第二話 「美しい女」
ミズキがJRAの騎手としてデビューしたのは、18歳になってすぐの春だった。
デビュー当時、様々な話題性もあり、ミズキの世代は世間からも競馬関係者からも注目されていた。その中でもミズキは、持ち前の器用さを武器に与えられたチャンスを次々とモノにして、新人王タイトルに王手をかける所までいった。……そこまではよかったのだが、二年目からは持ち前の呑気さが災いしてか、あれよあれよとデビュー当時の話題はしぼんでいった。
デビューの年に上げた36勝という勝ち星は、自身の年間最高記録となって未だに更新されておらず、勝ち星は年々右肩下がり。当然、騎乗数、手に入れる賞金も減っていく始末。
しかし、ミズキはこんな騎手生活に特に不満は感じていなかった。元々金や名誉に無関心な性格で、常に勝負の世界に身を置いている立場にも関わらず、どこかそういうのにも興味が薄かったのだ。
彼は厩舎の専属騎手で毎月そこそこの給料を貰い、馬に関われることで満足だった。そんなサラリーマンのような平凡な騎手がスポットを当てられるほどこの世界は甘くないのだ。
ところが、二年目からもミズキの世代は更に話題性を増していった。
それはどういう事なのか。様々な話題性の一つ、それは……美しい女である。
「泉には会ってるのか?」
次の日の朝、調教に向かう際、不意に龍之介が言った。
「いや、あいつ生意気に札幌で重賞ばっかり(グレードが高いレース)乗ってやんの。その頃俺は、小倉で未勝利戦(未勝利の馬限定のレース)乗ってましたとさ」
ミズキは子供のように口を尖らせながらぼやいた。
「おまけに優は海外遠征とくりゃあ、どんどん同期の影が遠くなりますなあ」
「いいんだよ。あいつらはスター様なんだから、凡人はマイペースに働きますよ」
「そんなん言いながら、そのうち泉にゴマすっていい馬もらったりして」
「……ふむふむ、いい考えだな」
あほか、と龍之介はミズキのヘルメットを小突いた。
二人の仕事場である、ここ栗東トレーニングセンター通称『トレセン』
滋賀県栗東市にあるJRA日本中央競馬会の調教施設。ここに所属するサラブレッド達がその名のとおりトレーニングする場所である。ちなみにミズキは騎手、龍之介は厩務員として同じ一ノ瀬厩舎に所属している。いわば同じチームだ。
「噂をすればなんとやらや。朝から相変わらず美人やなあ、光っとるで」
龍之介がウッドチップの調教コースを指差しながら言った。
「昔はただの小せえ女だったのにな」
ミズキがその指の向こうを見ながら言う。
「そうか? 背は今とあんま変われへんやろ?」
「バーカ。胸だよ、胸。入学当初、ペッタンコだったんだぜアイツ。それが今や、それなりに女らしく見れるようになって……」
ミズキはその先を言おうとしてやめた。その視線の向こうから、大型の二歳馬に跨ったジョッキーがゆっくりとこちらに歩を進めてくる。ヘルメットから見える栗毛の長い髪の毛は一つに結ってある。サングラスを取ると、その美しく大きな瞳が現れた。
彼女の名前は、冬斗泉。
JRAに所属する女性ジョッキーだ。その美しさに、近くにいるミズキ以外の連中も心奪われるようにぼおっとなった。皆、調教の手を止めてまでだ。
「ミズキ、龍之介君、おはよう。なに? さっきから人のことジロジロ見て」
「おはようさん。そうそう泉、ミズキがな、お前のこと……大きなったなあとか言うとったで」
「おいコラ、てめえ」ミズキは少し焦りながら龍之介に言った。
「私? そんなに大きくなったかしら? んー、それは騎手としてってことかな? ミズキ君?」
泉はにこっと笑い、ミズキの方へピースマークを作った。
「……そうそう! 騎手として女として! 泉はどこまでもデカくなる! そしてその影で、同期のよしみが泣いている! ……という訳でここはひとつ、同期のよしみということで、君の数多いお手馬の一頭恵んでいただけないかしら?」
ミズキが両手をすり合わせながら言った。
「ほんとに言いやがった」と目を丸める龍之介。そんな二人のやり取りを静かに見ていた泉は、片手で胸を隠すポーズを取りながら言った。
「やだ。ミズキにはあげない。女の子の敵だから」
「ちょ! なんでそうなるんだよ! 俺はお前の騎手としての成長を見てだなあ……」
「なーにが騎手としての成長よ! 私、知ってるんだからね。ミズキと優ちゃんが騎手学校時代、私をイヤらしい目で見てたの」
「それは本当です」
龍之介がうんうんと頷く。
「泉の透けたTシャツの後ろが……とか言ってました」と続ける。
「スケベ」
泉の目が少女の蔑んだ目に変わる。ミズキは龍之介の脇腹に一発パンチを入れた。龍之介がぐふっと悶える。そして……弁解しようとした。
「いやいや、まあ……あの頃は、なんというか俺も優も、若かりし悶々とした頃だったし……青春をあんな牢獄の中で過ごした弊害といえばいいのかな……つまりなんというか……見る対象がお前しかいなかったんだよ!」
完全にその場が凍りつくのが分かった。
「……最低」
泉はムッとした顔で馬と共に後ろを振り返り、歩を進め出した。龍之介に「お前アホか」と小突かれながら、ミズキは泉の後ろ姿に声を投げた。
「優とは上手くいってるのか?」
泉はその声に歩を止め、静かに声を返した。
「順調よ……順調そのもの!」
そう言い残し、泉は走り去っていった。
「アホやなあ、お前。なんでまたそういうこと言うかなあ」
「泉のやつ。すぐ怒るもんな。昔から俺にだけ厳しいしよ」
「でも好きやった……せやろ?」
「……ふん、ペチャパイの頃の話だよ」
ミズキと泉と龍之介は十五歳の春、千葉県白井市にあるJRAの競馬学校で出会った。騎手になるため親元から離れ、全寮制の寮で暮らしながら、日々訓練を受けた。それはもう……厳しい訓練である。
「あの鬼教官のシゴキを忘れるには、嫌でも泉のペチャパイを浮かべるしかないわけ、分かるだろ? 龍之介」
「まあ分かるけどな。でも、優は本気やったで」
「アイツはいつでも本気。競馬一家の馬バカだったからなあ。人間は泉が初恋だったんだよ。ほら、もう調教行こうぜ。テキ(調教師)に怒られちまう」
「なんで譲った」
「何が?」
「お前の初恋」
「……俺は勝ち負けには興味ねえんだよ」
そう言ってミズキは、もういない泉の後ろ姿を振り返った。