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彼の王は成れの果てに  作者: 楢原波乱
第一章 白の首輪、枯れ木の男爵
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覚悟

 私はいろいろな人間をずっと檻の中から見てきた、だからこそ言葉や目線である程度判断もできるようになった。ご主人様は悪人ではないと私の心は告げている。しかし、目の前の手を出さないと誓った人間がほんの数分前に私に手を上げたことは確かだった。一度考えると思考に比例するように左頬の痛みが増す、悪人ならば信じられないか、善人ならば信じられるのか、目の前に立つのはいったい何者なのか。迷ったときは悪い方で考えておいた方が傷は浅くて済む、私が学んだことの一つだ、殴られたときのダメージは殴られることを知っていたかどうかで大きく変わる、そういうものなのだ。

「……ふむ、君の猜疑心の理由の理由がようやくわかったかもしれない」

 ご主人様はそう言い立ち上がると、私の前までツカツカと歩いてきた、そして右手を振り上げた。私は反射的に身構え左手で防御しようと顔の前に手を上げた。ご主人様は一瞬悲しい顔を見せた後、小さく笑うと、ゆっくりとその右手を私の頭にのせた。

「君に謝らなければいけないことがある、先ほど君の頬をはたいたこと、本当に済まない、決して君を痛めつけようと思っての行為ではなかった、許してほしい」

 頭にのせた手でそのまま私の左手を取り、膝を折って頭を下げると、ご主人様は深く私に謝罪した。考える必要もない、疑う余地もない、私でなくともわかるだろう。ここには純粋な気持ちがある、過ちを認め、許しを請い、深く反省している、それがひしひしと伝わってくる。私は狼狽えて手を取られたまま後ろへ二歩下がる、かかとが壁にぶつかり、再び右手が窓の縁にかかる。

「君は最初の自己紹介で自らを奴隷と名乗った、私はそれが許せなかった、たとえそう名乗らせたのがあの薄汚い商人だとしてもだ……君はただのミーシャであるべきだ、どこにでもいそうで、今ここにしかいない、ただのミーシャでいいはずなのだ。君は君なりに覚悟を決めてここに来たんだろう、私にはわかる、君は決して流されるだけの愚か者ではないし、自分を持たない風見鶏ではない。でもね、もし、もしも君さえよければ、今日からいったんそんな覚悟は捨てて、この屋敷のミーシャになってくれないだろうか」

 泣いていた、ボロボロと泣いていた、自分でも初めは気付かないほどだったのに、いつしか着ていた服に大きなシミが出来ていた。自分の決意が甘かったとは思わない、私は確かに決して揺るがぬ覚悟を決めたはずだった。でも、きっと私の心の覚悟は殴られる覚悟だったのだ、蹴られる覚悟だったのだ、自分でも単純だと思う、甘ちゃんだと思う。それでも私の心は揺れた、優しさに揺られてしまった。私はだめな奴だった、でも私はそんな自分が嫌いではなかった。

 覚悟や決意とは何のために存在するのか、自分を奮い立たせるため、自身を追い込むため、そんなものは辞典にでも書かれている。違う、覚悟や決意とは《向き合いたくないものに無理矢理向き合うため》にあるのだ。死ななくていい状況で決死の覚悟はできず、大好きなものを手に入れるために決意はしない。それらの決意に影を落とす理由は結局のところ他に要因があるからだ、大好きなものを手に入れることに決意を抱くのではなく、手に入れるための代償、それは金銭であったり時間であったりする、それらを支払うかどうかに人は向き合わなくてはならない。

 殴られる覚悟、蹴られる覚悟、それらは全て向き合うべきものではなく、向き合いたくないものだ。優しくされることに嫌悪感を抱く人間はいない、それまで苛め抜かれた人間であればあるほど優しさはより強く、より暖かく心を満たす。声を殺して泣いていた、涙を零さぬよう泣いていた、誰もいないところで泣いていた、涙は血だ、心が傷ついたときに流れ出す。孤独と痛みが心をえぐるたび、私はあの狭く冷たい檻で泣いていた。最近はその涙すらも流れなくなっていたが、私の経験にはどこにもない、嬉しくて泣くという行為、この行為を何と呼ぶか、私はまだ知らなかった。目元をぬぐい、ご主人様の手に触れた、なんだか懐かしい感覚だった。


 その時だった、ガチャリと扉の開く音がして、フルールが部屋に戻ってきた。

「あれ旦那様、どうしてここに……」 

 ご主人様の陰に隠れて私が見えなかったのか、フルールはそのままご主人様の近くまで歩いてきた、そして、私の存在に気付くと、声をかけてきた。部屋を出ていく前と同じ柔らかな声音で、少しだけ心が落ち着いた。

「あら、良かった、隠れて見えなかったわ、さぁ靴を履いてみ……」

 フルールと目が合ったその瞬間、フルールは靴を床に落とし、ご主人様の手から私をひったくった。たぶん私の顔は目も当てられない状態だったのだろう、もう涙はひいた後だったが、手で強引に拭った目元は少し赤くなっていたかもしれない。フルールは引き寄せた私を思い切り抱きしめる。

「何をなさってるんですか!」

 絨毯をはるかに上回る柔らかい感触に、なんだかよくわからないけど落ち着くにおい、意識の遠くでご主人様とフルールが言い争いをしている気がするが、先ほど中断したせいで眠気が再び襲ってきたのと、泣き疲れた後に落ち着いた反動なのか、全身が眠ろうと言っている。言葉に甘えて意識を手放そうとした私の肩をご主人様がゆすった。

「ミーシャ! 眠るならフルールに状況を説明してからにしてくれ! フルール、話を……」

「見損ないましたよご主人様、私がちょっと離れた隙にこんなかわいい女の子を泣かせたりして……」

 言い争いは解決の兆候を一切見せていない、フルールに詰め寄られてしどろもどろになっているご主人様の声を聴くと頬が緩んだ、私に対する態度とは一変しているのには何か理由があるのだろうか、フルールはご主人様を責めても拉致が明かないと判断したのか、もう一度深く私を抱きしめた後に、私をベッドの端に座らせ、少し離れた場所に移動した椅子にご主人様が座るように言った。ご主人様は右手の人差し指でこめかみをおさえつつ、かけた眼鏡の位置を直した。

「フルール……私だったからいいものを、他の屋敷に仕えているメイドがこんなことをすればどうなるか……」

 ご主人様の至極まっとうな意見に対し、フルールは間髪入れずに

「この屋敷以外……いえ、私は旦那様以外にお仕えするつもりはありませんのでご安心ください」

 そう答えた。ご主人様は小さくため息をついた後にそのまま黙り込んでしまった、目元を隠しているものの、口元から少し嬉しそうなのが見て取れた。フルール、こう見えて策士なのかもしれない、私はそう思った。改めて私に何があったかきこうとするフルールに対して、私はきちんと説明をした。説明が進むにつれてだんだんとフルールの表情からも心配の色が薄くなり、全てを聞き終えた後、よかった、そう言いながら私を撫でた、その優しげな表情と仕草はどこかご主人様と重なった。

 疲れた、そう言い残しご主人様は部屋を後にした、もう勘弁だと言わんばかりに肩を落として、手をひらひらと振りながら部屋を出て行った御主人様だったが、出る間際振り返った時の目はとても優しかった。

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