第九話 「お世話になります」
「う、ううん……」
横になったまま、寝ぼけたように目を擦る赤髪の女を前にして、ごくりと ミズキは生唾を飲み込んだ。
目が合った女は尋ねる。
「……誰……?」
(はーい! 七海でーす……って冗談言ってる場合じゃねえっ! コイツまだ寝ぼけてやがるぞ……ど、どうすんだよぉ……)
ミズキはとりあえずニコッと微笑んでみた。完全に引きつっているが。
すると――
「ん?」
と首を傾げた女の瞳が段々と大きくなっていく。表情がまるでおぞましいものでも見た時のように硬直し、そして小刻みに震え出す。
「あ……あ……あ……!?」と女。
「え……え……え……」とミズキ。
「あんた、ここで何してんねん……!?」
「それは……こっちの台詞だよ!」
そのまま、
「大体ここは――」
と身体を女の方に向けようとした時――
「動くな! 動いたら今すぐ警察呼ぶで!」
と真横にいる女に牽制され、身動きが出来なくなる。
「おい……お前なんか勘違いしてるぞ」
「うっさい! この変質者! 世の中にこんな汚い男がおるとは思わんかったわ!」
女は震える声でそう言うと、素早く足元の掛け布団に手を伸ばした――
――が、またも何かを見て震えだす。
「あ……あ……」
「ど、どうした?」
ミズキは女の視線を追おうと――
「グハッ!」
――した瞬間、ベッドから勢いよく蹴りだされた。
「痛ぇーー、お前! 何すんだよっ!」
「…………何で」
「はぁ? 何でじゃねーだろ! 大体ここは俺の家――」
「――何でウチ、下着なん?」
「……え?」
ベッドの上と下で重なり合う視線。
「答えて」
「いや……それは……僕にも理解できないと謎といいますか。もはやミステリの領域で……」
ピピピ。
「おい……お前、こんな朝早くにどこに電話掛けてんだ?」
「もしもし警察ですか? たった今変質者に襲われそうです。てゆーかもう襲われた後かもしれませんが、助けて下さい」
「@#▲□◇@!」
ミズキは、理解不能な奇声を上げながら飛び起きた。尚も警察に詳しい話を展開しようとする(おそらく住所など)女に、懇願するように声を投げる。
「な、なあ、とりあえず落ち着こう……話をしてからでもいいんじゃないか? ……警察は」
「……黙れ、犯罪者」
ミズキはもう犯罪者扱いのようだ。
「くそっ」
そう言ってミズキは、立ち上がり一瞬の隙を突いて女の手から携帯電話を奪い取る。画面を見ると『110』となっている。
本当に繋がっている……。
すぐさま通話終了ボタンを押した。多少強引なやり方だが仕方がない。このまま本当に警察が家に来てしまってはたまらない。
全く覚えていない上、潔白を証明するにはどうみても不利な状況すぎる。
「何すんのよ! 変態! 強姦魔!」
「強引に携帯取ったのは悪かったよ……でもマジで掛けんなよな! まだ状況がはっきりしてないだろ」
そう言いながらミズキは携帯を返す。女は素早くミズキの手から取ると、細めた目を鋭くさせる。
「じゃあこの状況どう説明すんのよ! 私なんで下着なのよ! どうしてアンタがここにいるのよ!」
「いや……だから、ここ俺ん家だから」
「は……?」
そう言って女は目を丸くする。キョロキョロと辺りを見回した後、唖然としたまま動かない。どうやら今気付いたようだ。
「……ホントだ」
「ホントだじゃねえよ! もうちょっとで警察が来るところだったんだぞ、俺ん家に!」
「し、仕方ないやろっ! でも、ウチのこの下着はどう説明すんのよ!」
「知らねえよ! お前が勝手に脱いだんじゃねえのか? だって俺はこの通り、ズボン履いてるぞ!」
「汚いもの見せんといてよ!」
「ズボン履いてるつーのっ!」
どちらも一歩も引かない、エゴとエゴのシーソーゲーム。
懐かしいあの歌が聴こえてきそうだ。
「大体……何も覚えてねえのかよ?」
「……う、うん。そっちは?」
「あの店で、ビールを頼んだところまでは覚えてるんだが……そっからはどうやっても思い出せない」
「最低やな」
「お前も忘れてんだろ! しかも、お前が俺ん家に来てんだぞ!」
「どうせ、酔ってるウチをしつこく口説いたんやろ?」
「イヤイヤイヤ! はっきり言わせてもらうが……俺はてっきりお団子ちゃんをお持ち帰りしたとばかり思っていましたぁ」
「ふん、咲はちゃんと彼氏おるし。アンタみたいな手抜きジョッキーなんかに引っかかる訳ないやろ」
(お前はどうなんだよ……!)とミズキは問いたかった。
「……つーかお前、全然印象違うな。関西弁だし」
「ああ……ウチ北海道から帰ってきたばっかりやねん。だから飲み会の時はまだ言葉が戻ってなかったのぉ。って、何でこんな事あんたなんかに……」
ぶすっとした表情のまま、女は時計を見る。
「やばっ! もうこんな時間やん!」
「まだ朝の4時だぞ」
「うっさいなぁ! ウチ急ぐから今日の事は後でじっくりな。なんやったら知り合いの弁護士の先生連れてくるかもやけど」
「……とりあえず二人でお願いします」
「……じゃあ、服着るから……向こう向いとって」
「お、おう」
慌ててミズキは反対側を向く。
「こっち見たら殺すで」
「見るか!」
ゴソゴソと服を着る音が聞こえてくる。
「……洗面所は?」
「あっち」
ミズキはそのままの体勢で洗面所を指差した。女はベッドから降りると洗面所に入っていき、素早く用意をしているようだ。
看護師もこんな朝早くから仕事とは大変だな、とミズキは思う。
ミズキは台所に行き、冷蔵庫からコーヒーを取り出しカップに注いで飲む。もうすぐミズキも仕事に出る時間だ。
コーヒーを飲み出してすぐ、用意が出来たのか女が洗面所から出てくる。
短い時間の割には、身だしなみもそれなりに整っていて、黙っていれば最初に見たクールなまだあどけない少女だ。
「もう行くのか?
」
玄関に座り込んで靴を履く、女の背後から声を掛けた。
すると靴を履き終わった女は、くるりとミズキの方へ向き一言。
「馴れ馴れしく声掛けんといてくれる? 彼氏でもないんやから」
そう言い残し、乱暴にドアを開けて出て行った。
「…………か、可愛くねぇぇぇぇぇぇーーーーーーーー!」
こんなナースは嫌だ、と怒りの拳を握るミズキであった。
★
「昨日は最っ高やったなー! 美穂ちゃん可愛いし、今度競馬場遊びに来てくれるってよ! それまでに俺の管理馬、きっちり調整せな!」
「……」
「どないしたミズキ? えらい機嫌悪いやん」
「お前が美穂ちゃんとヨロシクやってる間に、俺は最悪なことになってたんだよっ!」
「おいおい! まだ美穂ちゃんとはそんな中じゃ~」
「マジで答えんなよっ!」
ミズキと龍之介は、早朝の栗東トレセンを自厩舎まで歩いていた。
「今日はなんか緊急ミーティングあるらしいで」
「なんか昨日言ってたな。新人がくるとか」
「ふふふ、この俺が厳しく鍛えてやろう」
「すぐに辞めさせんなよ……」
そんなことを話しながら自厩舎に着くと、厩舎の一員が既に事務所の前に輪を作って集まっていた。その中でステッキを持ったリーゼントの強面の男がミズキ達を見ている。ミズキと龍之介は小走りで向かい声を掛けた。
「おはようございます。譲さん」
「おう、ミズキ。龍之介も一緒か」
龍之介が遅れて挨拶をしているこの男は、一ノ瀬譲。
その男らしいリーゼントがトレードマークの15年目の中堅ジョッキーで、一ノ瀬厩舎の専属騎手である。ミズキの兄弟子でもある彼は、一見強面だが面倒見が良く後輩達に慕われている、正に兄貴肌の男なのだ。
「お前ら、昨日女の子と飲みに行っとったやろ?」
「ゲッ! どうしてそれを……」
龍之介が青ざめた表情になる。
「俺はなんでも知っとるんや、龍之介。お前、あんだけ夢中になっとったリエちゃん放ったらかして次の子か? 若いってええな~」
途端、龍之介が震え出し、
「……リエちゃん……何で音信不通になってしもたんやぁーーーー!」
とその場にうずくまって泣き出す始末。
「あれ? フラレたんやっけ? すまんすまん」
「譲さん……それ俺でも禁句にしてた位のやつですよ」
「わははは! 青春やのー。ほんでミズキ、お前はどうやねん? 昨日ええ子おったか?」
「い、いるわけないでしょー! 最悪っすよー」
「ほんまかー? 隠し事してたら許さへんぞー。まあ、お前はずっと泉ちゃんばっかやもんな~。叶わぬ恋、全く切ない話やで~。俺が歌作ったろか?」
「結構です……」
「なんや~おもんないな~」
兄弟子のがっかりした様子を、苦笑して流すミズキ。兄弟子は何かと泉との恋歌をマイギター(フライングV)で作りたがるのだ。そのうち泉に無断で発表しないかとビクビクしている。
その時、事務所のドアが開いた。
中から出てきたのは、異様な雰囲気を纏った眼光鋭い白髪の老人。
この男こそがミズキ達のボスである、一ノ瀬充調教師だ。
「おう、集まっとるみたいやな」
そう言うと調教師は、ゆっくりと兄弟子の横に佇んだ。さすが親子だ。二人が並ぶと何かこう言い表せない威圧感がある。
そう、充と譲は血の繋がった親子なのである。
その調教師が低いトーンで続けた。
「既にみんな聞いとるとは思うけど、今日はみんなに新しい仲間を紹介する。……おい、入ってきなさい」
そう言うと事務所から、人が出てくる。
「……お、女の子やん。ん……あれ? あの子……ミズキ!」
横にいる龍之介が、小声で囁きながら肘でミズキを突っつく。
ミズキは目を見開いたまま、唖然としていた。
こんがり焼けた小麦色の肌。短く整えられた赤い髪。どこで着替えたのか真新しいブルーのTシャツの胸元には見覚えのある蹄――
女は調教師の横に立つと、大きな声で挨拶をする。
「今日からお世話になります、一ノ瀬未来と言います!」