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強敵少女

作者: 植原 一騎

 私は世間一般で言うところのポストドクターなる身分の者である。要するに博士号取得者という高学歴人材であるにもかかわらず正規の職を持たないという、今もって学歴がものをいう日本社会において極めて不可思議な存在である。経済学の博士号論文の審査が通ったというのに、肝心の職が大学にないのである。研究に従事できそうな民間企業にもいくつか応募したが、すべて落とされた。したがって、今は各地の予備校で高校生や高卒生相手に数学の講義を行いながら、どこかの大学のポストに空きが出ないかを待っている状態なのである。

 高校数学なる低レベルなものを講義しながら生計を立てるのは私のような天才肌の人間には屈辱極まりないことであるが、食っていくためには仕方がない。予備校側に安い給与で労働力を買いたたかれ、高三どころか高校一年生にまで算数を教えてやらねばならない毎日を送っている。

 そんな私が担当するクラスに、朝倉美桜という高校一年生がいた。男子生徒からちやほやもてはやされる美少女ではあるが、二次関数もろくにできないのに医学部を志望しているというよくわからない思考回路の持ち主である。親が大企業の社長らしく、どんな問題も金の力で解決できると考えている節のある、生意気を絵に描いたような小娘だ。その生意気さたるや日頃の学習態度にも表れており、彼女は私の指示したとおりに宿題をやってきたためしがない。「部活で忙しかったんですう」などと悪びれず、まるで反省した様子もない。何度叱り飛ばしてやろうかと思ったものだが、指導の名の下に一喝するとパワハラ扱いされかねないこのご時世、紳士は怒鳴って生徒を服従させたりしない。いきおい、極力ていねいに世の中の仕組みを教えてやりながら説教することになるのだが、「先生って、言うことがおじさんくさい」と彼女にはまったく私のメッセージが届かない。

 ちなみに私はまだ二十九歳であり、おじさんと呼ばれるにはふさわしくない好青年である。二十九は世間一般の基準からしても青年と呼ばれるにふさわしい年齢であり、しかしまた現実におじさんの領域に片足を突っ込んでいるマージナルな存在でもあり、それゆえにおじさんという言葉には過剰に敏感にならざるを得ない極めて微妙な年齢でもある。

 私の顔に怒りの表情が浮かぶのを察すると、朝倉は手のひらをひっくり返し「冗談ですよお。先生、けっこうかっこいいですよ」などと突然私のご機嫌をとり身体をすり寄せてきたりする。自分の美貌を利用するこの手段で朝倉は他のすべての講師から一度も叱責されたことがないという侮れない女子である。

 年頃の娘たちというものは、若さという資源を武器に男たちを手玉にとり、放射線のごとき色香をふりまきながら自分より一回りも二回りも年長の男どもを思いのままに愚弄する、暴君のごとき存在である。

 しかし私の方にも世間一般の男が標準装備しているくらいの誇りと体面は備わっており、数年前までランドセルを背負っていた年端もいかぬ小娘になす術もなく翻弄されるわけにはいかない。

 ここで譲歩すると彼女の成績は伸びないままで、彼女自身のためにならないばかりでなく、私自身の査定にも響くという甚だ困った事態になる。相手を自分の思い通りに動かすためには、まず敵が何を考えているかを踏まえなければならないのはゲーム理論の基本である。そこで私は紳士らしく、まず交渉で相手の希望する条件を引き出し、可能ならばそれに応じ、相手を懐柔して自分の意のままに操るという外交駆け引き的戦術に出ることにした。

「部活で忙しいのはみな同じだ。君だけ宿題ができない理由にはならない」

 初手で私が釘を刺すと、彼女は急にしおらしくなり、

「すみません。部活で忙しいのは言い訳かもしれないないですけど、本当に、問題が解けないんです」

と指先をいじりながら蚊の鳴くような声で答えた。

「そんなに難しい問題は課していないだろう。基本問題と練習問題ていどなら、ノートに書かれた手順どおりにやってみれば、誰にだって出来るはずだ」

「その、ノートに書いてあることの意味が、わからないんですよお」

 要するに婉曲に私の教え方が悪いと言いたいのだろうが知略に長けた朝倉は決してそんな非難はしない。私自らが自分の教務力の至らなさを認めるように仕向けようと巧みに話を誘導するのである。

 朝倉の術中にはまらないよう、私は努めて感情を表に出さないよう自分を抑えつつ、「他の生徒は、みんなその方法で出来ているがね。君も出来ると思うよ」と応戦した。

「他の人は、他の人です。先生、わたしを他の人と比べないでください。わたしはわたしなんですから。他の人と比べるなんて、わたしの個性を無視していて、ひどいですよ。それに、わたしの成績が上がらないと、先生だって、困ることになるんじゃありませんか」

 朝倉は意味ありげににやりと笑いながら脅しとも取れる文句を口にした。生徒からのアンケート評価が悪いことは講師の時給に関わることであり、私の評定を下げる手段に打って出ることをさりげなく匂わせているわけである。

 彼女は年相応な程度には理路整然としており、大人からの筋道だった説諭に対してはときに屁理屈をもって対抗し、ときに子どもじみた頑是無さをもって徹底抗戦するという、TPOに応じた戦術の使い分けを心得ている、極めて手強い難敵である。気まぐれでお天気屋であり、自分に都合の悪いことには目もくれないにもかかわらず、その一方で他人の都合の悪いことは容赦なくほじくりまわすという、野党政治家顔負けのご都合主義とサディズムを兼ね備えた少女なのである。

 私は狼狽が顔に表れないよう冷静を装いながら妥協案を提示することにした。

「それなら、わからないところを授業後に持ってきて質問しなさい。たぶん朝倉の場合、中学範囲から復習する必要がありそうだから、そこからきちんと説明しよう」

「ほんとですか? いいんですか?」

 急にぱっと明るい笑顔を見せられて、私は慎重に考慮する暇もなく「任せなさい。わからないところはすべて解説するから、遠慮なく持ってきなさい」と答えてしまった。

 その翌日からというもの、朝倉は毎週のように授業後に私のもとに質問を持ってくるようになった。

 あいかわらず宿題を一問もやってこないが、中学時代の問題集などを持参して、「この辺から、意味がわからないんですけど」と私に聞く。驚いたことに、中学で既習のはずの、二次方程式と二次関数の関係から理解していないのである。金払って家庭教師でも雇えよ、おまえは予備校に来ても意味のない人間だと言いたくなる。

 これだと、高校レベルの授業を聞いてもわかるはずないよな――と思いつつ、やむなく授業後に、朝倉一人だけのために個別に解説する。断っておくが、個人事業主たる予備校講師には残業手当などというものは出ない。この時間は、すべてただ働きである。が、これで朝倉を手懐け、私の指示するとおりに宿題をやるようになれば、状況は改善するだろう。懐柔策が功を奏すれば私の時給は上昇する。短期的には確実に損だが、長期的に見れば私に利益になる行動だと、私は自分に言い聞かせて無償労働を受忍する。

「よし、じゃあ、今日はこれでおしまい」と私が切りの良いところで終えようとすると、朝倉は「もうちょっと、いいじゃないですかあ」と妙に色っぽい声を上げ、上目遣いで私を見つめつつ、蠱惑的な手つきでボディタッチをしながら引き留めようとする。立場が逆ならセクハラになりかねない行為だが、自分が未成年で法的責任を問われない立場であることを理解している朝倉は手段を選ばない。やむなく、私は朝倉の希望するところまで解説を進める。

 そうこうしているうちに朝倉は段々高校数学の内容を理解するようになり、宿題にも手を付け始めるようになってきた。少しずつ私の作戦は功を奏してきたようで、私は満足だった。

 年を越し、二月が来た。

 予備校では高二範囲に入っている時期だったが、もうこの頃には、朝倉は何の問題もなく授業についてこられるようになり、宿題もきちんと終えてくるようになった。私は相変わらず朝倉のために無償の個別対応に追われる状態が続いていたが、不思議と苦に感じなくなってきていた。

「先生。はい、これ」

 授業後の個別解説が終わった帰り際、朝倉は鞄から赤い包みを取り出して私に手渡した。

「何だ、これは」

「チョコレート。バレンタインだから」

 朝倉が持ってきたのはハートマークのメッセージカードが添えられた高級そうなゴディバのチョコレートだった。

「いつもよく見てくれるから、お礼。これからもお願いしますね」

 意味深な、あざと過ぎる笑みを浮かべながら朝倉は教室を出て行った。

 ひとり教室に残った私は、チョコレート片手に胸を高鳴らせている自分に気づいた。

 どうやら、手懐けられ思い通りに動かされていたのは、私の方だったようだ。

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