<1> おしっこしてたら異世界に転移?
僕は今、人が見ている前で小便をしている。
……いや、誤解しないで欲しい。僕はそんなことをする変態ではない。きっと疲れて夢でも見ているのだろう。実に……リアルな夢だ。夢だと思いたい。試しに、自分の頬をつねってみる。痛い!
夢じゃない。
落ち着いて状況確認しよう。どうなっている? 仕事で毎日遅くまで働き疲れ切った僕は、久々の休みで昼まで寝ていた……。尿意を感じた僕は起きて、トイレで小便をした。そこまでは確かだ。今、なぜか見たことのない市場のようなところにいる。そして僕は小便をしている。僕は状況を把握するため街の人々を見る。みんな驚きの表現で僕を見ている。これはまずい。
誰かが近づいてきた。その方向を見た。目の前の黒髪の少女と目が合う。慌てて自分の物をズボンに戻しチャックを閉める。しまった……尿がまだ止まっていない。ズボンの股間が濡れる。これはめちゃくちゃ恥ずかしい。落ち着け。こんな時はとにかく落ち着かないと。
黒髪の少女はポニーテールで目の色も黒。東洋人のようだが、テレビに出るような美少女の中にもあれほど美しい人はいないと思った。人々の声は聞こえるが、この世界の言葉が理解できない。英語でもドイツ語でもフランス語でもない。先ほどの少女が僕に声をかけたように見えたが、恥ずかしくてそれどころではない。僕は走った。こんな状況で言葉もわからないのに、何をしろと?
逃げるしかないだろう?
走りながら股間や足元に不快さを感じ、どこかで洗いたいと思った。久々に走ったので、息が苦しい。
「はあ、はあ、はあ……疲れた……喉乾いた」
僕は、二十分ぐらい走ったと思う。山が見える方向にとにかく走った。川があったので、少し匂うズボンと靴を履いたまま川に入った。とても澄んでいる水なので、先ほどまでの汚れたズボンがどんどん洗われていく。
とりあえず、川の水で靴下と靴、ズボンを脱いでよく洗い、近くの木に干す。
状況を整理したい。
まず、自分のことを思い出そう。これは夢かもしれないし。
僕の名前は田中太郎。年齢は二十七歳。会社員だ。思い出せば、なぜか十二歳からは苦労の連続だった。それまでは、さほど苦労したことはなかった。両親の元を離れ一人暮らし。恋人も友達もいない。
さて、これからどうしようかな。と思っていたら日本語で話しかけられた。
『太郎、久しぶり。と言っても俺のことわからないよな。それにしても、十五年間よく頑張ったな。ようやく転移ができるようになったか』
あたりを見渡すが、どこにも人がいない。でも不思議と恐怖は感じない。聞いたことのある声のような気がする。僕は見えない何かに聞いてみた。
「あなたは誰ですか?」
『……。うん、まあ、わかっていたよ。俺のことわからないってね。俺の存在の記憶すら犠牲にして異世界転移能力の必要ポイントに変えたからね』
「異世界転移能力?……それにポイント?」
『俺はジン。まあ、君の知る存在で言うと天使だ』
「なんだか、聞いたことのある声だとは思うんですが、ジンさんですか?」
『敬語は必要ないよ。どっちかっていうと、人間のほうが俺より立場が上だからね。本来は』
まだ状況をよく把握できていない僕は、確認のため聞いてみた。
「本来は?えっと、ジン……は、僕を助けてくれるの?」
『助けるというか、なんというか。結構困った状況だよね。今』
「ものすごく困ってる。なんでこんなことになったのか。のども乾いた。あの川の水は飲んでも大丈夫かな?」
『ああ、大丈夫だよ。あの川の水はとってもきれいだからね』
川の底まで見えるような透明な水が流れている。日本の夏ほどではないが、ちょっと暑い。暑いのに二十分ぐらい走ったから、とんでもなく喉が渇いている。水で手を洗ってから、手のひらに水をすくって飲む。
「うまい。何だこの水」
元の世界の塩素で消毒された水と比べ、この水はうまい。喉を完全に癒した僕は、ようやく考えをまとめられる状況となった。元の世界に未練はないものの、この世界で生きていくのは難しい。
「ジン。どうしてこうなったのか教えてくれるかな」
『う~ん。話せば長い話になるけど簡単に説明するとね、君が異世界転移能力を得るためにいろいろと犠牲にしたんだ。例えば大事な記憶すらポイントに変えてしまったほどにね。それでも必要ポイントには全然足りなかった。異世界転移能力でも劣化版なら必要ポイントが十分の一で済む。でもね。それでも全然ポイントが足りなかったんだ。それで必要ポイントを稼ぐために太郎は今まで理不尽なほどの苦労をすることを選択したんだ。普通なら別の能力を選ぶんだけどね。異世界言語能力も取らずに異世界に行くとか、普通はやらないんだけど』
僕は、その話を聞いて十二歳から理不尽に苦労した理由を知った。
「もしかして、十二歳から苦労の連続だったのは、僕が特別な目的があって異世界転移能力を得ようと思ったからなんだよね?」
『そうだよ。異世界転移能力を得るために太郎はその後の十五年を犠牲にしたんだ。』
念のために、異世界転移能力についてジンに聞いてみた。
『元の世界と、こちらの世界を行き来できる能力だよ。普通は異世界に行ったら戻れない。そこを行き来できるようにする能力を太郎は欲しがったんだ。ちなみに、十五年前だけどポイントが千ポイント与えられたんだ。で、選択できる能力が
異世界言語能力 100P
異世界転移 100P
異世界転生 100P
基礎魔法能力 100P
中級魔法能力 400P
上級魔法能力 1600P
究極魔法能力 25400P
基礎物理戦闘能力 100P
中級物理戦闘能力 400P
上級物理戦闘能力 1600P
究極物理戦闘能力 25400P
異世界転移能力 100万P
劣化版異世界転移能力 10万P
だったんだ。普通与えられたポイントから能力を選ぶんだけど、太郎は10万Pも必要な能力を選んだ。だから、足りないポイントを得るために記憶すらもポイントに変換して、異世界転移能力獲得の劣化版を得ようとしたわけだ。つまり能力を得た時に、なにも知らないまま転移することになる。そのリスクもポイントになる。だから本来なら僕がこうやって関与するのはルール違反なのかも知れないけど、君には恩を感じているからね。もちろん太郎は俺の存在の記憶をポイントに変換しているから、覚えていないだろうけど。おや?……もう来たのか。思ったより早かったな。それじゃ俺はこれで失礼するね』
「え?来たって?誰が?」
ジンという天使。声しか聞こえない存在が去ったような気がした。後ろから肩をポンポンと叩かれ、振り向くと先ほどの少女がいた。黒髪、黒目、東洋人の特徴を持つポニーテールの女の子。
「もう……、急に走りださないでよ。追いつくの大変だったんだから。」
なんと、日本語?いや、東洋人とは思ったけど、まさかの日本人。それと、自分はパンツ履いてるけど、ズボンは干している状況で。これは……やはり恥ずかしい。
「あの、僕のことを何か知っているの?」
「白神響子という名前を憶えてる?」
僕は、その名前を聞いて驚いた。僕が小学生のころ好きだった女の子だ。僕は彼女が亡くなった時のことを思い出した。僕は転落して死ぬ直前の彼女と会っている。
「覚えてる。白神さんのことはよく覚えている。もしかして……君は……」
彼女は、僕が覚えていると言ったことで、表情が明るくなった。すごく嬉しそうだ。そして興奮気味に話し始め得た。
「私は転生して、リサとして生まれ変わったの。こちらに生まれてから記憶は三歳ごろまで失っていたんだけど。日本で生きていた時のことを思い出して、それからジンに会った。」
僕は、白神さんがこうして生まれ変わって生きていることを知り、ものすごく嬉しくなった。
「太郎に十五年前に助けられたの。助けられた時私は十二歳だった。転生して今日まで太郎が来るのを待ってたの。それなのに太郎は……その……おしっこしてるし、声かけるタイミングが難しくてどうしようと思ってた。そしたら急に走り出すから、追いかけるの大変だったのよ」
「よく、追いつけたね」
「ジンが教えてくれたの。あの山の近くの川にいるって」
「そうなんだ。君のことはこっちの世界だからリサさんって呼んだらいいのかな。僕が転移してくる時期や場所も知ってたの?」
彼女は、少し考えてから言った。
「私のことはリサさんではなく、リサでいいわ。こちらの世界では目上の人にも呼び捨てが普通だからリサさんだと変に感じるの。私も太郎と呼ぶわ。……太郎が来る時期は曖昧だったけど、場所に関しては聞いていた場所と同じだった」
「わかった。リサだね」
僕がそう言うと、リサは僕に近づき、頭を僕の胸に付けて震える声で言った。なぜか泣いているようだった。
「ようやく会えた。……会いたかった」