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耳の聞こえない氷の王太子が、わたしにだけ指で「ありがとう」と言いました

作者: 八咫烏葵
掲載日:2026/11/04


「エリアーヌ。今夜の宴では君は笑っていればいい」


 王宮へ向かう馬車の中で、婚約者のフロランタン様は、白い手袋の指を一本ずつ引っぱりながら言った。


「隣国ヴェステルの王太子殿下を迎える宴だ。陛下も、宰相閣下もお出ましになる。僕は父上の代わりに、殿下に杯をお注ぎする役を仰せつかった」


 フロランタン様は、少し得意そうに顎を上げた。


「だから、君は余計なことを言わないこと。とくに、北の国の話はするな。君のおばあさまがヴェステルの出だなんて、知られたら、また田舎くさいと笑われる」


「……はい」


「にこにこして僕の隣に座っていればいい。君は笑った顔だけは悪くないんだから」


 だけは。


 わたしは膝の上で手袋をはめた両手を重ねた。


 右手の人差し指と中指を左の手のひらに、そっと二度当てた。


 誰にも見えないように。


 〈わかった〉。


 祖母に教わった、ヴェステルの指の言葉。返事をするときの、いちばん簡単な形。


 フロランタン様は、窓の外を見ていて、何も気づかなかった。


 気づいたことなど、一度もない。


 フロランタン様との婚約が決まったのは二年前だった。ラコスト侯爵家と、うちの伯爵家。父同士が狩り仲間だった。


 婚約してから、わたしは、フロランタン様と何度もお茶を飲んだ。話すのはいつもフロランタン様だった。侯爵家の馬のこと。宮廷の誰それの噂。自分が宰相閣下に名前を覚えてもらったこと。


 一度だけ、わたしから話をしたことがある。先月の、侯爵家の庭のお茶会で。


 ――祖母の生まれた北の国では、冬になると、川が凍って、子どもたちは橇で学校に通うそうです。


 侯爵夫人と、その友人の奥方たちが、扇の陰でくすりと笑った。


 ――まあ、橇で。ずいぶん、のどかな国ですこと。


 フロランタン様は、わたしの話の続きを待たずに、大きな声で笑った。


 ――エリアーヌのおばあさまは北の田舎の出でね。まあ、おかげでエリアーヌは、寒さには強いんですよ。


 また、笑い声が起きた。


 わたしは茶碗を持ったまま、笑った。笑うしかなかった。


 その夜、鏡の前で指を動かした。〈かなしい〉。鏡の中の指はやっぱり、誰にも返事をしなかった。




 祖母のヒルデは北の国ヴェステルの王宮で、若いころ、侍女をしていた。


 ヴェステルの王家には、古くから伝わる「指の言葉」がある。声を立てられない狩りの場や、密議の席で使われてきた、手と指の形だけで話す言葉。王家の人々と、そのそば近くに仕える者だけが習う。


 祖母は侍女をやめてこの国に嫁いだあとも、指の言葉を忘れなかった。


 ――エリアーヌ。これはおばあちゃんとあなただけの、秘密の言葉よ。


 小さいころ、祖母は、わたしの両手を取って一つずつ形を教えてくれた。


 〈おはよう〉。〈おいしい〉。〈あなたが好き〉。


 食卓で、大人たちが難しい話をしているあいだ、祖母とわたしは、テーブルの下でこっそり指で話した。〈このスープ、しょっぱい〉。〈おじいさまの髭に、パンくずがついてる〉。笑いをこらえて肩を震わせるわたしを見て、祖母も目だけで笑った。


 祖母が亡くなったのは三年前の冬だった。


 それからは指の言葉で話せる相手は誰もいなくなった。


 わたしはときどき、自分の部屋の鏡の前でひとりで指を動かした。忘れないように。〈おはよう〉。〈おいしい〉。〈さみしい〉。


 鏡の中の自分の指は誰にも返事をしなかった。




「それにしても、気が重い役だよ」


 王宮の門が見えてきたころ、フロランタン様が、ため息をついた。


「ヴェステルの王太子殿下は、耳が聞こえないそうだ。子どものころの熱病で。話しかけても、何も返ってこないらしい。だから、北の国では、氷の王太子と呼ばれているとか」


 わたしは窓の外の、王宮の灯りを見た。


「……お話は、なさらないのですか」


「お付きの老人が、殿下の手の動きを読んで言葉に直すらしい。手遊びみたいなものだろう。どうせ、たいしたことは言わないさ」


 手遊び。


 膝の上で、指先が、ぴくりと動いた。


 祖母の指を思い出した。しわだらけの、温かい指。〈あなたが好き〉と言うときの、ゆっくりとした、やさしい形。


 あれは手遊びではない。


 でも、わたしは何も言わなかった。


 笑っていればいい、と言われたから。




 王宮の大広間は北の国の色で飾られていた。


 壁に、深い緑と銀の布。ヴェステルの紋章の、雪をかぶった樅の木。卓の上には、北の国から運ばれた、白い陶器の燭台。


 ヴェステルの王太子、オスカル殿下は、陛下の右隣に座っていた。


 背の高い、二十代の半ばの人だった。淡い金の髪を短く整えて、灰色がかった青い目をしていた。白い礼服の胸に、銀の樅の木の徽章。


 殿下は一度も笑わなかった。


 陛下が杯を上げると、殿下も杯を上げた。宰相閣下が何か話しかけると、殿下は、隣に座った白髭の老人のほうを見た。老人は殿下の唇ではなく、殿下の膝の上の手を見ていた。


 殿下の指が短く動く。


 〈ありがたく、お受けする〉。


 老人がそれを声に直す。


「王太子殿下は、陛下のおもてなしに、心より感謝しておられます」


 わたしは卓のずっと端の席で息をのんだ。


 読める。


 三年ぶりに見る、指の言葉だった。祖母の形とは少しだけちがう。祖母の指は柔らかく丸かった。殿下の指はまっすぐで速い。でも同じ言葉だった。


 胸の奥がじんと熱くなった。


 ――おばあさま。いたわ。指の言葉で話す人が、ここに。


 わたしは膝の上で両手を握りしめた。そうしないと、指が勝手に動いてしまいそうだった。


 隣で、フロランタン様が、杯を手に立ち上がった。殿下に杯を注ぐ番だった。


 フロランタン様は、殿下の前で少し大げさに膝を折った。それから、殿下の杯に、葡萄酒を注いだ。


「我が国の、いちばんよい葡萄酒でございます、殿下。南の丘の、日当たりのよい畑の」


 フロランタン様は、殿下の目を見ずに、老師のほうを向いて言った。老師が殿下の手もとで指を小さく動かして伝えた。


 殿下の指が短く動いた。


 〈ありがとう。香りがいい〉。


 老師がそれを声に直した。でも、フロランタン様は、もう聞いていなかった。くるりと背を向けて、陛下のほうへ、何か話しかけていた。


 殿下の指が膝の上でもう一度だけ動いた。誰に向けたのでもなく。


 〈この者は私の目を見ない〉。


 わたしは卓の端で両手を握りしめた。


 老師はそれを声に直さなかった。殿下も、直してほしいとは言わなかった。


 殿下は杯をひと口飲んで静かに卓に置いた。




 事件が起きたのは、二つ目の料理が運ばれてきたときだった。


 殿下の隣の白髭の老人が、ふいに、胸を押さえて前のめりになった。


 杯が倒れて、葡萄酒が白い卓布に広がった。


「老師!」


 ヴェステルの随員たちが、駆け寄った。老人の額に手を当てた随員が、顔色を変えた。


「ひどい熱だ。……長旅の疲れが」


 老人は侍医たちに支えられて広間から運び出された。


 広間がざわめいた。


 殿下は席に座ったまま、運ばれていく老人の背中を見ていた。それから、膝の上の手をすばやく動かした。


 〈老師をすぐに医師に。私のことはいい〉。


 誰も読めなかった。


 ヴェステルの随員たちは、老人に付き添って広間を出ていった。残った随員は武官ばかりで、指の言葉を習っていないらしかった。殿下の手を見て、困ったように顔を見合わせている。


 陛下が殿下に何か話しかけた。殿下は陛下の唇をじっと見ていた。それから、手を動かした。


 〈申し訳ない。通訳が倒れた。だが宴を続けてほしい〉。


 陛下は殿下の手を見て困ったように眉を寄せた。宰相閣下が侍従に、ヴェステルの言葉がわかる者を探せと小声で命じた。でも、ヴェステルの話し言葉がわかる者はいても、指の言葉がわかる者はいない。


 広間に、気まずい沈黙が落ちた。


 殿下は手を膝の上で止めた。


 灰色がかった青い目が、広間を端から端までゆっくりと見回した。


 諦めた目だった。


 ――こういうことに、慣れている目だ。


 わたしの胸がぎゅっと痛んだ。




「……まいったな」


 隣で、フロランタン様が、杯を置いて、向かいの席の友人たちに小声で言った。


「通訳がいなけりゃ、ただの置き物だ。耳も聞こえない、口もきけない王太子に、どうやって杯を注げっていうんだ」


 友人たちがくすくすと笑った。


「指遊びでも、見物しておけばいいさ。どうせ何を言ってるのか、誰にも分からないんだから」


 わたしは凍りついた。


 フロランタン様の席は、殿下の席から、そう遠くない。


 殿下の目がこちらを見ていた。


 フロランタン様の、唇を。


 殿下の膝の上で、指が、ゆっくりと動いた。誰に見せるでもなく、自分ひとりにつぶやくように。


 〈聞こえないが唇は読める〉。


 それから、殿下は目を伏せた。指がもう一度だけ動いた。


 〈この国でも同じか〉。


 わたしの膝の上で、両手が、ふるえた。


 読める。全部、読める。


 この広間で、殿下の言葉がわかるのはわたしだけだ。


 立ち上がろうとした。


 手首をつかまれた。


「エリアーヌ。じっとしていろ」


 フロランタン様が、卓の下で、わたしの手首を強く握っていた。


「何をする気だ。笑っていればいいと言っただろう。北の国の田舎の手遊びなんか、人前でやってみろ。僕が恥をかく」


 指が手首に食いこんだ。


 わたしはフロランタン様を見た。


 それから、殿下を見た。


 殿下は目を伏せたまま、膝の上で手を静かに重ねていた。もう、何も言おうとしていなかった。


 ――祖母のテーブルの下の指。鏡の前の、誰にも返事をしない、わたしの指。


 わたしは息を吸った。


 フロランタン様の手をそっと、振りほどいた。


「……笑っていますわ、フロランタン様」


 わたしは微笑んで立ち上がった。


「ずっと、笑っていますから」




 広間じゅうの目がわたしに集まった。


 卓の端の、伯爵家の娘が、ひとり立ち上がった。何をする気だ、という目。


 足がふるえていた。


 わたしは殿下の席のほうを向いた。


 殿下はまだ、目を伏せていた。


 わたしは両手を胸の前に上げた。


 右手の指を三本そろえて、左の手の甲を軽く二度叩いた。


 〈殿下〉。


 呼びかけの形。祖母が食卓の下で、わたしを呼ぶときに使った形。


 殿下は気づかなかった。目を伏せていたから。


 わたしはもう一歩、前に出た。もう一度手を動かした。少しだけ大きく。


 〈殿下。こちらをご覧ください〉。


 殿下の肩がぴくりと動いた。


 ゆっくりと、顔が上がった。


 灰色がかった青い目が、広間の端に立つわたしの手を見た。


 目が大きく見開かれた。


 わたしは続けた。指が少しふるえてうまく形にならなかった。三年ぶりに、誰かに向けて動かす指。


 〈わたしの祖母は、ヴェステルの王宮で侍女をしておりました。祖母に、この言葉を習いました。上手ではありませんが、老師さまの代わりを務めさせていただけますか〉。


 殿下の手が膝の上で止まっていた。


 それから、殿下は立ち上がった。


 陛下の前で。広間じゅうの前で。椅子を引く音が静かな広間に、大きく響いた。


 殿下の手が動いた。速く、まっすぐに。


 〈頼む〉。


 それから、もう一度、ゆっくりと。


 〈ありがとう〉。


 わたしの目の奥が、熱くなった。


 ――おばあさま。返事が来たわ。




 わたしは陛下の許しを得て、殿下の隣の、老師の席に座った。


 そこから、宴の終わりまで、わたしは、殿下の指を声に直し続けた。


 殿下はよく話した。


 陛下が北の国の冬について尋ねると、殿下は、半年雪に閉ざされる王都の話をした。


 〈冬のあいだ、王都の子どもたちは、凍った川の上を橇で学校に通う。私も子どものころ、そうした。一度、橇ごと川の真ん中の穴に落ちて、父に三日、口をきいてもらえなかった〉。


 わたしが声に直すと、広間が、どっと笑った。


 陛下も声を上げて笑った。


「では、殿下と父君は、三日、手でもお話しにならなかったのか」


 殿下の指がすばやく動いた。口の端がほんの少しだけ上がった。


 〈父は指の言葉が、私より下手だ。三日で済んだのは、父のほうが先に音を上げたからだ〉。


 また、広間が笑いに包まれた。


 宰相閣下がヴェステルとの交易の話を切り出した。殿下は毛皮と、北の森の木材と、南のこの国の葡萄酒と小麦の話をした。数字を正確に、指で示した。わたしはそれを一つずつ、正確に声に直した。


 話しているうちに、わたしの指のふるえは止まっていた。


 殿下の指は速かった。でも、わたしが少しでも遅れると、ほんのわずかに、指の動きをゆるめてくれた。わたしが形をまちがえると、膝の上で、そっと正しい形を見せてくれた。


 途中で一度、殿下が、陛下たちには見えないように、卓の下で小さく指を動かした。


 〈あなたの指には、古い宮廷の訛りがある。祖母上は私の祖母に仕えていたのかもしれない〉。


 わたしも、卓の下で小さく返した。


 〈祖母は王妃さまの髪を結う役だったと、言っていました〉。


 殿下の目が少しだけ見開かれた。


 〈ヒルデか〉。


 わたしの心臓がどくん、と鳴った。


 〈……祖母の名前です〉。




 〈私の祖母がよく話していた。南の国へ嫁いでいった、指の言葉がいちばんきれいな侍女のことを〉。


 殿下の指が、卓の下で、もう一度だけ動いた。


 〈私の祖母は、ヒルデが嫁いでいった日に、窓から馬車が見えなくなるまで手を振っていたそうだ。指で、さようならと。何度も〉。


 わたしは、卓の下で、両手を握りしめた。


 祖母は、この国に来てから、北の国のことをあまり話さなかった。さみしいと言ったこともなかった。でも、ときどき、窓辺で北の空を見ながら、指を小さく動かしていた。


 あれは、誰かに、返事をしていたのかもしれない。


 〈祖母も、よく、北の空に向かって指を動かしていました〉。


 殿下は、しばらく、わたしの指を見ていた。それから、ほんの小さく、うなずいた。


 祖母はひとりで、この国に来たのではなかった。北の国の王宮で、祖母のことを覚えていてくれた人がいた。




 宴が終わりに近づいたころ、殿下の指が陛下に向かって動いた。


 〈陛下。一つ、申しあげておきたいことがある〉。


 わたしは声に直した。


「王太子殿下が、陛下に、一つ申しあげたいことがあると」


 陛下がうなずいた。


 殿下の指がゆっくりと動いた。


 わたしはその形を読んで指を止めた。


 声が出なかった。


 〈先ほど、あの若い方が、私のことを置き物と言った。指遊びを見物しておけ、と。私は耳は聞こえないが、唇は読める〉。


 殿下の目が卓の向こうの、フロランタン様を見ていた。


 フロランタン様は、殿下の視線に気づいて、杯を持ったまま、首をかしげた。何を言われているのか、分からないのだ。


 わたしは膝の上で手を握った。


 訳さずに、ごまかすこともできた。殿下は宴への感謝を述べられました、と言えばいい。誰にも分からない。


 でも、殿下の指はわたしを見ていた。


 〈訳してくれ。そのまま〉。


 わたしは息を吸った。


 フロランタン様を見た。


 二年間、婚約者だった人。笑っていればいい、と言った人。


「……王太子殿下は、こうおっしゃっています」


 わたしの声が静かな広間に響いた。


「先ほど、あちらの若い方が、殿下のことを置き物とおっしゃった。指遊びを見物しておけ、と。殿下は耳はお聞こえになりませんが、唇は読めます、と」


 広間が凍りついた。


 フロランタン様の手から、杯が滑り落ちた。葡萄酒が白い卓布に、赤く広がった。


 陛下の顔から、笑みが消えた。


 陛下はゆっくりと、フロランタン様のほうを向いた。


「……ラコスト侯爵家の、フロランタンだったな」


 フロランタン様は、真っ青になって立ち上がった。


「へ、陛下、それは、その、誤解で……」


「誤解か」


 陛下は殿下のほうを向いた。殿下の指が短く動いた。


 わたしは訳した。


「殿下は、唇の形は、まちがえない、と」


 陛下は長いあいだ、黙っていた。


 それから、侍従を呼んで短く命じた。


「ラコスト侯爵の嫡男を広間から下がらせよ。侯爵には、明日、私から話す」


 フロランタン様は、侍従に促されて広間を出ていった。一度だけ、わたしのほうを振り返った。何か言いたそうに口を開いて、閉じた。


 扉が閉まった。


 殿下の指が卓の下で小さく動いた。


 〈すまない。あなたの婚約者だったのだろう〉。


 わたしは卓の下で返した。


 〈はい。でももう、いいのです〉。


 それから、少しだけ迷ってもう一つ。


 〈祖母の言葉を手遊びと言った人ですから〉。


 殿下がわたしを見た。




 灰色がかった青い目の、目尻が、ほんのわずかに、やわらかくなった。




 その夜、屋敷に帰ると、父が、玄関で待っていた。


 宴の話はもう父の耳に入っていた。ラコスト侯爵家の嫡男が、陛下の前で下がらせられたこと。伯爵家の娘が北の国の王太子の言葉を訳したこと。


「エリアーヌ」


 父はわたしの肩に手を置いた。それから、何も言わずに、わたしを書斎に連れていった。


 書斎の古い衣装箱から、父は、灰色の毛織りの肩掛けを一枚取り出した。祖母の肩掛けだった。北の国から嫁いでくるときに、持ってきたもの。


「おまえのおばあさまが、亡くなる前に、私に預けた。いつか、エリアーヌが、指の言葉で誰かと話す日が来たら、渡してほしい、と」


 わたしは肩掛けを受け取った。


 樅の木の匂いがほんのかすかにした。


 肩掛けの端に、銀の糸で小さな刺繍がしてあった。指の形だった。右の人差し指と中指を左の手のひらに、二度。


 〈わかった〉。


 祖母がいちばん最初に教えてくれた形。


 わたしは肩掛けに顔をうずめて声を上げて泣いた。三年ぶりに、祖母に返事をもらった気がした。


 父が黙って、わたしの背中をさすってくれた。




 ラコスト侯爵家から、婚約を解く申し入れが届いたのは三日後だった。


 その三日のあいだに、王宮から、別の知らせが届いた。


 ヴェステルの老師は、熱は下がったものの、旅の疲れが深く、しばらくは寝台から起きられない。王太子殿下は半月の滞在のあいだ、伯爵令嬢エリアーヌに、通訳を務めてほしいと望んでおられる、と。


 次の日から、わたしは毎朝、王宮へ通った。


 会議の席で殿下の指を声に直した。殿下が交易の取り決めで、一歩も引かない人だと知った。数字に厳しく、相手の嘘を唇の動きで見抜く人だと知った。


 三日目の会議でこんなことがあった。


 この国の交易を預かる大臣の一人が、北の毛皮の値について話していた。殿下は大臣の唇をじっと見ていた。


 大臣が話の途中で、隣の書記官のほうに顔を向けて小声で何か言った。殿下の位置からは、見えるはずのない角度だった。


 殿下の指がすばやく動いた。


 〈今、あの者は、書記官に、北の連中は数に疎いから、少し高めに言っておけ、と言った。窓硝子に、唇が映っていた〉。


 わたしは息をのんだ。それから、声に直した。


 大臣の顔が真っ赤になった。宰相閣下がゆっくりと大臣のほうを向いた。


 会議のあと、宰相閣下が、わたしのところに来て小声で言った。


「伯爵令嬢。北の王太子殿下に、この国の恥をさらしたのは申し訳ない。……だが、あなたが訳してくれてよかった。ごまかさずに」


 殿下がうしろで指を小さく動かしていた。


 〈あなたはいつもそのまま訳す。それがいちばんありがたい〉。


 昼下がりには、王宮の庭を殿下と並んで歩いた。


 護衛の武官たちは、少し離れてついてきた。わたしと殿下は声を出さずに、指だけで話した。


 〈この国の薔薇は香りが強い〉。


 〈北の国には、薔薇は咲きませんか〉。


 〈咲く。だが夏のひと月だけだ。だから、北の人間は、薔薇を見つけると、必ず立ち止まる〉。


 殿下は薔薇の垣根の前で立ち止まった。それから、指で、わたしの知らない形を作った。


 〈これは?〉


 〈薔薇。……あなたの祖母上の時代にはまだなかった言葉だ。三十年前に私の母が作った〉。


 殿下はその形をゆっくりと三度、繰り返してくれた。わたしは真似をした。殿下がわたしの指の角度を自分の指でそっと直した。


 殿下の指先がわたしの指に触れた。


 温かかった。


 〈殿下は、どうして、氷の王太子と呼ばれているのですか〉


 ある日の午後、わたしは思いきって訊いた。


 殿下の指がしばらく止まった。


 〈七つで耳を失ってから、宮廷で、私に話しかける者が、いなくなった〉。


 殿下は噴水の水を見ていた。


 〈指の言葉を習っている者は、王家とその近くの者だけだ。大臣たちは私の前で、唇の読めない角度で私の噂をした。私が何を言っても、老師が訳すまでのあいだ、皆、退屈そうに待っていた。……だから、話すのをやめた〉。


 殿下の指がもう一度、動いた。


 〈話さない者は冷たく見える。そう呼ばれても、しかたがない〉。


 わたしの胸がぎゅっと痛んだ。


 鏡の前で、ひとりで指を動かしていた三年間を思い出した。誰にも返事をしない、わたしの指。


 殿下はもっと長く、もっと大勢の人の前でそれを続けてきたのだ。


 わたしは殿下の前に回ってまっすぐに殿下を見上げた。


 それから、指を動かした。ゆっくりと、大きく。


 〈わたしは退屈しません。殿下のお話は面白いです。橇の話も薔薇の話も。もっと、聞きたいです〉。


 殿下が目を見開いた。


 それから、初めて、声を立てずに笑った。肩が小さく揺れた。目尻に、皺が寄った。


 氷の王太子が笑っていた。


 殿下の帰国の前の晩、わたしは、自分の部屋の鏡の前に立っていた。


 祖母の灰色の肩掛けを肩にかけていた。


 明日、殿下は北の国へ帰る。半月、毎日、指で話した。会議で、庭で薔薇の垣根の前で。


 明日から、また、誰も返事をしない。


 わたしは鏡に向かって指を動かした。


 〈行かないで〉。


 鏡の中の指がふるえていた。


 言えるはずがない。わたしは伯爵家の娘で殿下は北の国の王太子だ。半月だけの通訳。明日の朝、北の門で、ご無事でと頭を下げて、それで終わり。


 〈行かないで〉。


 もう一度、形を作った。鏡の中で、涙が一粒、肩掛けの銀の刺繍の上に落ちた。


 わたしは指をほどいて、肩掛けを胸に抱いた。樅の木の匂いがほんのかすかにした。


 ――おばあさま。北の国は遠いわね。


 返事はなかった。窓の外で、初夏の夜風が、カーテンを揺らしていた。




 半月はあっという間に過ぎた。


 殿下が帰国する朝、王都の北の門の前に、ヴェステルの一行の馬車が並んでいた。老師はまだ青い顔をしていたけれど、自分の足で歩けるようになっていた。


 老師はわたしの前に来て深く頭を下げた。


「殿下の言葉を半月、守ってくださってありがとうございました」


 それから、老師は、少しだけ声を落とした。


「この半月、殿下は、毎晩、お部屋で、あなたの指の形をおさらいしておられましたよ。古い宮廷の訛りを懐かしそうに」


 わたしの顔が熱くなった。


 殿下が馬車の前でわたしを待っていた。


 白い旅装に、銀の樅の木の徽章。朝の光の中で淡い金の髪が光っていた。


 わたしは殿下の前に立った。


 何か言わなければ、と思った。でも、声も、指も出てこなかった。


 殿下の指が先に動いた。


 〈エリアーヌ〉。


 名前の形。指の言葉では名前を持つ人に、名前の形を贈る習わしがある。殿下がこの半月のあいだに、わたしのために作ってくれた形だった。右手の指で、小さく笑う口もとをなぞる形。


 〈あなたは半月のあいだ、ずっと笑っていた〉。


 殿下の指がゆっくりと続けた。


 〈あの夜、あの若い方の唇が、あなたに、笑っていればいいと言っていた。……あなたの笑顔は、置き物の笑顔ではなかった。私と話すとき、あなたは指でも笑っていた〉。


 わたしの目から、涙がこぼれた。


 殿下の指が止まった。


 それから、もう一度、動いた。一つずつ、ていねいに。


 〈ヴェステルの王宮には、私の言葉が分かる者が、ほとんどいない。私は毎朝、誰にも話しかけられずに目を覚ます〉。


 〈あなたの指で、毎朝、話しかけてほしい。私の国で。……私の妻として〉。


 北の門の前で風が吹いた。殿下の旅装の裾が、揺れた。


 わたしは涙をぬぐわなかった。


 かわりに、両手を胸の前に上げた。


 祖母に教わった、いちばん最初の形。テーブルの下で、何度も、何度も祖母と交わした形。


 〈あなたが好き〉。


 それから、声に出して言った。殿下が唇を読めるように、ゆっくりと。


「はい。毎朝、お話しします。指でも声でも」


 殿下はわたしの唇を見ていた。


 それから、わたしの両手を自分の両手で包んだ。


 大きな手だった。指の言葉を話す、まっすぐで速い指が、わたしの指をそっと握った。


 握られたまま、わたしは、殿下の手のひらの中で指を一本だけ動かした。


 〈ずっと〉。


 殿下の手のひらが、それを読んで、少しだけ、強く握り返した。


 北の門の脇で、父が、帽子を胸に当てて立っていた。


 殿下はわたしの手を離すと、父の前に進み出た。それから、指ではなく、声に出してゆっくりと言った。


「……むすめ、さんをください」


 七つで耳を失った人の、少しかすれた、たどたどしい声だった。何度も、何度も、ひとりで練習したのだと分かる声だった。


 父の目から、涙がこぼれた。父は帽子を握りしめたまま、何度もうなずいた。それから、殿下の前で、ぎこちなく右手を上げて、指を二本、左の手のひらに二度当てた。


 〈わかった〉。


 祖母が父にも教えていたのだ。




(完)


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胸に余韻が残る優しい文章とお話でした。
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