銀貨
その後はといえば、フルールが持ってきた靴や下着を改めて確認し、着替える前にお風呂にも入れられた。さらに部屋や屋敷の大まかな説明、屋敷の人間との面会、面会といっても、この屋敷は不定期な庭師さんなどを除けば、ご主人様、フルール、先ほどの若い男(名前はカルヴィンで執事として働いているらしい)のみが暮らしているとのことだった。住んでいる人間の数にしては不釣り合いな大きな建物だと感じたが、屋敷の大きさは貴族や爵位を持つ人間の間では高級な衣装と同じで、権力の大きさなどを示すものだと教えられた記憶があった。
説明を受けた時点でほとんど日は落ちていて、フルールは私を部屋に返すと、夕食の準備に取り掛かった、何か手伝おうかと尋ねたが、丁寧に断られた、理由は至極単純だ。
現在、この国は奴隷を一つの制度として採用している。旧態依然の金で人を売り買いする乱雑なシステムでは、国そのものが貧困の道を進み、発展を遅らせることは免れないからだ。そこで、人権丸ごとを売り買いする制度を廃止し、奴隷は国保有の人材という名義で人権を保護しつつ取引されるものとなった。奴隷商人たちは組合を作り、国が公式に認めることで、人道に反した奴隷の扱いがされることはなくなった。とはいえ、導入間もないことや、未だに根強い旧態依然の奴隷への差別や偏見、さらに脳みそが苔むした貴族たちが新しいシステムをそうやすやすと受け入れることはなく、非公認の商人は数多く存在し、同じく非公認の奴隷は今もなお酷い扱いを受けている。
この国の公式のシステムにおいて、奴隷の中でも様々な種類がある、奴隷はその種類ごとに異なった色の首輪をつけられる。赤、青、白、銀、四色の首輪はそれぞれ順に、家令に近い家事全般、農業などの労働力、子供などが主の特に差別化されていないもの、性的欲求を満たす性処理のため、に分別される。
銀の首輪をした奴隷はほとんどが女性だが、男性も存在し、そのほとんどが成人、またはそれに近いものだ、しかし、中には幼い子供も存在し、子供の銀奴隷を連れて歩くものを軽蔑する貴族は多い、私からすればどれもみな同じように最低で、唾棄すべき存在なのは言うまでもない。貴族は貴族なりにしがらみが多い椅子取りゲームに振り回されているらしい、全く持って馬鹿な話だ。
一部の有権者、知識人、哲学者の中には、銀奴隷は人道に反すると主張している人間も多い。しかし、国からすれば奴隷制度は大きな資金源になっており、奴隷商人が毎年奴隷商公認のために納める税金や、奴隷所有者に発行する公認書の収入はバカにならず、国は見て見ぬふりを決め込んでいる。貴族たちの間で『銀貨』は銀奴隷のことを指し、隠語として定着しつつある。ある知識人は、発行されている普通の硬貨に銀貨があるにもかかわらず、貴族は会話で混乱しないのか、という事に対して『貴族は銀貨は必要ないのさ、貴族の通貨は二つだけ、つまり……金貨と宝石だ』と発言し、一躍有名人となり、数日後に二度と口を開けぬ状態で川から引き揚げられた。
フルールが手伝いを断った理由に話を戻すと、彼女は私が何奴隷なのか知らないのだ、そして私自身それを知らない。人権保護の名目で奴隷はお金で取引されない、奴隷を買う人間が買うのはあくまで『首輪』の方なのだ、これが国が人権保護の名目で奴隷制度を良しとしている理由、つまるところ『私たちは人間を売り買いするような人権を無視する行為はしていない』という逃げ道、全くもって馬鹿馬鹿しい。
買った首輪は任意のタイミングで奴隷の首につけられる、システムの都合上買った奴隷と首輪は管理済みなので、付けていようと付けていまいと関係はない、一目見てわかるかどうかなのだ。私はまだ首輪を付けられていない、首輪の種類も知らない、赤は売られる前に教育を受けるため、教育を受けていない私は白か銀か青という事になる。しかし、青は肉体労働のため私は向かないだろうから白か銀、この場合は白であることを願うばかりだ。
それでも問題は残る、白は『錆びた銀貨』とも呼ばれ、金銭的、体裁的理由で銀を買うことをためらう貴族が性奴隷として買うことが多くあるのだ、無論その場合法律を無視しているのでバレればただでは済まない、そう、無料では済まないのだ、お金を積めば法も警察も目を瞑る、銀奴隷はそれだけ他と比べて高価で、何度か警察にお金を握らせる方が安上がりなら……という考えの貴族は少なくなく、また同様に、その考えを見透かして見下す貴族も少なくない。
ともかく、首輪が与えられるまではフルールも私に仕事を任せることはないのだろう、銀奴隷に家事を頼むのも一応は法律違反だから、である。
あれこれと考えているうちにフルールに呼ばれた、思っていたよりもずいぶんと早かったが、屋敷とはいえ食事は四人分であることを考えれば当然なのかもしれなかった。貴族の食事といえば短距離走が出来そうな長い机と、真っ白なテーブルクロス、よくわからないけど高級そうな燭台、そんなイメージがあったが、この屋敷のスタイルは質素倹約といった様子で、少々大きめではあるが普通の机だったし、無駄な装飾のないが綺麗なクロス、そして燭台はなかった。
フルールとカルヴィンが運び、食事は始まった。どうやらこの屋敷は身分に関係なく同時に同じ食卓で食べるらしい。なんとなく予想はしていたが、料理も必要以上の贅沢はせず、栄養バランスや彩りに気を使ったものだった。肝心の味はというと、それはもうおいしかった、中でもポタージュは絶品であった、テーブルマナーとしては良くないのだろうが、フルールに頼んで深めの木製のボウルをもらい、ごくごくと飲んだ。最初マナーを気にしておずおずと飲んでいた私に気が付いて、フルールが持ってきてくれたのだ。ご主人様はフルールが突然席を立ったことに首を傾げ、さらに持ってきたボウルを見てきょとんとしていたのだが、ボウルを使って飲む私を見て愉快そうに声を殺して笑っていた。
食事を終えた後、片づけくらいは、と提案した私をフルールは準備の時と同じように制したが、私の様子を見て少し考えた後、私の使ったボウルを洗うようにお願いしてくれた。ご主人様は自室へと戻り、カルヴィンはテーブルクロスを片づけた後どこかへ行ってしまった。食堂の隣にあるキッチンには私とフルールが二人残された。フルールは食器を洗いながら鼻歌を歌った。聞いたことはなかったが、どこか懐かしい気がした。食器を丁寧に拭きながら、フルールは私に語りかけた。
「多分……今はお腹いっぱいで幸せな気分だと思う、怯えながらやってきたこの屋敷で優しさに触れて、拘束もされず、お部屋まで貰ったんだもの。だからこそ、今夜は不安な気持ちになると思う、独りでベッドに潜るとね、もしかしたらこれはこれからのための布石なんじゃないかって、高いところから落とすための罠なんじゃないかって……」
そこまで言うと、最後のお皿を棚にしまい、フルールは手を取ってしっかりと握った。
「一度沸き起こった不安は簡単には拭えないし、これからもずっとついて回ると思う。いつか来るかもしれない裏切りは純粋な暴力よりずっと怖いもの……ねぇ、ミーシャ、あなたは賢いわ、だからこそいろいろ考えてしまうと思う。もしも不安な夜が訪れたら、私の部屋においで、ね? 私きっと待ってるから」
洗い物をした後なのに、フルールの手はじんわりと温かかった、あるいはそう錯覚しただけなのかもしれないが、そんなことはどうでもよかった。私は最大限の感謝を込めて、フルールをぎゅっと抱きしめた、昼の時と同じ、やさしい匂いがした。