暁に映えし水神の墓標よ
田舎の親戚の家に行くと割りと良くある日常と複雑に絡み合う人間模様。
過ぎし日の思い出
さらさらと流れる小さな小川に釣り糸を垂れて、もう何時間経過しただろう。
川幅二メートル、深さは膝くらいまでしかないが魚影がやたらと濃いこの川は、親戚の家の裏山近くを流れている。
釣ったとしても食べる予定も無いのだが、偶に訪れた親戚のおっさんが珍しいのか、子供の遊び相手として引っ張り回されている最中である。
「おっちゃん! バッタ捕まえて来た!」
虫かごいっぱいのバッタを俺の顔に押し付けて来るのは、親戚の子供である。
「なあ、もう釣りやめないか? もう充分だろう?」
田舎の子供は娯楽が少ない、それでいて楽しいと思った事はとことん繰り返すので、只今俺は絶賛釣り地獄の真っ只中にいる。釣りに誘われたのは良いのだが、釣り竿を俺に渡して自分達は餌になるバッタを捕獲して俺に押し付けて、延々と魚を釣らせる事に喜びを見出している。
「だめじゃ! 釣りをせんと今夜の晩御飯が食われんようになる」
「お前この魚食うんか?」
「食わん!」
子供は言葉が通じない。
「食べない魚を何十匹釣れば良いんだよ?」
「仕事はそんな甘いもんじゃない!」
小学生低学年の女の子に仕事の厳しさを教わりながら、延々と魚を釣り上げる。
そもそもここの魚は誰も釣り糸を垂れないせいか、釣り針も使わずにバッタを糸の先に結びつけるだけでガンガン釣り上がるのだから、釣り糸を垂らすよりも桶でも沈めておいた方が魚は捕れるのではないかと思い始めた頃に事件は起こる。
「おっちゃん!」
「おっちゃん言うな」
「おっちゃん、あんな、かっぱがいた!」
かっぱってなんだっけ? そんな魚いたっけ? 野生動物だっけか?
「かっぱがな、泳いどった」
ああ……あの河童か、緑色で胡瓜とか食う系の……
「そうか、河童も色々忙しいんだから、そっとしておいてやりなさい」
「捕まえよう!」
「河童はな、俺達の心の中にいるんだ。捕まえようとするとふわりと消えて……」
子供をあしらう術を心得た俺が、やんわりと少女時代のファンシーな思い出を壊さない様な神対応をしていると、問答無用で前髪を掴み上げられて上流の方へと引っ張られる。
「前髪はやめて下さい。前髪は本当にやめて下さい」
「いいから早く来て! かっぱに逃げられる」
草むらの中を数分引きずられて上流にある水門付近に来ると、突然親戚のガキが足を止める。
「いた!」
ガキが指差す方向に視線を移すとそこには、膝までしか無い水深の川を必死で匍匐前進で前に進む河童がいた。
どうやら追っ手から逃げているらしく。必死で草むらの背丈より低い位置で匍匐前進をしている。
「つかまえよう!」
「捕まえても食わないんだろ?」
何故子供は未確認生物を目の前にしてもひるまないのだろうか?
「た、食べないけど、味噌は食べる」
「味噌?」
「甲羅の内側のやつ」
「カニ味噌かよ!」
俺のツッコミ音声が河童にも聞こえたらしく、一瞬匍匐前進を止めてこちらをうかがい、その後派手な水音を立てながらスピードをあげた。
しかも、あちこちからチラリチラリと肌色が見えている。
「おい……あれって……河童なのか?」
「絶対かっぱ! あのかっぱ尻子玉が見えとる」
チラチラ見える肌色は股間部分から見えていて、あの肌色はどうやら尻子玉らしい。
ここは田舎であるが、やはり田舎にだって色んな性癖の人がいる筈だ。ここはそっとしておいた方がいいんじゃないのか?
「あのな、これ以上水生生物を精神的に追い詰めるのは良くないと俺は思うんだ。クストー教授だってあそこまで必死に逃げているのを見たら、さすがに見なかった事にしてくれると思うんだ」
「ぜったいつかまえる! それに顔を見られたから、夜中むかえに来そうだし、いまのうちにとどめをさす!」
顔を見られたかあ、あそこまでアクティビティな変態だったら、夜中に迎えに来るのもあながち見当ハズレな意見でもないかも知れないな。
「そうか、解った。お前に武器を渡す」
俺はポケットの中にあるスマホをガキに渡す。
「写真の撮り方は昨日の夜に散々撮りまくったから覚えているな?」
昨日の夜俺のスマホに並々ならぬ興味を抱き、バッテリーが枯れ果てるまで遊び倒したガキがこっくりと頷いた。
「水門まで追い詰めたらな、奴の写真を撮りまくれ……それが全ての抑止力になる」
「よくわからんけど、わかった!」
意を決した俺達は草むらをかき分けて先へと進む。
「水門まで来たらさすがに逃げられないだろう。水門から先は河童も二秒で土左衛門にジョブチェンジ出来る濁流地獄の筈だ」
「うん。じいちゃんも投網引っ掛けて足折った」
何やってんだあのじじいは……
水門手前の大きな側溝の影に緑色の物体がチラチラと見える。
「いた!」
ガキの声に緑色がピクンと跳ね上がる。
「油断するなよガキ」
ガキがこくんと頷きを返すと、緑色の全貌が露わになる方向へと歩を進める。
「に、人間は出ていけえええ!」
もう逃げられないと悟ったその緑色は、あらん限りのドスの効いた声で怒鳴りつけ、小川の真ん中で立ち上がった。
「どこまで自然を壊せば気が済むんだ人間は!」
緑色の全身タイツに覆われたその男は、声を限りに良い事っぽい自然万歳な事を叫び続けた。
『カシャカシャ』
ガキの持つスマホから連続してシャッター音が響き渡ると、緑色に塗り潰された顔色が真っ青に変わり、顔を手で覆い隠しながらヒステリックに叫んだ。
「シャメは止めて下さい! 写メは止めてください!」
謎の水生生物河童も写メには弱かったらしい。
「写メはやめて下さい」
今まで熱弁をふるっていた河童が突然狼狽え始めた。さすがの河童も最近のネット流出は恐ろしいらしい。
「バッチリ撮った!」
満足気に頷くガキは水門の奥に視線を移す。河童は先程慌てて顔を隠したせいか、クチバシがぐらついているのを必死で修正している。
「おっちゃん大変!」
「どうした?」
ガキが震える指で水門を指差す。
「このかっぱつがいだ!」
つがい? 番いか? ガキの指差す方向に視線を向けると水門の陰にビクリと震える緑色が見えた。
「ガキ! そっちも写真だ!」
「やめて下さい! あなた達は自然と共に歩む私達河童の住処をまた奪うんですか!?」
俺はガキに危害が及ばない様写真を撮りまくる背後に周り、もう一匹のかっぱを視界に収めた。
水門の手前の窪みに体育座りをする河童は確かにメスである事を確認する。
河童の雌雄判別は意外と簡単であった。濡れて重くなった全身タイツの肩口がずり落ちて薄紫色のブラ紐がチラリと見えているので間違い無くメスであろう。
俺たちの視線に怯えて顔を両手で抑えているが、隙間からせり出している嘴が薄いピンク色に設定されているのは、おそらく彼女の拘りなのだろう。
「待ってくれ! 彼女は関係無いだろう!」
「完全に当事者だろ? 何処をどう見ても当事者だろ!」
「俺たち河童は人間達に住処を追われ、ひっそりと静かに暮しているんだ。頼む……見逃してくれないか?」
少し寂しげな表情で河童は俯き、メス河童を庇う様に立ち塞がった。
これは河川保護活動の一種なのか? なんだか奴らを見ているとこちらが悪い事をしている気がして来て微妙な空気が流れる。川底であちこち引っ掛けたのであろう、緑色の全身タイツが所々破けて血が滲んでいるのがこちらの罪悪感を更に加速させた。
「いや、まあ、俺も田舎での退屈にまかせて首を突っ込んだ部分もあるし……」
俺の同情心から少しだけ河童との距離が縮まりそうになった時、少しの罪悪感から伏せた視線に写ったのはミシン目から切り離されてもいない未使用のコンドームだった。
流れて来た上流にはメス河童の持ち物らしいピンク色のポーチが口を開けたまま川縁に置いてある。
「てめー! 何が住処を追われただ! 単なるプレイじゃねえか!」
「プレイとか言うな! 神聖なる生命の営みと言え! 人間に追われた俺たちかっぱは、一人でも多くの子供を作らないと絶滅してしまうんだ!」
「だったら避妊具なんぞ使うんじゃねえ!」
「ぐぅ……」
かっぱが言葉に詰まり握りこぶしをきつく握りしめる。
「なあ、なあ、おっちゃん。ひにんぐってなんだ?」
ガキが絶妙なタイミングで余計な疑問を挟み込む。
「ん? あー、なんだ。それはあれだ。河童に聞け」
「何故河童に振る! それはあれだ。持って来た当人に聞くのが一番じゃないか?」
「かぱひろ君酷い! いつもあたしにばかり用意させて、困ったらあたしのせいなの?」
それまで顔を覆い隠して座り込んでいたメス河童が声を荒げて立ち上がった。
「いや、違うんだ。かぱ美! そんなつもりじゃなかったんだ」
「お前らプレイヤーネームまで用意してんのかよ? どれだけかっぱプレイに入り込んでんだよ。逆に詳しく聞きたくなって来るよ」
俺も流石に呆れていると、オス河童の目がすわって来ている事に気付く。少しいじり過ぎたか?
「こうなったらもう、しょうがない。少しだけ痛い目を見て口を噤んでもらうしかないな……」
オス河童は不穏な言葉と共に川縁で四股を踏むと、見事な雲龍型の土俵入りを見せた。一次産業従事者の多いこの村では俺の腕っ節では到底叶うわけもなく。それを見越した薄笑いをオス河童は浮かべた。
「おい、ガキ。ここは俺が抑えるから駐在さんを呼んで来い」
「おっちゃん。だめだ」
青ざめたガキがふるふると首を振る。
「駐在さんはとても相撲が弱い。おっちゃんもすごく弱そうだ。もうだめだ」
絶望の淵に立った様な顔つきで俺の方を見て大きな溜息をつきやがった。
失礼なガキだ。
「心配するな。この河童は駐在さんより相撲は強いかも知れないが、駐在さんの持っている警察手帳は間違いなくこの河童よりも強い」
「すぐ呼んで来る!」
「ああああああ! ホントすんません! 生意気言ってホントすんませんでした!」
それが伝説の神獣とも呼ばれる河童が陥落した瞬間だった。
その後河童は俺の釣り上げた小魚を生のまま三匹程丸飲みにする事をガキに強要された挙句。毎回コンドームを買いに行かされていたらしいかぱ美さんは怒って帰ってしまい。
最後にはガキのリクエストにより、水門の向こう側に広がる鳴門海峡も顔負けの濁流の中に放流された。
俺は優雅な有給休暇が終わりを告げたのでこの田舎を離れる事となる。
これでまた日本古来より伝わる妖怪伝説の一つが終焉を迎え、河童の住む清流は無くなったのかと思うと少し寂しくもあった。
都会に帰る道程で見える茜色の空に映える水門塔は、大きな丸ハンドルが河童の皿を表している様に見えて、まるで河童の墓標の様だった。
ええ、いつも通りです。