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「いつつ……」


 夕方、石畳に影が伸びる帰り道。ベアトリーチェとアルベルトの二人は出店の敷物を畳み始めた市を通り過ぎる。喧嘩の結果はアルベルトの勝ちで決まった。


「殴られたところが痛むの?」


「別に……」


 ベアトリーチェの質問にアルベルトは顔を背けて答える。痛いと返事したらこの令嬢を悦ばすことになると思ったからだった。


「そう」


 宿に着いた。アルベルトが自分の部屋に入ろうとすると声がかけられた。


「ねぇ、部屋に来なさいよ」


 また足でも舐めさせられるかとギクッとした。が、後に続くベアトリーチェの言葉は意外だった。


「湿布貼ってあげるから」


「え……」


 ベアトリーチェは、アルベルトの見間違いでなければ優しく微笑んでいた。

 激しい喧嘩で、顔を何度も殴られたアルベルト。しかしその傷はもう既にリリスに回復魔法をかけてもらって青あざも残さず完治していた。


「もう治ってるよ。痛いって言ったのは幻肢痛みたいなもんだって、分かるだろ?だから大丈夫だ」


 回復魔法で急速に治療された患部に違和感が残ることは珍しくない。痛いような錯覚がする時もあるが、しかし完全に治っている。だが


「いいから来なさい。それとも命令がなくちゃ女の部屋一つ入れないの?」


 ベアトリーチェは意見を翻さなかった。

 アルベルトはしぶしぶ彼女の部屋に入った。今日はもう疲れた。これ以上振り回されるのはごめんだった。


 ベアトリーチェは棚を漁り水で濡らした魔法布を手に持つと、アルベルトを絨毯の上に座らせ、自分はその前に座った。暑そうに靴を脱ぎ、靴下を脱いだ。


「どこら辺が痛むの?傷はないから見て分からないわ」


「目の上……」


 ベアトリーチェの手が顔に近づいてきて、反射的にアルベルトは目をつぶった。湿布をつまんだ指先はそっと優しくおでこに触れた。ひんやりとした粘着性のある湿布が、既に何ともない患部に張り付き、アルベルトは痛みが引いたような気がした。


「あとはどこ?身体も殴られてたわよね」


「……なあ、妙に優しいな」


 流石にアルベルトも、彼女が今夜は横暴をふるう気がなく、親切であることに気付き始めた。意味のない治療ごっこを受けながら、彼は彼女の真意を測りかねた。

 ベアトリーチェはご機嫌に笑った。


「昼間に散々虐めたもの、今日はもう十分よ」


「……そうかい」


「今日のあんた、良かったわ。殴られてる姿も、殴ってる姿もね」


 まっすぐに褒められてアルベルトはむずがゆくも、誇り高く感じた。

 彼女の澄んだ青い瞳、光を反射するきめ細かな白い肌がいつもより近くにあった。「相変わらず綺麗だ」と彼は思った。

 ベアトリーチェは彼に上着を脱ぐように言い、背中側に回った。冷たい湿布が貼られ、彼はとても心穏やかになった。


「あんたは本当に私の命令なら何でもするのね」


「何でもはしねぇよ」


「そう、でも喧嘩はしたわ。とっても嫌だったでしょう。それとも喧嘩くらい、いつでも余裕なのかしら?」


「……」


 当然、余裕などではなかった。アルベルトは少しむすっと黙った。


「嫌がると分かってるならさせるなよこの気狂い女って思ってる?」


「……」


「思ってる?」


「思ってる」


 アルベルトははたかれるかと思ったが、彼女は「クス……」と微笑んだまま何もしなかった。湿布をまた一枚背中に貼った。


「ごめんなさいね、私、人が嫌がるところを見るのが好きなの。生まれた時から、どうしようもなく好きなの」


「知ってるよ。最悪な趣味だな」


「最悪な趣味かもね。特にこの趣味に迷惑をかけられるあんたみたいな隣人にとってはね。……でも」


 彼女は一拍置いた。


「でも……私信じてるわ、どんなに酷いことをしてもあんただけは私から離れていかないってこと。あんたはどんなに私のことが嫌いでも、憎んでいても、ずっと従者としてそばにいてくれるって信じてるわ。それだけは、この世で唯一信じてることよ」


 アルベルトはびっくりした。振り返ると、彼女は「どうしたの?」と首を傾げた。その所作があまりにもあどけなく映り、彼は目の前の女性が恐ろしい暴君であることを一瞬忘れた。

 いや、真実今の彼女は18の少女に過ぎなかった。人にはいろんな顔があり、リラックスしてアルベルトと会話している姿も、彼女の素顔の一つだった。

 アルベルトはたしなめるような、呆れたような声を出した。


「13年も一緒にいるのに、お前まだ俺のこと理解出来てねぇとはな……」


「……なによ」


 ベアトリーチェは少し不安になって眉をひそめた。彼は大げさにため息をついた。


「あのなぁ、俺は嫌なことを続けられるような人間じゃねぇぜ。やらなくて済むならやらねぇよ」


「……」


「だからな、お前のことが嫌いになったら俺はすぐさま従者なんかやめて金持って逃げてやる。俺は嫌いなやつの下で働き続けられるほど人間が出来てねぇんだ。……お前は、俺がお前のこと嫌ってると考えてるのかもしれねぇが、そんなわけあるかい。まだ、十分一緒に居たいと思ってるよ」


 アルベルトの落ち着いた眼差しで見つめられ、ベアトリーチェはびくりとした。彼の言葉で自分が思ったより動揺しているのに驚いた。

 言葉の意味を何度も咀嚼し、それから喜びが気体のように下腹から舞い上がってくる感覚がした。彼は自分にまだ愛想を尽かしていないのだと、嬉しくて頬が紅潮するのを感じた。


 ベアトリーチェはアルベルトをその裸足で蹴った。


「いてっ、何すんだよ」


 アルベルトはずれた目線を慌てて再度彼女に向けた。ベアトリーチェは笑っていた。だがそれは、人を傷つけた時に見せる愉悦の表情ではなく、幼い少女のような歯を見せた笑顔だった。

 アルベルトは毒気が抜かれた。ベアトリーチェはわがままな調子で言った。


「なによ、私があんたを蹴るのに許可が必要?」


「必要だわ」


 二人は、それから和やかに会話をした。アルベルトは30分ほどで彼女の部屋を辞去した。錯覚の痛痒はもう治っていた。翌日に使う甲冑の点検をして、ぐっすり眠った。


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