第八章 水底の探索 2
さて、約束の午前十時である。
噴水の辻に小間使いを待たせ、ドレスに合わせた白い日傘――縁取りにたっぷりとサテンのフリルがついている――をくるくる回しながら徒歩で博物堂へと向かったヘンリエッタは、小島の池のほとりに行きつくなりぎょっとした。
左手に見えるボートハウスのテラスに、思いもかけないほどたくさんの人間が集結していたのだ。
真ん中にいるのは勿論スタンレー卿だ。
右隣に息子のハロルドが、左隣にはハロルドの婚約者のクリスティーンがいる。
ヘンリエッタが「人間」と認識したのはここまでだった。
彼ら三人の後ろに、本邸の副執事のヤードとボートハウスの番人のトビアス、顧問魔術師のマダム・ロジェともう一人、クリスティーンの付添女性と思われる見覚えのない若めの美人がいる。
なかなか綺麗で賢そうな娘ね、とヘンリエッタは感心した。
上等の帽子とか美しい馬とか、そういったものに感心するような賛美だ。
しかし、これは一体どういう情況なのだろう?
――まさかハロルドたちの悪戯?
思うなり怒りと屈辱にカッと顔がほてる。
ヘンリエッタはその感情を習慣的に押し殺して、自動機械人形さながらに朗らかな笑いを立てた。
「あらまあ、お若い方々が御揃いで。これから秘密のパーティーでも?」
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「申し訳ありませんレディ・ヘンリエッタ。出来る限り人目に立たないようにあなたをお呼びするよう頼まれまして」
エドガーが心底すまなそうに詫びると、レディ・ヘンリエッタは人工的な笑いを一瞬だけひっこめ、不安と猜疑の入り混じった表情を浮かべた。
「頼まれたって、どなたに?」
「彼女に、です」
エドガーがエレンに視線を向けると、ヘンリエッタは息子とよく似た碧い目を幾度か瞬かせた。
「その娘があなたに? わたくしを呼び出せと?」
ものすごく戸惑っているようだ。
その気持ちはエレンにもよく分かった。
僕の愛犬があなたを呼んでいるのです――と、いきなり告げられたら大抵の人間は戸惑うだろう。
「レディ、彼女はエレン・ディグビーよ」と、クリスティーンが得意そうに告げてもヘンリエッタの表情に変化は見られなかった。
代わりにカミーユが納得顔で頷く。
「なるほど、なるほど。やっぱりこの頃話題のあのセルカークの魔女だったんだね」
「魔女?」と、ヘンリエッタが顔色を変える。「スタンレー卿、一体どういうことなの?」
「レディ・ヘンリエッタ。ご挨拶が遅れて申し訳ありません」と、エレンは自ら口を切った。「レディ・クリスティーンのご紹介通り、わたくしはセルカークのエレン・ディグビーと申します。タメシス警視庁任命の諮問魔術師です」
そう名乗り、薄いレースの手袋を外して右手に嵌めた「CM」の印章指輪を示す。
ヘンリエッタは幾度も瞬きをしながら興味深そうに眺めてから、少々心許ない声音でカミーユに訊ねた。
「マダム・ロジェ。彼女は本物なの?」
「失礼。少々指輪を拝見」
黒いローヴの老魔女が皴深い手でエレンの白い手をとって顔を近づけてくる。
くしゃくしゃの白髪からローズマリーとセージの入り混じったような甘い匂いがした。田舎の魔女の蒸留室の匂いだ。エレンは少女時代、北部の師匠の古い邸で修行をしていた楽しい数年間のことを思い出した。
――この方は絶対悪い方じゃないわ。師匠に似ているもの。
そんなことを思うエレンの傍らで、カミーユ・ロジェは片眼鏡を取り出してつくづくと指輪を確かめてから、顔をあげて力強く頷いてみせた。
「間違いありません。本物です」
「じゃ、その諮問魔術師は、警視庁の命令であの首飾りの盗難事件を調べに来たってこと?」
ヘンリエッタが強張った声で訊ねる。
エレンは慌てて首を横に振った。
「いいえレディ、どなたからも訴えが出ていませんから、この調査に警視庁は関係ありません」
「じゃ、どうして調べているの?」
「それは――」
エレンが口ごもると、クリスティーンが肩を竦めて応えてくれた。
「あなたの息子の依頼ですよ。ハロルドがこっそり調べてくれるよう頼んだのですわ。及ばずながらわたくしも助手を務めましたのよ?」
「あら、あなたが?」
ヘンリエッタが意外そうに言う。クリスティーンが眉をあげる。
「そんなに意外でした?」
「いえ、意外じゃないけど――それで、調査の結果はどうでしたの? 首飾りは見つかりそうなの?」
「それを今から試みるところです。――マダム・ロジェ。そのためにあなたにご協力をお願いしたいのです」
「なんだい若い魔女よ」
「どうかこの池の水中の探索を。空気精霊の告げるには、わたくしどもの捜すものは空気のなかにはないということですから」