第七話 「おいおい」
ミズキはスタートしてすぐ馬群の後方にアイラブユーをわざと下げた。
時折、前に行きたがるそぶりを見せるアイラブユーを落ち着かせながら馬の耳元に声を投げる。
「おいおい、そんな風にハナっからパワー使うから、いつも最後しぼんじゃうんだよ。深呼吸でもして、余裕見せてなって」
ミズキの言葉に愛馬は、フンフンと鼻息を鳴らしながら走る。
――こりゃあ、言われてたとおりの馬だな。
ミズキはレース前に、担当の厩務員からこんな話を聞いていた。
この馬は、とにかく興奮して前に行きたがる。能力はあるんだが……前走ではひっかかって前に行き、そこから先頭争いを繰り広げてしまいバテてしまったと。
ミズキは厩務員から聞いたそこまでの話で、今回はすぐ前に馬を置き、後方から我慢させる競馬をさせようと思った。勝ち負けは今度でいい。とにかくこの馬が成長してくれれば、そう思いながら。
しかしながらその後、中羽社長のあの告白話を聞かされ、勝ちにいかなくちゃならなくなってしまった。
――そして昨日のインタビューでの挑発に続き、レース前、待合室での優のあの発言。
興奮して口を割る馬の手綱をガッチリと押さえ込みながら、そんなことを思い返していた。
二コーナーを曲がったところでようやく馬が落ち着いた。パンパンに乳酸菌の溜まった両腕を感じながら、ミズキは筋力トレーニングを最近怠っていたことを反省した。明日から、腕立て300回だ。いや……明日は合コン……。いや、今はそんなことを考えてる場合じゃない。
さてどうするか。
どうやら、先頭集団は我慢できなかった若い馬たちのデッドヒートが繰り広げられており、乱ペースが起こりつつあるようだった。こりゃあ、チャンスかも知れないとミズキは思いながらぐっと脚を溜める。
三コーナーに入った時、周りの馬が続々とペースを上げだした。つられて行きたがる愛馬をミズキはグッと辛抱させた。後ろからでも直ぐに分かる同期達の背中を確認しながらアイラブユーに声をかけた。
「まだだ。今動いてもあの二人の人気馬に負けちまうだけだ。あいつらはまだ焦っちゃいない。多分余力も残してるはずさ。いいか、お前は今日勝たなくちゃならないらしいぞ。オーナー様のご命令だ。だからジックリ溜めて溜めて……ゴールギリギリで逆転してやるのさ。最後にお姫様をかっさらうようにさ」
話が通じたのか、アイラブユーは耳をピンと立て、重心を低くしつつ三コーナーを器用に曲がっていく。
「意外に器用な奴だな、お前」
ミズキは口元に笑みを浮かべながらそう言うと、再び前方を見た。最後に交わすといっても、小倉競馬場は直線が短い小回りなコースだ。仕掛けが重要視される。つまり、狙いを定めなくてはいけない。後方から徐々に馬なりで進出しながら開けていく視界に、だんだんと同期二人の背中が近づいていく。
――その時だった。
「よし、行けっ!」
ミズキは、勢いよく手綱をしごき愛馬にゴーサインを出した。
四コーナー手前で確かに見えた、はっきりと見えたのだ。競馬学校時代からずっと見てきた彼女の透けたTシャツの後姿。そう、彼女が馬を追い出す時、グッと力が入ることで変形する背中のシルエットが。
内に切れ込んだ泉を見ながら、勢いよく四コーナーを重心をさらに低くして曲がっていくアイラブユーを外に持ち出した。ステッキを一発、二発気合を入れると、溜まっていた何かを発奮させるように前へと走るアイラブユーにミズキも思わずテンションが上がる。
直線――他の馬を次々と追い抜いて視界が変わっていく右斜め前方に、二人の馬を捉えた。よしよし、イケる。どんどん、どんどん二人の馬との差が縮まっていく。
残り200メートル。少しずつ前の二頭がガス欠を起こしてきつつあるようだ。まだアイラブユーは頑張れる。ヒーヒー言いながら一完歩、一完歩ずつ迫っている。先に垂れ始めた優の馬がすぐ隣に見えた。
優が驚いた顔でこちらを見た。残り150メートル。同じような顔で振り返る泉を見据えながら、ミズキは叫びながら大きくステッキを振りかぶった。
「にゃあーーーーー!」
ここ一の時に出てしまうミズキの癖、猫の鳴き声で叫んでしまうという癖が、今出たのだった。
アイラブユーは大きく鼻を鳴らしながら前へとつんのめる。
「なんと、なんとぉ! 外から一気に、アイラブユー! 交わしたぁ! ダイセンミューズを交わして前へ出る! 内ナンバーガール! 外アイラブユー! 残り100メートル!」
興奮するアナウンサーの絶叫。吠える観衆。
ミズキは遂に、すぐ目の前に泉を捉えた。
――ん? すぐ目の前?
ミズキは、違和感を感じながらそれでも馬を追った。かなり離れていたはずの泉の馬が目の前。内にいた泉。外に出したミズキ。真っ直ぐ走れば、すぐ目の前なんておかしくないか?
そうミズキが思った瞬間、厩務員が最後の方に言っていた言葉の切れ端を思い出した。
「後コイツ、直線に入ると、何故か右にヨレながら走るんだよなー」
おいおい。
しかし尚、ミズキのプレーに答えるようにアイラブユーの熱量は止まらない。泉との差はどんどん縮まるばかりだ。ミズキは思いをぶちまけるように追った。
――もういい! どうなろうと知ったことか。届け、届いてくれ!
ミズキの熱量も加わり、正に人馬一体となった二人。さらに一完歩縮まった時、ミズキは「よし!」と言いながら前を見る。
そしてすぐ目の前に飛び込んできたものを見て、唖然とした。
彼女の小さく引き締まったヒップが、目の前にあったのだ。
反射的に、思わず手が止まった。ミズキの脳が次に出した疑問。
残り――何メートル?
一度止めた時間は、なかなか元には戻らない。
「迫ってくる! アイラブユー! 内で粘るナンバーガール! どっちだ! どっちだ! しかし、しかし! クビ差届かず勝ったのはナンバーガール! 冬斗泉、JRA女性騎手として初の重賞制覇! ファンはこの日を待っていました。やったぞ泉ちゃん! 今、笑顔を浮かべガッツポーズを見せましたぁ!」
ミズキは、勝った泉の馬と併走しながら泉に向かって「オメデト」と口だけで言った。それを見た泉はゴーグルを取り嬉しそうに「アリガト」とこれまた口だけで返した。
「惜しい、二着か。一ノ瀬先生もこりゃあ喜ぶよ。次走もよろしく」
愛馬とミズキを迎えた厩務員は満足げに言った。ミズキも「ういっす」と一言だけ返した。そのまま検量室に行き、最終チェックを終え、室内にあるモニターで先程のレースのリプレイをぼんやりと見ながら、さっきの泉のヒップを思い出して髪の毛を乱暴に掻いた。
――思わず手が止まっちまったじゃねえかよ……泉。
そう心で思っていたはずなのに、それを見透かしたようにこの男が後ろから声を突き刺してくる。
「また、譲ったな」
振り返ると細めた目つきの優がいた。ミズキは思わず知らんぷりをして言う。
「何のことだよ」
「とぼけるな。最後、明らかに手抜いただろう」
「知らないね」
「お前……何も変わってないな、あの時から。だから僕はレース前、お前に釘を刺したんだ。『今日は真剣勝負しろ』って。それでもお前はあの時と同じようなことをするんだな」
「……」
「……ますますお前のことを軽蔑するよ。それで泉に華を持たしたつもりか? ……ふざけるな」
優はそう言い放ち検量室を出て行った。ミズキはふう、と溜息をつくと室内にある洗面所で顔を洗った。そして、再びモニターを覗くと勝利ジョッキーインタビューを受けている泉の姿が映った。嬉しそうに生き生きとした泉の笑顔を見ると心が和らいだ。すでに多くのファンがいる泉にインタビュアーは次々に質問を続け、それを上手に、嘘偽りなく答えていく泉を見て、思わずミズキも笑った。
「この勝利を一番喜んでいるのはどなたですか?」
そうインタビュアーが鼻を膨らましながら泉に尋ねた。少しドギマギした表情を見せた泉だったが、すぐにカラッとした笑みを浮かべ、
「そうですね……。家族と……同期のみんなだと思います。そうです。で、後同期で一人……だらしないのがいるので、その人には今日の分も頑張って欲しいです」と言い切り、インタビュアーが目を丸くしていた。
「ちょ、あの野郎……」
ミズキはモニターに愚痴を言うと、頭を掻きながら外へ出た。多くの騎手が関係者と会話している中、落胆している様子の中羽社長の姿を発見する。
……ヤバイ、今は合わせる顔がない。
ミズキは思わず踵を返し、人混みに紛れ込んだ。そして一度だけ振り返る。
――告白届かず、か。
そう思い馳せながらまた人混みに消えていく。
中羽社長は、何度も携帯の画面とにらめっこしながら、こうぼやくように呟いた。
「依寿美ちゃんに、なんて言えばいいんやぁ……」
小倉の空に白い飛行機雲が飛んでいた。