【Beelzebub】《三語即興文》
「何これ……?」
僕は唖然として、周りを見渡していた。
バットを振り回し、まるでおもちゃのような機械的な動きで窓を割り続ける男の人。
化粧品をわしづかみにしては、まるで食べるようにポケットに詰め込んでいく女子高生。
なぜかテーブルにちょこんと乗っているコーヒーカップにひたすら「ごめんなさい」と謝り続ける女性。
車を電信柱にぶつけてはバックして、またぶつける中年男。
ラーメンを作っては、できたばかりのラーメンを逆さにしてこぼし、空になった器にまたラーメンを盛っては捨てての繰り返しをする主人。
【理性】の【ない】狂行。
瞳の笑っていない笑顔。
まさしく狂気の跳梁跋扈。
「宇宙の真実は、三角定規の底辺に!」
「32ページ分の大腸菌は、夢の狭間に魑魅魍魎!」
「かんかん寺のお坊さん。私は世界の有休・駆逐せよ!」
言ってる意味もわからない。
狂ってしまったのは世界なのか?
それともたったひとりの自分こそ狂っているのか?
「――世界ではなく、自分の脳みそを疑いますか」
くすくすと、おかしそうに笑う声。
その声に、僕はいち早く反応せずにはいられなかった。
不快だけど――【理性】の【ある】口調だったから……。
「いきなり自分を疑うのは、オジさんどうかと思うんですがねェ」
くすくすと笑っているのは、黒スーツ姿の男だった。
おじさんと呼ぶには若すぎる相貌。
しかしながら丸メガネで隠しきった瞳からは、感情が見えず、手袋やスーツで皮膚の露出を極限まで隠したそのいでたちからは、信頼という文字を粉みじんにするほどの胡散臭さを発散させていた。
それでも僕は勇気をこめて、得体の知れない男に呼びかけた。
「……あんた何者だ」
「サラリーマンです」
「一応きくがいくつだ?」
「若いころの高倉健です」
「今までどこにいたんだ?」
「コリン星です」
「……好きな芸能人は?」
「ウエンツ瑛士と水嶋ヒロですね」
「もういい死ねよお前」
……きくだけ無駄だった。
僕はそう思いながら帰ろうとした。
そのとき――
「三つ目の願いはどうしますか?」
声が、聞こえた。
世界中から。
「……どういう……意味だ?」
かろうじて、僕は声を出せた。
だけど黒スーツの男は、くすくすと笑ってばかりいる。
からかっているような、面白がっているような、今というこの状況が楽しくて楽しくてたまらないといわんばかりにくすくすと。
「三つ目の願いです。もしかしてお忘れですか? ――まあ当然の話でしょうね」
「どういう意味だっ!」
「つい3分前の出来事ですよ? 覚えてませんか? カップラーメンだってできるくらいたっぷりじゃないですか。ちなみに私はシーフードのタコのあの歯ごたえが――」
「どういう意味だって聞いてるんだっ!」
「…………」
くすっと、男は笑った。
とても【邪悪】に。
「一時間ほど前。私とあなたは出会いました」
――こいつ、今何と言った?
「30分間。私はあなたに説明をしました。自分は悪魔であると。三つの願いをかなえることのできる存在だと」
――今、悪魔って言わなかったか?
「ちなみに名刺を渡しましたよ? 右のポケットには言っているはずですが?」
言われて、ためしに僕はポケットの中を探ってみる。
たしかに入っていた。……なぜか森○万象チョコのシールといっしょに。
「あなたの趣味って歳に合いませんねェ」
――ぜってー嘘だ。
「ちなみに15分ほど前、あなたは私に願い事を言いました」
笑って、男は告げた。
「『【こんな世界壊れてしまえ』」
【僕】の【声】で。
――え?
「何……だって?」
僕の声は震えていた。
その反応に満足しているのだろう。男の笑みがさらに深まった。
「二度目の願いは、かなり早口でしたねェ。――『なかったことにしてくれ』。あんなに青ざめて言わなくてもよかったじゃないですか。言われたとおりチャラにして差し上げましたよ。【ここ一時間の記憶をなかったこと】に」
「……何だそりゃ! めちゃくちゃじゃないか!」
「はい、そうです。メチャクチャです」
だからどうしたといわんばかりに男は笑う。ほとんど詐欺師の顔だ。
「【大きなハエの姿】をした我が主がお待ちかねなんですよ。久しぶりの食事ですので」
「意味が……分からないぞ……」
「意味を理解することも把握することも熟知することも解析することも必要ありません。どうせ意味を成しませんから」
「最後の願いを言ったら……僕はどうなる?」
「それを知る必要もありません。それに……【もう分かっている】のでしょう?」
男の笑みがさらに深まり、口のあいだから牙が見える。
そう、牙だった。人間のものとはいえない鋭すぎる狂気。
「あなたがどのような返事をしようと知略に富んだ願いを口にしようとも、私は全力でそれを捻じ曲げこじつけ捏造し、私のスケジュールを進めるだけなのですから」
なすすべもなく、僕は震え上がる。
だけど、僕の目は、男のそれに睨まれたまま動けない。
メガネごしなのに、その瞳ははっきりと僕を糸でからめ取っているかのようだった。
地獄と化した宴の中心で、地獄の住人は口を開いた。
「さて……お願いは?」
(Fin)
うぅ……25分オーバーしました……