第二章 王立劇場にて 2
「お久しぶりですエドガー。今日は本当に――」
申し訳なさそうに云いながら桟敷へと入ってきた金髪の若い貴族――二十六のエレンより三つ、四つ年下に見える――は、士官候補生姿のエレンを目にするなり水をひっかけられたビーグル犬みたいな顔をした。
「ええと、彼は?」
「彼女なんだな、これが愕くべきことに」と、エドガーが肩を竦める。
「えええ、彼女?」と、若い貴族が素直に目を瞠る。「じゃ、つまり彼女が例の?」
「ああ」と、エドガーが得意そうに頷く。「ミス・エレン・ディグビーだ。――ミス・ディグビー、彼はノーズリー子爵ハロルド・サックヴィルだ。私との関係は――ええと、ハロルド、われわれはどういう関係なんだ?」
「またいとこ、ではないですかね?」と、ハロルドが心許なそうに言う。「あなたのお母君のレディ・アメリアが私の父の従姉妹にあたるはずだから」
「ああそうか。私のまたいとこだ」
「ご紹介にあずかり光栄です。はじめましてノーズリー卿。ディグビーと申します。タメシス警視庁任命の諮問魔術師を務めております」
エレンが挨拶をすると、ハロルドは目に見えてほっとしたように笑った。
「ああ、本当に女性なんだな! 女性の諮問魔術師はいつもそういう服装をしているんですか?」
珍獣を目にした少年みたいに興味津々の顔で訊ねてくる。
高位貴族の若様にはよくあるように、齢よりも内面がはるかに幼そうだ。
エレンは苦笑しながら首を横に振った。
「これは変装ですわ。―-ところで卿、サックヴィルと申しますと、国璽尚書のウェステンフォーク侯のご一族でいらせられますの?」
エレンがそう訊ねるなり、ハロルドはぴくりと眉をあげた。
「……侯は私の父ですよ。ノーズリー子爵といったらウェステンフォークの嫡子に決まっているでしょう。――エドガー、彼女は本当に大丈夫なんですか? 外に働きに出ている女性としてはあまりにも無知では?」
エレンの眼前で堂々とそんなことを言い放つ。
エレンはむっとした。
――爵位貴族はわたくしの顧客層じゃないのよ若君様!
内心密かに牙を剥いていると、エドガーが親しい弟にするようにハロルドの金髪頭を軽く小突いた。
「ノーズリー、われわれの属する世間だけが世間のすべてじゃないんだ。彼女は優秀な魔術師だよ。私が保証する。――ミス・ディグビー、ご苦労だがこの世間知らずの若造に君の力を見せてやってくれないか?」
「……魔力を使用しますと、その時点で相談料以上の料金が発生しますわよ?」
「かまわんさ。問題ない。スタンレー荘の林檎酒はこのごろ売れ行きがいいんだ」
エドガーが悪戯っぽく笑って促してくる。
顧客獲得のためのテーブル・マジックはやはり必須らしい。
エレンはため息をつくと、桟敷全体に光の形で魔力を充たした。
シャンパンゴールドの淡い光が桟敷全体に満ちたところで、左右の壁から突き出す燭台に燈った合計六本の蠟燭の焔に、
「消えよ」
と、命じる。
途端にすべての焔が消え、桟敷の内がふっと暗くなった。
エレンを中心にした淡金色の光だけが薄明のように朧に室内を明るめている。
「へええー―」
ハロルドが少しばかり感心したような声を漏らす。
エレンはそのタイミングを見計らって、右手を広げて契約魔を呼んだ。
「サラ、出てきて頂戴。頼みたいことがあるの」
途端に掌の上からひときわ濃い光の柱が立ち昇って、赤く小さく輝かしい火蜥蜴が現れた。
「なんじゃエレン、ずいぶん暗いのう」
「え、そいつ喋るの!?」
「どいつもこいつもなぜそこに驚く――む? エレン、なんじゃその身なりは。そういうのが昨今の流行りなのか? 年頃の娘がおおやけの場に出るにあたって、儂はちとどうかと思うがのう」
「全くだよサラ、私も同感だ」と、エドガーが口を挟んでくる。
火蜥蜴がキロっとエメラルド色の目を向け、口からはーッと淡い煙を吐いた。
「おお、久しいのスタンレーの領主よ。エレン、この男からの依頼なのか?」
「いいえ、ご依頼はこちらのノーズリー子爵からよ。魔術師としてのわたくしの力をお確かめになりたいそうなの。手始めにここの六本の蝋燭すべてに焔を灯し直してくれる?」
「お安い御用じゃ」
火蜥蜴はさらりと請け合うと、エレンの掌の上にとまったまま、ポッポッポッと連続して親指の先ほどの焔の塊を吐いた。
三つの塊がなだらかな弧を描いて宙をよぎり、三つの蝋燭が同時に燈る。
「おおお!」
ハロルドが素直な感嘆の声をあげる。サラはエメラルド色の目でキロッと若い貴族を見てから、今度は細い線上の焔をふーッと斜めに吹いた。すると反対側の三つの蝋燭もいっせいに燈る。
桟敷のなかは一気に明るくなった。
「どうじゃ若いの。儂の伴侶の力にまだ疑いがあるかの?」
「いやない、もちろんないよ!」
ハロルドが頬を紅潮させて答える。
「うむ」
「ありがとうサラ。助かったわ。今はこれだけなの」
「そうか。いつでも呼べよ」
火蜥蜴は満足そうに応じると、エレンの掌越しにどこかへと消えていった。