第二章 王立劇場にて 1
セルカークの生家からの配達物は六月十三日に届いた。
平たい木箱に収められた白い長ズボンと金ボタン付きの裾の短い青い詰襟の上着と黒いブーツである。今は勅任艦長としてデライラ諸島海域で巡航艦を指揮しているはずの長兄のコーネリアスが、士官候補生として海軍入りした十代半ばのころに着ていた軍服である。
二日後の昼前、早めの昼食を済ませたエレンは寝室でその軍服に着替えた。
長身痩躯で中性的な美貌を備えたエレンに、少年士官候補生の軍服は実によく似合った。
フサフサと豊かなストロベリーブロンドを黒天鵞絨のリボンで束ね、これだけは小道具として古着屋で購入したサーベルの鞘だけをベルトに吊るしてから寝室の外へ出る。
「どうかしらミセス・マディソン? 変装のために目晦ましの魔術は必要だと思う?」
ハウスキーパーは目を細めてしばらく眺めてから、
「いいえ、そのままで十分でしょう」
と、太鼓判を押してくれた。
「わたくしもそう思うわ」
エレンは得意満面で応えた。
マディソンに呼んでもらった馬型の自動機械人形の引く辻馬車に乗り込んで、市内の東のエラリーアレー通りの王立劇場へと向かう。
つい二か月ばかり前に、看板女優の叔父でもあった劇場付きの劇作家が逮捕されてしまった関係か、王立劇場の入り口は何となく精彩を欠いていた。
馬車を降り、エントランス前の三段の階段を上ると、開いたままの黒い大扉の左右を派手な金モール付きの黒い上着姿の二人の守衛が護っている。
守衛たちはエレンを見ると軽い愕きの表情を浮かべた。
エレンはどきどきした。
――男装って露見したら、それはそれで大ごとよね……
「――失礼ミスター、チケットを拝見」
――声を出したら一発よね……
頷くだけにとどめてチケットを差し出す。
守衛の顔にまたしても微かな驚きが走ったようだったが、すぐに職業的な無表情に戻ると、恭しくお辞儀をし、背をかがめて耳元で囁いてきた。
「卿はすでにおいでです」
エレンは無言で頷くと、丁重なお辞儀に送られて劇場内へと入った。
ロイヤルブルーの絨毯を敷き詰めたロビーはさして混みあっていなかった。
正面の大階段の手前で、キャンディ売りの若い娘が暇そうに欠伸をしている。
階段を上り、二階ロビー付きらしい白い巻き毛の鬘を被った古風な従僕に導かれて右手の廊下へと向かう。
従僕はずらりと並んだ黒く艶やかな扉の三つ目で足を止め、白手袋を嵌めた右手でコツコツと戸板を叩いた。
「失礼いたしますスタンレー卿。お客様がお見えです」
「どうぞ入ってくれ!」
声と同時に内側からドアが開いて、黒い巻き毛を完璧な形に整えた長身の貴公子が姿を現した。
真っ白なカラーとクラバットと襞の多い白い絹のシャツ。
銀刺繍の入った光沢のあるダークグレーのウェストコートに白い半ズボンを合わせ、濃い青色のストッキングと黒エナメルの靴をはいている。
シンプルながらも何もかもが極上品と分かる洒落た身なりの貴公子は、エレンの姿を見とめるなり、明るい琥珀色の眸を零れんばかりに見張った。
「君は――」
エレンは首の後ろのあたりに強烈な視線を感じた。
――どうも案内の従僕が、職業的な仮面の下で強烈な好奇心にかられているようだ。
ここで本名を名乗ったらせっかくの変装が台無しである。
私費で購入してしまったサーベルの鞘代のためにも、エレンは腹を決めた。
--わたくしは少年。わたくしは少年。声変わり前の十五才の少年ってことでお願い!
「酷いなあスタンレー卿。僕を忘れちゃったの?」
小首を傾げて拗ねたように告げるなり、エドガーの色白の顔にさっと赤みが走った。
「何だ君は! 何を言いだす? 私は美少年に関心はないんだ。大体まともな海軍士官候補生が今この時期になんで陸なんぞうろうろいている? もしもゆすりたかりのつもりなら――」
彼はそこまで口にしたところで、ようやくに目の前の存在の正体に気付いたようだった。
「ああいや、君か。もちろん覚えているよ。まあ入れ。話は中だ。ああそこのお前!」
「は、はい何でしょう卿!」
従僕がぴょんと飛び上がらんばかりの勢いで応える。
「銘柄は何でもいいから発泡性の白ワインとベリーとメレンゲを持ってきてくれ。グラスは三つで頼む」
「はい卿。承りました」
従僕は恭しく答えつつも、どうしても興味を隠し切れない様子でチラチラと上目遣いにエレンを盗み見ている。
「入れ。そして行け!」
エドガーが焦れたように舌打ちをし、エレンの右手首を掴んで桟敷席へと引っ張り込むなり、もう片手でドアを閉じた。
三ヤード四方はあるちょっとした小部屋のような空間だ。足元はフカフカしたロイヤルブルーの絨毯が敷き詰められ、真ん中に猫脚の長椅子と円テーブルが据えられている。
左右の壁から突き出す銀製の燭台に三本ずつ蝋燭が灯っているおかげでかなり明るい。
舞台を望む向かい側には絨毯と同じ色の厚手のカーテンが引いてある。
「――さて若き士官候補生君」
エレンの手首を放しながらエドガーが重々しい口調で訊ねてきた。
「念のため訊きたいんだが、セルカークのミス・エレン・ディグビーは瓜二つの君の姉さんかね?」
「もちろん違いますわ!」
エレンは少年の声色をやめて笑いながら応えた。「お久しぶりですスタンレー卿。エレン・ディグビーです」
「ああ。どうやらそのようだね」
エドガーは額を抑えてうめくように応え、肩を落として深々とため息をついた。
「その酔狂な変装は一体何なんだい?」
「わたくしはわたくしの評判を守る必要がありましたの」
「そのために僕の評判はだいぶ犠牲になっている気がするんだが」
「大丈夫ですわ」と、エレンは請け合った。「ことタメシス近郊で、あなたの評判はこれ以上悪くはなり得ません」
「ありがとう諮問魔術師どの! ところで早速仕事の話に移りたいんだが」
「その前に卿」と、エレンは釘を刺した。「お話を伺ったからといって、必ずしもその内密のお仕事を引き受けるとは限りませんからね?」
「勿論分かっているさ。実は――」
エドガーが口を切ったとき、ドアが外から叩かれて、先ほどとは違う従僕の声が聞こえた。
「失礼スタンレー卿。ノーズリー卿がお見えです」
「おや、ハロルドの奴もう来たか! ――すぐに通してくれ!」