アイオライト
月曜日の朝は、いつも同じ匂いがする
書類を整理する音と、誰かが淹れたインスタントコーヒーの匂い
小浜はキーボードを叩きながら、胸の奥に沈んだものを探る癖があった
ーー本当は、漫画家になりたかった
高校時代、ノートの端に走らせた線が友人の笑い声を引き出したあの瞬間
締め切りに追われて目の下に隈を作りながらも「楽しい」と思えた美大時代
あれが自分の生の輪郭だったはずなのに、いつのまにか“安定”という透明な箱に、自分を押し込めてしまった
残業、会議、上司の機嫌、評価ーーどれも命を削るほどではない
けれど、じわじわと心を乾かす
乾いた心は、だんだんと絵を描く気力を奪っていった
ーーーーーーー
休日、コンビニへ行こうとして玄関を出た
財布とスマホだけをポケットに入れ、いつもの道を歩くーーはずだった
角を曲がった時、足が止まった
街の端にあるはずのない、小道がそこにあった
雑草が踏み固められ、雨で黒く濡れた土の匂いがする。見れば、木々が密集している
こんな場所が、近所にあっただろうか?
「………気のせい、だよな」
そう呟いたのに、体は逆らわなかった
だれかに背中を押されてるわけでもないのに、「こちらへ」と静かに引き寄せられていく
乾いた心がヒュッと音を立てた
森は、外の世界の音を食べる
車のエンジン音も、子どもの声も、森に入ってからスッと消えた
代わりに聞こえるのは、自分の靴底が枯葉を踏む音と、鼓動の重さだけ
どれくらい歩いただろうか。時間が薄まり、昼か夕方かもわからない
ただ、木漏れ日が冷たく降り注ぐ
やがて小浜は立ち止まった
ーー森の奥に、洋館があった
レンガと白い石の外壁。尖った屋根。窓は黒いガラスのようで中が見えない
立派なのにーー生活感も生命力もない。豪華な棺を思わせる静けさがそこにあった
「………ここどこだ?」
返事はない。だって森は音を食べるのだから
門もない。敷地を示す杭もない。ただ、洋館だけがそこに立っていた
近づくほどに、乾いた心が疼いた。まるで、心と洋館が共鳴してるかのようだった
ーー玄関前まで来た瞬間、扉がひとりでに開いた
蝶番の軋みすら聞こえない。闇が口を開けて小浜を迎え入れる
引き返すべきだ、と頭は思った
けれど、足は吸い込まれるように一歩を踏み出した
館の中は、外よりも温度が低い
柔らかな香の香りがする
広間の床は黒い光沢のある石が敷かれ、天井には蜘蛛の巣のようなシャンデリアが垂れていた
灯りはついていないのに、どこか薄明るい。影が、影のまま立っている
その奥の赤いカーテンの前に、彼女がいた
美しい金髪。肌は陶器の白。目は深い青で、覗き込めばこちらが沈みそうだった
笑っているのに温度がない。まるでよく出来た人形のようだった
「ようこそ」
声は優しいが、同時に冷たい響きも持っていた
「あなたの望みはなんでしょう?」
小浜は喉を鳴らした
その問いは、ただの質問ではなかった
心臓を掴まれたみたいに、呼吸が浅くなる
小浜は笑って誤魔化そうとしたが、口角が上がらない
「の、のぞみなんて……」
「言いなさい。嘘はここでは濁るだけよ」
濁る。ーー何が?
問い返す前に、胸の奥に沈めていた言葉が勝手に浮かび上がった
「漫画家に………なりたいんです」
吐き出した瞬間、胸が痛んだ
次に出たのは言い訳だった
「でも、現実があるし……。今の仕事だって悪くない。踏み出す勇気も、才能があるかもわからない。だから、ふんぎりがつかなくて……」
言いながら、小浜は自分の惨めさに気づく
夢を抱いたまま、夢を盾にして動かない
叶わない理由を集め、行動するのを避けていた
彼女ーー魔女は、唇の端を少し上げた
「ふんぎり、ね……」
彼女はそっと手を開いた
すると、どこからともなく宝石が現れて、そこに収まった
夜の始まりのような、青紫色
透明なのに、中心に影があるようにも見える
魔女はそれを差し出した
「それはアイオライト。“前進”を象徴する石よ」
小浜は受け取った。石はじんわりと冷たく、それなのに皮膚に熱が灯るような感覚がした
まるで、止まっていた血が流れ出すみたいに
「……………これで、漫画家になれるんですか」
「どうかしら」
魔女の笑みが深くなる
「ここからどうするかは、あなた次第ね」
その言い方が、やけに耳に残った
助けるとも、叶えるとも言わない。“あなた次第”
まるで、「見返りも代償も全て自分で選べ」と言われてる気がした
次の瞬間、視界が白く弾けた
ーーーーーーー
小浜は森の外に立っていた
アスファルトの道、遠くを走る車の音、コンビニの看板がいつもの場所にある
冷たい風が頰を撫でて、現実を突きつけた
「……夢………?」
しかし、手のひらに確かな硬さがあった
握りしめたままになっている青紫色の石が、薄い光を放つ
ーー夢ではない
夢ではないとわかった瞬間、怖さが来た
だが、それ以上に高揚感もあった。あの問いに答えてしまった以上、引き返せない気がした
「“前進”……」
小浜はつぶやき、歩き出した
その日から、決めた
まず、毎日どんなに疲れていても漫画を1ページ描く
線が歪んでてもいい、セリフが浮かばなくてもいい。とにかく1ページ手を動かす
そして、週に1回は投稿サイトにアップする
評価されるのも、無視されるのも怖い。でも、怖さは進んでいる証拠だ
仕事から帰り、シャワーを浴び、机に向かう
眠くても、描く。気分が乗らなくても、描く
アイオライトは机の隅に置いた。触らない日もあるが、目に入るだけで気持ちが引き締まる
ーーここからどうするかは、あなた次第ね
この言葉が、心に釘のように刺さっていた
甘い励ましではない、逃げ道を塞ぐ言葉
最初の数週間は苦しかった
描いても描いても、過去の自分の絵には届かない
会社の雑務に削られた時間の分、腕が鈍っている
焦りが増えれば、それだけ線も固くなる
それでも1ページは描いた。週1回は投稿した
コメントがゼロでも、アクセスが2桁でも
ある夜。投稿ボタンを押した直後、机に突っ伏した小浜は、ふとアイオライトに触れた
石はいつもの冷たさではなく、わずかな温もりを持っていた
気のせいかもしれない。でも、その温度が「続けろ」と言っているように感じた
ーー半年後
ある作品が、突然伸びた
SNSで切り抜かれ、拡散され、知らない誰かが「泣いた」と呟いた
数字が跳ね上がり、通知が止まらなくなる
現実感がないまま、編集者からメッセージが届いた
「書籍化をご相談できませんか?」
小浜はスマホを落としそうになり、両手で抱えた
呼吸ができない。胸が痛い。嬉しい。怖い
ーー夢が、現実になった
「や、やった……!」
声にした瞬間、魔女の言葉が頭をよぎった
ーーあなた次第ね
そうだ。石が描いてくれたわけじゃない
投稿したのも、描いたのも、自分だ
石は、ただ背中に触れただけだ。だからこそーーこの先も、全ては自分次第
小浜は努力を積み重ねた
連載が始まり、締め切りが命綱になり、胃が痛くなる夜も増えた
けれど、描いている自分は生きていた
仕事を辞める時、上司の顔は驚きと呆れと羨望を混ぜたようだった
小浜は頭を下げて、しっかりとした声で言った
「……ずっと、これがやりたかったんです」
気づけば、支えてくれる人が出来た
結婚して、子どもが生まれた
忙しさは増えたが、幸福も増えた
夕食のテーブルで笑う声、原稿を仕上げた夜の解放感、子どもが自分の本を抱いて寝る姿
そして、ある日
寝かしつけを終えて静かになったリビングで、小浜は妻と向かい合った
棚の上のガラスの器に、アイオライトを置いている
石は、相変わらず青紫色の光をふんわりと放っていた
小浜は言った
「このアイオライトは、この家の守り神だ。大事にしよう」
2人が決めた家訓は3つ
①石に頼るのは困った時だけ
②石の持ち主は家族会議で決める
③石に頼りすぎない事!
書き出してみると、まるで修行僧の戒律みたいだった
妻は肩を揺らして笑う
「随分ストイックね。もっとこう……スピリチュアルな家訓かと思ったわ」
「そうなんだけどな。でも、これをくれた魔女が言ってたんだ。“ここからどうするかはあなた次第ね”って」
それを聞き、妻は真剣な顔で考え込んだ
そんな妻を見つつ、小浜は小さな怖さを抱えていた
ーー石に“頼る”とは、なんだろう?
願う事?怠ける事?すがる事?それとも、代償を払う事?
答えはわからない
ただ1つわかるのは、あの洋館が今も誰かを迎える準備をしているのではという事だった
ーーここからどうするかは、あなた次第ね
その言葉は祝福にも呪いにも聞こえた
小浜はアイオライトに手を添えた
冷たいはずの石が、なぜか一瞬だけ温かくなった気がした
まるで、「頑張れよ」とでも言うように




