【第1章:英雄の転落】
【前哨戦:戦場に咲く名もなき花】
陽光が翳り、空が鈍色に染まる。風は焦げた鉄と血の匂いを含み、耳を裂くような断末魔が、大地を這うようにして響き渡っていた。鴉の影が空を舞い、死の前触れのように旋回している。
剣と剣がぶつかる音。槍の貫通音。鎧を砕く鈍い破砕音。そして、命が絶たれる瞬間の静寂――それらが、戦場という名の地獄を構成していた。
ヴェルド・クラウゼルは、戦場の最前線を駆け抜けていた。
漆黒の甲冑に身を包み、巨剣《嵐牙》を片手で振るうその姿は、まるで戦神の化身のようだった。
刃は風を裂き、肉を断ち、骨を粉砕するたびに、血しぶきが空を彩る。その姿に、味方の兵たちは勇気を得、敵兵は本能的な恐怖で足をすくませる。
だが――その瞳に宿るのは、怒りでも狂気でもなかった。ただ静かに、冷たく、そして深く沈殿した焦燥と疲労。そして、ひとつの祈り。
(早く……終われ)
彼はひとりの敵兵の喉を断ち切った。断末魔すら発せられぬまま、若き兵士は虚空を見上げて崩れ落ちる。
その顔には、どこかヴェルドと似た面影があった。まるで、自分のかつての姿が、何かを告げるかのように。
彼の剣が、重力に逆らって空を裂くたび、戦場は血の雨に染まり、熱と死の香りが辺りを満たしていく。咽るような焦げ臭さと血潮の匂いが、肺を焼き、記憶に刻まれていく。
瓦礫と死体が積み重なった丘を越えると、ひときわ小柄な兵士が膝をついていた。まだ十代の少年だ。鎧は破損し、肩口には折れた槍の穂先が突き刺さっていた。右腕は異常な方向に折れ曲がり、出血はすでに止まりかけていた。
ヴェルドが近づくと、少年は薄く開いた目で彼を見上げ、かすかな笑みを浮かべた。
「……おれ……役に立てましたか……団長」
その声はかすれていたが、確かに誇らしさと、希望が滲んでいた。戦場に咲いた、名もなき花の最期の輝きだった。
ヴェルドの心が、わずかに揺れた。この少年――剣の重さを持てず、盾の扱いすら覚束なかった訓練兵。だが、誰よりも仲間の命を守ろうとするその姿に、何度も心を動かされた者だった。
「ああ……お前は立派だった。お前の勇気が、多くの命を救った」
そう言って、ヴェルドは膝をつき、血に濡れた手で少年の肩を支えた。
少年の唇がわずかに動く。「……母さん……に……ありがとうって……」
そのまま、彼の瞳が静かに閉じられた。
ヴェルドは黙して頭を垂れた。
戦場には歓声も罵声も響いていた。だが、その一角には、誰にも踏み荒らされることのない、静謐な祈りの空間があった。
(なぜ……こんなにも、命は軽いのか)
ヴェルドはゆっくりと立ち上がると、最後にもう一度、少年の顔を見下ろした。
血に濡れた地面には、少年の盾が落ちていた。表面には、剣で削られた痕が幾筋も走っている。そのどれもが、仲間を庇った証だった。
ふと、その隣に、倒れていた別の若い兵士が這うようにして近づいてきた。
「……あいつが……おれを、守ってくれたんです……後ろから来た槍を、代わりに……っ」
その声は震え、血と涙で濁っていた。ヴェルドは無言で頷き、少年の亡骸をそっと横たえ、盾をその胸に乗せた。
まるで、戦いの中でもなお守ろうとしたものを、その手に残すかのように。
その瞬間、空から一枚の羽が舞い降りた。真白で、どこにも汚れのない羽根。それが、少年の額に触れたとき、ヴェルドはなぜかほんの僅かに肩の力を抜いた。
その羽根は、風に乗ってゆっくりと舞い上がり、まるで魂の一片を連れていくように空へと昇っていった。周囲の喧騒が、一瞬だけ遠ざかった。
空には雲の切れ間ができ、わずかに光が差し込んでいた。だがそれは奇跡ではなく、ただの偶然でしかない――それでも、ヴェルドには何かを許されたような錯覚があった。
「……すまない」
それが彼の口から出た、ただ一つの言葉だった。
誰も聞いてはいなかった。
だが、それは確かに、ヴェルドの深層から絞り出された、静かなる慟哭だった。
彼の背後、死に絶えた少年の手元から、一枚の布がはみ出していた。それは、粗末な布きれに刺繍された、家族の名前だった。『ユリエへ いつか帰るよ マーク』
ヴェルドはそっと布を拾い上げ、それを丁寧に畳み、自らの胸当ての隙間に差し込んだ。
ヴェルドはゆっくりと立ち上がると、最後にもう一度、少年の顔を見下ろした。
血に濡れた地面には、少年の盾が落ちていた。表面には、剣で削られた痕が幾筋も走っている。そのどれもが、仲間を庇った証だった。
ふと、その隣に、倒れていた別の若い兵士が這うようにして近づいてきた。
「……あいつが……おれを、守ってくれたんです……後ろから来た槍を、代わりに……っ」
その声は震え、血と涙で濁っていた。ヴェルドは無言で頷き、少年の亡骸をそっと横たえ、盾をその胸に乗せた。
まるで、戦いの中でもなお守ろうとしたものを、その手に残すかのように。
その瞬間、空から一枚の羽が舞い降りた。真白で、どこにも汚れのない羽根。それが、少年の額に触れたとき、ヴェルドはなぜかほんの僅かに肩の力を抜いた。
「……すまない」
それが彼の口から出た、ただ一つの言葉だった。
誰も聞いてはいなかった。
だが、それは確かに、ヴェルドの深層から絞り出された、静かなる慟哭だった。
背後で、突撃の号令が上がる。仲間の叫びが、空を割った。
ヴェルドは静かに立ち上がり、剣を握り直す。
誰のためでもない。ただ、これ以上命を落とさせないために――彼は、もう一度地獄へ踏み込んでいった。
【帰還の道:灰色の栄光】
戦場を離れた一行が王都ルメノアへと戻る道のりは、奇妙な静寂に包まれていた。
数千の兵たちが進軍するはずの列は、まるで葬送の行列のようだった。槍の石突が石畳を打つ音、甲冑が擦れ合う音、馬のいななきすら、どこか遠くで聞こえるように思えた。
ヴェルドは、列の先頭を黙々と進んでいた。視線は正面に向いているものの、心は深く沈んだ霧の中にあった。
右手には、まだ血痕の残る巨剣《嵐牙》。左胸の下には、布きれの温もり――あの少年の“家”の記憶が残っていた。
周囲の兵たちが、かすかな冗談や武勇譚を交わし始めていた。疲労の極致にありながらも、死から生還した安堵は、時に笑いを呼ぶ。それが人間の回復力であり、脆さでもある。
「なあ、見たか?ラセル副団長の馬、あれだけ派手に転んでも無傷だったんだぜ」
「馬の方が階級高いんじゃねえのかってな!」
乾いた笑いが広がり、数人の兵が肩を寄せ合って笑う。その輪の中にはラセルの姿もあり、わざとらしく眉をひそめて言った。
「馬の方が偉いだと?よし、次は貴様らを牽引用にするから覚悟しておけ」
兵たちが笑う中、ラセルはちらとヴェルドの背中を見た。その目には、ほんの一瞬だけ陰が差していた。彼にはわかっていた。あの背中が、どれほどの命を背負っているか。
街道沿いの森には、春先の花が咲いていた。だが、兵たちは誰一人としてその色彩に目を留めることはなかった。
ヴェルドの耳には、遠くで風が囁くような音がした。それは風ではなかった。
「……マーク……」
彼は名を呟いた。死んだ少年の名。誰にも聞かれぬよう、胸の内でだけ反響するその音に、ヴェルドの拳がわずかに震えた。
王都まではもうすぐだった。
祝祭の喧騒が待っていることも、彼の名が賞賛されることも知っている。
だが、彼が望んだのは――ただ、戦が終わることだけだった。
戦に勝ったのではない。ただ、生き残った。
その違いを、誰が理解しているだろう。
道の先に、王都の外門が姿を現した。高くそびえる石壁、陽光を受けて輝く金の紋章。門前には、王城から派遣された楽団と、華やかな衣をまとった歓迎使節団が待ち構えていた。
兵士たちがざわめく。凱旋の華やかさが、空虚に響く。
「……俺たち、本当に帰ってきたんだな」
誰かが呟いた。だが、その言葉は肯定でも歓喜でもなく、実感のない独白に近かった。
ヴェルドは馬を降り、しばし石畳に立ち尽くす。遠くでラッパが鳴り、群衆の歓声が上がるが、彼にはそれがまるで遠い異国の祭りのように聞こえた。
門の外、子どもを連れた老女が兵たちに頭を下げていた。
その目は微笑んでいたが、わずかに揺れた視線の奥に、誰かを探す気配があった。
――その“誰か”は、もう帰ってこない。
ヴェルドは視線を下ろし、馬の腹に手を添える。あの布のぬくもりが、まだ心臓のすぐ傍にあった。
死者の声は、勝者の耳には届かない。
だが、生き残った者の胸には、永遠に焼き付いて離れない。
その日、ヴェルドは凱旋の列に加わらなかった。
彼は静かに列から抜け出し、路地裏を歩いた。
目的地は、ただ一つ――戦場に立つことすら叶わなかった妹、シェリアが守る孤児院だった。
【邂逅:灯火の部屋で】
王都の中心部から外れた、風の通らぬ裏通り。
そこに建つ石造りの古い屋敷――もと貴族の館だった建物を改修したその施設が、ヴェルドの妹シェリアが営む孤児院だった。
夕暮れが街に影を落とすころ、ヴェルドは門扉の前で立ち止まり、小さく息を吐いた。鉄製の取手は冷たく、指にかすかに錆が付いた。
ギイ、と軋んだ音を立てて扉を開くと、かすかに煮込み料理の匂いが鼻をくすぐった。
かつて、実家で母が作っていた香りに似ていた――そう思った瞬間、足が止まった。
中庭では、数人の子どもたちが小さな布人形で遊んでいた。その中のひとりが彼の姿に気づき、大きな目を見開いた。
「黒い人が来たーっ!」
「ほんとだ!剣持ってるよ!」
「わーっ、すごい!」
歓声とともに、子どもたちが駆け寄ってきた。
ヴェルドは困惑したように身を固くしたが、子どもたちは遠慮なく彼のマントを引っ張ったり、鎧に触ったりしてはしゃいでいる。
「これ、本物の剣?」「中に人、入ってる?」「馬も黒いの?」
矢継ぎ早の質問に、ヴェルドは返答もできず立ち尽くしていた。
その様子を、扉の向こうから見つめていたのは、シェリアだった。
「……まったく。英雄様が、子どもに囲まれて固まってるなんてね」
ヴェルドが顔を上げると、そこには修道服をまとったシェリアの姿。
優しい目と、少し疲れた笑み。だが、そこには揺るぎない芯があった。
「……帰ったぞ」
「うん、おかえり。兄さん」
短い挨拶のあと、シェリアは子どもたちを促し、夕食の支度を手伝わせると言って奥へ引き取らせた。
彼女の背中を見ながら、ヴェルドはしばらくその場を動けなかった。
あたたかい光が、窓の内側から漏れていた。
戦場では見られなかった色彩だった。
それが、彼にとってどれほど遠いものに思えたか――。
夕食が終わると、ヴェルドは小さな応接室に通された。
暖炉には薪がくべられ、明かりは蝋燭ではなく魔石灯だったが、柔らかく揺れる光が部屋に落ち着きを与えていた。
テーブルに並べられたのは、薄いスープとパン、温野菜、そして粗末な陶器のカップ。
贅沢とは無縁の食事だったが、ヴェルドは無言で口をつけた。
「昔、母さんが作ってくれた匂いがして驚いたよ」
そう言うと、シェリアは苦笑した。
「レシピ帳、倉庫から出てきたの。ねえ、覚えてる? あの黄色い表紙」
ヴェルドは頷いた。「……雨の日に、兄妹で作った焼き菓子、焦がしたやつ」
二人は一瞬だけ、子どもだったころの自分たちを思い出し、笑った。
だが、その沈黙は長く続かなかった。
「……ねえ、兄さん。子どもたちの前で、剣は見せないでくれる?」
その言葉に、ヴェルドの手が止まった。
「彼らは、まだ知らなくていい。殺すための道具に、あこがれなんて持ってほしくないの」
剣を“栄誉”として持ち帰った兄と、命を“預かる”立場として暮らす妹。
同じ空の下で生きながら、見ている現実はあまりにも違っていた。
「……そうだな」
ヴェルドはそれ以上、何も言わなかった。
食後、シェリアは子どもたちを礼拝室へと連れて行った。
祈りの時間。子どもたちは誰に言われるでもなく、膝をついて目を閉じた。
ヴェルドもその隅に立っていた。祈るでもなく、ただ、その光景を眺めていた。
祈る意味を、彼は戦場に置いてきた。
だが、胸の奥にしまったあの布の重みだけが、今も鼓動と共に感じられた。
その夜、ヴェルドは旧主の書斎だった部屋を宛がわれた。
壁には、幼き日の彼が刻んだ落書きがそのまま残っていた。
『おれはつよくなる』
小さく、震えた筆跡。
その言葉を、彼は指先でなぞった。
「……なったよ、マーク」
誰に聞かせるでもなく、呟いた。
炎のゆらめきが、ヴェルドの影を、静かに揺らしていた。
【式典:冠と剣の広場にて】
翌朝、王都ルメノアの中心、王城前の広場は異様な熱気に包まれていた。黄金の装飾が施された檀上には、第一王子ダリオンと幾人かの貴族たちが並び、群衆の視線を一身に集めていた。
凱旋を祝う祭壇の周囲には花が敷き詰められ、鐘楼からは終戦を告げる高らかな鐘の音が鳴り響いていた。その音は祝福を意味するはずだったが、ヴェルドの耳にはなぜか、皮肉のように響いた。
人々の歓声、万歳の叫び、吹奏楽隊の高らかな旋律。だが、ヴェルドの足取りは重く、目に映る景色はどこか遠くにあるようだった。
壇上に立ったダリオンは、光を集める白銀の装束に身を包み、整った顔立ちに威厳を宿していた。その視線は民衆を見渡していたが、ふとヴェルドの方に目を向け、ほんの一瞬、口元を吊り上げた。
「この日を迎えることができたのは、戦場に命を賭した者たちの犠牲あってこそ。そして、我が王国が誇る英雄、ヴェルド・クラウゼルの剣による勝利である!」
その言葉に合わせて、群衆の間から嵐のような拍手と歓声が巻き起こる。名を呼ばれたヴェルドは、ゆっくりと壇上へと歩みを進めた。
だが、その足取りは戦場よりも重かった。
彼の前には金の祭壇と、剣を模した王国の勲章――『白獅子の紋章』が据えられていた。その脇には、王の代理としてダリオンが立っている。
「……我が名において、この栄誉を授けよう。王は病床にあり、代わってこの手で授与する」
ダリオンの手が勲章を掲げる。その瞬間、風が一陣吹いた。
ヴェルドの胸の布――少年マークの遺品が、わずかに揺れた。
壇上からは見えないが、彼の拳は強く握られていた。
(なぜ王は姿を見せない……なぜこの演説は、まるで用意されていたかのように滑らかだ)
その疑念が、ヴェルドの背中を静かに冷たく撫でた。
群衆の拍手、ダリオンの言葉、周囲の視線――すべてが舞台の演出に思えた。
この式典が始まるずっと前から、何かが仕組まれていたような気配。
そして壇上から一歩下がったそのとき、彼の視線が、広場の端に立つひとりの男を捉えた。
黒衣。深く被ったフード。だが、その立ち姿には見覚えがあった。
宰相ルドルフ――戦場で死んだはずの男。
その存在を確かに感じ取った瞬間、ヴェルドの世界はふたたび静寂に沈んだ。
まるで、冠が彼の頭上に忍び寄るように。
【謁見:黒衣の影】
式典の喧噪からわずか数刻後。ヴェルドは、王城内の謁見の間に通されていた。
高く広がる天井、赤絨毯の敷かれた石の床、白金で縁取られた柱の数々。だが、そこに“王”の姿はなかった。
代わりに現れたのは、第一王子ダリオン。そして彼の背後に並ぶ、厳めしい顔をした数名の老臣たち。
ヴェルドは一礼するが、誰の目も笑っていない。
「父王は療養中でな。残念ながら、この場には臨めぬ」
ダリオンはそう言ったが、その声はどこか芝居がかっていた。
ヴェルドは慎重に言葉を選びつつ尋ねた。
「ご容体はいかがですか」
「医師は『時間が必要だ』と申している」
そのやり取りを聞いていた老宰相格のひとりが、わざとらしく咳払いした。
場が緊張に包まれる中、謁見の間の扉がひとりでに軋んだ音を立てて開いた。
そこに現れたのは、黒衣の男。
深くフードをかぶっていたが、口元は確かに見えた。
ヴェルドの心臓が強く打った。
ルドルフ――死んだはずの宰相。かつて王の右腕として政務を担っていた賢人であり、ヴェルドにとっては幼少の頃から見知った存在。
その彼が、静かに進み出て、ダリオンの右側に立った。
「……ご無沙汰しております。ヴェルド殿」
低く、滑るような声。
その声を聞いた瞬間、ヴェルドの背筋を悪寒が走った。
「……ルドルフ様……本当に……」
ダリオンが口を挟むように言った。
「長らく隠棲しておられたが、父の危機にあたり再び宮廷へ戻っていただいたのだ」
その言葉はあまりにも自然で、まるでルドルフが“死んだ”などという事実がなかったかのように語られていた。
ヴェルドの目には、ルドルフの肌に不自然なほどの蒼白さと、瞳の奥に揺れる紅い光が映った。
これは、生者の持つ輝きではない。
「……何が、起きている」
その疑念を、彼は飲み込んだ。
この場で言葉にすれば、すべてが瓦解する気がしたからだ。
その夜、ヴェルドは夢を見た。
【夢:選定のささやき】
深夜、ヴェルドは冷たい汗で目を覚ました――否、目を覚ました“つもり”だった。
部屋はあまりに静かで、窓から差す月光もない。闇だけがあった。
その闇の中、彼の足元に音もなく水が広がっていた。黒い水面が波紋を描き、やがて水ではない“何か”が彼を包んでいく。
耳元に声がした。
――ようやく辿り着いたか。
それは男の声とも女の声ともつかず、低く、だが優しく響いた。
――冠を戴く資格。
――選ばれし者。
「……誰だ……!」
叫ぼうとした喉から声が出なかった。
光が差した。いや、“光のようなもの”だった。
その中心に浮かぶ、黒曜石で作られたような冠。鋭く、禍々しく、だがどこか悲しげな輪郭を持っていた。
――答えろ、ヴェルド。
――お前は、何のために剣を振るった?
水面に、かつての戦場が映る。少年マークの死。燃え尽きた村。名も知らぬ兵の笑顔。血に染まる空。
「俺は……」
――守るためか。奪うためか。
「……俺は……終わらせたかっただけだ」
その言葉に、冠が静かに震えた。
――その願い、受け取った。
――ならば、命じよ。終わらせる力を。
冠が、ゆっくりと彼の額に近づく。
「やめろ……俺は……そんなものを――!」
叫びと共に、ヴェルドは跳ね起きた。
息が荒く、額には冷たい汗。だが、部屋は先ほどと変わらぬ静けさだった。
ただ、机の上。
そこにあるはずのないものが、置かれていた。
黒く、硬質な輪。
それは、夢で見たものと同じ――黒の冠だった。
物語は、ここから始まる。
(第1章・完)