<5> 元の世界へ
リサは太郎との会話を終え、また会う約束をした。リサはこれから仕事があり、どうしても行かなければならなかったので太郎に魔法で作った笛を渡した。最初から準備していたのだ。太郎が吹くとリサに音が届く仕組みである。先ほど太郎の靴下や靴を干した木のところを待ち合わせ場所にしている。
リサと別れてから太郎は、おいしさのあまり大量に水を飲み尿意を感じていた。
「ここなら、誰も見ていないから大丈夫かな」
と太郎はつぶやき、おしっこをした。するとまた景色が変わった。
「ここは、日本……。まずい、よりによって交番の前だ」
十二歳以降の運の悪さは理不尽極まりなく、このような状況であれば間違いなく最悪の状況となるところだったのだが、今日は違った。
いつもなら、運悪く警官と目があうところであったが、今回は警官が太郎を見ていない。他の人も見て見ぬふりをしている人がいる程度で、誰も大声で騒いだりはしない。
太郎は尿を自力で止めて、自分のものをズボンにしまい。はだしのまま家に帰った。この場所は、家から徒歩五十分の場所であり走れば二十分程で帰れるのであった。
太郎は家に帰りつくと、今までのことを整理した。家のトイレでおしっこをしたら異世界に転移した。異世界でおしっこをしたら、元の世界に戻った。太郎は困惑した。なぜおしっこで転移する?そんなの聞いたことがないし、かなり格好悪い。自宅でおしっこをすると、異世界の市場のような場所に転移した。そこから走って二十分の場所には川があり、川でおしっこをすると交番の前。たしかあの交番の近くには公衆トイレがあるから、そこでおしっこをしたらもしかして川の近くに転移できるのではないだろうか。
太郎は考えに考えた結果、会社を辞めて異世界と地球を行き来することで、生計をたてることを思いついた。そして明日出勤したら退職願いを出すことにした。実際問題としては引継ぎもあり辞めるにしても一カ月ぐらいはかかるかもしれない。
貯金は、太郎が働いてばかりで使う暇もなかったから五百万円ぐらいある。太郎が思いついたのは、地球の物を異世界で売り、それで稼いだお金で異世界のものを日本で売るということだ。どんなものが売れるかは、リサと相談で決めようと考えた。まずは異世界の言葉を覚えるのが最優先だとも思った。
太郎は、色々考えているうちに、寝てしまった。朝起きて、感覚的には久しぶりの会社に行く。一日しか休んでいないのだが、異世界のことや白神のこと、ジンやリサのことを考えると会社に行くことが非現実的に思えてしまうのであった。朝、太郎は尿意を感じるも自宅で尿をするのはまずいので、交番の近くのトイレまで移動することにした。そこから尿をすると異世界に転移した。予定通り、転移した場所は昨日いた川の近くだった。尿を自力で止めた。まだ、たくさん出そうだ。
問題はここからだと太郎は心配した。もし、一定時間が経過してからでないと元の世界に戻れないという条件があった場合には完全に遅刻だからだ。考えても仕方がないと思い切り、太郎が再度小便をすると元の世界戻った。大成功であった。
太郎はそこから歩いて会社に着いた。一昨日働いていた職場が久々に感じつつも会社のドアを開いて、そこにいる人々に挨拶をした。おはようございますという声が飛び交う。早速パソコンを開いてメールをチェックし緊急の対応分のみ返信して、それ以外はとりあえず後回し。
太郎は上司に会社を辞めたい旨を説明すると、意外にも退職することを受け入れてくれた。ただし、引継ぎもあるので、最低二週間は働いて欲しいと言われたのだった。一カ月は覚悟していたので特に問題はなかった。普通ならここで有給消化の話をするのだろうが、太郎はあまりそんなことは言いたくないと思った。それよりも少しでも早く会社を辞めたかったのだ。
太郎は昨日から運の悪さを感じないのを不思議に思っていた。一昨日まではトラブル続きで出社したらメールの緊急対応だけでも午前中が消費され、その後のクレーム対応で消耗しきるのが常だったのだが、今日はそんなこともほとんどなく、仕事がはかどる。
本来ならこれが普通なはずなのだが。なんだか逆に物足りなくすら感じたのであった。今までの仕事量と今日の仕事量の差が激しい。太郎にとっては入社以来初めてと思えるほどの暇な状況となった。クレームの電話が入ったら、逆にうれしくなって対応するほどである。
太郎は事務の松井香織さんという若くて可愛らしい女性がクレーム対応の電話に対処しきれず困っているのに気が付いた。太郎は、松井さんに声をかけた。
「田中主任、お客様が激怒していて話にならないんです。どうしたらいいのか。本当に困りました。」
松井さんは、少々青ざめた様子で太郎に言った。太郎は暇なので、仕事ならクレーム対応でもありがたいと思った。クレームの内容を確認したところ、料金の説明を受けて申し込みしたサービスが、営業の説明している料金と違うという内容だ。
この内容のクレームは、営業員の説明不足が起因であることも多いが、お客様も営業員の説明を100%理解しているわけではないので、営業員の説明をよく理解しないまま申し込みしているケースが大半であった。
「わかった。あとは任せて」
松井さんは、一瞬驚いて、その後「ありがとうございます」と笑顔を見せてくれた。まさか簡単に引き受けてもらえるとは思っていなかったのだろう。太郎はお客様に電話した。コール音が数回鳴ったところでお客様が電話に出た。
「日本アクセルの田中と申します。柳井様でしょうか」
「そうだよ」
電話の向こうからでも、怒りの様子が感じられる。お客様は騙されたと思って連絡している場合が多いので、まずはお客様にご理解を頂いていない状況での申し込みに対し謝罪をする。
お客様の苦情を相づちを打ちながら最後まで聞く。ここで、反論したりするのは無意味だ。お客様は最後まで言いたいことを言い終えるのを待つ。ここで、時間をかけてもお客様に話をさせることが大事だ。ここで忙しいからと時間を惜しんで話をすると、かえって時間がかかることを何度も太郎は経験している。
お客様が言いたいことを全て吐き出すと、こちらがきちんと対応した時に限るが、それだけで怒りが半分は消えているものだ。それで、次にお詫びをしつつ、こちらで申し込み時にどの書類を使いどのように説明したのかを説明する。
販売員が重要なところにラインマーカーを引いて説明をしているので、お客様宅にある書類がお客様に説明をしていた証拠となる。お客様は、営業員に説明された時はよく聞いていなかったようで、こちらで電話で説明された時に、営業員が説明していたこと認めざるを得ない。
しかし、こちらがお客様にご理解頂けるよう、丁寧に説明できていなかったと、謝罪しつつ話をしていくと、お客様も、こちらもいろいろ言って悪かった。説明してくれてありがとうと、最終的には和解して終わった。
太郎にとって今日はクレーム対応でもなんでも来いという状況で、松井さんからは何度も感謝してくれて気分が良い。仕事の引継ぎもしないといけないが引継ぎの相手は、太郎より2つ年下の木下という有能な人物である。太郎が辞めることはまだ一部の人を除いて知らされていない。今は仕事を粛々とこなして、最後まできっちり業務をしようと思うのであった。