待遇の違い
路地を抜けると、視界が一気に開けた。
そこは、先ほどの静寂が嘘のような喧騒に包まれている。
石畳の大広場。中央には女神を模した巨大な噴水が涼しげな水音を立て、その周囲を埋め尽くすように露店がひしめき合っていた。
「へえ、結構賑わってるじゃないか。これなら物資の調達には困らなそうだな」
人混みを縫うように歩き出した。
どこからともなく漂ってくる、香ばしい匂い。
脂が炭火で焼け落ち、煙となって食欲を刺激する暴力的なまでの芳香。
その発生源を探して視線を巡らせると、一際人だかりができている屋台が目に入った。
「串焼き、か……」
じゅぅぅ、パチパチ。
小気味よい音と共に、巨大な肉塊が串に刺されて炙られている。
タレが塗られるたびに立ち昇る甘辛い香りが、イザヨイの鼻腔を容赦なく蹂躙した。
その瞬間である。
――グゥゥゥゥ
可愛らしい見た目とは裏腹に、低い重低音がイザヨイの腹部から響き渡った。
「っ……!?」
咄嗟に両手で平らな腹を押さえる。
顔が一気に沸騰したかのように熱くなるのを感じた。
(考えてみれば当然だ。転生してからというもの、状況確認や移動に追われ、何も口にしていないしな……)
ゲームでは気にする必要がなかった要素だ。
だが今は違う。胃袋が燃料を求めて悲鳴を上げているのだ。
(うわ、マジかよ。美少女アバターからこんな野太い腹の虫が鳴るとか、解釈違いもいいとこだろ……!)
周囲を見回す。
幸い、喧騒のおかげで誰にも聞かれていないようだ。
ホッと胸を撫で下ろしつつも、一度意識してしまうと空腹感は倍増する。
吸い寄せられるように、イザヨイの足は屋台へと向いていた。
「へいらっしゃい! 焼きたての『コカトリスの串焼き』だよ! 一本どうだい?」
威勢のいい声を張り上げていた店主の男が、イザヨイの姿を認めるなり動きを止めた。
煤けた屋台の前に舞い降りた天使の如き姿に、男のテンションは垂直に跳ね上がった。
「お、おおっ!? こりゃまたとんでもない美人さんだなおい! ウチの店に華が咲いたかと思ったぜ!」
「ふふ、お上手ですね。あまりにも良い匂いがしたもので、つい誘われてしまいました」
イザヨイは小首を傾げ、計算された角度で微笑みかける。
男は「ぐはっ」と胸を押さえ、大袈裟なリアクションでたじろいだ。
「へへっ、嬉しいこと言ってくれるじゃねえか! 嬢ちゃん、腹減ってんだろ? こいつは自信作だぜ、外はカリカリ、中は肉汁たっぷりだ!」
「美味しそう……。じゃあ、一本頂こうかな」
「あいよ! 一本銅貨五枚だ!」
男が手際よく串を一本手に取り、タレの入った壺に潜らせてから再び網の上に乗せる。
香ばしさが倍増し、イザヨイの喉がゴクリと鳴った。
財布を取り出そうとして――動きが止まる。
(……あれ? 財布?)
スカートのポケットを探る。ない。
腰のポーチを探る。ポーション、解毒草、予備のスクロール。ない。
冷や汗が背中を伝う。
脳内でシステムメニューを展開し、インベントリを確認する。
所持金:90,999,553G。
数字としてはカンスト寸前の大金持ちだ。
だが、そこには『G』という概念としての数値があるだけで、物理的な『硬貨』としてのアイテムは存在しなかった。
(嘘だろ……。ゲームじゃ自動引き落としだったから、硬貨なんて実装されてなかったのか……!?)
現実を突きつけられ、イザヨイの表情が凍りつく。
目の前では、最高の焼き加減になった肉串が湯気を立てている。
だが、それを手にするための対価がない。
まさか『エリクサー』で支払うわけにもいかないし、高レベル装備を質に入れるわけにもいかない。
「……あの、おじさん」
「ん? どうした嬢ちゃん、焼き加減の注文かい?」
「いえ、その……大変申し上げにくいのですが……」
イザヨイは困ったように眉を下げ、上目遣いで男を見つめた。
演技ではない。
空腹と無一文という絶望的な状況が生み出した、本心からの情けない表情だ。
「じ、実はお財布を……持ち合わせていなくて……」
「ああん? 財布を忘れちまったのか?」
「はい……。この世界の通貨を持っていなくて……ごめんなさい、買えそうにありません」
シュンと肩を落とし、踵を返そうとする。
背中で銀髪が寂しげに揺れた。
そのあまりにも儚げな後ろ姿に、店主の男気スイッチが激しく連打されたのは言うまでもない。
「ま、待ちなって!」
「え?」
「財布忘れたくらいでそんな悲しい顔すんじゃねえよ! 俺の肉が食いてぇって言ってくれたんだ、見過ごせるかっての!」
男は焼き上がったばかりの串を掴むと、カウンター越しにイザヨイへと突き出した。
「ほらよ! こいつはサービスだ! 嬢ちゃんみたいな可愛い子に腹ペコのまま歩かせちゃ、カルゼオンの男の名折れだからな!」
「えっ、でも……いいんですか? 商品なのに」
「いいってことよ! その代わり、美味そうに食ってくれればそれでいい! 俺ぁ客の笑顔が見たくて商売やってんだからな!」
男はニカッと白い歯を見せて笑う。
その笑顔には下心というよりも、純粋な親切心と、少しばかりの見栄が混じっていた。
イザヨイは瞬きを数回繰り返し、やがてパッと花が咲くような満面の笑みを浮かべた。
「ありがとうございます! 本当に、とっても嬉しいです!」
両手で串を受け取る。
熱々の肉の重みが手に伝わる。
イザヨイは躊躇いなく大きな口を開け、端の肉に齧り付いた。
ジュワッと溢れ出す肉汁。
濃厚なタレの甘みと、炭火の香ばしさ。
VRの味覚再現機能など足元にも及ばない、圧倒的な『リアル』の味が口いっぱいに広がる。
「んんっ~! おいしいっ! これ、最高です!」
「だろ!? ガハハ、いい食いっぷりだ!」
「おじさん、本当にありがとう! 絶対また来るね!」
口の端についたタレを指で拭いながら、イザヨイは再度お礼を言う。
その仕草の艶やかさと、無邪気な笑顔のギャップに、店主だけでなく周囲の客たちまでもが頬を緩ませていた。
「おうよ! 出世払いでいいから、また顔見せに来な!」
手を振る店主に見送られ、イザヨイは串焼きを片手に再び歩き出す。
もぐもぐと肉を咀嚼しながら、イザヨイの思考は冷静さを取り戻しつつあった。
(なるほどな……。これが『顔がいい』ってことの恩恵か)
かつての自分、つまり男だった頃ならあり得ない展開だ。
むさ苦しい男が「金がない」と言えば、間違いなく塩を撒かれて追い返されていただろう。
だが、美少女の皮を被っているだけで、この待遇の違い。
店主の心理は手に取るように分かる。
可愛い子にいい格好をしたい。
頼られたい。
笑顔が見たい。
それはかつてイザヨイ自身が、ゲーム内で初心者の女性プレイヤーに装備を貢いでいた心理と全く同じだった。
(チョロいとか馬鹿にはできないな。男ってのはそういう生き物だ。俺が一番よく知ってる)
口の中に残る肉の余韻を楽しみながら、苦笑いを浮かべる。
だが、いつまでも他人の厚意に甘えているわけにはいかない。
空腹は満たされたが、無一文であるという現実は変わっていないのだ。
(さて、まずは宿代と飯代を稼がないとな。タダ飯ばかり食らってるわけにもいかないし)
串の最後の一切れを飲み込み、空になった棒を近くのゴミ箱へ投げ入れる。
エネルギーは充填された。
次は仕事の時間だ。
「よし、冒険者ギルドへ戻ろう。手っ取り早い依頼を探さないと」
イザヨイはスカートを翻し、来た道を戻り始めた。




