絶対に押してはいけないボタンがある部屋
今回の三つのお題『ボタン』『壁』『タイル』
自動でついた明かりに中年の男は少し眩しそうに眼をすぼめる。
艶のある真っ白な大理石のタイルで覆われた床、白を基調とした壁紙に金色など豪華な装飾が施されている。
「では、中へ案内します」
と言いながら、スーツをピシッと着込んだ若い男が先導する。
「あ、えっと、靴は……」
色の変わり目も段差もない玄関に中年の男はどこで靴を脱ぐのが正解なのか戸惑う。
「私はそのタイル1枚を区切りとして、3枚目で脱いでおります」
「はぁ……そうですか」
中年の男はスーツの男と同じように3枚目のタイルの所で靴を脱いだ。
「では、案内します」
と、案内するスーツの男の後ろで中年の男はキョロキョロと見回したり縮こまったりと、そわそわして落ち着きがない。
「あの……」
と、中年の男が部屋を開けようとするスーツの男にオズオズと話し掛ける。
「僕、予算は3万円以内って言ったと思うんですけど……ここ、絶対にそれより高いですよね?」
話の内容からしてどうやら、中年の男は不動産屋と内見の最中であるようであった。
「マンションも立派ですし、立地もいい。部屋も広くて豪華ですし……ここって……」
「まぁ、とにかく中へどうぞ」
客の不信を感じ取ったのか、不動産屋は遮って中へ入るように客へ促した。
「あ、はい……」
流されやすいのか、客も不動産屋に言われるがままに中へと這入っていく。
部屋の中は広く、備えつきの家具もオシャレで机は透明なガラスで出来ており、客の男が今まで見た事のない形のランプが垂れ下がっている。窓も大きく開放的で室内にあるもの一つ一つが高級感を漂わせている。
ただそれは、たった一つの違和感を除けばであった。
その違和感は広い部屋の中のほんの一部に過ぎないが、ここにあるどのモノよりも異彩を放っていた。
「あの、これは……?」
我慢ならずに客の男は不動産屋にそれを指差し問うた。
男の指す場所。そこにはボタンがあった。
黄色い土台に赤い丸のボダン。まるで古いアニメの自爆スイッチのようなフォルムのボタン。そしてそのボタンの上には
『絶対に押すな』
と書かれてあった。
「それは絶対に押したら駄目なボタンです」
と、男の問いに不動産屋は答えた。
「押したらどうなるんです?」
「さぁ、絶対に押してはいけないボタンですので私にも分かりかねます」
飄々とした様子で不動産屋は答える。
「どうでしょう客様? これだけの部屋で家賃2万8千円です。お考えになられては?」
後日、客の男の引っ越しが決まった。
引っ越し先は、例の高級マンションの一室であった。
怪しいボタンがあるとは言え、あれだけの条件で2万8千円はあまりに格安過ぎた。
トントン拍子に話が進み引っ越しを終えた男は今日から住むことになる我が家を堪能する。フカフカのベッドに埋もれ、透明な机の上でオシャレなタンブラーを使いお酒を飲み、大きい窓から夜景を眺めた。
身分不相応で場違いな気もするが。なんだか成功者になった気がした客の男。
ただ、無視しようにも無視する事が出来ないものがあった。
――ボタンだ。
『絶対に押すな』の注意書きが添えられた謎のボタン。
「やっぱ、気になるよなぁ……」
と、男はそのボタンに近付く。少しお酒も回り酔った勢いで押してしまおうかと指を近づける。
「いや、やっぱり辞めておこう……」
直前になって怖気づいた男は壁のボタンをなるべく見ないようにまた席に戻って酒を飲む。
男が不動産屋に聞いたところ他の部屋の値段は20万を超えているとのことで、他の部屋に比べて10分の1近く安くなっていた。
そんな部屋に存在する『絶対押してはいけないボタン』
そのボタンを押す勇気は男にはなかった。
しかし、どうしても視界に入ると気になるので男はボタンを押さないように気をつけながら上からタオルを被せたのだった。
男が引っ越してから数か月たったある日だった。
顔面が蒼白になり、焦点が虚ろになっている男が部屋の中にいた。
元々、覇気を感じさせない中年の男だったが、今の状態は生気すらも感じさせない様子であった。
しばらくウロウロと部屋の中を動き回ったかと思うとおもむろに、入居して以来今まで一度も取る事が無かった『絶対に押してはいけないボタン』に被せたタオルを取り上げた。
そして今度は何の躊躇いもなく男は押してはいけないボタンを押したのだった。
「…………ハハッ」
ボタンを押した後も特に何も起こらない。そんな中で男の乾いた笑いだけが聞こえる。
そして男は予め用意してあった首吊り用のロープに首を通して土台の椅子を蹴り飛ばしたのだった。
「先輩、そういえばまた例の部屋で自殺が起きたらしいですね」
スーツ姿の青年が一人の男に話しかける。
「未遂だけどな」
青年に答えたのは男に部屋を紹介した不動産屋であった。
「あの部屋いつも自殺未遂が起きますけど、やっぱりボタンが原因なんですかね? 絶対に押したら駄目なボタンが住む部屋にあったらストレス溜まりそうですもんね。それで気が病んじゃって……て、話でしょうか」
「馬鹿、そんな事で何人も自殺するか」
「え、先輩何か知っている口ぶりですね、担当だからボタンの秘密を知っているんですか? 気になるんで教えてくださいよ!」
「あーもう、分かったよ、うるせえな。あんまり誰にも言いふらすなよ?」
不動産屋の男は煙たそうに後輩の相手をする。
「大丈夫、分かってますよ」
嬉しそうに答える後輩の青年。
「あの部屋、『元』事故物件なんだよ。それもかなり曰くつきのだ」
「あーまぁ、事故物件なのは予想していましたけど、元なんですね? あれ、でも入居者は毎回自殺していますよね? 今も事故物件なのでは?」
「もう三年以上死者が出てないんだよ、あの部屋では。三年以上何もなかったら告知義務もなくなる。だから、元なんだよ」
「つまり逆に考えれば、三年以上前は入居者の自殺も未遂に終わらなかったって事ですよね? 何でそれが急に未遂に終わるようになったんです? 幽霊の力が弱くなっているんですかね?」
元々事故物件であったのであれば、死者も出ている。それに先輩の不動産屋の口ぶりからするに何人かは自殺をしているように聞こえる。
「それこそボタンのおかげだよ。『絶対に押してはいけないボタン』。あれを部屋に取り付けてから未遂に終わる様になったんだよ」
「え、あのボタンですか?」
自殺の原因かと思っていたボタンが逆の働きをしていたと知って後輩は驚く。
「あのボタンを押すと近くにいる管理人の所に連絡が行くようになってるんだよ」
「え、まさか自殺する前に皆そのボタンを押してるって事ですか?」
不動産屋の男は頷く。
「カリギュラ効果ってあるだろ。駄目だと言われる程、やりたくなるってやつ」
「あーありますね、そんな気持ち」
「あの部屋に住んで自殺を考える奴は決まって自殺前にその欲求に耐えられずボタンを押すらしい。だから、迅速に対応出来て未遂に終わらせる事が出来るらしい」
「幽霊の呪いも人間の欲求を曲げる事は出来ないんですかね……? でも、その話で行くと、そもそも自殺前じゃなくても、欲求に耐えられなくて押しちゃう人いるんじゃないんですか?」
「普通は20万以上する家賃が3万程になる部屋にある『押すな』って書かれたボタンを誰が押せるんだよ」
「あーそっか、もう告知義務もないから、その値段の安さの理由がボタンにあるって勝手に勘違いしてくれるんですね。そりゃ、怖くて押せませんね」
「だから普通は押せない。押せるとすれば先がどうなってもいい時、つまり自殺する時だけって事」
「はーよく考えましたね先輩」
「俺じゃねえよ、そこのマンションのオーナーが考えたんだよ」
「オーナーさんですか。でも、そこまでするならもう貸し出さなければいいのに」
「何か理由があるんだろ。そこまでは俺も知らん」
「ま、事故物件だって知って黙って貸し出す先輩もどうかと思いますけどね」
「うるせえよ。それが俺達の仕事なんだよ。ほら喋ってないで仕事に戻るぞ」
「はーい」
話に満足した後輩は素直に仕事に戻るのであった。
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