第三章 魔術師の姪 2
考え事をするあいだにも馬車は順調に進んでいた。
目に心地よい緑の牧草地や柔らかな茎が伸び始めた小麦畑のあいだの道をまっすぐに進んでいくと、じきに左右に赤い屋根の可愛らしい田舎家が並び始める。
「――お客さん、ウェステンアビーに着きましたよ!」と、御者が外から呼ばわる。「駅で停めますか? それとも門まで?」
「門までやって頂戴」
「承りました」
揃いの規格で建てられたと思しき家々のあいだを抜けると目の前に小川があり、橋を渡った先に林が広がっている。木漏れ日の踊る木々のあいだの路をまっすぐに走っていくと目の前に赤っぽい石造りの、三階屋ほどの高さのある城壁が現れた。
古く堂々たる石壁だ。
それがどこまでも続いている。
「……これがお邸の壁でしょうか?」
マディソンが窓の外に目を向け、津々たる興味を隠し切れない声音で訊いてくる。
エレンは頷いた。
「たぶんね。――ウェステンアビー・ホールは、三前までは名前の通り修道院の敷地だったのよ。グェンシアン朝のアーサー二世の時代の修道院廃止令によって王家に没収されて、そのあとで初代ウェステンフォーク侯に与えられたのだったはず。中は怖ろしく広いと思うわ」
「--すると、よそ者が入り込んでそのまま身を隠している、なんてことも?」
マディソンが心なしか目をキラキラさせて訊ねてくる。
どうも密室盗難事件というのが彼女の心に何かしら訴えるものがあったらしい。
エレンは苦笑した。
「そのあたりは調査を進めながら考えましょう。―-ああほら、ようやく門が見えてきたみたい」
門は左右を一対の円塔に守られ、上部にはぎざぎざの胸壁が並んで、門前を青い上着に黒いズボンのお仕着せ姿の門衛が二人、マスケット銃を担って警備していた。
――これはこっそり出入りするのは相当難しそうね……
馬車から降りながら、エレンとマディソンは目配せを交わした。
「お客さん、お荷物はどうします?」
「ああ、門まで運んで頂戴」
大型のトランクを御者に任せて門前へと歩み寄る。
門衛はどちらも背が高く体格のよいブロンドの若者だった。
間違いなく見た目で選んでいるのだろう。
右手の一方がエレンに目を止め、揶揄うような笑いを浮かべて挨拶してくる。
「こんにちはマダム! 観光かな? 残念だけど、庭の開放日は木曜日だけなんだよ」
「あらそうでしたの」
エレンはつんと顎をそびやかして応えた。
「幸い観光ではありませんの。レディ・クリスティーン付きの貴婦人付添女性のディグビーと申します。ノーズリー卿にお取次ぎを」
事前にハロルドと示し合わせた通りの身分を名乗って、ノーズリー子爵の印章とハロルド自筆の署名入りの紹介状を渡す。ちなみにレディ・クリスティーンは海軍卿エルギン男爵の令嬢でハロルドの婚約者だ。
美男の門衛は疑わしそうに受け取ったが、印章と署名を確かめるなり、ばね仕掛けの兵隊人形みたいに跳ね上がり、慌てて頭を低めてきた。
「ミス・ディグビー、大変失礼を。すぐにお取次ぎいたします。どうぞ門屋敷でお待ちください。―-お荷物はそれだけで?」
「ええ」
門衛の一方が御者からトランクを受け取り、エレンとマディソンを先導して中へと導いてくれる。門屋敷の入り口は左手だった。玄関扉を開けて入ると、エレンの事務所兼下宿の大部屋よりひとまわり広い居間があって、長椅子とローテーブルまでしつらえられていた。
「どうぞこちらでお待ちを」
門衛が恭しく頭を低め、トランクを残して外へと戻ってゆく。
そのあとですぐ、午後らしい黒いシルクのドレスにフリル付きのエプロン姿のメイドがお茶と薄切りのフルーツケーキを運んできた。
驚くべきことに門屋敷の居間専属のパーラーメイドがいるらしい。
お茶の出てくる速さからして、もしかしたらキッチンとキッチンメイドまで備えている――のかもしれない。
ごく上質の薄手の骨灰白磁のカップを手に取りながら、エレンは呆れと感嘆の入り混じったため息をついた。
「さすがに爵位貴族ねえ!」
エレンだって首府近郊の富裕な地主階級の娘で、人口の上位5%に入る位には裕福な生まれなのだが、宮廷内での官職を有する爵位貴族となると、これはもう次元が異なる。
しっとりとしたフルーツケーキを齧りながらしみじみ感嘆していたとき、不意に外からドアが乱暴に叩かれたかと思うと、応えを返す暇もなく開いて、むっとするほど濃密な薔薇香水の匂いが流れこんできた。
匂いの主は白く柔らかく襞の多い帝政様式のハイウェストのドレスにつばの広いピンクの帽子を被った二十歳前後に見える娘だった。
肉付きがよく色白で、燃えるように鮮やかな赤い巻き毛を首にまとわりつくような形に纏めている。
無造作に見せかけれ怖ろしく手の込んだ髪形である。
薔薇色の肉厚の耳朶から下がる大粒の涙型の真珠。
帽子の上に盛り上がる真っ白な駝鳥の羽。
全体にきわめて贅沢な身なりだ。
誰だか知らないが、間違いなく貴族の娘だろう。
その娘がドアの前で腕を組み、見るからに不機嫌な表情でこちらを睥睨している。
--え、まさか不審者と間違われている?
エレンは慌てて長椅子から立ち上がった。
「――初めましてレディ。わたくしは、」
ノーズリー卿に招かれて――と、続けようとしたとき、
「――クリスティーン、クリスティーン、待ってくれってば!」
ドアの外から焦った調子の若い男の声が響いた。
貴族の娘――おそらくはレディ・クリスティーンーーが、くっきりと描かれた黒い眉をぴくりとあげ、顔をこわばらせて振り返る。
「煩いわねハロルド、あなたは来なくていいっていったでしょ?」
「いやだって、彼女は僕の客で」
「あんたの客ならどうして私の! 付添女性だなんて嘘をつくのよ? 何よこの女、ちょっと綺麗な貌はしているけど、身なりは地味だし体は貧相だし、よく見ればお婆さんじゃない! どういうつもりでこんな女を――」
「ま、まってくださいレディ!」
エレンは慌てて口を挟んだ。「わたくし、怪しい者ではありません。タメシス警視庁任命の諮問魔術師を務めるエレン・ディグビーと――」
「ああああ、それは言わないで!」と、ハロルドが悲鳴をあげる。
途端、レディ・クリスティーンがスグリ色の目をぱちくりさせた。
「え、エレン・ディグビー?」
「え、ええ」
「エレン・ディグビーって、あのエレン・ディグビー?」
クリスティーンは目をキラキラさせて訊ねたかと思うと、やおらちょっぴり爪先立ってエレンの両肩をがっしとばかりに掴んできた。
「――お、落ち着けクリスティーン!」と、ハロルドが悲壮な声で叫ぶ。「頼むからウチの門屋敷で絞殺事件なんか起こさないでくれよっ……!」
ハロルドの悲痛な叫びをクリスティーンは全く聞いていないようだった。
目を輝かせたままエレンの顔をつくづくと眺め、まるで猫でも撫でるようにストロベリーブロンドの側頭部をちょっと撫でてから、ようやく肩から手を放したかと思うと、両手の指を組み合わせて陶然と言い放った。
「会えて嬉しいわエレン・ディグビー! わたくしあなたの大ファンなの! わたくしの母方の伯父はスチュアード卿よ! 知っている? スチュアード卿!」
「え、ええ、勿論存じておりますわ」
エレンはたじたじとしながら応えた。
「誉ある王室付き魔術師たる〈魔術卿〉の御名を知らない魔術師は連合王国にはおりませんわ」
答えるなりクリスティーンは嬉しそうに破顔した。
悪意を知らない子供のようにあけっぴろげな笑いだった。