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オタ×オタ

作者: 佐田直貴

 プロローグ


「今年はね、チョコを手作りにしようと思うの。だからオタ、手伝ってよ」

 バレンタインを一週間後に控えた二月上旬。高校指定のコートに手をつっこみ、ポニーテールの黒髪をなびかせながら、「宿題見せてよ」と同じようなノリで、僕の幼馴染こと阿藤早苗は言った。

 肌を刺すような痛みを伴う寒さの中、オタと呼ばれた僕は「いいよ」とだけ答える。

 困った時にオタオタするから、オタ。決してオタクのオタではないのだけど、元来の内向的な性格ゆえか、そう思われることが多々ある。名付け親は、目の前の幼馴染だ。何とも困ったあだ名を付けてくれたものである。

 朝の静かな住宅街には、僕ら二人だけの声が響いていた。午前八時二十分。社会人は既に電車の中で、地元高校に通う僕らだけが存在できる時間帯。いつもはそれが嬉しいのに、今日は全然胸がドキドキしない。

 答えは簡単。

「何チョコがいいかな……。ちなみにご存知の通り、私はチョコバナナが好きなんだけど」

「それはチョコの種類じゃないからね」

 ツッコミながら見た彼女の顔。

 その綺麗な瞳の中に、僕は映っていないということを知ってしまったからだろう。

 何故なら、彼女が今年に限って突然こんなことを言い出す理由があるとしたら――。

「よお、偶然!」

 後ろから、僕らを呼ぶ大きな声。

 振り返るとそこには、僕や阿藤よりも頭二つ分くらい大きな男性がいた。整った顔立ちと、ちょっと茶色に染めた短髪は、男の僕から見ても格好いいものだ。ブレザーの胸には三年生を表す色の刺繍がある。つまり、僕らの一個上。

 ここ数日で、僕の頭にこれでもかとインプットされた人物、加藤卓也先輩。

「何の話してたんだ?」

 彼は追いつくと、こちらとは反対側の阿藤の隣を陣取った。ここ何日かで、お馴染みとなった光景。偶然も続けば必然となる。なんていう皮肉はこの人には通じないのだろう。毎日偶然だと言って、僕らに並ぶ。

「いや、先輩にはさっぱり関係のない話ですから」

 しっし。とネズミを追い出すようにして阿藤は答えた。その仕草がとても可愛らしくて、だから僕は、二人から一歩分下がるのだ。その仕草や彼女の存在に見合うような人間ではないから。

「なんだよ、いいじゃん。教えろって」

 拗ねたような、でも楽しそうな加藤先輩の声。

 きっとこういう人こそ、阿藤早苗には相応しいのだろうな、と思うのだった。



 幼馴染として、幼稚園から高校まで。全て一緒の学校だったにも関わらず、一緒に登校していたにも関わらず、どうしてこんなにも差が出るのか、と時々考える。

 オタと呼ばれる僕こと大田幸喜と阿藤早苗が幼馴染だと聞くと、大半の人が驚く。多分、「小さい頃から一緒にいたならそれなりに似る部分もあるだろう」という先入観みたいなものだろう。

 しかし、僕と阿藤早苗はどこをどう間違っても逆の存在であり、だから人気者の彼女と日陰に埋もれる僕では、一緒に居ることすらおこがましい。そんな感じで驚く人も居る。

 それが、加藤卓也先輩だった。

 彼は数日前から「一目惚れした」と阿藤を追いかけるようになり、隣に居た僕の存在を知っても、最初の自己紹介以外は完全にいないものとして扱っている。

 彼はバスケ部のキャプテンとして、阿藤は整った顔立ちで、前々から校内でも人気があった。だから二人の噂は一気に広まった。家が近くだと分かり、一緒に登校するようになってからは、もう確定事項のように。

 しかし僕は「二人は付き合っている」という噂を聞いても、悔しいという思いは湧かず、「ああ、やっぱりな」という感じで二人を眺めるだけだった。『悔しい』というのは、挑戦した人間だけに与えられる感情だ。だから、僕には持つ資格もない。

 同じ土俵に立つ前に、途中棄権をしてしまっているのだから――。

「ほら、オタ。何ぼうっとしてんの」

 バシ、と背中を叩かれて、意識が覚醒。ついでに咳きこむ。

「じゃあ先輩。私達はこっちなので」

 グイッと背中を押しながら、先輩とは違う昇降口へと、彼女は僕を導いた。

「女の子に簡単に運ばれる僕って一体……」

「何ぶつぶつ言ってんの? 暗いよそれ。つか、オタも加藤先輩と話してよ。そっちがさっぱり話しかけないから、二人で登校してるみたいになっちゃうじゃん」

「いや、僕は別に話す事ないし、二人でも充分話は続いてるよ」

 それはもう、嫉妬するくらいに。

 あぁ……本当に暗いな、僕。

「続いてないわよ。あの人勝手に話してるだけだし。私さっぱり聞き役になってたし」

 そう言いながらも、僕の背中を押している彼女から不機嫌さは感じない。その様子が、僕の胸を一層強く締めつける。今はそうでなくても、間違いなく彼女はその内、彼に惹かれるのだろうと。

「おはよう。早苗!」

 昇降口で会ったクラスメイトの子が阿藤に挨拶をした。その隙に乗じて、僕は持て余した胸の痛みと一緒にその場をすり抜ける。

 こんな思いをするくらいなら恋なんかしない方がいいと、彼女が聞いたらやっぱり「暗い」って笑うであろう事を考えながら。



 昼休み。

「阿藤、一緒にメシ食おう」

 と言いながら、加藤先輩が教室に入って来た。女友達と食事を取ろうとしていた彼女の周りは色めき立ち、そこから少しだけ離れた所に座っていた僕はやっぱり居たたまれなくなるのだった。

「じゃあ、私達はあっちで食べるから」と言って、阿藤と一緒に食べようとしていた女子たちがこっちに向かって来る。

 机にして二列分。近くもなく、遠くもない距離。様子を窺いながら食事をするには絶好の位置なのだろう。

「オタくんは行かなくていいの?」

 とでも言いたげな顔で、男子数人で食事を取っている僕たちの近くに座った。僕の友人もこちらをチラチラと窺っている。

 学年の始めからずっと一緒に居た僕と阿藤を知っている彼らは、最近ではこうして微妙な気遣いを見せてくれる。話題は決して加藤先輩に向かないように。けれども、違和感は与えないようにと。

 しかしその気遣いは、より一層、僕の惨敗をしらしめるのだ。

「暗いなぁ、僕」

 とことんネガティブシンキングな自分に苦笑してしまう。「知ってるよ」と笑う友人に気づかないフリをしながら、弁当を胃に流し込んだ。しかし、聞くまいと思えば思うほど、彼女たちの会話が耳に入ってきてしまう。

「私はね、付き合うとしたら結婚前提なんです。だから、こだわりがあるんです」

「へぇ! 何それ、聞かせてよ」

「自分の名前を無くさないこと。どうせ結婚するなら、苗字も残った私でありたいんですよ。だから、付き合うとしたら同じ苗字か、それに準じるかたちでありたいんです」

「あー、キャリアウーマン的な感じ? 職場では旧姓とか使う人いるよね」

「……いや、もう別にそれでいいですけど」

 呆れたように溜息をつく阿藤。今度は先輩が理想の彼女像を話し出す。

 僕は「トイレに行ってくる」と言って席を立った。

 加藤先輩、気づかなくちゃダメだよ。

 あれはきっと、彼女なりのアプローチなんだ。

 阿藤と加藤。

 こんなに似ている苗字なんて、他にないじゃないか。



 いつからだろうか。僕が阿藤早苗に恋心を抱くようになったのは。

 もしかしたら小学校からかもしれないし、中学校からかもしれない。あるいは、つい最近。それこそ加藤先輩という、僕らにとっての異物が混ざった頃からかもしれない。

 僕自身いつから持っていたかは分からないモノ。その、いつの間にか持っていたモノが、今の僕にとって一番大事なものになってしまっていた。

 恋心、というのは改めて口に出すのは恥ずかしい言葉だけど、凄く不思議なものだと思う。曖昧で不安定で、でも、力強くて。押し殺そう押し殺そうと言い聞かせても、我慢できない何かが僕を支配するのだ。

 教室から逃げ出した僕は、気分転換のために屋上へと向かった。なんとなく一人になりたかった。

 こんな寒い日に屋上に来るなんて人はいないだろうし、トイレの中で一人、ぽっかりと穴が空いたような心を落ち着かせようとするのも、哀しい気がした。

「名前って素敵だと思うのよ。だから私は、この名前をずっと残していたいの」

 彼女が僕によく言っている言葉だ。「将来誰かと結婚するなら、婿に来てもらおうかな」なんていう事も。

 僕はそれを冗談半分に聞いていたし、彼女もそれほど意味なく話していたはずだ。

 ただ単に、普通の人よりもちょっとだけ名前という存在を気に入っている。それが、彼女のスタンス。多分それは恋心のように、不思議と気になって仕方ないものなのだろうと思う。

 だから、それを冗談交じりに話してくれる事が嬉しかったし、僕もそれをあまり気にすることはなかった。だからこそ、さっきの言葉は思った以上に、僕にダメージを与えたのだった。

 彼女がそういうバカげた話をする存在。そこまで、加藤先輩は上りつめたということだから――。

 ため息を一つ吐いて屋上への扉を開ける。

 屋上には、予想に反して一人の学生がいた。

「あら、珍しい。こんな時期にここに来る人なんていないと思ってたのに」

 僕の姿を確認すると、その人は驚いた表情を柔らかくした。

 風に流れる黒髪に、整った顔立ち。今にも消えてしまいそうなくらいに細い身体と、白い肌。けれど、力強い美の存在感。

「茂木先輩……奇遇ですね」

 茂木優子。

 僕のいとこで、学校では一個上の先輩。そして去年の、文化祭ミスコン準優勝者。

「久しぶり、幸喜くん。今日は早苗ちゃんは一緒じゃないのね、喧嘩でもした?」

 いきなり阿藤の名前を出されて、うろたえる僕。

「ふふ、冗談だよ」

 全部知ってるんだから。とでも言いたげな笑顔で、彼女はこっちに向かってきた。そして僕が開けっ放しにしていた扉の横に座り、パンパンと地面を叩く。

「座って。せっかくだし、話でもしよう?」



 茂木優子という人物は、僕と阿藤にとって、とても大切な存在だ。

 昔から一個上とは思えないほどに大人っぽくて、その儚そうな外見とは裏腹に力強くて。

 子どもの頃の僕らにとってのヒーローが、この茂木優子という人物だった。憧れで、でも手の届かない場所に居る存在。

 ただ、いつからだったかは分からないが、彼女は僕たちと距離を置くようになった。

「3-Aの加藤くんが、早苗ちゃんを狙ってるらしいね」

 「駅前に新しい喫茶店ができたらしいね」くらいの口調で、いきなり茂木先輩は目下の悩みである核心をついて来た。

「彼はそれなりに有名人だから。そりゃ私でも知ってるよ」

「いや、僕まだ何も言ってませんけど……」

 一瞬動揺していた僕は、知っていたんですか。の一言も言えなかった。

 こうして、まるでこっちの言いたい事が分かるかのように、受け答えを進めてしまうのが彼女の特徴だった。思い出すと、顔がゆるんでしまう。

「先輩は、変わってませんね」

「幸喜くんも変わってないわ。学校で見かけるたびに、変わってないなぁと思ってたから」

「いやいやいや、話しかけてくださいよ……」

 こうして話すのはいつ振りだろう。お互い、目があったら挨拶くらいは交わすものの、改めて話す機会というのはなかった。

「私の中学卒業の時は早苗ちゃんと三人で話したよね。私が高校生になってから幸喜くん達に話しかけないようにしたから、約三年かな」

 やっぱり意図的に話しかけなかったんですね……。

「意図的に話しかけないようにしたのは、早苗ちゃんと幸喜くんは、私が居ない方がうまくいくかと思ったから。幸せになってほしいと思ったから。それに、二人に知って欲しかったから」

「何をですか?」

 今度は、先読みされる前に口を挟んだ。少しでも油断すると、この人は一人でずっと喋ってしまうのだ。

 けれど次の瞬間、僕は選択肢を誤った事を知る。

 聞かなければよかったのだ。知らない方がいい事なんか、いくらでもあるんだから。

 彼女は一瞬だけ寂しそうな顔をして、僕に言った。

「積み重ねてきた人と人との関係って、次の日にはまるっきり変わる事もあるって事」

 確かに中学卒業以来、僕たちと彼女の関係は『仲の良い幼馴染』から『顔見知りの先輩』程度になってしまっていたのだから。


 

 幼馴染って、まるで鏡みたいでしょ。と茂木先輩は笑った。

 凄く見慣れていて、けれど一日一度は見ないと落ち着かないもの。近くにないと、不安になってしまうものだ、と。

 そしてきっと早苗ちゃんにとって、幸喜くんはそういう存在なんだよ、と。

 だけど、僕にとってそれは嬉しい言葉ではなかった。

 だって、鏡の向こうは決して触れる事の出来ない存在だから。

 幼馴染としての関係というのは、思った以上に近くて、遠いのだ。

 多分、阿藤が加藤先輩と付き合う事になっても、彼女は僕のことを気にかけてくれるだろう。それはきっと、茂木先輩の言う通り、阿藤は僕の事を鏡のような存在だと思っているから。

 けれどそれは、決して触れる事の出来ない距離。

 鏡の向こうを見ているだけの、虚しい関係。

 ――それはきっと、今よりも、遠い存在。

「そうなると知っても、君は今のまま、無関心を装うことができる?」

 そう言って、先輩は意地悪に笑ったのだった。



「オタ、帰ろう」

 放課後。阿藤が机の前に仁王立ちした。

 え、え? と情けない声を漏らす僕は、まったく状況がつかめないまま、一体いつの間にHRが終わったのだろうと辺りを見渡す。

「ほら、オタオタしてないでさ、買い物付き合って」

 阿藤はそんな僕を見て、楽しそうに笑う。

「くくっ。久ぶりにオタオタしてるの見たかも」

「ちょっと考え事してただけだよ」

 と言い訳ながらも、その笑顔に置いて行かれないようにと慌てて腰を上げてしまう体が、少し情けなかった。

 


 買い物内容は言うまでもなく、今朝話題に上がったチョコだった。しかし十七歳にして初めて手作りに挑戦するという阿藤は、何故かスーパーに入るなり缶詰コーナーへと向かっていった。

「え? 手造り用のチョコって缶詰で売ってるんじゃないの?」

「一体どんなものを想像してたの?」

 どろりとしたチョコが缶詰の中に入っていると思っていたのだろうか。

 僕は阿藤に板チョコを渡し、それを溶かせばいいのだと教える。

「その発想はさっぱりなかったわ。ねえ、ホワイトチョコと黒いのだと、どっちがいいかな?」

「いや、僕に訊かれても……」

 それは僕が決める事じゃないだろうし、真面目に答えるのも惨め過ぎる。

 彼女は「んー」としばらくチョコと睨めっこをして、

「両方、買うか……」

「一体どんなのを作るつもりなのさ」

 思わず口を出してしまう僕だった。

「オタのそういう面倒見のいいところ好きよ。えっとね、小型なケーキを作って、文字を入れたいの」

「じゃあ黒い方が無難でいいんじゃないかな。白は甘過ぎて苦手って人もいるから」

「何でよー。黒を嫌いって言う人も居るかもじゃん。私白の方が好きだし」

「黒が嫌いな人はそもそもチョコが嫌いだと思うよ」

「オタってば頭いいわ……」

 あっさりと彼女は大きな白チョコを戻して、その隣にあった小さめのを取る。

「文字用はこんなもんでいいよね」

「何文字書くの?」

「ローマ字六字+アルファ」

 加藤先輩の名前は加藤卓也。下の名前が、ちょうど六字だ。同時に、自分はどう足掻いても六字にならないなと考える。分かっていたことだとしても、辛い。

「じゃあ、それでいいんじゃない」

 なんとか悟られないようにして、声を絞り出した。多分、僕の今の顔はとても情けないものになっているのだろう。

「さんきゅ、助かったよ」

 彼女は、ニカリと笑った。

 好きだ。という文字を飲みこみながら、僕は彼女の言葉に「いやいや」と答えるのだった。


***


「幸喜くんは優し過ぎるのが玉に瑕なの」

 茂木先輩は長い髪を指で梳かしながら言った。学校の屋上は時々強い風が吹いて、その度に彼女の綺麗な髪の匂いを、僕の方へと運んでくる。

「優しいのは幸喜くんの長所でもあるんだけどね。でも多分、自分の事を好いている人が居ても、気づかずに天然で傷つけちゃうタイプ。そのくせ、自分の好きな人を悩ませたくないと、自ら身を引いてしまうような」

 前半はともかく、後半はその通りだと思った。

「でも、それって凄く残酷なこと。自分にも、好きな人にも。だってそうでしょ? 自分とその人に嘘を吐きながら、接していることになるんだから」

 僕はここまで来ると、茂木先輩が何故こういう話をしているのか。嫌でも気づいてしまった。

 彼女と僕たちは、幼馴染だ。当然、僕が阿藤を好きな事にも気付いているだろう。そして、先輩が言ったとおり、身を引こうとしていることにも。

 お節介だったかな。と言って、先輩は小さく笑った。

「でもね、これだけは絶対言わせてもらう」

 先輩はそう言って、僕の方に顔を近づけた。

「後悔だけはしないで。時間は一度失くしたら、もう取り戻すことはできないんだよ」

 それは昔、僕が先輩に言った言葉だった。


***


 優子姉を覚えてる? と僕が訊くと、阿藤はギョッとした顔でストローの刺さったミルクティーをブクブクさせた。

「オタ、頭大丈夫? 優子姉は同じ学校に居るからね?」

 買い物の後、阿藤のおごりで入った喫茶店。茂木先輩の話題を出した僕に、彼女は失礼な反応をする。「だって、死んだ人を回想するみたいな言い方するんだもん」と更に失礼な発言を付け加えながら。

 ちなみに、僕と阿藤は昔から茂木先輩の事を優子姉と呼んでいた。今となっては面と向かってそう呼ぶのは恥ずかしいけど、阿藤の前だとこう呼ばないと落ち着かない。

「なんでいきなり優子姉なの?」

「いや、今日の昼休みに偶然会ったから」

「へぇ、私が教室で食事をしている間に、オタってば優子姉とさっぱり逢引きしていたのね。私でさえ、しばらく話していない優子姉と」

 さっぱりの使い方が明らかにおかしくなっていた。

「逢引きって……偶然に会っただけだし、ちょっと話しただけだよ」

 嫌な汗を出しながら答えると、彼女は「へぇ、ふーん」と言いながらズズズとミルクティーを飲んだ。

「それで、どういうこと話したの?」

「うん、それなんだけどさ、えーと」

 オタオタしながらジュースを口に運ぶ。

 緊張するとは覚悟していたものの、いざその時になると、頭が真っ白になってしまった。

「デート、しない?」

「頭大丈夫?」

 彼女は本気で心配そうな顔をした。

「いや、えーと、そうじゃなくて。あー、その、優子姉がね」

「え? 優子姉が言ったってこと? デートしようって?」

「そう、その。えーと、僕と優子姉と……阿藤と加藤先輩で」

「はあ?」

 思わず「ごめんなさい」と謝ってしまいそうな顔になる阿藤。

「何でそこで加藤先輩の名前が出てくるの。さっぱり分からないんだけど」

「い、いや、大した意味ではないと思うんだよ! その、優子姉が言うにはダ、ダブルデートって……」

「大した意味よそれ。嫌、絶対嫌。さっぱりお断りするから」

 彼女は本気で怒った時、腕を組む。そして実際今、腕を組んだ。

 僕はあだ名の通りオタオタするだけで、何も言えなくなってしまった。

 そんな僕をチラリと横目で見て、

「……オタはそれ、行きたいわけ?」

「それは、もちろん」

 だって、何故ならこれが――

「じゃあ、いいけど。今日のお礼に話に乗ってあげる。いつ?」

「来週末のバレンタイン」

「なんてお約束な……」

 愕然とした表情になる阿藤を見やりながら、僕はギュッと歯を食いしばった。

 ――行きたいに決まっているよ。

 何故ならこれが、阿藤と一緒に出かける最後の機会になるのかもしれないから。



 いざ思い出してみると、僕と阿藤との思い出は数えきれないくらいだ。

 中学校の頃、修学旅行で同じ班になった。銀閣寺は銀色でないことに腹を立てた彼女を、生八つ橋でなだめた結果、ご近所へのお土産が一個減った。

 小学校の頃、出来上がった絵にローマ字で名前を書けと言われて、ローマ字を古代文字だと勘違いしていた彼女に、自宅で教えた。「これで私も英語が出来るようになった」と嬉しそうに笑っていた。英語とローマ字はまた違うと言うと、絶望していた。

 幼稚園の頃、僕は腕を噛まれて泣いた。母親曰く、何で噛みついたのと怒られた阿藤はこう答えたらしい。「だって、こうきくんが言うこと聞かないから……」僕は彼女の召使か何かだったのだろう。

 ――ずっと彼女の傍にいて、隣にいるのが当り前だと思っていた。どこかちょっと抜けている彼女の傍らで、僕が補佐をしていられると思っていたのだ。こんな関係が永遠に続く。そんなことはないと分かっていたくせに、目を逸らしていた。

 彼女が誰かに告白をされた時も、加藤先輩が近づいてきた時も。

 僕はいつも知らないフリをして、彼女との日常を演出していた。

 だけど、それももう終わりだ。

 人と人との繋がりは変わってしまうもの。時間は進む事しか出来ないもの。

 そんなの、茂木先輩の両親が離婚した時に、学んだことじゃないか。



 日曜日の遊園地はカップルと家族連れで賑わっていて、地方の小さな敷地では、それだけでもういっぱいいっぱいだった。

「ましてや、今日はバレンタインだしね」

 券売機の傍。僕の隣に立っている阿藤は言った。脚のラインを魅せるジーパンに、白のダウンジャケット。紺のマフラーに顔を半分埋めながら時々ポニーテールをいじる姿は、ありきたりな表現だけど、まさにモデルのようだった。

 僕は、彼女が片手に持っている小さな箱が入りそうな紙袋に視線をやっては、ため息を吐くばかり。未練たらしいったらありゃしない。

「一緒に来た僕らがお互いの相手を待つなんて、変な感じだよね」

「お互いの相手とか言わないでよ。今日は四人で来たの。それ以上でも以下でもないんだから」

 ちょっと不機嫌気に言う。照れ隠しなんだろうなぁと嫉妬する僕はやっぱり暗いのだった。

 五分後に茂木先輩、十分後に加藤先輩が来て、僕たちは遊園地の中に入った。

 二月十四日、バレンタイン。

 二度とは戻らない、高校二年生のバレンタインだ。

 二度と一緒に来る事はないであろう、四人の時間。



「じゃあ、先輩はもう大学受験は終わってるんですか」

 僕が言うと、加藤先輩は小さく頷いた。

「まあな。つっても、今は一般受験する人も少ないから、半分くらいはもう受験終わってるんだよ。ウチの学校は指定校推薦も多いしな」

「先輩も指定校ですか?」

「アホか。指定校は成績いいやつにしか与えられないだよ。俺はAOだよ。AOは楽だぜ。部活動とかしてれば、それだけで武器になる」

 遊園地に入って十分ほど。僕は加藤先輩とのコミュニケーションを図っていた。やっぱり自分の嫌だと思う人が阿藤の恋人になんてなって欲しくないし、そんな人間には絶対に渡したくない。

 だけど、ちょっと話した印象では、悪い人ではないのだろうとは思った。少なくとも、後輩にいきなり話しかけられて、あからさまに不機嫌になったりシカトしたりはしないようだ。

 数歩分後ろでは、茂木先輩と阿藤が話しているようだった。

「優子姉、大学合格してたんだ、おめでとう!」

「ありがとう。今年は早苗ちゃん達も頑張ってね」

 お互いに、たわいもない内容。少なくとも、バレンタインに男女が出かけてするような会話ではないだろう。

「よし、じゃあここらで別れるか」

 会話が一段落ついたところで、加藤先輩が大きく手を叩いた。

「俺と早苗ちゃん、茂木さんと、君は大田くんだっけ。このペアで問題ないよな」

 阿藤が何か文句を言おうとしたところで、茂木先輩が「問題ないわ」と手を挙げた。それに阿藤が気をとられている間に、僕も手を挙げる。

「問題ないですよ」

 必死に平然を装った。

 その瞬間の、阿藤の本当に唖然とした顔は、長い付き合いをしてきた中でも初めて見るものだった。



「よかったの? 私と一緒で」

 阿藤たちと別れると、茂木先輩は言った。

「早苗ちゃん、チョコ持ってるみたいだったけど、あれって幸喜くんのじゃないの?」

「ありえないですよ」

 苦笑してしまう。どんな三文小説であろうとも、それだけはありえない。

 だって、彼女があの袋を僕の前に見せてから数時間、中のモノを渡す機会なんていくらでもあったのだから。

「僕らは家から一緒に来てますから。もしそうなら、義理でもなんでも、家の前で渡しますよ」

「そっか。残念」

 茂木先輩は大して残念そうではない感じで言った。でも僕にはそっちの方が嬉しかった。ここで心配そうな顔をされると、それこそ惨めになる。

「じゃあ、私がチョコを買って来てあげようか」

「今からですか」

 思わず笑ってしまう。「なんなら一緒に買いに行く?」という先輩に「いやいやいや」と首を振った。

「本命なのに」

「この状況で本命を渡す人と一緒にチョコを買いに行こうなんて言う人、いませんよ」

 でも先輩の気遣いに少しだけ救われた気がした。 

「それより先輩、せっかく遊園地に来たんだから遊びましょう」

 多分、これは僕なりの強がりだ。それに気づいたのだろう。茂木先輩はふっと笑う。

「しょうがないなぁ。じゃあ今日でも空いてる、南極館にでも入ってみようか」

 このクソ寒い日に、先輩は僕を殺す気なのだろうか。



 バレンタインの遊園地はありえない程に混んでいて、並ぶのが嫌になった僕と先輩は、結局カフェテラスでのんびりすることにした。

「そもそもバレンタインに遊園地なんていうありきたりな選択が失敗だと思うの、私」

「提案したのは先輩ですけどね」

「幸喜くんってば冷たい。そんなんじゃ振られちゃうよ」

 冗談になっていない冗談だった。今の僕にはボディブローのようなジワジワさではなく、テンプル(こめかみ)のような一撃必殺である。

「そ、そういえば先輩。屋上で言ってた、大学の件は阿藤に伝えたんですか」

「言ってないよ。言ったら、降参宣言になっちゃうから」

「何がですか?」

 僕が訊くと、先輩は「ふふふ」と笑って誤魔化した。相変わらず謎な部分がある人だった。

 会話が途切れると、先輩はテーブルに肘をついて顎を乗せ、遠くを眺め始めた。人形のように整った顔立ちを際立たせるピンクのジャケットが、とても良く似合っている。他のテーブルの人や、テラス前の通行人も、必ず一瞬は目を奪われるくらいに。

 凛としたその姿は、僕らの知る「優子姉」そのものだった。

「……ねえ、幸喜くんは覚えてるかな。私の親が離婚した時のこと」

 僕が考えていた事を見破られたようで、ドキリとした。

 凛として美しい優子姉。僕らの知る「優子姉」が、一度だけ崩れた事があった。それが、彼女の両親が離婚した時。

「覚えてますよ」

 忘れられるわけがない。

 だってあの時、今よりも子どもだった僕らでさえ、人の繋がりとか、関係とか。言葉で表現できない何かは、一瞬で崩れ去ってしまうという事を知ったのだから。



 あれは、僕が中学二年生の頃だった。夏休みの中、僕と阿藤は「暑い暑い」と唸りながら、部屋の中でダラけていた。お互いの家が、「一人でいる時は扇風機で十分でしょう」という教育だったため、僕らは夏休みになると相手の部屋にお邪魔し合うことでクーラーを使用していたのだ。いつもはお昼前には優子姉も加わるのだが、その日はいつまで経っても現れなかった。

「電話してみたら?」

 という阿藤だったが、何か用事が出来たのだろうと言って、僕は漫画を読みふけっていた。別に約束をしていたわけじゃないし、阿藤が居る限りは堂々とクーラーを使用できるので、然したる問題はなかったから。阿藤もそれ以降は何も言わず、ひたすらに僕の宿題を写していた。

 今でも思い出す。あれは、午後三時をまわった頃だ。

 一階から母親に電話だよと呼ばれ、僕は重い腰を上げた。ついでに何か冷たい飲み物でも持っていってあげようと思いながら、電話を取った。受話器の向こうは優子姉で、

「ウチの親、離婚することになったの」

 たった一言。

「だから、もしかしたら、転校するかもしれない」

 たった一言毎に、世界が崩れていった。

 電話を耳にあてたまま何もできずに、いつの間にか電話は切れていて。

 阿藤が「帰りが遅い」と文句を言いに来るまで、ずっと僕は固まったままだった。



「結局、転校はしなかったけどね」

 あはは、と笑いながら先輩はスプーンでココアを混ぜている。

「あの時は、ビックリしましたよ」

 今でも鮮明に思い出す事が出来る、あの瞬間。

 季節は全然違うのに、もう何年か経つのに、言い表せないあの感情は、すぐに蘇ってくる。

「あの時の私はもう何が何だかグチャグチャでね。だってさ、いきなり家族が終わるって言われたんだもん。昨日まであった世界が終わるって言われて、信じられる?」

「いや、無理ですよ」

 先輩の家の離婚を知っている僕でも、ウチの両親が離婚する、なんていうのは正直想像できない。きっと、それは体験した人にしか分からない喪失感なのだと思う。

「これって現実なのかな、とか思っちゃった。だから幸喜くんに電話して、現実かどうか確かめちゃったの。今更だけどごめんね、利用したみたいになった」

 先輩は小さく頭を下げた。

「いえ。先輩でもそういう風になるんだって思って、安心しましたから」

「幸喜くんは一体私を何だと思ってるの」

 あはは、と笑う先輩。それを見ると、僕はそれだけで嬉しくなるのだ。だって、あの時の先輩は、あまりにも今とかけ離れてしまっていたから。

 家から、失踪するくらいに。

 


 カフェテラスを出て、比較的人の少なかったミラーハウスに入った僕らは、左右に広がる自分たちの姿を従えながら、ゆっくりと迷宮を歩いていた。

「多分ね、逃げだったんだと思う」

 横に並んだ先輩は笑ったまま、そう呟いた。

 失踪したあの日、先輩を見つけたのは僕だった。午後八時になっても帰らない先輩を心配したご両親から連絡があり、阿藤と手分けして先輩の行きそうなところを探したのだ。

 そして、住宅街と商店街を抜けたところ。小学校へ行く途中にある、架橋下。僕たちの昔の秘密基地で、体育座りをしている先輩を見つけた。

 その時、先輩は今までに見たことのない表情で、僕を見上げていたのだった。あの時の無気力な視線は、今でも忘れられない。

「別に、あの時は拗ねてたわけじゃないの。ただ単に、今まで積みあげてきたものとか、子どもの頃の両親が笑ってる姿とか、そういうのが一瞬で全部崩れちゃった気がして、それと同時に茂木優子っていう自分も居なくなった気がして、だから、昔遊んだ場所とかを見回ってた」

 それだけなのにね。と先輩は笑った。僕は恥ずかしくなって、俯いてしまう。

 あの時の僕は、先輩が拗ねているのだと思って、偉そうなことをたくさん言った。自分でも覚えてないけど、必死に色々な事を言ったのだ。

 過去は取り戻せないとか、僕と阿藤は裏切らないとか。

 身の丈に合わない事をしたと、今更になって後悔している。

「でも、それが凄く嬉しかった。ああ、本気で心配してくれたんだなって、私はちゃんとここに居るんだなって、思えた。あの時の言葉はね、いくつかしか頭に残っていないけど、それでも凄く嬉しかった事だけは覚えてる。あの時から、私はもう後悔を残さないように、全力で生きようと決めたの。そう思えることが出来た」

 ――だからね、

 先輩は続けた。俯いていた僕の顔を、細い指で包み上げて、

「私はあの時から、幸喜くんの事が異性として好きになったの」

 なんてことを、言い出した。



 阿藤早苗は、鏡の向こうの住人だ。

 決して触れあう事は出来ない存在。上下は一緒。左右は対象。

 そんなあべこべな、僕の反対を映し出す存在。こちらが口を開けば、向こうも口を開く。こちらが見ている限り、向こうも見てくれる。

 でもそれだけの事で、それ以上のものではない。

 ――だったらいっそのこと、諦めるのが筋なのだろうか。それが、当然の選択ではないのだろうか。

 いつだったか、阿藤は笑って僕に言った。

「同じ『あ行』なのに、絶対隣にはならないよね、私たち」

 あ行の「あ」に、あ行の「お」。同じあ行でも反対の位置にいる僕たち。事実、同じクラスになった最初の名前の順の席で、僕たちが隣合わせになることはなかった。

 それでも、僕は不満ではなかったはずだ。「同じあ行」という共通点が、嬉しかったから。

 家が近所だというだけの共通点で、ずっと一緒に居られた。だったら、同じ「あ行」という共通点があれば、もっと素敵になるかもしれない。

 あるいは、他にも共通点があれば、もっと仲良くなれるかもしれない。

 そんなバカバカしい事を、今でも思う。だって、それだけで嬉しくなるから。

 それくらいどうしようもなく、僕は彼女が好きになっていたのだ。

 いつだって阿藤早苗は明るくて、力強くて。

 僕とは違って、自分に正直で。

 そうだ。

 だから、鏡の向こうの存在だというのに、

 僕はいつも、いつも、何度でも―― 

 


「ごめん、先輩。ありがとう」

 顔を包んでいた茂木先輩の指を解く。先輩のさっきの言葉は、冗談なんかじゃなかった。だから、正直な気持ちで答えなければいけない。

「嬉しいけど、先輩の気持ちには答えられないよ」

 何故なら――

「僕は、阿藤早苗が好きだから」

 それは初めて、口に出す言葉だった。

 スウッと、つっかえていた何かが消えていくような、でも同時に胸の奥に何かが灯るような、不思議な感覚だった。

「準ミスを振るなんて良い度胸だ」 

 あははと先輩は笑って、僕の頭を撫でる。いつの間にか鏡の迷宮は出口付近のようだった。

 ここを出るともう、ここ数日の僕と茂木先輩の関係には戻れないのだろう。唐突に、そう、理解した。それはきっと、先輩も理解している事で。

 それでもこうして、僕の頭を撫でてくれるのだ。

「頑張ってね。優子姉は、いつだって幸喜くんの味方なんだから。私はいつまで経っても、二人と繋がっていたいんだから」

 親の離婚を経験した先輩は、人と人との理不尽な関係消滅を突きつけられた先輩は、それでも僕達との繋がりを守ってくれていたのだ。

「私は絶対に二人を裏切らない。二人との関係を壊さない。だから、幸喜くんも誓って。絶対もう、自分に辛い嘘は吐かないって。時間は一度失くしたら、取り戻すことはできない。そう私に説教した幸喜くんだからこそ、私が好きになった人だからこそ、誓って欲しいの。絶対に、行動しなかったことを後悔だけはしないんだって」

 僕たちと自分自身に、嘘を吐いてまで。

 そして最後には、正直になってまで、彼女は僕を気にかけていてくれたのだ。

 だからその想いに応えずに、ここで動かずに、大田幸喜は存在してはいけない。

 大田幸喜は、阿藤早苗の鏡なのだから。

 みっともなくても、格好悪くても、必ず彼女とは正面から向き合える存在でいなければいけないのだ。

 だってそうだろう?

 そうすれば、こちらが右手を伸ばす度、向こうは何度でも、左手を伸ばしてきてくれるのだから。



 ――僕がちょっとの決意をしたところで、小説のように物語は進んでくれないようだった。

 先輩と別れてから、一時間。

 遊園地内を探しても、阿藤の姿を見つけることは出来ないままだった。人ゴミの中で、焦りばかりが先行してしまう。

 そういえば幼馴染だと言うのに、僕は彼女が好きな遊園地の乗り物も知らない。

 多分ジェットコースターとかは好きだと思うけど、それも予想にしか過ぎないし、乗った後に次はどういう所に行きたがるのか。どういう場所で休むのか。

 考えれば考えるほど、分からない事がたくさん出てくる。鏡は、内面までは見る事が出来ないようだ。

「くそっ」

 悪態をついて、一休みすることにした。寒い空の下とはいえ、着込んだ服で走ると汗をかいてしまう。

 人ゴミからはずれた、アトラクションの少ない場所を探して、木陰に座る。時間がないわけではない。自分らしく、ゆっくりと考えて――。

 そして、最悪の展開が訪れたのだった。

「ここならいいだろう?」

 聞こえてきたのは、加藤先輩の声。草のブースを挟んだ向こう側。加藤先輩が背中をこっちに向けていて、その奥に向かい合っている阿藤の顔が見えた。僕は慌てて身を隠す。

 ……情けない。

 テレビドラマよろしく、走って二人の前に現れようとしていた僕は、まさかのデバガメのような状況に陥ってしまった。

「ここが何ですか?」

 阿藤は全然分かっていない様子で訊いた。僕はさっぱり状況が掴めないので、結局このままの状態を維持するしかない。

「いや、さっきから何か言いたそうだったから」

 余裕綽綽、と言った感じで加藤先輩が笑う。そして「その袋のこととか、関係あるのかなと思って」と続けた。

「……ええ、まあ。ありますよ、言いたい事」

 阿藤が答える。

 同時に、僕の胸にさっきの決意をぶち壊すくらいの、ズンと重い――

「オタの悪口言うの、やめてもらえませんか」

 突然自分の名前が出てきて、飛び上がりそうになった。

「大田くんの? 悪口なんて言ったかな」

 加藤先輩ですらも、ポカンとした声で言った。当然だ。確実に告白を期待していた流れだったのだから。本当に阿藤、君ってやつは……。

 そのマイペースっぷりに、思わず笑顔になってしまう。

 しかし、そんな僕と加藤先輩の思いとは裏腹に、あくまでも真面目な口調で阿藤は続けた。

「言いましたよ。暗いだとか、話しててもつまらないだとか、みずぼらしい格好だとか」

 ……。

「いや、でも事実だよ。俺はそう感じたんだから」

「事実でも、私の前で言って良い事と悪い事があるんですよ。あいつの悪口は、私の悪口でもあるんですから」

「意味が分からないな。早苗ちゃんと大田くんはただのご近所さんだろう」

「幼馴染です。ただのご近所さんじゃありません」

 ぴしゃりと彼女が言い放つと、少しの沈黙が訪れた。

 一体何で阿藤がそこまでムキになるのか。加藤先輩と同じく、僕ですら分からない。

「そりゃ、あいつは困るとすぐにオタオタするし、引っ込み思案で思ったこと中々言わないし、時々暗い事言うし、ネガティブシンキングですよ」

 ……。

「でも、あいつはあなたなんかが悪口を言っていいような人間じゃないんです」

「へえ、面白いこと言うじゃん」

 さすがに年下に好き勝手言われて、加藤先輩も苛立ったようだ。声の質が、威圧的になった。

 かと言って、阿藤もそれで引くような人物じゃない。不穏な空気があたりに漂う。

「俺にどうして欲しいわけ?」

「どうもしなくていいですよ。ただ、言いたい事があるなら言って欲しいと言ってきたから言っただけです。あ、それともう私には近づかないでください。あいつを悪く言う、嫌いな人に笑顔向けられるほど、できた人間じゃないですから」

 最後の言葉はよくなかった。

 明らかに加藤先輩の雰囲気が変わった。

「……この!」

 加藤先輩が動くと同時に、僕は背後のブースから飛び出る。後ろから羽交い絞めにして、数瞬だけでも構わないから、阿藤を逃がす時間を稼ぐのだ。

「なんだお前!」

「阿藤、逃げろ!」

 身体が大きくなくたって構わない。恰好悪くたって構わない。ボコボコにされたって、罵られたって、それでも阿藤早苗が好きだという気持ちは変わらない。

「オタ!?」

 彼女の驚いた声が聞こえて、

「っ、そのまま抑えてて!」

 ガサガサと、いう紙袋の音。

 そして瞬間後。

 体を突き抜ける衝撃が、

 僕たちを、

 襲った――。

「……ふぅ、スタンガン持ってきておいてよかった。超強力だから、しばらくはさっぱり意識戻らないからね、この強姦魔」

 どうやらあの紙袋の中身は護身用具だったらしい。僕が心配するまでもなかったということだ。

 でもさ、阿藤。相変わらず微妙に抜けてるけど、

「って、オタ? オター!?」

 電気は人を通じて、感電するからね……?



「あんまり、加藤先輩のいい噂を聞かなかったから」

 そう言って、阿藤は笑った。あの後、結局僕らは、加藤先輩が目を覚ますのを待って、気絶させたことを謝罪してから帰ることにした。

 加藤先輩は「こっちもカッとなったから」と言っていたが、あんなことをされたのだ。もう阿藤に近づく気はしないだろう。

 デートにスタンガンを持ってくる女。ちょっとした恐怖である。

 そのスタンガン少女はと言えば、僕の隣に並んで静かな住宅街を歩いている。

「というより、優子姉に言われて持って行ったんだけどね」

「え、優子姉が?」

「そう。この前、家に電話あってね。加藤くん顔はいいけど、三年の女子の間じゃ、あんまり性格の評判はよくないから警戒した方がいいよ、って。彼はすぐカッとなるから、私とは合わないんじゃないかって。どういう意味だか、さっぱり分からないけど」

「そういう意味だと思うよ」

 思わず僕は笑ってしまった。

 ということは、優子姉はあの袋の中身を知っていて、僕をからかっていたのだ。まったく、人が悪い。

「ってか、オタ、あれからずっと私と一緒に居たけど、優子姉のこと放っておいてよかったの? 後で怒られるかも」

「大丈夫だよ。あ、その事で一つ言っておかなくちゃいけないんだった」

「え……何?」

 ビクっと驚きながら阿藤は身構えた。思っていた以上に声が大きくなってしまったのだろうか。

「優子姉なんだけどさ、大学は地方に行くらしいんだ」

「あ、そう。そうなんだ、へぇ……。――って本当!?」

 納得してから驚くとは。彼女の新しい反応だった。

「うん。来月から行くらしいから、準備とかもあって、遊べるのは今日が最後だろうって」

 ――だから、けじめをつけておきたかったの、と優子姉は言っていたけど、その言葉までを伝える必要はないだろう。

「そっか」

 小さく阿藤は頷いた。子どもの頃の憧れだったお姉さん的存在が居なくなるという事実。彼女は一体、何を思っただろう。

 それから会話は途切れて、二人で空を眺めながら歩いた。

 街頭の隙間から見える星と、冬の匂い。こんな風景を二人で歩くのは初めてかもしれない。

 長い間一緒にいたけど、まだ知らない二人の風景は、たくさんあるのだろうと思う。

「ま、どこに行っても一緒だよね。優子姉は優子姉だし」

 ふと彼女が呟いた言葉が、とても嬉しかった。

 僕と優子姉だけの思い出もあれば、彼女と優子姉だけの思い出もあるのだろう。

 それでも同じように、繋がった関係でいたいと思える。

 それが、嬉しい。

「僕、優子姉に告白されたよ」

「そっか」

「驚かないの?」

「人が人を好きになるのに理由なんかいらないじゃない。優子姉はあんたの事が好きになった。それだけでしょう? 誰が誰を好きになっても驚かないわ」

「どう答えたかとか、気にならないの?」

「さっぱり興味ないし」

 阿藤はニヤリと笑うと、僕の手を掴んだ。

「先手必勝とは限らないのさっ」

 誇らしげに宣言し、そのまま僕を引っ張って走る。

 僕の左手と、阿藤の右手。

 繋がった掌。

「あんたの考えなんてお見通しだからさ。だから、そんな思いつめた顔しないで、気楽にさっぱりと、言いたい事言えばいいよ」

 ――私達は、鏡なんだから。

 走りながら彼女は言った。だから、僕も笑う。

「僕、阿藤の事、好きだよ!」

 バレンタインの日。

 男の僕から女の君へ。

 そのあべこべさは、鏡映りのような僕らには、ちょうどいい演出で。

「私もだよ、オタ!」

 君は、ニカリと笑った。



エピローグ



 本日、三月十四日。ホワイトデー。

「いや、頑張ったんだけどね」

 早苗は苦笑いしながら、僕を台所へと招待した。

 そもそも料理が得意ではないのに、「来年は受験だし今年でいいか」という理由で急遽手作りチョコにしようと思ったのが仇となり、今日になってようやくバレンタインチョコを渡せるということだった。四週間遅れでチョコを貰えるようになった僕である。もちろん、義理ではなく本命だ。

 付き合ってから一ヶ月が経つけど、僕も早苗も相変わらずな付き合いを続けている。彼女のこういう、ちょっと抜けたところが可愛いとも思う。

「実はさ、私、告白するならずっとこれでしようと思ってたの」

 先に告白させちゃったけどさ。と続けて、彼女はテーブルの真ん中に置いてあるケーキ箱に手をかけた。

「刮目せよ!」

 やけに気合いの入った掛け声の後に現れたのは、少しだけ不格好なチョコケーキだ。小さいのに、所々のチョコ色がまばらなのが分かったりする。

「そこは見なくていいし。相変わらず細かいんだから」

「細かいかなぁ」

 誰でも気になると思うけど。そう思いながらも、彼女の指しているケーキの天井部分へと視線を移すため、近づいて行く。

 ――そして、衝撃。

「これ」

 僕は声を失った。

 あぁ……こんな、こんな……。

「どう? 私は小学生の頃、オタから学んだ時に気づいたんだけど。っていうか、実はオタのあだ名も、ここから来てるからね。いやー、ようやくネタばらしできたわ」

 何気ない会話だと思っていた。

 ただの、冗談半分だと思っていたのに。

 ――彼女は、ずっと、僕に。

「私たちには、ぴったりでしょ?」

「うん。最高の、繋がりだよ……」

 ケーキの天井、白い文字。


 OTA×ATO

 大田と阿藤。


 鏡映りの僕たちが、そこに居た。


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