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彼岸の華   作者: 杏ころもち
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最終章 彼岸の華

 最終章 彼岸の華

嗅ぎ慣れぬ硝煙の匂いが、部屋の中に漂った。

綺羅星さんが、拳銃を握っていた両手を緩慢な動作で顔の高さまで上げていく。そのままスルリと掌中から拳銃が滑り落ち、地面にぶつかって乾いた音が鳴り、その様はまるで磁力を失った磁石のように呆気ないものだった。

「もう・・・誰だか知らないけれど、邪魔しないで欲しいわ」と綺羅星さんが、自分の足元に残った弾痕を一瞥して、心底迷惑そうに口ずさんだ。

綺羅星さんを除くその場にいる全員が、慌てて後方を振り返った。

そこには何とも形容し難い装いをした人間が、数人でたむろしていた。先刻まで真月がしていた仮面を皆一様に被り、丈の長い黒の外套に身を包んで粛々と佇んでおり、仮面のデザインは違えど、それは中世のペスト医師の様な外観であった。

その内の先頭に立っている人物が、先程の綺羅星さんのように拳銃を構えていたが、唯一彼女と違った点は、その所作には優雅さが微塵も感じられなかったという点であろうか。

異様な雰囲気を放ったまま、誰一人として何も語らずにいたため、室内には不気味な静けさが充満していたが、真月がため息をついたことでようやくその沈黙が破られることとなった。

「危ないじゃん、跳弾が当たったらどうすんのよ」

彼女の目には先程と違って儚さ、繊細さという色合いは全く感じられず、思いやりのないような無遠慮さだけがハッキリと残っていた。

「探したぞ、勝手な行動は謹んでもらいたいな」と拳銃を持った人物が重々しい響きを持って口を開き、とても丁寧でハッキリとした滑舌であったが、声そのものは老練の紳士を連想させるものであった。そう咎められた真月は、わざとらしく大きく舌打ちをして彼の元へと足を向けた。その場を離れる直前にチラリと緋奈子さんの方を見て、「じゃあねラッキーガール」と吐き捨てるようにして言うと、それが聞こえたのか、緋奈子さんは何か汚い言葉を吐いたようだがそれもよく聞こえぬ程か細い声であった。

真月が私の横を通り抜ける際に一瞬だけ足を止めてこちらを見据え、言葉に迷ったような不自然な間を置いた後、視線を元に戻して言う。

「今度は、ちゃんと殺すから」

「真月・・・」と痛みでまともに回らぬ口で返す。だが彼女は、そのまま再び足を進めるときに周りの誰にも聞こえないような小さな囁きを残した。

その言葉の意味をきちんと理解するより早く、妹はまた手の届かぬ距離にまで遠のいており、歩幅にして十歩程度の距離であったが、今の私には遥か彼方、地平線の果てのようにさえ感じられていた。

―――だから、次はちゃんと殺してね。

彼女の囁きが脳内で蘇り、その後を追おうと遅れて動き出すが、先程の老紳士然とした人物に一睨みされ立ち尽くすこととなった。

「後を追おう、等とはゆめゆめ考えないでくだされ。無関係の人間を一人、殺めてしまった詫びとして、この場は何もせず去るのです。もちろん、追ってくれば何の保証もしかねます」

理路整然とした物言いに聞こえたが、実際の発言内容は自分本位で傲慢さを隠そうとしていないものであった。

彼は深く一礼し、くるりと踵を返したが、立ち去る直前に綺羅星さんが未だ背を向けたまま声を発した。その声はとても軽やかで明るいものだったが、その表情は凍ったように静止しており、その視線は対極的で虚空を焼き尽くさん限りに燃え盛っていたことが、どこか彼女の二面、あるいは三面的な特徴をまざまざと示しているような気がしてならなかった。

「それは誰に対しての詫びなのかしら」

綺羅星さんのそのドス黒い感情が込められた声に私はゾッとして、背筋を凍らせた。

「私達自身のけじめと、社会に対する詫び・・・ですかね」

「はっ、耳障りの良いこと。目的達成のためには何だって犠牲にする・・・そんなエゴイスティックで、汚い自分たちを美化したいだけじゃないかしら」

彼女が早口でそう言うと彼は数秒間押し黙り、それから、「返す言葉もございませんな」と荘厳な口調で呟いた。

すでに他のペスト医師共は、一人を除いて暗い地下道の向こうに消えており、その後を追うかのように蛾が二匹飛んでいった。仮面の青白い光に魅せられて漂う姿を違う私が意味もなく眺めている。

失礼、と言い残し再度老紳士は立ち去ろうとする。その隣で死んだように佇んでいた残りのペスト医師が、じぃっと倒れたままの緋奈子さんを一心不乱に見つめていたが、彼に促されてようやくゆっくりと影の中に消えていく。

その消えていく残像に、綺羅星さんが言葉を投げかける。

くるりと優雅に身体の向きを変えて、一心にもう半ば闇と同化しつつある背中をキッと睨みつける。その灼熱を宿す瞳は、やはり紅蓮の宇宙を想起させるほど美しく、そして残酷な力強さを秘めていた。

「貴方達のリーダーに伝えておきなさい」

空気を深く吸い込み、激しく感情を波立たせて彼女は続ける。握られた拳は震え、目は爛々とその主の怒りを吸収して輝く。

「私も、私の好きにさせてもらう。せいぜい墓穴でも掘って待ってろ・・・ってね」

その怒りを通り越した、呪いともいうべき言葉に老紳士は暗闇の向こうから、「御意に」と返した。その夜光虫の光が完全に見えなくなるまで、綺羅星さんが目を背けることはなかったのだった。

 (ⅱ)

空には青々と光る月が昇っており、辺りはその優しい月の光を浴びて幻想的に青じんでいた。流れる水も、空も、虫の音も、私達が刻む足音も、私達自身も例外なく、その幻想的なブルーに染まっている。

遠くの方からサイレンの音が徐々に近づいてきていた。先程紅葉が椿さんに電話していたのでもうじきここに来るのだろう。それより先に私達は立ち去らねばならない、と紅葉は言っていた。どうやら椿さんと綺羅星興信所の繋がりはあまり公にして良いものではないらしかった。

あの後すぐに気を失った緋奈子さんを紅葉がおぶって、その場を立ち去った。私が祖母のことを口にするより先に、「あの場所にもう意味はないわ」とだけ綺羅星さんが呟き、紅葉はその思いやりのない発言を強く諌めたけれど、「見ないほうが良い」と私の方に背を向けて蚊の泣くような弱い声で彼女が告げたため、私はひゅっと息を飲み込み黙ってそれに従った。どうやら私と緋奈子さんと別行動になっていた間に祖母の遺体を見つけていたのだろう。

祖母の魂に触れたときから、分かっていたことだ。現実感のない今は、ただの事実としてしか理解できていない。

喪失の苦しみは、じわじわと精神を蝕むものだと知っている。

紅葉はそんな私に気を遣ってか、「どうか、亜莉亜さんを悪く思わないでください・・・」と苦しげに呟いたが、今はそんなことはどうでも良かった。

世の中には、隠すことに意味があることと、無いことがある。それだけだ。

正直に言って、もう感情が麻痺していて、どうしようもなくなっていた。頭の整理が追いつかず、今も低速で違う私がせっせとその処理を行っているような状況なのだ。

数分前の記憶から脱却し、再び青い月を黙って眺めていると、綺羅星さんの苦しげな息遣いが耳に入ってきた。

「重く、ないですか」と私は、自分を背負っている綺羅星さんに聞いた。

大した怪我はしていないと言ったのに、彼女は頑なに私を歩かせようとせず、「貴方も相当疲れているはずよ、首だって気絶するほど締められていたのでしょう、跡が凄いわよ。途中で倒れられるほうが迷惑なのだから、黙って捕まりなさい」と言葉は厳しかったが、優しい面持ちで綺羅星さんは私にしゃがんで背を向けたのだった。

私の問いに、彼女は首だけで少し振り向いて答える。

「良い質問ね、自分と変わらないぐらいの人間を背負って平気な顔ができる程、屈強な女に見えるのかしら?」と、いたずらっぽく彼女が笑う。

「私は・・・多分綺羅星さんより軽いと思います」

「・・・いい度胸ね、帰ったら覚えておきなさい」と途端に目を真剣にして彼女が返したが、私は体重の重さというよりも、綺羅星さんのメリハリのあるボディラインを褒めたつもりだった。だがそれも伝わらなければ無意味だった。

そう、伝わらなければ・・・どんな意思もナンセンスなのだ。

私があの日、いやきっとずっと前から、ちゃんと真月の言葉を聞いてあげられていたなら・・・。もっと違う結果がここに残っていたのではないか、そう思えてならない。

そう考えると、後悔が胸の奥から無限に湧き上がってくるようでとても苦しかった。違う、苦しかったなんて言葉は甘え過ぎだ。全てあの頃の私が選んだことだ。

人間は、時が過ぎ去って結果が出た後にあのときこうしておけば良かった、ああしてあげれば良かった、などと過去に思いを寄せる。なんて愚かな生き物なのだろうか。そのときに、そうしなかった自分が、本当の自分の姿だというのに。

私の思いを他所に、紅葉が口を尖らせて、隣を歩く綺羅星さんを横目で睨んで呟く。

「それじゃあ、僕が屈強な女みたいじゃないですか」

「なぁに?違ったの?それならまず、その喋り方と服装を女性らしくするところから始めてみてはどうかしら」と綺羅星さんがクスクスと愉快そうに紅葉をからかった。

「いいんですよこれは・・・。僕のスタイルなんですから」

思えば紅葉は出会ったときからずっと、スラックスにワイシャツ、その上にベストを重ねて着用しているファッションだった。確かに世間一般で言う女性的なファッションとは程遠く、男性的と表現して問題はない。

ふと、この二人出会ったときのことを思い出す。もう遠い昔のような気さえするが、まだ数日前の話である。そんな知り合って間もない人の背中にこうしておぶられているのは何だか奇妙なものではあった。

そうか、丁度この柵の上の道で出会ったのか、と私は少し体勢を起こして木の柵で仕切られた上の段を見据える。

私と緋奈子さんと、彼女たち二人の道が交差した運命の場所とも言うべき道。この場所を通る度に今日のことを思い出して苦しくなるのだろうか、それともいつか、そんなこともあったと悠長に懐かしめる日がやってくるのだろうか。

その日はきっと、この痛みを忘れてしまったときなのだろう。

ならば、そんな日は永遠に来なくていい。

この痛みは私だけのものだ。過去の戒めにするつもりはない。この思いを冷凍庫にでも突っ込んで眠りにつかせたりはしない。

ずっと胸の中で燻り続ける消えない炎。おそらくそれが綺羅星さんの胸にも宿っていて、彼女はその目的のために生きているんだと勝手ながら想像する。

あの謎の集団のことだって知っているようであり、彼らの消えゆく背中を睨みつける瞳が網膜に鮮烈に焼き付いている。

その消火できない炎を胸に抱いたまま生きていこう。いつかその思いがまた真月と引き合わせてくれるかも知れない。そしてそのときには、きちんと彼女を手繰り寄せられるよう強くなろう。

「そういえば、僕たちが秋空さんたちと出会ったのもこの近くでしたね」

私の思考を、紅葉の大げさなくらい明るい声がかき消した。彼女なりに私を元気づけようとしているのかもしれない。

「ええ、私もそれを考えていました」

「色んな偶然が重なってこうして一緒にいられるんですよね・・・」

「あのときは仕事か何かでこの近くにいらしてたんですか?」

私がそう紅葉に問いかけると、彼女はふっと呆れたように息を漏らして、無言のまま綺羅星さんを数秒見つめた後口を開いた。

「さあ・・・あの日はこの人が何も言わずに僕をあちこちに連れ出したんですよ。よくあるんですけどね、勝手に依頼を受けてることが」と言って再び綺羅星さんの方を見やったが、今度は非難の色が強く表れており睨みつけるような視線だった。だがその矛先となっているはずの彼女はどこ吹く風と無視を決めこんでおり、視線を遠くに飛ばしたままである。

「ですが、綺羅星さんのその行動のお陰で、お二人に巡り会えました」と言い、一度目を閉じて恥ずかしさを押し隠した後、「本当にお二人には感謝しています」と礼を述べた。

紅葉は少し面食らったような面持ちになったが、すぐに相好を崩した。

「僕も、出会えてよかった・・・ただ、今後は勝手に仕事を受けて、書類を押し付けるのだけはやめて頂きたいですね」

やはりそうした年相応の笑顔を浮かべていると、幼い少女のように私の目に映った。確かに緋奈子さんと紅葉の二人は同年代でも容姿の整っているタイプに違いない。二人の隣に並ぶのはやはり同じ女として気が引けるものがあった。

沈黙を貫いていた綺羅星さんが、小さく頷きながら、「そうね」と漏らした。その口調が何だか彼女らしくない気がして不思議だった。だが彼女に背負われている私にはその表情は伺い知れなかった。

紅葉は涼しい顔をして会話しているが、背中にはぐったりとした緋奈子さんを背負っており、筋肉質な我が友のことを考えればその重さは中々のものではないかと予測できる。

その後、暫し三人の間に沈黙が流れたが、その穏やかな沈黙は三人にとって別々の意味を持っていたに違いなかった。その証拠に、紅葉は天を仰ぎ星の数でも数えているのかといった様子であったが、その隣にいる綺羅星さんはというと、ひたすら正面だけを見据えて歩いているだけだった。まるで今は何も考えたくないと言わんばかりの一途な歩みを身体全体に受けながら、隣で眠る緋奈子さんへと焦点を合わせた。

その腫れ上がった足首には、申し訳程度に包帯が巻かれており、逆にその痛々しさを増幅させているようで、さらにその整った顔立ちは苦しげに歪められ、決してその眠りが安寧たるものではないことを証明していた。

その魅惑的な首筋にも手の型がくっきりと残っており、彼女の無垢さを汚してしまったような気がして、その原因を作ったのはこの私なのだと思うと、その罪が抗いきれぬほどの重さを持ってこの脆弱な心にのしかかって来た。

ふいに、緋奈子さんの口元が動いた。それはあまりにも小さな動きで、ややもすれば見落としてしまうようなものであったけれど、彼女の桜色の唇が微動するのを私は吸い寄せられるように見つめていた。

「みづき」と彼女がほとんど音もなく呟く。

私以外には聞こえないほど脆く、静かだったけれど、私の瞳を濡らすのには十分すぎるほどであった。

その涙を零さぬように、天を見上げる。

高い天には、依然として青い月と、消えた命を悼むような星々の煌めきだけが広がっていた。

 (ⅲ)

あの夜から数日が経った。

私達が現場を去った後、椿さんたち警察が内部の調査を行ったそうだがまともな痕跡は残っておらず、回収できたものは祖母の遺体だけであったそうだ。その遺体も、ひと目見て司法解剖が必要で、その上DNA鑑定が必須だと分かる凄惨極まりない状態だったらしく、綺羅星さんの助言を聞いておいて正解だったのかもしれないと思う。お陰で今でもまだ祖母の葬儀は出来ていないわけだが、かえってその方が良かったかも知れない。

幸か不幸か、私達には他の親族もおらず、祖母の葬儀を迫る声もなく、そして私の身は興信所居候という形で収まることとなった。多少学校と揉めたそうだが、有耶無耶にして話を片付けたようだ。これ以上の迷惑は、と考えたが、綺羅星さんが、「貴方の未来は私のものよ」と冷たく断言してしまったためもう何も言えなかった。学校へは後々きちんと報告すれば、ある程度納得を得られた了承にはなるだろう。彼らは私の身を案じているのではなく、世間体を気にしているだけだ。本人の強い希望があればこれ以上は口を挟むまい。

それから綺羅星興信所で何度目かの夜を明かしても、悪い夢は覚めてくれなかった。悲しくてしょうがないはずなのに、涙は一滴も出てくれず、虚ろに空いた穴だけがいつまでもうずいて眠れなかった。

私は学校では公休扱いとなっているそうだが、同じようにして巻き込まれたはずの緋奈子さんはもう学校に通っているらしい。あれから一度だけ、松葉杖を痛々しく操り興信所を訪ねてきてそう話してくれたとのことだ。しかし、彼女は私には会わずにそのまま帰路についた。

きっと、もう関わりたくないのだろう。

彼女の足首は全治数ヶ月の骨折だったらしく、彼女は剣道の大会を諦めざるをえなかった。緋奈子さんがどれほど剣道に心血を注いでいるかは、日頃の言動と、何よりもあの日私の前で奮ってみせた技の冴えがそれを物語っていた。そんな彼女の努力を無駄にさせてしまったことが、私を今の無気力で怠惰な生活へと突き落としてしまっており、彼女に嫌われても当然であると分かっているものの、一度覚えた温もりが消えてしまうことはあまりにも辛かった。

ため息を吐いて、窓の外を見据える。今日もどんよりとした曇り空だ。窓が鏡のように室内を反射し、死んだような目付きをした自分が映ってゾッとした。

祖母を失い、真月もまた失って、その上緋奈子さんにも見捨てられた。妹を取り戻すために強くあろうとあの夜に決めたはずなのに、たった数日の内にそんな前向きな考えは消えてしまった。

結局、私の根幹たるものはこれなのだ。

暗く湿った日陰で周囲を呪うだけの自分。

瓶底でガラス越しの外を見つめて憧れを抱く少女。

私を照らしていた二つの太陽が沈み、半身とも呼べる月もまた私の裏側に消えてしまった。

この部屋で死んだように生きているもの、それは自分の肉体のようでもあれば、想い出のようでもあった。だが例えそれが何であれ、消し去ることの出来ない感情の膿と同義であったことは間違いない。

いっそ・・・あの日・・・。

私はそっと、自分の首に両手で触れた。真月につけられた痣が未だ濃く残っている。

このまま強く握り潰せば、何も考えずに済むのであろうか。

私が生きている世界より、私のいない世界のほうが、どうしてこんなに自然な存在に思えるのだろう。

不意に、腐臭すら漂っていそうな静寂に包まれていたこの部屋に、ノックの音が響いた。私はチラリと時計を眺めて、そろそろ夕飯の時間か、と今にも止まりそうなほど緩やかに回転している頭で考えた。

「秋空さん、よろしいですか」ともう聞き慣れた紅葉の声が鼓膜を打った。

私が事件後、自堕落な生活を続けている間、彼女にはずっとお世話になりっぱなしになっていた。綺羅星さんのことを生活能力がない人間と呆れていたが、今の私はそれ以下の屑同然になりかけている。

「どうぞ」と抑揚のない声で私は答える。

扉が音を立ててゆっくりと開いた後、部屋に入ることなく紅葉は顔だけを覗かせて私を見ると、想像以上に無気力な姿に映ったのか、彼女は仕方がないなぁと言わんばかりに小さく笑って目を閉じた。

「秋空さん、そんなことでは笑われてしまいますよ」

紅葉の言葉の意味が理解できなかったが、そんなことはすぐにどうでもよくなり、窓の外に視線を移した。食欲もなければ、考えるのも億劫だったし、考えてもどうにもならないことが世の中には沢山あるのだと数日間で学んだ私は、思考を手放すのが最近の癖になっていた。自分を自分たらしめる最も尊い行為を投げ捨てた日々は味気なかったが、生きていくだけなら苦労はしなかった。

紅葉が、「どうぞ」と小さく言ってから部屋の入口から離れていく気配がした。勝手にどうぞ、という意味かと受け取り、私はなんとなく紅葉の去った部屋の入口を一瞥した。

「・・・久しぶり」

するとそこには、松葉杖で器用に片足立ちしている緋奈子さんが苦笑いを浮かべて立っていた。ただその松葉杖よりも、彼女の長く、高い位置で結われていた黒髪が初めからそこになかったようにカットされていたことに驚き、目を見張った。バッサリと切り揃えられた髪型は彼女の美しさをまた別の形で引き出させていて、とても似合っていた。彼女は私の目線に気がつくと、「似合うかな」と前髪を一束掴んで私に聞いた。

だがその問いに答えることは出来ずに、私は一瞬幻でも見ているのかと思い、何度も瞬きをしたがそのシルエットが霧散することはなく、ちゃんと彼女はそこに立っていた。その急に押し付けられた自分が望んでいたはずの現実が怖くなり、私は俯いた。

気力を振り絞り、どうして、と問いかけようと試みたのだが声がまともに出ず、口の形だけが鈍く変わっただけになった。

緋奈子さんは片足でぴょんぴょんと跳ねながら、身体の向きを変えて扉を閉め、再びこちらを振り返る。強くしなやかな動きをしていた彼女の、その弱々しい振る舞いに胸が痛くなり、渋面を作る。

「そっちに行っても良い?」と彼女が当たり前のことを申し訳無さそうに聞くから、私はようやく、「はい」ときちんと声に出して言葉を発することが出来た。

数歩の跳躍の後、彼女がベッド際まで来てその縁に腰を下ろし私に微笑んだ。その燃え尽きかけの太陽のような遠慮がちな笑みに、私は反射的に謝罪を口にしていた。

「・・・ごめんなさい」

「え?何が?」

「色々巻き込んでしまって・・・足だって、その、大会だって・・・私のせいで」と布団の上で私は両の掌を強く握り込む。緋奈子さんはそんな私の懺悔を聞いて、激しく首を振った。

「違う、それは違うよ」

「違いません、私のせいで、危うく殺されるところだった・・・」

「違うんだって、深月、そういう話がしたいんじゃないんだ、私は」

「今更話すことなんて、何もないじゃないですか、もう、意味なんてないんですから」

その投げやりな言葉に彼女は、明らかに怒気を露わにしてまなじりをキツくしたが、その目には失望の色もわずかに感じられた。

俯きがちだった視線をやや上げて、獲物を狙う肉食獣のような彼女の視線と相対する。こういうときの彼女は想像以上に頑固で絶対に自分の意志を曲げないことを学んでいたので、私はいよいよ追い詰められた心地になってしまった。

自宅から持ってきて壁に掛けた振り子時計が何かの労働のように、永続的に左右に揺れている。彼女に対して謝罪すべきか、否かを迷っている私の心情を如実に表している気がしたが、やはり話すべきことがないと言った手前、それを翻してまで言葉を発する勇気は私にはなかった。

痺れを切らしたのか、結局緋奈子さんの方から腹ただしそうに口火を切る。

「意味がないって、なに」

「・・・そのままの意味です」

チラリと彼女の方を一瞥すると、拳を強く握って身体を小さく震わせていた。

会いたかった、本当はその一言を早く彼女伝えたかったのに、私の中のどうにもならないほど臆病な心が拒絶を恐れてそれを妨げていた。今更そんなことを言える身分ではないと分かっていたし、彼女が私と共にいたことで不幸になってしまったのは、直視し難い真実でもあった。

どうせ終わるなら、引導は自分の手で渡そう。

その方が、きっと二人にとって一番後腐れない綺麗な終りを迎えられるはず。

私はそう信じて、窓の外に視線を投げながら呟いた。

「もう、私に関わらないで・・・」

誰も住んでいない廃屋のように空虚な静謐が、一瞬だけ私達の間に訪れた。だがそれも束の間で、怒りに燃え盛った緋奈子さんの手によって私の胸ぐらが掴み上げられたが、そういえば、最近まともに着替えもできてないなぁ、とどうでもいいことを考えて現実から乖離しようと脳が小賢しく働いていた。

彼女はその手に更に力を込めて、無理やり私の顔を自身に向けさせた。様々な感情が、季節が移り変わるようにゆっくりと、しかし激しくその瞳を彩っていた。

「ふざけんな、ふざけんなよ!」

彼女はそう叫ぶと、片膝をベッドについてその身をこちらに乗り出して私を半分ほど押さえつけるような形になった。

目と鼻の先に激昂する緋奈子さんの顔があって、その首筋には未だにハッキリと件の痣が残されていた。

一つの痕を複製して貼り付けたような痣が、私達の首元には刻まれていた。

それはお揃いの飾り物のようにも見えたし、罪人に押される烙印のように穢れたものにも見えた。

「深月は勝手だ、こっちの気持ちなんて考えようともしてない!」

「・・・私は」

「私なんかより頭がいいから、色んなもんを考えてるんだってのは分かるよ。でもさ、考えてあげることと、それを決めつけるのは全く違うんじゃないの?」

私は彼女のその一言にハッとした。

「私の気持ちは、私が決めるよ。私がどうしたいのか、誰と一緒にいたいのか、何が一番大切なのか、全部・・・全部私が決めていいもののはずでしょ!」

彼女は一息にそう告げて息を整えていたが、片足が上手く使えないからか、不意にバランスを崩して私の上に倒れかかりそうになり、慌ててそれを受け止めた。

覆いかぶさるようになった緋奈子さんの純然とした双眸が、私のアンバランスな感情に澱んだ両目と重なった。

今日初めてきちんと目があった気がした。どうしてなのかは分からなかった、だが、今にしてようやく、彼女がここにいて、自分がここにいることに気づけた気がした。

気が昂ぶっているからなのか、それとももう五月も終わりにさしかかり、初夏の熱が増しているからなのか、彼女の身体がじんわりと熱い。

「そうね・・・ごめんなさい、緋奈子さんの言う通りだわ」と自然と言葉が漏れた。それを聞いて彼女は蕾が花開くようにゆっくりと瞳に宿した感情の色を変えて、私に微笑んだ。

「ごめんね、深月、すぐに会いに来られなくて」

「そんなことはないわ、私だって会いにいかなかったんだもの」

「喋り方、敬語じゃなくなってる」と更に明るく微笑んでそういうものだから、私は少し目を丸くした後、小さく笑って、「変かしら」と問いかけた。当然彼女は、「そんなことないよ」と答えてくれるのだった。別に何もおかしなことはなかったのに、それから短い間二人で笑いあった。段々と二人して泣き笑いの様相に変わっていくのが分かったが、もう悲しくはなかった。

笑い声が収まり涙声で緋奈子さんが私に優しく、でも今にも消えそうな声で囁いた。

「守ってあげられなくて、ごめん」

彼女の流線的で美しい腕が私の喉元に伸ばされて、割れ物を扱うようにそっと手で触れた。私の首についた痣を優しくなぞっている内に、ついに彼女の両目から雫が溢れ出した。

微笑んだまま泣いている彼女を見て、この一瞬を切り取って自分だけのものにしたいと強く願った。

十年前、事故に遭って家族を亡くして、そして今再び家族を失った。

過去も、今も、残されるばかりの私の胸に抱かれる疑問は同じもので、それはどうして自分がこんな目にとか、こんなの夢なんじゃないかとか、そんなものじゃなくて。

どうして自分も連れて行ってくれなかったのか。

いつもいつも、そればかり考えさせられた。

月が昇って、沈んだせいでまた太陽が昇ってきて、日陰者の私は居場所を探し、端の方でなんとか呼吸をしている。

不思議だった。人間が生きるのにより最適化されいくこの世界で、自分が生き辛い場所の方が圧倒的に多いことが。

生きていける場所を見つけても、そこは流星の煌めきよりも呆気なく失われていった。

もしかすると、いつかは目の前の彼女も消えてしまうのかもしれない。

でも、今はもうそんなことはどうでもいい。

私も彼女と同じ涙声になって、瞳を濡らす涙を感じながら笑う。

「守ってくれて、ありがとう」

私のその言葉に、緋奈子さんが目を大きく見開いた。それによって瞳から大粒の涙が溢れ出し、大粒の慈雨のように私に降り注ぐ。

この瞬間を胸に深く刻み込んでおけば、私はまだ生きていける。

生はいつだって終わりに出来る、本人がそれを望めばこんなに容易いことはない。だから、いつだって家族に会いに行ける。

緋奈子さんの身体をゆっくりと横たえて、彼女と隣り合って寝そべり、その手をとる。不思議そうな表情をしていた彼女の瞳を見つめた状態で手を私の胸へと当て、その行動に顔を赤くして動揺する緋奈子さんへと私は告げる。

「緋奈子さんが、守ってくれた命よ」

それを聞いて彼女はハッとしたように目を大きくしてから、突然私を強く抱きしめた。耳元で鼻をすする声がして、私はその頭をゆっくりとした手付きで撫でた。きっと泣き顔を見られたくなかったのだろう。

彼女は何度も、「ありがとう、ごめんね」と夢中で呟いていた。その彼女の感情に突き動かされるように、私も同じようにその言葉を繰り返して頭を撫で、髪を指で梳いた。

人は、時間には触れられない。

過去にも、未来にも、もしかしたら今でさえも。

万物が流転していく中で、二度と無い一瞬が無限に生み出されて、その悉くが例外なく死んでいく。

だからといって、今を大切にしましょう、なんて調子の良い戯言を吐くつもりはない。

私達はきっと、過ぎ去ったものにしか思いを馳せることの出来ない未熟な生き物で、失わなければそれの持つ本当の価値にすら気づかないのかもしれない。

だから・・・私は手を伸ばしたい。

本当に消えて、間に合わなくなる前に、真月にも、緋奈子さんにも。

私は嘘偽りのない感情を込めて彼女に告ぐ、それこそ万感の想いで・・・。

「緋奈子さん、本当に貴方に出会えて良かった・・・」

「私もだよぉ・・・」と未だ際限なく涙を流し続ける彼女が今度はとても大きな声で言ったため、少し耳が痛くなったが、それも今はどうしてか嬉しく思えた。

それから彼女が落ち着くまで背中を擦っていると、ようやく彼女は涙を止めて私から身体を離した。目が赤々としていて、鼻水をすすっている姿だったが、これはこれで素敵な姿だった。

「あのさ・・・」ともじもじしながら彼女が俯いて口を開くので、どうしたのだろうかと次の言葉を待っていると、意を決したようにして緋奈子さんが私の目を強く見つめた。

「あのとき叫んだみたいに、また私のこと、緋奈子って呼んでほしい」

「え、え・・・と?」

あのときがどのときだか分からなかったが、その決意ある表情に対して随分と可愛げのある台詞を口にしたものだから、私はついつい声を出して笑ってしまった。

「あ!笑うなよぉ」と口を尖らせて彼女が言う。それがまたおかしくて、更に声を大きくして笑ってしまい、彼女は不貞腐れたようにしてそっぽを向いたわけなのだが、私はその仕草に胸が焼けるような愛おしさを感じて、無意識のうちにその身体を後ろから抱きしめた。

目を閉じ、一音一音噛み締めながらその名を口にする。

「緋奈子・・・これからも側にいてね」

その言葉でまた彼女が泣き出してしまい、それから彼女が泣き止むまでずっと抱きしめたままで残りの時間を過ごした。

完全に日が暮れて、松葉杖を突く彼女を紅葉と一緒に外まで送り出してから、私は紅葉にお礼を述べた。彼女は笑って、「これが一番の薬だと思いましたから」と言ってのけたが、その優しい言葉にまた涙が出そうになり、それを誤魔化すように私は深くお辞儀をした。

こんな情けない自分を数日の間文句一つ言わずに置いてくれていたのだから、それだけでも頭が上がらない思いでいっぱいだったのに。

その後階段を登り、事務所を抜けると綺羅星さんがカウンターチェアに座して無感情な顔つきでカップ片手にこちらを見ていた。どうやら自室にいたらしく、私と目があったので泣き顔を冷やかされでもするかと思ったが、彼女は上品に微笑んだだけで何も言わなかった。

両手を打って、「さあ、夕飯にしましょう」と紅葉が明るい声で言う。

ささっと準備の手伝いに入り、夕飯の支度を行う。すぐに食卓には美味しそうな料理が揃い、私は久しぶりに空腹を強く感じていた。

何口か食べるまでは皆一様に口を閉ざしていたが、暫くすると、紅葉がこちらを優しげな表情で眺めて言った。

「すっかり元気になったみたいで、良かったです」

「はい、本当におかげさまで。お二人にはご迷惑かけました」

そう私が答えると、綺羅星さんが極めて淡白な口調で、「早すぎるくらいね、もう少し時間がかかるかと思ったわ」と呟いた。

「そういうわけにもいきませんから・・・」

私はそう返して、麦茶を喉に流し込んだ。

回復した気力が、食事をさらに有意義なものへと高めていき、それによって低い回転数で回っていた頭脳が徐々に音を上げて稼働していく。

そう、そういうわけにもいかないのだ。まだ、最後にやるべきことがある。これからの新しい一歩を踏み出すためには、見過ごすわけにはいかないことが。

私は手を伸ばすべきもう一つの存在へと、意識を向ける。答えを出すことに意味を感じず、ずっと遠回しにして避けていた問題に対峙する覚悟を決めて、私は深い海へとその思考を投げ込んだ。

 (ⅲ)

 私が自室を後にした頃には時計の針は十二時を回っていた。宵が深くなり、外には街灯の光すら飲み込んでしまいそうな圧倒的な闇が広がっていて、寝るのが比較的早い紅葉はもう数時間前には自分の部屋へと戻っており、今や物音一つ立てていない。

廊下を進み、一番は端の部屋の前で深呼吸を二度ほど行い、しっかりと準備した情報を脳内で再確認すると、私の中の一番冷静な部分が静かに頷くのを感じる。

覚悟を決めて、本を持った片手で恭しく扉をノックする。私が言葉を発するより早く部屋の中の主が、「どうぞ」と答えたので、「失礼します」と告げてドアを開ける。

彼女は私の姿を見るや否や、呆然とした面持ちで動きを静止させていたが、数秒も要さず一瞬の内にいつもの優雅な微笑を浮かべ「紅葉だと思ったわ」と呟いた。

「あの、読了しました・・・」

「あぁ、素敵な作品だったでしょう?」と彼女は年相応に朗らかな笑みを浮かべて言ったので、私は肯定的な返事をしてからその場に黙って立っていた。

読書中だったようで、天蓋付きのベッドにその身を横たえて本を開いていたその姿は、見るものに育ちの良さを感じさせ、何度見ても感嘆を呼び起こすものがあった。

扉の外には漏れない程度の音量でクラシックが流れており、ベッドサイドに取り付けられたライトが放つ暖色の光りと綺麗に調和した雰囲気が室内に満ちていた。

「眠れないのね」と私の手に握られている本と枕を交互に視線だけで眺めて呟く。

私は可能な限り自然な口調で、「今夜、お供してもよろしいですか」と尋ねた。

「ふふ、お供ってどこに?夢の中、それとも本の感想論述会?はたまた濃密な夜の時間を・・・ということかしらね?」

綺羅星さんは愉快そうにコロコロと鈴の音を鳴らしたが、ややあって柔和な顔つきになると、身体にかけていた布団を半分ほど剥がして、「いらっしゃい」と返事をした。

私は頷いたかどうか分からない程度で首を縦に振り、その空けてもらった空間に近寄っていき、身体を滑り込ませる。数日前もこのベッドに身を沈めたが、そのときよりも心地よく身がマットに吸い込まれ、尚強く彼女の甘い香りを全身に感じた。

その底の見えない輝きに満ちた瞳が本へと帰る前に、私はおずおずとした風に口を開いた。

「私の部屋に飾ってある絵、あれは誰のものですか?」

「この家にあるのは全部私の物よ」と私の唐突な質問に間髪空けずに答えると、少し口元を緩めながら、「紅葉もそのうちの一つね」と漏らした。おそらく半分冗談だが、残りの半分は本気なのだろう。

「では、あの絵も綺羅星さんが用意したものですか?」

「・・・いいえ、あれは違うわ」と今度は少しの間を置いた。私が、では誰のものなのかと問う前に先回りするように、「忘れてしまったわ」と彼女らしくもない一言を付け加えた。その言葉が嘘なのだということは、簡単に察することが出来た、というか彼女自身隠す気も無さそうで、つまりは話す気がないということだ。

「『我々はどこから来たのか、我々は何者なのか、我々はどこへ行くのか』・・・ゴーギャンの作品ですよね」

夢現のようにして私がベッドの中でそう呟いたので、彼女は自然とこちらに目を向けたが、明らかに先程までの、ある種の母性を感じさせる温和さは見る影もなくなっており、今や無機質な美しい能面のような顔だけが残っている。

「よく知っているわね」

言葉に反し感心するような素振りはなく、その相貌を崩さないまま独り言のように淡白に告げ、本を閉じる。それを横目に捉えながら私は続けた。

「それを、問い続けているのですか?」

「私が?イヤね、そんなことをしてどうなるの。私はああいうのは嫌いよ」

やっぱり、と私は胸の中で一人納得する。

ここから先はどうなるか予測もできない。鬼が出るか蛇が出るか、どっちにしろ単純で安穏としたやりとりにはなりそうにもないことは既に覚悟の上だった。

「では、誰が問い続けているのでしょうか・・・」

「何が言いたいの」と不愉快さを隠すつもりのない口調と表情で綺羅星さんが答えた。

「質問を変えます」

私は身体を起こして、恐れることなく彼女に相対する。その刺すように鋭く、氷のように凍てついた視線に射抜かれると身が萎縮してしまいそうになるが、不退転の覚悟で綺羅星さんの瞳を睨み返した。

「いつから知っていたんですか」

「いい加減にしてほしいわね。そういう回りくどい話し方は嫌いよ」

そう口にして彼女は私の追求から逃れるように体の向きを変え、読書を再開しようとするが、こうした彼女らしからぬ消極的な態度こそ、私の予測を裏付ける何よりもの確信となった。

私はその手を掴んで、無理やり私の方へと向き直らせたが、彼女はそんな強引な態度に心底意外そうな顔つきをした後、顔をしかめ険しさを露わにして大きく舌を打った。だが私はそれに臆してしまいそうな自分に鞭を打ち、極めて単調な口ぶりで綺羅星さんに告げた。

「知っていたのでしょう、いつからかは判断つきませんが、きっとだいぶ初めのうちから」

依然として婉曲的な言い回しをした私へ、「二度も同じことを言わせるな」と怒気を強めて彼女が言う。

「あの地下水道に、犯人が隠れているということです!」

声が大きくなったのは、何も感情が昂ぶったからという理由だけではなかった。自分の鼓動の音があまりにもうるさすぎて、音量の感覚が鈍っていたのだ。

綺羅星さんはその言葉を受けても、一切動揺した素振りを見せず、先程までと変わらず面倒そうな苛ついた視線を私に向けているだけだったので、もしかしたら、と自分を疑うことになったが、彼女がチロリと唇を湿らせたのを見て、再び確信した。

わずかではあるが緊張している。黙って思考を高速で巡らせていることが、表情に変わりないものの細やかな仕草として表れていた。

「そんな世迷言を口にするのだから、証拠でもあるのでしょうね」

痛いところを突かれ一瞬動揺しかけるが、彼女は元々話す価値がないと判断した事象に関しては無視することの方が圧倒的に多い性格の持ち主であるため、会話を続けたという選択がここで私の首根っこを抑えつけておきたいという意思の断片なのではないかと思えた。

本当であれば、言い逃れできないほどの証拠を用意したかったのだが、残念なことに私の持つ情報のほとんどが状況証拠的なものばかり、あるいはただの推測ばかりであった。もちろんそんな曖昧な考えばかりで彼女を疑っているのではなく、ここに来さえすれば唯一の物的証拠が得られる可能性があったからなのだ。

壁面にびっしりと私を威圧するように本が並んでおり、この広い部屋でもちょっとした閉塞感を感じずには居られなかったが、前回来たときとは違って、床一面に散乱していた本たちが綺麗さっぱり片付けられていた。そのためかどこを見渡しても、私の探しているものはもうなかった。

口をつぐんで思案している私に、彼女は厭らしい笑みを浮かべて、掴まれていた手を逆に掴み返してくる。

「この場所で私に楯突くことの意味、分かっているんでしょうね?」

その獰猛な目つきに、気圧されて視線を逸してしまうが、顎をもう片方の手でしっかりと捉えられて、無理やり視線を交差させられる。

「証拠もなくこの私を疑ったの?あぁ、全く不出来な娘ね・・・」

地の底からの呼び声のように低く、得体の知れない周波数で紡がれた彼女の声に身を固くするが、綺羅星さんはお構いなしに私をベッドの上に抑えつけた。

皮肉にも体勢的には先程の緋奈子との、永遠にも似た一瞬と同じ構図であったが、状況は一転して最悪なものだった。

獲物を追い詰めたと言わんばかりに、愉快そうに喉を鳴らす相手へ私はまなじりを吊り上げて反論する。

「話を聞こうともせず、こうした形で有耶無耶にしようとするのは、動揺しているからですか」

敢えて強気な口調を意識したのは、まだこちらにも切り札があることを勘ぐらせたかったためで、私が多少は頭が回る人間だということは彼女も重々承知のはずだからだ。だから、きっと外面はどうであれ、内心穏やかではないことだろう。

案の定、綺羅星さんはしばし逡巡した後、「いいでしょう」とその歪な笑みを崩さずに呟いた。

「話ぐらいは聞いてあげましょう。でも、もしもそれがつまらないものだったら・・・相応の代償は覚悟してもらうわよ」

「・・・分かりました」

私のその返事に、綺羅星さんは満足そうにさらに口角を上げながら、その身体を離した。

先程は耽美的にさえ感じた薄暗闇が、ぞっとする寒さで私の背中に忍び寄っている。そこに鎮座する彼女の姿は、まるでこの世のものとは思えない美しさとおぞましさを共生させており、魔女という言葉が似つかわしく思えた。

綺羅星さんがすっと人差し指を立てて口を開く。

「ではまず初めに、何故そう思ったのか理由を話して頂戴」

その口から漏れる言葉は呪のようであり、その指先は魔法の杖のように彼女の体のうちにある不可思議な力を空中になぞっているように見えた。きっと時代が時代で、場所が場所ならこの人は魔女狩りの対象にされていたに違いない。

「・・・私達が初めて出会ったあの日、仕事であの川辺に来ていたと聞きました。それも、紅葉には詳細を聞かせずに」

私はこちらの言葉に彼女がわずかでも反応を示さないかどうか、逐一その表情を監視しながら言葉を語っていたが、その表情は先刻から変わらず薄ら笑いを浮かべているまま時が止まったように代わり映えせずにいた。本当に話を聞いているのか疑わしくなるほどリアクションがなく、まさか目を開いたまま眠っているのではないかとも考えたが、かすかに瞬きだけはしていたので起きてはいるらしかった。

「あのとき既に、地下水道に入ろうとしていたのではないですか?」

揺さぶりをかけるように語気を強めてそう言ったが、ようやく時を刻みだした彼女はまるでダメだと言わんばかりに肩を竦めて首を左右に振った。その度に動く赤みを帯びたロングヘアーが憎たらしいほどエレガントに映った。

「そんなものただの想像じゃない、偶然川辺を通りかかったとでも言えば効力を失うような推測を論証に挙げないでくれるかしら?だいたい、何の準備もなしにあんなところに入れるわけないじゃない」とため息混じりに一気にまくしたてる。

確かにそうだ、ハッキリとした証拠にもならないのだ。だが、私がこの話をした理由はまた別にあった。

「ですが、私が辿り着けた仮説に綺羅星さんほど頭が切れる方が、気づかないとは考えられません」

「何のことかしら?私だって知らない情報で推理できるほど万能ではないのよ?」

「それは嘘です」

私がそう言って彼女の瞳を真っ直ぐ見つめ返すと、そこには微かな揺らぎが起こったように感じたが、また平常通りの機械染みた眼にその色を変えた。

二人の間に沈黙が横たわっているうちに、ぼうっと部屋の中に鬼火のような青い光が差し込んで来た。曇天の分厚い雲の切れ間から、月の光が漏れ出したようだ。

薄暗闇は徐々にそのライトの黄ばみで染まった輝きを失い、代わりに青々とした月光が部屋中に浸透していく。

月の光には古くから特別な力があると信じられていたそうで、健康促進から摩訶不思議なものまでまことしやかに語り継がれてきた。その中の一つに、月光は対象の真の姿を見せる力を持つというものがある。別に迷信深い性質ではないが、この世には仕組みが判然としないだけで偽りだと切り捨てられるものが存在する。特に近代科学主義が蔓延する社会ではそれは如実に表れているだろう。

そんな魔力を秘めた青い光が、二人を照らし出す。半分だけ影になったままの彼女の顔つきがどことなく憂いを帯びたものに私の目に映ったのは、月の青に反射した彼女の肌が病的なほど白く見えたからなのかもしれなかったし、ただの錯覚、幻だったのかもしれなかった。

月光を跳ね返す赤いガラス玉が私を真っ直ぐ捉えている。今彼女の目には私はどんな風に映っているだろうか。

「どうしてそう思うの」と彼女が目を瞑る。

「事務所に来た椿さんに、私達へ件の事件の説明をするよう促したときのことを覚えていますか」

私がそう問うと、一度目を開き、窓の外を見つめながらもどうでも良さそうに、「さあ、忘れたわ」とわざとらしく答えた。

「貴方は椿さんに、『この間の話をしてくれ』と頼みました。つまりあの時点ではもう綺羅星さんは知っていたはずなんです」

「あらぁ、そんなこと言ったかしら?」と明らかにこちらを小馬鹿にする様な口調でそう発言したので、私はつい感情的になって、「卑怯です」と綺羅星さんを睨んだが、彼女は白けたように鼻を鳴らして腕を組むのだった。

「卑怯ねぇ、どうして貴方と正々堂々お話してあげる必要があるのかしら?」

不思議だわ、と以前揶揄するような話し方をする彼女に歯噛みする。やはりちゃんとした証拠を突きつけなければ、綺羅星さんはまともにとりあってくれるつもりは無さそうである。

「そもそも私にどんな理由があったら、人一人の命を見捨ててまでして貴方に付き合えるのかしら?」と綺羅星さんらしからぬ人道的な正論を口にしてきたため、反射的に私は彼女を睨み返して告げてしまった。

「貴方がラスコーリニコフだからです」

「え?」

私の突拍子もない発言に珍しく目を丸くして驚いていたが、自分自身あまりにも脈絡のない発言をしてしまったことにびっくりしていたところだった。もっと分かるように伝えなければ、と考えていたところ、綺羅星さんは「あぁ、なるほどね」と少し愉快そうな笑みを浮かべてから続けた。

「面白い例えをするわね、つまり彼のように、自らの信ずる崇高な目的のためになら手段を選ばない人間・・・に私が見えるわけね、光栄だわ」

そう言って彼女は優雅に微笑むが、逆にその余裕のある態度が私の苛立ちを誘った。それから綺羅星さんは思い出したように、「でも、結局彼はその自身の考えによって破滅するじゃない・・・」とこれまた何がおかしいのか笑いながら口にしていたが、その発言が終わる頃にはだんだんと眉間にしわを寄せた厳しい顔立ちへと移り変わっていた。

「まさかそう言いたいの?私が私の思想のせいで破滅し、考えを改めるようになると?あぁそう、それじゃあ貴方が私のソーニャなのね・・・ふふ、ええ、ええ、馬鹿馬鹿しい・・・!」

そこまで深読みされるとは予想しておらず、念の為弁明しておこうかと思ったが彼女が立腹して本を投げ捨てたのを見て、謝る気が失せてしまった。同じ本好きとしてこうした八つ当たりは到底受け入れられないのだ。

それにしても・・・このままでは結局敗戦濃厚である。

その確実な証拠はきっと彼女の手の内にある。最も危険な物は自らの領域に囲い込んだまま手放していないはずだ。たまたまあの日、私が綺羅星さんを起こしに行ったから目に留まったもの。

しかしこのジョーカーは簡単には切れない。こんな状態の彼女にそれをぶつけたところで、間違いなく誤魔化されるし、二度とこんなことが無いように燃やすなりなんなりしてしまうだろう。まだそうしていないという保証もないが、彼女がわざわざ家に持ち帰っていたのが引っかかる。おそらくまだ必要としているのだ、あの一冊を。

何としてでも彼女の精神に揺さぶりをかけて、虚を突くような形で追求するしかない、そう思っていると、「もう、終わり?」と彼女が未だに怒りで染まった頬を上気させながら私に言った。

その両目が残忍で惨憺たる光に染まり、私を見据えていた。こちらが動揺させられてはどうしようもないのに、その視線に射抜かれるとたちまち身体が痺れて硬直してしまう。

月の光もすでに閉ざされ、再び互いの輪郭がぼやける空間に連れ戻される。彼女が片手をついて身をこちらに寄せたことでベッドが軋み、悲鳴のような甲高い音がクラシカルな曲調に混ざって室内に響いた。

私はあまりにも考えが甘すぎたと後悔し、心のなかで地団駄を踏んで眉をしかめた。正直、知らないふり、言っていないふりを彼女がするとは考えていなかったため、そこを切り口にして何とか動揺を誘えるかもしれないと予測していたのだが、まさかああした力押しで来られるとは露も考えていなかった。

彼女に両手を強くベッドのヘッドボードに押し付けられたかと思うと、ぐっとあの魅惑的な作りをした顔が私の目の前まで近づけられて、それに対する緊張、羞恥、さらには両手首の痛みで何が何だか分からなくなり、視界が涙でかすかにぼやけ始めた。彼女はそんな私の顔をしばらく無表情で黙って見つめていたが、ややあって口を開く。

「本当に、愛らしくて・・・愚かね」

そう壊れ物に触れるように優しく囁くと、綺羅星さんは私の首元に顔をうずめた。不意の感覚に身体が過剰に反応して跳ね上がり、噛みつかれるかと身構えたものの、それ以上彼女は何もしようとはせず、ただ黙って私になだれかかるようにして密着しているだけだった。

彼女の香りに包まれて、心臓の鼓動が激しく鳴っていた。彼女にも伝わっているであろうそれはどれだけ時間を要しても鳴り止まず、全身の血流が激しく渦を巻き熱を発するのが分かった。

その頭が私に擦り付けられるようにモゾモゾと微動したかと思うと、彼女らしさを一切感じられぬ声音で、「本当に・・・私に・・・」と小さく呟いた。

そのあまりにも悲惨で、情を誘うような儚い声色に思わず私は口を開いた。

「綺羅星さ、ん?」

彼女は未だ顔を上げず、私の首元に埋もれたまま黙っていたが、ややあって先ほどと同じ聞こえるか聞こえないかの調子で言った。

「もしも、知ることでその身を引き裂かれるような苦痛を伴う真実があったとして・・・貴方はそれを知りたいの?」

そう告げて面を上げた綺羅星さんの表情は普段とは全く違う様相を呈しており、まるで十代の少女のように淑やかで、脆くて・・・怯えていた。もう別人と称しても些かも問題のない彼女の顔つきに私は一時言葉を失ったが、彼女の言った言葉を思い出して、息を呑んだ。

綺羅星さんにこうまでさせる真実が、まだどこかに残っているのか。傍若無人で、他人のことなど基本的に頭に無さそうな彼女が、明確な言語化を憚るような何かが・・・。

私が問いに答えるよりも素早く、綺羅星さんが再び私の首元に顔をうずめた。

「何も知らない方が幸せとまでは言わない。でもね、綺麗事抜きで、知ってもしょうがないことがあるのよ。知って何とかできることじゃないなら、知らないままの方が絶対に良いわ」

今までの彼女が偽りだったかのような、ありのままの形をした女が私の側で血反吐を吐くようにして早口で一息に言い切った。

その姿を見て、いつかの雨の晩の言葉が私の脳に蘇った。

『意味は自分の中に求めなさい。貴方にはきっとそれができる』

その言葉に反して、彼女は私の中の意味を勝手に決めようとしている。だがそれは傲慢さ故ではなく、私を思いやってのものだと直感できた。

私のために、何かを隠している。

そしてその真実が、何故か彼女までも苦しめているのだ。

ふと、私は彼女が隠しているものの欠片に気がつき、無意識的にそれを口にしてしまった。

「日記・・・」

すっと綺羅星さんが私の方を上目遣いに見上げた。その表情は愕然としていて、丸々とした大きな目を尚の事見開き、口も丸く開けっ放しにしていた。震えるその赤い唇が、どうして、と動いたのがありありと見て取れ、それから機敏な動作でベッドがピタリと着けられている壁のウォールラックに顔を向けた。

ああ、そこにあるのかとなんとなくその視線の先を見つめていると、その失態に気づいた彼女が顔を歪めて舌を打った。

そうだ、私が必殺の証拠として探し求めていたのは祖母の日記だった。彼女を起こしに来たとき、

見覚えのある表紙の本が一冊だけあったのだ。そのときは何となくしか気にならなかったが、綺羅星さんが何かを知っていると推測したときにそのときの記憶が呼び起こされ、ハッとさせられたのだ。

途端に全てがほどけて、私の中へと入り込んでくる錯覚を感じて息を止めた。

どうして日記が残してあるのか、それはきっとそこに記されている内容を私に見せるべきかずっと悩んでいたからだ。

「綺羅星さん」と彼女の名を、初めて尊敬の念を込めて口にする。他人を慮れない人間、というのは私の愚か極まりない誤解であったようだ。きっと彼女は私の思いもよらないところで、私という人間について葛藤し、決めあぐねていたのではないか。それも、たった一人で、出会って間もない小娘のために。

「お願いします」と綺羅星さんが迷わぬように、強く、深く頷いてみせる。

彼女は私の言葉に一度深く長い間目を閉じてみせたが、何かを決意したように力強く見開いてみせた。もうそのときには普段の彼女の姿を取り戻しており、気品あふれる様で息を漏らした。

「もう、馬鹿ね。なんて顔をしているの・・・」と私の頭を滅茶苦茶に撫で回し、いたずらっぽく笑い、身体を離して隣に並んだ。それからまた表情を変えて、冷淡なトーンで言葉を続けた。

その千変万化の様相に、彼女の中にもきっと沢山の綺羅星亜莉亜が住み着いているのだろうと一人勝手に納得する。

「日記を見せる前に、先に話しておくべきことがいくつかあるわ」

「はい」

「一つは、貴方がさっき言った、私が全てを知っていたのではないかという問いについて・・・正直、深月を見くびっていたわ、貴方が言ったとおり、あの日私は事前に椿に情報を貰って付近を捜索していたの。紅葉の霊感をレーダーにして、怪しげな廃屋付近や、人が潜んでいられそうな場所を回ってね」

綺羅星さんは淡々と私が見てきたことの裏側を語り始める。きっともう、知りたくないと言っても聞き入れはしないだろうと思えるほど機械的に、リズムよく暗唱するように物語は紡がれていく。不意に、彼女が私のことを真っ直ぐと見据えた。

「そうして、貴方達と出会った」

私が恐れてやまず、それなのにどうしても引き寄せられてしまうその瞳に、緊張した顔つきをしている私の姿が映った。

「あのときは本当に驚いたわ、紅葉以上に正確に、いえ、過敏に彼らに反応し、それどころか霊体に残された意思の残滓まで読み取り、共鳴する・・・そんな貴方を見て、とんでもない拾い物をしたと思った」

「拾い物、ですか?」

彼女は小さく首を縦に振り、暫し間を置いて、「私にはある目的があるの」と重々しく呟いた。

その言葉にオウム返しで答え、彼女にその意味を問いかける。

「私は、十年近く前からずっとある組織を追っている」

そう答えた後におもむろに私の肩に手を置いて黙り込んだが、その手にはまるで形のない意思のようなものの重さまで加わっているようで、とても深く私の身体に沈み込んでいた。

「この先を聞いたらもう後戻りはさせない、私と運命共同体になってもらう・・・本当に良いのね」

その言葉には生半可な覚悟では頷けないことももう分かっていた。綺羅星さんがこれだけ心の内を曝け出し、これだけ忠告の言葉を繰り返し並べ立てているのだ、その意味が察せぬほど愚鈍ではない。

話の脈絡から想像できることが一つある、その組織とはきっとあの晩に見たペスト医師団のような奴らのことだろう。であれば、もう無関係ではない、妹がその一団と消えていったのだ。

手を伸ばすと、誓った。

私は凛とした声を意識して出し、彼女に決意を示すため真っ直ぐに向き合った。

「構いません。どのみちもう、袖は触れ合ってしまったのですから」

私のその言葉に、ふっと相好を崩して上品に微笑むと、「やっぱり、可愛くないわね」と綺羅星さんは瞳を閉じた。

「貴方が想像している通り、あの晩地下水道で出くわした黒ずくめの一団よ」

「彼らは・・・一体何者なんですか」

再び雲が晴れたのか窓から月の光が静かに、厳かに差し込まれ、月光を浴びて綺羅星さんの美しき紅蓮が月光と溶け合いながらもパッと花咲いた。

「彼岸花、そう名乗っているそうよ」

「彼岸花・・・」

その言葉を耳にして、あの紅く天に牙を向くように花咲く、不気味だがどこかこの世のものとは思えぬ美しさをまとう姿を思い出した。

私の繰り返した言葉に軽く頷き、綺羅星さんは続ける。

「彼らは、この世のものではない超常的な現象を利用して、そこから得られる未知の力を独占しようとしている」

彼女の話は、真剣な顔つきで語られていることの方が不似合いに思えてくるほど、あまりにも荒唐無稽な性質を持っていたため、私は呆気にとられて目を二、三度パチクリさせてしまった。

確かに彼らの容姿はどこかカルト的な臭いを放つほど、異端的なものではあったが、代表として先頭に立って我々と言葉を交わしたあの老紳士はとても知的な印象を受けた。それに反してやっていることは滑稽とも言える行為ではないか。

「じ、冗談ですか、いえ、例え本気だとしても、一体何のために・・・!」

「人が、未知の力に手を伸ばす理由は一つしかない・・・。権力を手にするためよ、富、名声、物理的な力、情報、とにかく人を支配するものの全ての呼称ね」

話のスケールが私の周囲の高さから何段も一気に飛び越えて行ってしまったため、私は慌ててそれに付いていこうと必死になって質問を続ける。

「そ、そんな力で・・・何をするのですか」

「さあ、きっと世界革命でも起こす気なんでしょうね」

馬鹿な・・・本気なのか?

どれほどの力があろうと、この唯物的な世界を超常的な力で根底から引っくり返すことなどできるはずもない。そんな絶対的な力をこの世のほんの一握りの人間たちが掌握することなど絶対に不可能だ。

そんな夢想家の集団に、どうして真月は・・・。

私が無言で百面相しているのを見かねたのか、綺羅星さんは今度は優しげな手付きで頭を撫でて、真剣な表情で私を見つめた。

「分かっているわ、そんなことは不可能だと言いたいのでしょうね。でもね、未知の力とはそれほど予測不可能な力を秘めているのよ。ノーベルの発明したダイナマイトで、莫大な数の人間がかつてないほど効率よく虐殺されたように。あるいは核兵器のように、世界を一変させる力なんて決して空想の産物ではないの。・・・私は、そうした力で人が死ぬところを見てきたわ」

そう告げると、彼女は一瞬深い憂いに染まった瞳で虚空を見据えたが、その仕草は何かを見つめるために行われたものではなく、暗い過去の扉をほんの少し開くための儀礼的な所作のようだった。

私の部屋のものと違って、綺羅星さんの私室の時計は無音でひたすらに回り続けるタイプのもので、短針はすでに一時を回っていた。時間が加速度的に過ぎていき、私たちを急かすように肉体と精神の狭間を彷徨っている。その時の流れに背を強く押されるようにして私は口を開いた。

「私をからかうための嘘でも、フィクションでも、ないんですね・・・」

「残念ながらね。事実は小説より奇なりとは良く言ったものよ」と彼女は自嘲気味に笑って、それからまた人格を入れ替えたかのように表情をリセットした。

「そうした連中を追うためにも、貴方の力はとても魅力的だった・・・ただ、どうしても、貴方の見せた精神的な脆弱性が気になったの。霊障にあてられて崩れ落ちていたり、他人の死に必要以上に同情して涙ぐんでいたりね。だから一度は諦めてその場を去ったわ。幸い当初の目的は果たせていたから」

彼女たちと出会った夕暮れが脳裏に差し込み、あの情景を朧気ながら照らしていた。

そういう経緯で二人と出会い、そしてだからこそ別れ際にあんなことを言われたのかとどこか得心した。忘れろ、という言葉はきっと、自分自身にも向けた言葉だったのであろう。仲間に加えれば、必ずどこかで足を引っ張ると分かっていたから、彼女は冷たく私をあしらったのか。

しかし、奇しくも私達は同じ方向を向いていた。歩き出した場所は遠く離れていても、辿り着くべき場所が同じならいつかは必ずどこかで交差する。綺羅星さんの数年来の道の途中に、私の因果な道程が重なったのだ。

私の沈黙をどう受け取っているのかは分からなかったが、綺羅星さんは一呼吸置いて話を続ける。

「だから貴方達の方から訪ねてきたときは心臓が止まるかと思ったわ」とかすかに微笑みながらもそんな奇妙なことを言うので、「そんな・・・能面みたいな顔していたじゃないですか」と自然と軽口が零れた。すると彼女はきゅっと口を尖らせて、拗ねたような素振りを見せる。

「まあ、減らず口を叩くのね」

だがそう発言する彼女の表情はとても柔らかく、言葉とは裏腹の思いがあるのは容易に読み取れた。私がとりあえずの謝罪を発すると、「宜しい」、と片目を瞑った。椿さんの癖に良く似た仕草だったが、彼女とはまた違った魅力を放っていた。それから一度咳払いをしてから、話を再開する。

「・・・こんな私でも神様を信じたくなったわ」と自嘲する彼女。

「だって、一度は諦めた宝石が自分の足でやってきたのだもの。でも、だからこそ慎重に事を運んだ。貴方にどれほどの素質があるのかをじっくりと観察したわ。知識、頭の回転、感情のコントロール具合、何に怒るのか、何を恐れるのか、どんな思考パターンをするのか、どれくらい他人の言葉に惑わされるのか・・・」

次第に彼女の言葉が熱量を帯びていき、語気が強くなっていった。その胸の内奥に宿る、消すことの出来ず燻り続けている炎がチラリと垣間見えた気がするほどの熱量で、それに圧倒され今の私は完全に聞き手に徹していた。

思えば、彼女の方からこんなにも真剣に、ひたすらに話してくれることは初めてだった。

「貴方が、自分の未来を得体の知れない女に捧げてでも、お婆さんを助けたいと言ったとき・・・私の中で答えが完全に決まったわ」

キッと彼女の瞳が私を捉え、それだけで身体が発火するのではないかというほどの熱さを感じたが、私も必死に視線を逸らさずに彼女の思いに対する最低限の礼儀として相手と向き合った。

何となく居心地が悪いような、ただ照れくさいだけのような、はたまた何かを恐れるような、そんな複雑怪奇な感情が私の中を駆け巡り、私の制御を覚束ないものにさせる。

「何としてでも、貴方が欲しくなった」

あまりにも真剣で、迷いない目つきでそう言われたとき、私の身体に電流が奔った。私の心臓に早鐘を打ち鳴らさせ、全身が発汗する熱さに飲み込まれる、そんなスパークが。

今の言葉は、まるで・・・。

その先を自分の都合に良いように考えようとする普段の私と、いつもどおりに客観的で冷静な分析だけを行おうとする私がせめぎ合い、心中は大きなパニック状態であったが、結局その闘争では前者が勝利者となったため、慌てふためく自分が思考の大部分を支配することになった。

(あ、愛の告白みたい・・・)

実際そういう意味で言われたわけではないのに、ただそう脳が錯覚しただけなのに・・・。彼女に本当にそう告げられたような妄想に駆られ、胸が締め上げられてしまう。

彼女のように優しく、美しく、上品で、知的な人に愛される人はきっとこの世の全てと引き換えにしてでもあまりある幸せを得られるのだろう。

「私の目的を全うするための力として、これ以上無い人材だったから」

「・・・そうですか」

その一言に私の甘美な精神世界は終演を迎え、代わりに羞恥と苛立ちが混在したような感情が私の精神を支配した。

(いちいち紛らわしい)

口の中でそう呟いた私を、胸の奥の方で誰かが嗤っているような気がする。

その言葉に耳を傾けることなく、次の皮肉じみた言葉を絞り出した。

「つまり、綺羅星さんのお眼鏡に適ったというわけですね」

「ええ、そういうことよ。でも、物事はそう単純には済まなくなった」

そう言いながら背後のウォールラックから例の日記を取り出した。よく見ると、以前は無かった付箋が至るところに貼られていた。

彼女は、「これのせいでね」、と独り言のように呟く。一瞬私に差し出すように手を伸ばしたが、ややあってそれを胸元に引っ込めて視線を左右に彷徨わせた。傲慢な彼女のイメージとはかけ離れた迷いの意思を感じる姿に、私は少しばかり体を硬直させ、視線をその一冊の本へと向けた。

あれが、きっと全てを知っている。今回の一件を紐解くのに必要な最後の一ピースだ。

彼女はそれを胸に抱えたまま言葉を並べる。

「これが無ければ、共に事件を解決へと導くだけで済んだ。そして貴方は愛する祖母を助けてくれた私を信奉し、心酔して私に身を捧げる・・・。こんなことを言うと貴方は腹を立てるでしょうけど、そう貴方の感情を仕向けることは比較的容易に見えた。事故で家族を失い、愛情に飢えている少女を懐柔することなど、そう難しくはないだろうと思ったのよ」

収まりつつあった複雑な感情が今の言葉で、再び湧き上がり私の真ん中でトグロを巻いた。そんな風にナチュラルに私を単細胞呼ばわりして、一体全体何様のつもりなのだろうか。先程のややこしい発言もまだ許してはいない。

じろりと向けられた視線に、彼女はやや困ったような顔つきをして前髪をかき上げた。

「ふぅ・・・怒らないで頂戴、貴方と接してすぐに考えは改めたわ。貴方はそんな単純じゃない、それこそ緋奈子のような人種とは全く違う、歳不相応の感覚を持った不気味な生き物よ」

「それも何だか・・・」

嫌です、と言いかけた私の言葉を折り、綺羅星さんは、「とにかく」と力強く前置きをした上で話しを元に戻した。

先程までとは打って変わって、冷淡な面持ちで彼女は私を見つめて日記を押し付けるように私の胸元に当てた。

「付箋が貼ってあるところが重要なところよ、とりあえずそこだけ目を通しなさい・・・いいこと?覚悟して読みなさいね。何が書かれていても受け入れて、どんな感情だって自らの血肉にするのよ・・・私には、決められなかった、お婆さんには本当に申し訳ないけれど・・・どうすべきか、最後の最後まで、いえ、ああなった以上、本当は私は貴方に隠し通すべきだったのよ・・・」

そうして繰り返し行われる念押しが逆に私の心に不安の波風を立てたが、意思の強さを彼女に示すため、そして何より自分の心を強く保つために私は深くゆっくりと頷いてみせた。それでも何かもの言いたげな様子であったが、それ以上の言葉は待たずに私はその本を開いた。

 (ⅳ)

 ●月○日

いよいよあの娘を引き取りに行く日が来た。

真月にあの話をされたときは、何の冗談かと思ったが、彼女と少し話して私はすぐに考えを訂正した。

真月は怪物だ。あの歳の子供が持つにはあまりにも不釣り合いな能力が、彼女を歪な怪物に仕立て上げている。だが、その怪物は育ててみなければどんな姿に変わるかはまだ分からない。組織を守る神獣となり得るかもれないし、逆に組織を脅かす怪獣となるかもしれない。

とにかく今は、あの方の出した答えに従って、あの娘を、深月を迎えに行こう。

 ●月○日

深月を引き取って、早数ヶ月が経った。

あの娘の両親、つまり私の娘とは連絡を絶って久しかった。真月を一般社会で育てて行こうとする考えについて対立して以降、まともに口を聞くこともなかったのだ。

それが今やどうだ、彼女の残した一粒をこうして育てる羽目になるとは・・・。どんな因果か分かったものではない。

面倒なお役目を受けてしまったものだ。死んだように生きている深月は、傍から見ても気味が悪い。

 ●月○日

今日、深月が妙なことを口走っていた。

誰も居ない車の中を見つめながら、『赤い靴下』としきりに呟いていたのだ。

思えば、この娘は、なにもない場所を見つめたり指差したりすることが多々あった。

歩道橋の真ん中、貯水池のフェンスの向こう、中々上がらない踏切の前。

もしかすると、この娘は・・・。

 ●月○日

間違いない。この娘は異常なまでに強い霊感を持っているのだ。

かれこれ一年ほど共に暮らしているが、ついこの間など大変興味深い出来事があった。

駅のホームで大きな声で泣き出すものだから、理由を聞くと、『私じゃない』とずっとわめき続けている。小さな駅だから周りに誰もほとんどおらず、誰一人彼女に喋りかけていない。もしやと思い、「何がなの?」と丁寧に聞いてやると、ようやく少し泣き止んでから、『押したのは私じゃないもん』と答えた。

調べてみると、先週人身事故があった駅だったらしい・・・。

彼女は、組織にとって有用な人材になるに違いない。それを見越してあの方は深月を私に引き取らせたのだ・・・。

この老いぼれに託された最後の使命、しっかりと全うして見せよう。

 ●月○日

深月と暮らし始めてもう数年が過ぎた。

不思議なもので、彼女との生活も段々と体と心に馴染み、孫の成長が楽しみな、どこにでもいるようなお婆ちゃんになった気になってしまう。

今日は高校の入学式だ。

中学では友達もいなかったようだし、今回こそはと思っている。まあ私が気合を入れても仕方がないのだが・・・。以前友達を作るように忠告したら、初めて深月が私に反抗して喧嘩になってしまった。

年甲斐もなく、母だった頃を思い出して笑いそうになったのを覚えている。

・・・普通の祖母と孫だったら良かったのに。

 ●月○日

深月について、組織から連絡があった。私は例の場所に呼ばれ話を聞きに行ったが質問は彼女についてのどうでもいいことばかりだったのだが、何か探りを入れられているような内容に少し寒気がする。

この先どうなるのだろう・・・だが、どんな決定が下されても私はそれに従うだけだ。

そういえば、どこかで万年筆を落としてしまったらしい。おそらくあの場所だろうが、できることならあんな下水臭いところは何度も出入りしたくはなかった。仕方がない、諦めるか。

 ●月○日

ついにこの日が来た。

私は、私はどうしたらいいのだろう。

今朝、深月を送り出した後、真月が家にやってきた。

深月を組織に連れて行くらしい。いや、連れて行くも何も初めから組織の管理化にあった娘だ、仕方がないのだ。

・・・本当に?

両親の死の真相を伝え、私との日々が偽りだったと伝える?

それが本当に深月を幸せにすることなのだろうか。

いや、違う、深月の幸せなど初めは関係がなかった。組織だって、深月の幸せなどどうでも良いはずだ。

私だって、どうすることもできないはずだ、今更普通の家族に戻れるわけもない。

してやれることなど、ない。

 ●月○日

今日事故以降初めて、深月に友達ができた。

私はそれを聞いて涙しながらも、これは天啓なのだと確信した。

明日が組織から通達された期日だ。

明日の夜、深月を指定された場所に連れて行く。それが彼岸花の一人としての役割だ。

だが、私は一人で行くことに決めた。

組織は私を許さないだろうし、深月のことだって諦めはしないだろう。

だが、なんとかして説得するつもりだ。長年組織に尽くしてきた、彼女のことだってもうしばらくの猶予ぐらいは得られるかも知れない。

不思議なものだ。血がつながっているとは思えないほど気味の悪い子供だと思っていたのに・・・。

今や深月のことで頭がいっぱいだ。彼女が幸せになれるか心配で、胸が苦しい。

しかし、私が深月にしてやれることはもう殆ど残っていない。

明日、組織の一員ではなく、深月の祖母として、その最後の役割を全うしよう。おそらく私は処分されてしまうだろうが、それは大した問題ではない。私はここで死ぬべきだと思う、それが深月のためになるのであれば、こんなにも幸せなことはない。

私が死に、深月はその真相を知らぬままに普通の高校生として友達と過ごしていく・・・。それが私の一番の望みなのだ。もうそれしか、深月と、ただの祖母と孫の関係を続けていける道がない。

どうか、深月の生きる道に幸多くあらんことを・・・。


最後に一つ・・・もしかするとこの日記を誰かが見つけてしまうかもしれない。

机の二重底に隠しているから、まさか深月本人が見つけることはないだろう。

警察、組織のもの、あるいは何らかの因果で導かれた誰か・・・。

どうか、この日記は燃やしてしまってほしい。間違っても、深月の眼に触れるようなことはしないで頂きたい。

都合がいいと思うかも知れないが、私は叶うことならこの先ずっと、深月のただの祖母でいたいのだ。

もしも、この日記を手にしたものが深月と関わることがあれば、どうか彼女が幸せになることにほんの少しでもいいから力を貸してあげてほしい。

誰か、良識ある人間がこの日記を見つけることを、あるいは、永遠に見つからず机とともに焼き払われてしまうことを切に願う・・・。

 秋空 月子


 エピローグ

聞き飽きたチャイムが教室中に木霊して、クラスメートが次々に筆記用具を机上にかなぐり捨てる音が聞こえた。これでようやく実力考査なるものが終わったのだ。

先生が帰りのホームルームの前に一旦職員室へと引き返していくのを見送ると、皆めいめいに教室のあちこちへと散っていった。

五月が終わり、六月へと月日が移り変わるのと同時に私は学校に復学した。当初事情を聞こうとするクラスメートが遠巻きに私を見ていたが、以前の一件があってか、進んで一番槍になろうとする勇者は誰も居なかった。ただ一人を除いてではあるが・・・。

奇矯な呻き声を上げながら、そのクラスメートが私の座る席へと肩を落として近寄ってきた。その手には依然として松葉杖が握られていた。

短く切り揃えられた髪型は、彼女の凛とした雰囲気をよりシャープでスタイリッシュなものに昇華させており、密かに存在しているらしい彼女のファンがその身を悶えさせたとかなんとか。その珍妙な話も古川先生から聞いただけなので、信憑性は低い。

彼もまた私へと気軽に接してくる唯一の教師となった。事件の漠然とした概要は教師陣に知らされていたようで、出会った瞬間その暑苦しい表情をさらに滾らせて男泣きされたときは本当に他人のふりをしようかと思ったほどであったが、この一ヶ月で改めて人との繋がりを持つことの意味を考えさせられた私は、以前のように適当に人をあしらえなくなっていた。

「や、やっと終わった~」

そう言って私の机の上に額を擦り付ける彼女。何がそんなにも疲労したのか、甚だ疑問ではあったけれども私はとりあえずその謎の労苦を労ってあげることにした。

「お疲れさま、緋奈子」

そう言って私は彼女の頭を緩慢な手付きで撫でる。サラサラとした髪が絹のように美しく私の目に映った。

復学した初めのうちは、私と緋奈子の関係がこれまた一変していたことも教室の話題になっていたらしい。まあ、一ヶ月前まではまともに名前も覚えていなかった緋奈子と、こんなに親しげになっていれば無理もない。しかも、二人の首元にはしばらくの間お揃いの包帯を巻かれていたのだから、噂が噂を呼び、話の原型すら失われていたらしい。

お陰で私達は一部では、互いに首を絞めあった挙げ句、私が緋奈子の足首を折ったことになっているらしい。どんな関係なのかと呆れ果てたが、噂をするものはすぐに緋奈子に粛清されることとなったので、表立ってその話をする者はいなくなった。

私の手元で、緋奈子が猫のような唸り声を上げていると、担任の教師が教室に入ってきてHRを開始したため、名残惜しそうに緋奈子がさっとその場を離れて自らの席へと戻っていき、その途中で私を振り返った。

「今日、一緒に家に寄っていくから!」

それからHRが無事終わった後、クラスメートたちは各自で帰路に着いた。事態が一先ずの落ち着きを迎えていたため集団下校は自然と行われなくなっていたが、事件そのものは結局未解決のままと世間からは認識されている。残念だがこの事件は光の届かぬ深淵たる迷宮へと消えるだろう。

いや、その方がいいのかもしれない。知るべき人間が知っている、知らぬ人間はただそれまでどおりの日常に帰ることができれば、世間を巻き込んだ私の立場からすれば上出来の幕切れである。

荷物を鞄の中に押し込むと、宣言通り緋奈子が教室の出口で待ってくれていた。

それから、帰宅する生徒で賑わう校内を抜けて校門まで互いに無言のまま歩いた。彼女は松葉杖のはずだが、私の歩くスピードより遥かに速いテンポで進み、その持ち前の体力の違いを見せつけてくる。片足の不自由さを感じさせない軽やかさに、ここまで来ると身体の作りそのものが違うのではないかと疑わしくなってくるものだ。

校門では集団下校の名残か、古川先生だけが律儀に手を腰に当てて堂々と立っており、帰っていく生徒に真夏の太陽を予感させる笑顔で手を降っていた。彼は私達に気づくと片手を上げて、まだ少し距離があるというのに大きな声で話しかけてきた。

「時津も秋空さんもすっかり仲良しだなぁ」

「まあね」と偉ぶるように緋奈子が胸を張って口にした。いつかの光景を思い出したが、あのときの彼女のように照れた様子は見受けられなかった。

こうして少しずつ、私の周囲が変化し始めていた。いや、きっと世界はありとあらゆる場所で変化し続けているのだろう。

私がぺこりと一礼すると、彼は挨拶の代わりに破顔し、「旦那のお世話が大変だとは思うが、よろしくな」と口にした。

緋奈子が、「誰が旦那よ」と口を尖らせていたが、横をすり抜ける二人の顔はとても穏やかなものであった。家族でもないのにああして気にかけてくれる大人というのも、ちゃんと大事にしなければならないなと、小さく心のなかで呟いた。

それから他愛もない話をしながら、私達は綺羅星興信所を目指して歩いた。興信所は、昔の私の家と学校とで丁度正三角形が出来るような位置に立っており、登下校の時間は大して変わっていない。

六月独特の蒸し暑さの中、片足跳びで隣を歩く彼女は汗一つかいておらず、やはり生き物の種類が違うなと、私はハンカチで汗を拭いながら思った。

「ねぇ、深月」と彼女は地面を見つめて跳躍しながら口にする。

「なに、緋奈子」

「結局さ、あの連中は何だったんだろうね」

彼女の問いかけに私の中の記憶が刺激されて、あの夜がフラッシュバックする。目を瞑り、幻をかき消すと、次は私が生まれ変わることとなった夜へと記憶が飛んだ。

綺羅星亜莉亜という人間の心に直に触れたあの日、そしてそれは逆に触れられたことも意味をするのだが、とにもかくにもあの夜に私はこの世界との接し方を改めることになった。

祖母の日記、というか半ば遺書となった一冊を読んで号泣する私を、戸惑いながらも強く抱きしめてくれた彼女は、『一旦話はここまでにしよう』と言って微笑んだ。彼女の微笑みも涙でぼやけてはいたが、それは感情が不器用なあの人の優しさから生まれた、ぎこちなくも精一杯の思いやりの笑顔だったことはハッキリと分かった。

彼女は、祖母の遺書ともいえる日記を読んでしまったため、事件の解決の仕方に迷ったのだろう。あの人自身の目的を果たすことと、祖母の遺言を果たすことはまるで真逆の場所に位置しており、だからこそ妥協案として私を誤魔化しながら、祖母については一切触れぬ形で事件を終わらせようとしていたのだ。本当に、迷惑ばかりかけてしまった。

そし後泣き疲れてしまった私を布団の中で抱きしめ、額に一つ、触れるだけのキスを落とした。その口づけで、どこか懐かしいような、遠い遠い過去に押しやっていたような不可思議な感情が呼び覚まされながらも、いつかし私は眠っていた。

夢の中でも、私はずっと考え続けていた。

祖母は、幸せだっただろうか。

私と祖母を繋いだ、偽りの善意と、まごうことなき悪意。

分からない、祖母が今際の際に後悔しなかったかどうかなんて、私には。

だが・・・。

間違いなく言えることは、私は祖母の孫で本当に幸せだったということ。

どんな星が二人の間を繋いでいたとしても、それだけは変わらない。

そして夜が明けて、隣で私を抱いたまま眠っている彼女を見たとき、私は決めた。

「さあ、分からないわ」

「そうだよねー・・・」

この人と共に、彼らと対峙しよう。それは彼女のためであってはならない、誰でもない私が私自身のために行うことだ。

彼らにはあまりにも多くの借りがある。

真月も、両親も、祖母も、彼らが私から奪ったものは多いが、別に戻らぬものを返せとは言わない。そこまで暇ではないのだ。これからちゃんと生きていくので、精一杯だから。

だが、真月は別だ。まだ取り戻せる。ならば絶対に、返してもらう。

すでに見慣れた風景と化した打ちっぱなしコンクリートの興信所が目の前にあった。それから念の為に緋奈子さんの背中を支えながらも、階段を上がっていく。

中から紅葉と知らない人の声が聞こえ、誰かお客さんが来ているのだと察し、私は静かにドアを開ける。

見知らぬ女性と向かい合ってソファに座っている紅葉の顔を見て、少しだけ頭を下げる。それに気づいた彼女は紳士的な笑顔を浮かべて、目礼だけしてまた目線を女性に戻した。邪魔にならないように静かに事務所を通り抜けようとするが、緋奈子の松葉杖がデスクの横のゴミ箱を倒してしまいそれに失敗する。

「あ、ごめん」

「はは、大丈夫ですか?時津さん」

そう言ってから紅葉は、「失礼」と一礼し、彼女が倒したゴミ箱と散らばった屑を再びその中に収め、相変わらずの素早い動きと気遣いに私の出る幕などなく終わった。紅葉の紳士的な挙動に客の女性は釘付けになってしまっていた。

もう邪魔をしてしまったのだし、と私は紅葉に彼女の居場所を問いかけた。すると紅葉は先程までの柔らかな笑みを一転させて、一瞬怒ったような表情をしてから、また元の笑顔に戻った。だがこの短い期間で私が学んだことの中に、笑顔で怒っている人間が一番怖い、というものがあり、私は少し肝を冷やしていた。

「ああ、仕事の邪魔ばかりするものですから、先程屋上に洗濯物を取りに行かせました」

私は、「そうですか」と手早く答えた。一刻も早くこの場から離れたほうが懸命だと思えたからだ。リビングへと去りゆく私の背中に、「くれぐれも、甘やかして手伝ったりしないでくださいね」と紅葉は釘を差した。

「心得ています」

数日前、彼女の執拗で面倒なおねだりに負けて書類整理を手伝ったところ、何故か私に紅葉からの雷が落ちてしまって以降、絶対に手伝わないと心に決めている。庇ってもいい立場の彼女はあろうことか、怒られる私を見て笑うのを我慢していたのだから、もう放っておくのが吉だろう。

二階に上がり、彼女を私の部屋に連れて行く。

「少し待っていてね、ちゃんと働いているかだけ見てくるから」

「・・・うん」

聞こえるか聞こえないか程度の声量で返事をした彼女を見つめて、微笑む。少しだけ緋奈子の考えていることが分かるようになってきたと思う。意外と寂しがり屋のようで、こうして一人にされるのを嫌う傾向があるのだと私は分析している。

部屋から出ようと足を扉に向けた瞬間、例の絵画が目に留まった。しかし、またすぐに動き出し廊下に出て、屋上へと続く階段を上がっていく。

私達は何処から来て、一体何者で、そして果たして何処へ行こうというのか。

作者のゴーギャンは、描かれた白い鳥は言葉の無力さを示しているとしたが、私は彼の意見には諸手を振って賛成とはいかない。

私の胸には、あのときの祖母の言葉が未だに強く焼き付き、私の命を突き動かしている。きっと、この先もずっと・・・。

ガチャリと、この建物の中では珍しく実用性だけに特化したデザインのドアノブが音を立てて回り、屋上への道が開かれる。

そこには大海のように青く澄んだ空が広がっており、六月だと言うのに雨の気配を微塵も感じられなかった。

X字の形をした物干しスタンドに真っ白のシーツが何枚かと、私達の衣類が掛かっており、それらが六月の風に揺られて、シロイルカのように青空を背景に泳ぎ回っていた。

その少し向こうに、手すりに肘をついてその青を眺めている彼女の姿があった。赤みがかった長髪が風の向くままにたなびいていて、それを抑えるように片手を動かしていた。

その姿についつい胸が高鳴ってしまい、それを誤魔化すように近づきながら大声で彼女を呼んだ。

「亜莉亜さん!」

その声に反応してようやく彼女がこちらに気づき、目を細めて手を振って笑いかけてくる。

少し早くなる動悸に気づかぬふりをしながら、目の前までゆっくりと風を感じながら歩いていく。

「あの、ただいま、です」

未だに慣れぬ、家族特有だと信じていたやりとり。

「ええ、おかえりなさい。深月」

それから亜莉亜さんはいたずらっぽく口角を上げて、「なぁに、手伝いに来てくれたの?」と首を傾げた。

「もう、働いてもいないくせに」

「あら、生意気」

そう言って彼女は私の額を人差し指で軽く押した。

そんなやりとりに何故だか涙が出そうになり、慌てて顔を俯かせたが、少し遅かったようで亜莉亜さんが私の頭をあやすように撫でた。

空には爛々とした太陽と、それを空の彼方でうっすらとした姿で見守る月が浮かんでいた。彼らのお陰で、幾千の夜が死に、幾千の朝が生まれて、また幾千の朝が死に、幾千の夜が生まれているのだ。

そうして全てのものが何かしらの形で変わっていくわけだが、変わらないものも当然あるのだと信じている。祖母と私の繋がりが決して消えないように。

あの絵を飾ったものは、未だに問い続けているのだろうか。

今の私は、その問いの答えを持っているような気がした。それは自分自身にしか適応されない答えではあるのだが・・・。

私達は、自分という肉体からのみ自己の精神を生じさせることができて、時を経てどんなに足掻いても自分にしかなれないことを悟り、そして最後に自分の肉体も精神も、散り散りとなって無に帰する。

星の瞬きからすれば、あまりにも短いその時間の中で、変わらぬものを手にすることができればいい。

そしてそれをしっかりと握りしめていよう。だがそれは、奪われないためでも、失くさないためでもない。

持っていることを忘れないためだ。

あまりにも多くのものを抱えて生きる私達が、ふとした拍子にその存在を忘れてしまったりしないように・・・。

ふと、後ろから私を呼ぶ声が聞こえた。

やりきれない切なさに染まる緋奈子の瞳が、彼女の動きに合わせて上下に揺れながら近づいてくる。そして全てを察しているように器用に片手を空けて、私の肩に手を置いた。

二人の優しさに包まれて、私は静かに祈るように泣き続けた。

大嫌いだった梅雨の時期・・・しかし、私が雨に怯えることはもうない。


8/16 誤字脱字の報告ありがとうございます!


お目汚しをしてすみません!

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