す程度にはなるかもしれない。もしかすればフルールが朝食の準備を始めているかもしれない、そうだったらそれを手伝いに行くのもいいだろう、ベランダ前を経由してキッチンへ向かうルートを歩く、自分でも驚くほど足取りが軽かった、冷たい足枷も、砂利の上を歩く感覚も、数歩歩けばぶつかる檻や壁も、全ては過去だった。十年前のようにも感じたし、昨日のようにも感じた。勿論正しいのは昨日のはずなのだが、今日の一日前が昨日のように感じなかった。

 ベランダの前で足を止める、鳥のさえずりと、煌々と色付いた雲、風景に気を取られたのもあるが、私はそこまで詩人の感性を持っていないし、ましてやそれを絵にしようと思えるほど画家気質でもない。

 立ち止まった理由は私にそっと右手を差し出し、私と同様に外を眺め、もう一度私に視線を向けると、少し悪戯っぽく笑った。

「朝の散歩などいかがですかな、お嬢さん」


 渡りに船、いや、外出に御主人様、この際理由などどうでもいい、果たして私は外の空気を吸うことに成功し、早朝の森という最高級のリラックス空間を満喫しているのであった。隣を歩くご主人様はどこかそわそわしていて、私との距離を測りかねている、といった様子だ。私はそれに気付きつつも、あえてそれを無視する。こうして二人で森を歩きたかった、そんなものが本意ではないはずだ、おそらく何かしらの意図があるんだと思う。ならば、私から踏まなくてもよい地雷を踏むよりも、相手のアクションを待った方が賢明だと考えた。

 沈黙というよりも静寂という言葉の方が似あう状況ではあったが、沈黙に耐えかねたのだろう、御主人様が口を開いた。

「いやー、いい天気だね」

 思春期の少年だった。御主人さまの前を歩いていてよかったと心から思った、今の表情を見られたらこの少年のような初老は泣き出すんじゃないか、少なくともショックは受けるだろう、別に情けないとか滑稽だとかそういうものじゃないが、なんというか、何とも言えなかった。

 御主人様は歩く速度を速め、私の前に出ると、右に逸れる小道を指さした。

「少々見せたいものがあるんだが、いいかね?」

 その言葉にも、語気にも、物腰にも、一切の誇張なく、一片の偽りなく、従わせようとする雰囲気はなかった。しかし、私は当然のように頷いていた。返事を見て満足気に頷くと、御主人様はベランダの前と同じように右手を差し出した。


 小道を抜けると、少し開けた場所に出た。分かりにくい例えかもしれないが、斧を投げ込んだら女神でも出そうだ。生憎手元に斧はなかったので、足元の手ごろな石を投げ入れた、鏡のような水面は数秒の間揺らいだがすぐに元に戻り、湖の中心が光ることも、女神が現れることもなかった。

 湖面が元の静寂を取り戻したのとほとんど同時に次の一石が投じられる、一石目よりも少し遠くに落ちたそれは、とぽんと情けない音を立てて水底へと沈んでいった。少し見上げるように隣を見やると、腕を振りぬいたままの姿勢の老人がにやりとこちらを見ていた。

「私のほうが遠くに飛んだね」

 長く息を吐いた、深呼吸の後のような長い長い息を吐いた。そうしなければ笑ってしまいそうだった、そうしなければ気持ちを落ち着けることが出来ない気がした。先に競争しようと言ったわけでもない、私自身本気で投げたわけでもない。思い付きであって、戯れであって、遊びであって、暇つぶしだった。これだけ大人げない対応をされておいて私もそれに返すというのはあまりに稚拙だろう、ムキになった子供は可愛いだろうが、子供と大人の中間にいるような自分にとって、子供らしさは羞恥心が邪魔をし、大人ぶってやれやれと流すには闘争心が邪魔をした。

 しゃがみ込み、手ごろな石を探す、大きさは握りこんで少し指が離れるくらいが投げやすいだろう、重さは……軽すぎると投げづらいだろう、形もできるだけ丸めの物がいい、手の届く範囲では見つからなかったので少し移動しようかと立ち上がった。

「諦めが肝心だと思うがね、冒険心は燃やし続けるべきものだが、燃やし尽くせば残るのは後悔と無力感だけだよ」

 頭上から声が降ってきた、石を探しながら立ち上がったので、その表情は窺えない、しかし、表情など知る必要はなかった。肩をぎゅっと上にあげ、三秒待って力を抜く、前に五回、後ろに五回ぐるぐると肩をまわし、腕を胸の前で交差させ、ゆっくりと腕全体を伸ばす。最初と同じように深呼吸をし、キッと目の前を睨む、目指すのは湖の対岸のほうにある水草の群れ、水草に恨みはないが、狙いをつける的にするくらいには構わないだろう。

「……っりゃああ!」

 吟味せず適当に拾い上げた石は明らかに私の手に余る大きさで、それなりに重かった。振る腕にずしりとした感触が乗り、腕を振り切った後ピリッと肩が痛んだ。綺麗な放物線を描いた石は、湖を越え、対岸ギリギリに落ち、甲高い音を立てて砕け散った。左手で右の二の腕をびしりと掴み、そのまま右腕でガッツポーズをする。精一杯の自慢気な顔を作りながら隣を見ると、御主人様はもう投げるフォームを取っていた。思ったよりずっとしっかりとしたフォームで投げられた石は、私よりも遥かに速いスピードで飛んでいき、対岸を早々に越えると、その先にある大きな木にぶつかった。

「今度から無謀な戦いは挑まないことだね」

 心なしかさっきよりも憎たらしい笑みを浮かべて、御主人様は腰に手を当てて胸を張った。――悔しいが完敗だった。

「私はか弱い女の子ですから、それにまだ子供ですし」

「私も枯れ木のような老人だよ、もうそろそろ半世紀生きるようなね」

 睨み合いは三秒続き、私は仕方なく両手を上げた。

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