第八章 水底の探索 1
三日後の朝である。
自室の豪華な天蓋付きベッドに上半身だけ起こして、毎朝の習慣であるホワイトキュラソーとホイップクリームを添えた熱い珈琲のカップを手にしたまま、ウェステンフォーク侯爵夫人レディ・ヘンリエッタ・サックヴィルは戸惑っていた。
「――ねえルィーズ」
「はいレディ。なんでんございましょう?」
「そのお手紙、本当に彼から頼まれたの?」
「ウィ・マダム」と、ルテチア系の小間使いはルテチア語で応え、訳知り顔で目配せをして洗面所へと引っ込んでいった。
これから起ころうとしていることについて、わたくしは何も見聞きしておりません――というアピールなのだろう。
寝室に独り残されたヘンリエッタは、十六の少女に戻ったような気分で胸をドキドキさせながら、サイドテーブルに残された銀の盆の上から、署名のない淡いブルーの封筒を取り上げた。
ウェステンアビー・ホールでは――大抵の大邸宅と同じく――客用寝室を色分けして色の名で呼んでいる。このブルーの封筒を備え付けてある南翼の「青の間」に滞在しているのは、三日前に急にやってきたコーダー伯爵家の嫡男のスタンレー卿である。
堅実かつ生真面目な首府近郊のミドルクラスの社交の場では地獄のペストのごとく忌避されているエドガーは、彼が本来属する最上級のハイソサエティのなかでは、「仕方のないやんちゃな坊や」がそのまま大きくなってしまったといった風な微笑ましくも魅力的な遊び人とみなされている。いつの時代も貴族階級は中産階級よりも放蕩に寛容なのだ。
その魅力的な若い――少なくともヘンリエッタよりは十五歳は若い――放蕩貴族からの無記名の秘密の手紙!
そう考えるだけで、ヘンリエッタの小さな胸は爆発しそうに高鳴っていた。
――これはやっぱりそう、つまり――……そういうことなのかしら?
ドキドキしながら封筒を開く。
細い金の線で縁取りをした淡いブルーの便箋――これも勿論「青の間」に備え付けの便箋だ――にも、やはり署名はなかった。
そこには鮮やかなブルーブラックのインクでこんな文言が記されていた。
ディア・マイ・レディ。
内密に重要なお話があります。
よろしければ今日の午前十時に博物堂へいらしてください。
――あなたの僕 E
「……行くべきか行かざるべきか、それが問題だわ……」
ホウッと甘い吐息を漏らしつつ、レディ・ヘンリエッタは呟いた。
幸いなことに、夫のウェステンフォーク侯爵は月初めからずっとすぐ近くの王城であるフレイザー城に滞在している。
ヘンリエッタはしばらく手紙を抱きしめたあとで、小さい頭をすっくとあげ、意を決したように頷いた。
――彼の人生を破滅させるわけにはいかないわ。行ってしっかりお断りするのよ。そして最後に右手の甲にキスさせてあげましょう……
その瞬間を思い浮かべると早くも涙が出そうになる。
ヘンリエッタは陶酔しながら甘い珈琲の最後の一口を飲み干すと、サイドテーブルのベルを鳴らして小間使いたちを呼び戻した。
美しくも哀しいロマンス小説の終幕でヒロインが着るべき衣装はやはり白だろう。