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静かな補助演算

 翌朝。


 何事もなかったかのように、日常は始まった。


 食堂には焼きたてのパンの香りが満ちている。

 厨房からは忙しなく動く音。

 窓から差す光は柔らかく、銀器が静かに輝いていた。


 母はいつも通り凛として座り、

 父は厳しい顔のまま、しかし視線だけは優しい。


 ――変わらない朝。


 けれど。


 レオンの中だけが、少し違っていた。


(昨日の……あれは、夢か?)


 思い出そうとすると、うまく掴めない。

 ただ、何かが“おかしかった”という感覚だけが残っている。



 朝食を終え、中庭へ出る。


 冷たい空気が頬を撫でた。


 昨日と同じ場所に、的が立っている。


 ナイフを握る。


 いつも通りに。


 何も考えずに――投げる。


 ――カン。


 中心。


「……」


 外す気がしなかった。


 理由は分からない。


 だが、そうなると“分かっていた”。


 もう一度。


 投げる。


 ほんの一瞬だけ。


 手を離す直前。


 わずかに角度を変えたくなる。


 なぜかは分からない。


 ただ、それが“正しい”気がした。


 従う。


 ――カン。


 中心。


(……なんや、これ)


 違和感。


 だが、不快ではない。


 むしろ――


 整っている。


 世界が、少しだけ分かりやすくなる。


 風の流れ。

 距離。

 手の感覚。


 すべてが、自然につながっていく。


 もう一度、投げる。


 外れない。


 当たり前のように、当たる。


 その時。


『補助完了』


 声がした。


 静かな声。


 高くも低くもない。


 ただ、そこにある。


 レオンの手が止まる。


「……誰だ」


 小さく呟く。


 返事はない。


 だが。


 視界の奥に、淡い線が走る。


 的へと続く一本の軌道。


 ほんの少しだけ角度を変えればいい。


 それだけで――


 当たる。


「……なんだよ、それ」


 気味が悪い。


 はずなのに。


 怖くない。


 むしろ、落ち着く。


 余計なものが削ぎ落とされていく。


 残るのは、“正しい動き”だけ。


 ナイフを投げる。


 ――カン。


 中心。


 息を吐く。


 心臓は、妙に静かだった。



 その日の午後。


 コン、コン、と控えめなノックが響いた。


「レオン様」


 扉の向こうから、柔らかな声。


「ルシエラ様がお見えです」


 指先が、わずかに止まる。


「……今行く」


 扉が開く。


 整えられた制服、静かな一礼。


 その向こうから――


「レオン!」


 明るい声が飛び込んできた。


 ルシエラだった。


 今日も風をまとったように軽やかだ。


「昨日、大丈夫だった?」


「うん」


「本当に?」


「ほんと」


 嘘ではない。


 頭痛は消えた。


 ただ――


 世界の見え方が、少し変わっただけだ。



 庭のテーブルで紅茶が注がれる。


 湯気が立ち上り、甘い香りが漂う。


「レオンって、たまに遠くを見るよね」


「え?」


「ここにいるのに、どこか別のところ見てるみたい」


 その瞬間。


 視界の端で、何かが揺れた。


 ほんのわずかな違和感。


 空気の歪み。


 目を向ければ分かる。


 でも。


 向けなくてもいいと、どこかで判断していた。


 危険ではない。


 問題ない。


 そう“分かる”。


 レオンは一瞬だけ視線を上げる。


 そして、紅茶へ戻した。


「今は、お茶の時間だ」


「え?」


「なんでもない」


 ルシエラは首を傾げるが、すぐに笑う。


 その笑顔を見ていると――


 さっきまでの“声”は、静かに消えた。


 監視は続いている。


 整理も続いている。


 だが。


 邪魔はしない。


 必要な時だけ、わずかに触れる。


 それはまだ、ただの“機能”。


 人格でも、友達でもない。


 ただ、演算する存在。



 夜。


 城は静まり返っていた。


 遠くで衛兵の足音が響き、

 風が石壁を撫でる音がかすかに聞こえる。


 レオンはベッドの中で、暗闇を見つめた。


「……いるのか?」


 沈黙。


 そして。


『存在しています』


 即答だった。


 揺らぎはない。


「……なんなんだよ、お前」


『整理補助機構』


「わかりやすく言え」


 ほんのわずかな間。


『……思考補助』


 言葉を選んだような、微かな遅れ。


「俺の中にいるのか?」


『はい』


「勝手に?」


『……必要であったため』


 必要。


 誰にとって。


 何のために。


 まだ分からない。


 だが――


 頭は静かだった。


「……邪魔はするなよ」


『干渉は最小限に抑制します』


「勝手に当てるのもやめろ」


『命中率が低下します』


「……それは困る」


 一瞬の沈黙。


『了解』


 淡々とした返答。


 感情はない。


 ただの機能。


 それでも。


 ほんの一瞬だけ。


 返答が、わずかに遅れた。


 その意味を、レオンはまだ知らない。


 この日から。


 静かな補助演算は、

 彼の人生に、そっと寄り添い始めていた。


――――――――――――


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