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第一章 思いがけない招待状 

「行くべきか行かざるべきか――それが問題だわ」



 タメシス警視庁任命の気鋭の諮問魔術師(コンサルテイティヴ・マギステル)たるエレン・ディグビーは悩んでいた。

 悩みの源は、左手の窓から射してくる六月半ばの明るい朝日に照らされた円テーブルの上に鎮座している。


 有能な秘書兼家政婦のミセス・マディソンが整えたパリッとした白いテーブルクロスの上に並ぶのは、三角形にカットした薄切りトーストを三枚立てた真鍮製のトースト立てと、いつものように夕べの残りのコールドチキンとハードタイプのオレンジ色のチーズを一切れ盛りつけた白い陶器の皿と、一人用の丸い真鍮のポットと普段使いの白い陶器の茶碗だ。

 小皿にバターの塊が少しと真っ赤な苺ジャムが少し。


 ここまでは全く問題がない。


 大都市圏の常として生鮮食品が割高なタメシス市域ドロワー通り331番地の事務所(オフィス)兼下宿のこと、普段の朝ご飯に新鮮な卵とミルクとベーコンとマッシュルームとトマトをたっぷりなんて、開業一年九か月目くらいの駆け出し魔術師には望みえない贅沢だ。


 問題はその朝食ワンセットと一緒にミセス・マディソンが運んできた一通の封書にある。


 一目で最上級と分かる光沢のある厚手の象牙色の封書は赤黒い封蝋が垂らされ、何やら随分複雑な柄の盾形の紋章が押されている。


 差出人の名はエドガー・キャルスメイン・ジュニア。

 連合王国でも指折りに富裕なコーダー伯爵家の嫡男で、スタンレー卿の称号を持つ――アッパーミドル出身で仕事仲間の警察官たちから今もって「お嬢さん」と揶揄われつつ敬愛されているエレンから見ても、仰いだら首が痛くなりそうなほど雲の上にいまします本物の貴公子(プリンス)だ。


 貴公子は透かしの入った最上等の便箋に、意外なほど流麗な筆跡でこんな文言を書き記してきた。




 親愛なるミス・ディグビー。

 元気にしているかな?

 君の尽力のおかげで母はいつになく落ち着いた夏を過ごせそうだ。

 先日の王立劇場の事件での君の活躍をガゼット紙で読んだ。若き気鋭の諮問魔術師どのと知り合いだと思うと私も鼻が高いよ。

 実は君の活躍を耳にして、とある身分ある知人が内密に仕事を頼みたいと言っている。

 危険がないことは私が保証する。

 ついては六月十五日、王立劇場の『アムレート』の昼公演(マチネー)に君を招待したい。私の桟敷で依頼人と顔を合わせれば秘密は守りやすいはずだ。

 引き受けるにせよ引き受けないにせよ、ぜひ君に来てもらいたい。

                            愛をこめて。エドガー





 封書には指定の劇のチケットが同封されていた。

 自分の誘いが女性に断られる――とは、毛ほども思ったことのないあの貴公子らしいやり方だ。


 エレンとエドガーはまんざら知らない仲でもない。

 三か月ばかり前、エドガーの母親であるコーダー伯爵夫人レディ・アメリアの昔の恋愛がらみの事件を調査するにあたって図らずも協力した相手だ。

 コーダー伯爵家の嫡男の評判は、エレンの属するタメシス近郊のアッパーミドル社会では極めて、きわめて悪い。自分より階級が下の若い娘にちょっかいを出しては弄ぶ手癖の悪い貴公子として厳重に警戒されている。

 実際に知り合ったエドガーは前評判よりもはるかにまともな人物ではあったが――そうは言っても世間の目というものがある。

 王立劇場の昼公演(マチネー)のようなどこに知り合いが潜んでいるか分からない社交の場で、悪名高きスタンレー卿が個人で確保している桟敷に密かに入っていったなど、万が一にも親族に露見したら?



「……――最悪だわ」

 薄切りトーストに貴重なバターと苺ジャムを三等分して塗りながら、エレンは自分の想像に慄いた。


 そんな噂を耳にしたら、血の気の多い長兄のコーネリアスなど、海軍勤務の最中だろうと辞表を叩きつけて舞い戻った挙句にエドガーに決闘を申し込みかねない。

 母親と次兄からはたぶん絶縁され、姉と父親はショックで寝込む。

 心優しい友人たちは「まさかそんな、エレンに限って! 根も葉もない中傷だわ!」と、泣きながら憤ってくれるだろう。

 スタンレー卿エドガー・キャルスメイン・ジュニアとは、エレンが私的に属する狭い世間では、そういう地獄のペストみたいな扱いを受けている存在である。


 

「――愛が籠っちゃってるところが、何より問題なのよね……」

 

 トーストを手にしたまま呟いたとき、窓辺の居間スペースとドア側の接客スペースを隔てる桃花心木の衝立を巡ってミセス・マディソンが姿を現した。

 栗色の髪を大きな栗みたいなシニヨンに結った年齢不詳の小柄な未亡人である。


「ミス・ディグビー、どこかお加減でも?」

 見た目に似つかわしい平坦(フラット)な声で訊ねてくる。


「え? あ、いいえ。大丈夫よ。どうして?」

「食が進んでいないようですから」

 ミセス・マディソンの視線が円テーブルの上に注がれる。


 その目が如実に語っていた。

 片付かないから早く食えと。


 エレンは慌てて薄切りトーストに齧りついた。

 パンはだいぶカサカサだが苺ジャムは美味しい。残り二枚の間にコールドミートとチーズを挟んで即席のサンドイッチにして大急ぎで平らげる。

 ミセス・マディソンは満足そうに頷くと、今しがた街路で買ってきたらしいタメシス・ガゼット新聞を卓上においた。

「あ、お茶はまだ残しておいて。後で階下に運んでおくから」

「承りました」

 淡々と応えて手際よく卓上を片付けていく。その目がちらっと興味深そうに封書の印章に向けられたのをエレンは見逃さなかった。

「ねえミセス・マディソンーー」

 四つ折り版の新聞を広げながらさりげなさそうに訊ねてみる。

「何です?」

「あなた、ターブでスタンレー卿と面識を得ているわよね?」

「お顔は拝見しましたね」

「王立劇場の昼公演であの方の桟敷にわたくしがこっそり招かれたとしたら、あなたはどう思う?」

「――もしも私があなたのご生家から従いてきているハウスキーパーでしたら、ご両親とお兄様に速達郵便(エクスプレス)で密告するでしょうね。前日までに止めていただけるように」

「じゃ、やっぱり反対なのね?」

「あなたの人生にいずれは結婚という心づもりが毛一筋でもあるのでしたら、断じて応じるべきではないと思います」

 マディソンはにべもなく断言した。

「全くね!」

 エレンは肩を竦めて賛成した。


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