第五章 三頭犬 2
「カミーユ!?」
「マダム・ロジェ!?」
ハロルドとクリスティーンが同時に叫ぶ。
途端に目の前でウルルルル……と唸りをあげる漆黒の三頭犬――黄金色の三対の眸をギラギラと輝かせた巨大な黒い獣――が、みるみるうちにテリアサイズまで小さくなっていった。
犬のすぐ後ろに立っていたのは、画に描いたような〈老魔女〉だった。
初夏だというのに真っ黒い天鵞絨のローヴに黒い三角帽子を被って、色とりどりのガラス玉と何かの牙を連ねた首飾りを幾重にもかけ、何やらうねうねした感じの木製の杖を手にしている。
大きめの鷲鼻としゃくれぎみの顎。広い円いつばの下からくしゃくしゃにほつれた白髪が鳥の巣みたいに溢れている。
堂内に立ち尽くすハロルドたちの姿を目にするなり、〈老魔女〉はガラス玉みたいに大きなライトグリーンの目を零れんばかりに見張って叫んだ。
「ハロルド坊ちゃん! ロウ家のお転婆お嬢さまも!」
「――その呼び方はやめてくれよ!」
「――その呼び方やめてってば!」
ハロルドとクリスティーンがまたしても同時に応じる。
「いやこれは失礼、ノーズリー卿、レディ・クリスティーン。それから――」と、〈老魔女〉が――おそらくはカミーユ・ロジェが――、いつのまにかエレンの右横に立って庇うように肩を抱いていたエドガーを見あげ、恭しくも訝しげな声音で訊ねる。
「ええと、ああ、その――スタンレー卿ですかな?」
「昔みたいに〈キャルスメインの悪戯坊ちゃん〉と呼んでくれても構わないよ?」と、エドガーがにこやかに笑いながら応じる。「久しぶりだねマダム・ロジェ。元気そうで安心したよ」
「いやいや何。卿もご立派になられて。ときにこの堂に今どなたか不審者は?」
「我々以外誰もいないよ? --それよりマダム、今しがたの吠え声は何だったんだい? いきなりで愕いたんだが」
「人面獅子の咆哮でしょう。――プロキオン!」
「なんだカミーユ」と、三頭犬が地を這うような低い男声で応える。
カミーユはふさふさした眉毛をひょいとあげて命じた。
「念のために堂内を調べてくれ」
「分かった」
三頭犬が応え、レトリバーほどの大きさになるなり、六角形の堂内を隅々まで嗅ぎまわりはじめた。
エレンは緊張を感じた。
やがて三頭犬がカミーユの傍へと駆け戻って告げる。
「特に異常はないようだぞ」
「そうか。ならそろそろ戻ってくれ。お前が出ていると老骨は草臥れるんだ」
いいながらタン、と杖で地面を叩く。
途端に眸の色とよく似たライトグリーンの光の渦が生じる。
「死すべき者の老いは早いな! ついこの間まで無茶ばかりする泣き虫の小娘だったというのに!」
「やかましいわ、サッサと戻ってくれ!」
三頭犬はまたウルルルル、と唸ると、人懐っこいテリアみたいにカミーユの周囲を一周して黒天鵞絨のローヴの端を咥えて引っ張った。
カミーユが面倒そうに手を伸ばして、三つの小さい頭を順々に撫でてやる。
三頭犬は嬉しそうに尻尾を振ってピンクの舌で次々とカミーユの手を舐めると、地面で渦巻く光のなかへとひょいと飛び込むなり消えた。
「プロキオンめ、あいつこそいつまでも甘ったれの子犬みたいだ!」
カミーユはくっくっと喉を鳴らして笑ってから、首をひねって今度は背後に呼びかけた。
「ミスター・スティーヴンソン、堂内にも異常はないようですぞ――!」
「え、スティーヴンソンも来ているのか?」
ハロルドが目に見えて狼狽える。
間髪入れず、堂内に、背の高い初老の男が、マスケット銃を手にした若い門衛を伴って入ってきた。
銀髪をぴしりとなでつけ、白いシャツに灰色のウェストコートと黒いジャケットを重ね、白地にシルバーグレイの縞の半ズボンと真っ白なストッキングを合わせて踵の高い黒エナメルの靴をはいた初老の男の正体は服装からして明らかだった。
まずもっておそらくこの大邸宅の正執事だろう。
推定執事の冷ややかな灰色の眸に見据えられたハロルドは教師に悪戯を見つけられた悪童みたいにびくりとした。
「久しぶりだなスティーヴンソン! 君も元気そうだね」
エドガーが気安く挨拶する。
銀髪のスティーヴンソンは無表情のまま丁重に頭を低めた。
「かたじけのうございますスタンレー卿。ご挨拶が遅れてまことに申し訳ありません。ときにそちらのお嬢様は?」
「え、えええ? 何言っているんだスティーヴンソン!」
「わたくし今朝あったばかりじゃない!」
「ミスター・スティーヴンソン、どうしたんだ、ま、まさか名忘れ草の魔術でも使われたのか……っ!?」
ハロルドとクリスティーンとカミーユが一斉にわめきたてる。
スティーヴンソンは無表情のまま応えた。
「レディ・クリスティーンは勿論弁えております。わたくしのお訊ねいたしますのは今一人のお嬢様のほうで」
スティーヴンソンの冷ややかな灰色の目はまっすぐにエレンを見ていた。
「え、わたくし?」
エレンは戸惑った。
飾り気のない仕事着のエレンは、爵位貴族の邸宅にいれば、誰が見たって家庭教師か貴婦人付添女性だ。
家内使用人の最上位である執事やハウスキーパーよりも上に位置する独特の立場ではあるものの、あくまでも雇用人―-すなわち備品みたいなものだ。スティーヴンソンの背後に従う門衛の名前を誰も気にしないのと同じで、雇用主である貴婦人の傍にいる場合、通常はいちいち存在を気にされる立場ではない。
「――彼女はわたくしの付添女性よ。パーティーのために急にお花のアレンジが必要になったから急いで呼び寄せたの」
クリスティーンがややぎこちなくも理路整然と説明する。
「左様でございますか。では大至急お部屋を用意させましょう」
「いやいいんだ、彼女には門屋敷に滞在してもらうから」と、ハロルドが慌てて口を挟む。
「左様でございますか」
スティーヴンソンが冷ややかに応え、エレンに目を向けて訊ねてきた。
「お名前をうかがえますか?」
エレンは咄嗟に偽名を答えようと思いかけたが、執事の後ろに従うブロンドの門衛の存在に気付いてはっとわれに返った。
あの門衛にはすでに本名を名乗ってしまっているのだ。
「――ディグビーと申します」
「そうですか。初めましてミス・ディグビー。わたくしはこのウェステンアビー・ホールの執事を務めるジョン・スティーヴンソンと申します」
「初めましてミスター・スティーヴンソン」
お辞儀をしながら、エレンは横目でちらっとカミーユを検めた。
何を思っているのか、〈老魔女〉はキラキラとよく光るライトグリーンの眸で、興味深そうにエレンを観察しているようだった。