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彼岸の華   作者: 杏ころもち
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七章 双月

第七章 双月

 (ⅰ)

 周囲は既に薄暗闇が広がり、夜のしじまに覆われていた。

私達四人は件の川岸を黙って歩いており、川の水が流れる音だけが唯一の音源だった。夕日は、私達の行方を照らすことを諦めてしまったように山の向こうに沈んでいこうとしていて、鮮烈なオレンジが遠くの空の一部だけに残っていた。

あれから緋奈子さんは一度家に帰り、興信所の二人と同様に荷物の支度をして帰ってきた。同行すること自体は綺羅星さんに反対されていたが、結局強行してこの一行に加わっている。

荷物を用意していたと述べたが、実質それを持っているのは緋奈子さんと紅葉だけであったし、我が友に至っては荷物と言っても黒く細長い袋を背負っているだけであった。こんな私でも見覚えがある、きっと竹刀袋だ。

彼女は一昨日の晩の約束を果たそうとしてくれているのだ、そう思うとふっと暖かい笑みが漏れてしまい、それに目ざとく気づいた緋奈子さんは小さな声で「どうかした?」と聞いた。どうして小声になる必要があるのか分からなかったが、短く「いえ、何も」と笑顔で返した。

「あんなものが役に立つのかしら・・・」と後ろで綺羅星さんが呟くのが聞こえる。

きっと緋奈子さんの持つ竹刀の話であろうが、その呟きの意味に気づかなかった緋奈子さんはただ静かに前を見据えていた。

「でも、僕よりかは腕が立ちますよ」

「え、そうなの・・・?貴方よりも強いの?本当に?」と綺羅星さんはまるで信じられないと言わんばかりに目を白黒させており、私は彼女のそんな普段からは想像できないほどの狼狽ぶりに驚かされた。

紅葉は背中に大きめのバッグを背負っていたが、その重さを感じさせない程滑らかな足取りと口調で、彼女は川の方へと目をやった後、一瞬だけ緋奈子さんを一瞥して口を開いた。

「素手なら分かりませんが・・・得物有りならば、多分僕なんて相手になりませんよ」

紅葉の自嘲するような言い様に、綺羅星さんは意外そうな表情を浮かべた後、緋奈子さんの背中を見つめ「多少腕が立つ子供だとばかり・・・」と思案げに唸った。きっと私と彼女には分からない武道の何かが、紅葉には感じられるのだろう。

遠くの方に黄昏を反射させた海が見える。だいぶ下流の方へ下ってきたが、未だに目的地には到着していない。何箇所か、水が排水されるであろう大きな丸い穴を見かけたが、そのどれもに錆びた鉄柵が縦横に張り巡らされており、人が入れるような場所はなかった。

次第に、私の考えは的外れなものだったのではないかと不安が募ったが、それから五分ほど歩いたところで先頭を歩いていた緋奈子さんが足を止めた。どうしたのだろうかと彼女の目線の先を追うと、そこには先程までと同型の排水管が見えた。唯一違ったのは他のものと比較してもかなり風化しており、茶色というよりも赤い色をした錆が至るところに付着していた。そのためか鉄柵の一部が折れて中に侵入できるようになっていた。

「ここだ」と紅葉が静かに呟いたが、その言葉には誰も返事をすることがなく、皆一様に口を閉ざして仄暗い闇の先を見つめていた。

内部の手前の方は何とか見えるものの、奥の方は一切の光が届かぬ闇が広がっていた上に、下水特有の刺激臭が外にも漏れ出しており、この先の劣悪な環境が容易に想像できて顔をしかめてしまった。

「行くんだよね」と緋奈子さんがこちらを振り向いて、小さく低い声で尋ねた。この状況で先頭を行こうとする彼女の豪胆さに私は頭が上がらない思いだった。

「そうね」と興味が無さそうに綺羅星さんが答え、紅葉が黙ってバッグから懐中電灯を人数分取り出し、それぞれに手渡した。さすが用意に時間をかけただけはある。綺羅星さんはライトを受け取った緋奈子さんを注視しながら、懐中電灯のスイッチをカチカチと点けたり消したりしている。

「念の為忠告しておくけど、何を見ても冷静に対処すること、勝手な行動をしないこと。ここから先は命に関わりかねないから」

「何で私の方を見て言うのさ」

「貴方が一番単細胞だからよ」

ため息混じりの発言に緋奈子さんは、「なにおぅ」と目くじらを立てたが、本気で怒っている様子ではなく、ふざけていても皆の視線は穴の奥深くへと向けられていた。

緋奈子さんは一度ごくりと息を呑んでから、「上等」と己を鼓舞するように囁いて穴の縁に足をかけ、それから懐中電灯を点けて穴の奥を照らす。真っ直ぐと道は続いており、遥か前方に壁のようなものが見えている。彼女が無言で進み出し、私、綺羅星さん、紅葉の順に列を為してそれに続いた。

四方が錆びついた壁に囲まれており、使われなくなって随分経っているのが簡単に分かる。あまりの閉塞感に壁に手をついて進みたくなるが、ところどころ得体の知れない昆虫が張り付いていたため、手は自然と胸の前で落ち着いた。

どこまでも続くかと思えた一本道だったが、入り口から見えた通り数分もしない内に壁に突き当たった。

「分かれ道ですね、どうしますか」

左右に広がる黒のベールに包まれた細道を私は交互に見比べたが、どちらも大して変わりなく、この先は直感に頼って進むしか無さそうだ。

そう考えていると、突然綺羅星さんが右側の道にしゃがみ込んだ。じっと何かを観察しているようであったが、何かを拾ったかと思うとおもむろに立ち上がる。

「どうかされましたか」と私が問うと、「見なさい」と言って閉じていた手を開いた。

「これって・・・」

彼女の掌に包まれていたのは、一本の万年筆だった。

「おばあちゃんの万年筆・・・!」

祖母がいつも使っていた年季の入った黒の万年筆には私にも見覚えがあり、目を見開いて綺羅星さんの顔を強く見つめた。右手の道に皆の視線が集まる。

祖母が落としていったのかもしれない、私に自分の居場所を知らせるために―――。

ふと、目の前の美しい女性と視線が交差した。それはただ何気なしに動かされた目の動きであったが、綺羅星さんの瞳の奥に宿っていた言語化することが不可能と思われる感情に言葉が詰まった。すぐさま逸らされた彼女の視線に、私は理由もなく血の気が引いていくのが感じられる。

何だろう、この違和感は。

私は何かを思い違いしている・・・?

祖母が落としていった・・・いや、どうして万年筆など持ってこんなところに来たのだろう?そもそも最近祖母が失くしものをしたなどと口にしていただろうか・・・。

胸の中に住む、その他の私が過去の断片を掘り起こし、深い思考を試みているが、結局形になることはなく、砕けて散った。

我が友が大きな声を上げたからだ。

「深月!」と狭い下水道に彼女の凛とした声がうるさいぐらいに響き渡り、反響するその声に私は反射的に顔を上げようとしたが、それよりも早く誰かが私の腕を思いっきり引っ張った。その誰かの方へと強く倒れ込み、体勢が大きく崩れる。

「何をしているの!」

私を抱き寄せたのは綺羅星さんだった。彼女は珍しく怒りを露わにして、私を睨みつけ、怒鳴りつけた。何が何だか分からないまま、「すいません」と謝罪したがそれを聞く間もなく、綺羅星さんは私を力ずくで起き上がらせた。

無理やり立たされた私の目に飛び込んできたのは、奇々怪々な光景だった。

私達二人の盾になるようにして、紅葉と緋奈子さんが身構えており、二人は先程の右の通路を睨みつけているように見えた。しかし、その視線の先へと目を動かすと彼女たちが見据えているものの正体が分かった。

地の底に棲む怪物が口を開いているような、仄暗い闇を背にぼんやりと立っている人影が映った。

幽鬼のように人の意思を感じさせない不気味な佇まいもさることながら、その人影の両手の先と顔となる箇所の三点が淡く発光していたことが、途端にこのシチュエーションのリアリティを喪失させた。

その影は、大きさにして160cmより小さいぐらいだろか。小柄な体格であるように思えるのに、まるで飛び掛かる機会を伺う肉食獣のようにじっとこちらの動きを待っていた。

「誰よ、あんた!」と緋奈子さんが声を張り上げて怒鳴るようにして叫んだ。

だがその影は何も答えないまま静寂に住み着いおり、永遠にこの膠着状態が続くかと思われたが何の前触れもなく、目の前の影が片手をゆっくりと持ち上げたことで空気が再び動き出した。

そして、その持ち上げられた指の先が狙いを絞るように音もなく私を捉えた。その手が動くと、それに追従する形で光の点が移動し、まるで夜空を切り裂きながら進む飛行機の光のように見えた。

「え?」と予期せぬ事態にまぬけな声が漏れてしまい、相手の動きを警戒していた緋奈子さんが、さっと背中の竹刀袋に手を伸ばした状態で体を停止させた。

そいつは確かに私を指差し、私をその不気味に光る双眸で見つめていた。

その形無き視線に私は全身の細胞が沸騰するような感覚を覚え、目を一杯に見開き震わせていた。

ずっと黙っていた、私の中の少女が何かを感じ取ってムクリと首をもたげるのが分かった。

すると、途端にその人影は走り出し、再び真っ暗な闇の中へとその身を溶け込ませていき、淡い光が少しずつ離れていくその様を皆が唖然と眺めていた。

いや、正確にはその中で私だけが反射的に走り出していた。先程の身を沸騰させるような感覚に急かされるようにして、遮二無二なって地面を蹴っていたため、片手の懐中電灯の光は道を照らすことなくあちこちの壁に乱反射していた。

後ろの方で私の名を呼ぶ声が聞こえたが、私はとにかく必死になってその淡い光の尾を辿って走り続けた。右へ左へと角を曲がりながら、冷静な自分はこれでは帰り道が分からなくなると他人事のように考えている。

どれだけ走ったか分からないが角を曲がった瞬間少し開けた場所に出て、もう光が見えなくなってしまったため私は速度を緩めた。

頼りないライトの光で四方を照らすが、やはり誰もいないようだった。私は周囲の静寂によって自分のとった行動の迂闊さにじわじわと気づき、足が震えそうになるのを必死で堪えた。

私は何をしているのか。

これは明らかに、誘い出された。

だが分かっていても、動かぬわけにはいかなかった。私の考えが正しいかどうか、何としてでも確認する必要があったのだ。

すると、遠く後ろの方で私を呼ぶ声が聞こえた。どうやら緋奈子さんが私を追って来ているようだったが、だいぶ滅茶苦茶に道を進んできたので戻るのも一苦労だし、彼女がこちらに来るまでにもう暫く時間がかかりそうだ。

そう思って、声のする方向を振り返った、その時だった。

私は自分の呼吸が止まったのが分かった。息の仕方も分からなくなるほど、私の心臓は締め上げられていた。

振り返った私の真後ろには先程の人物が立っており、手を伸ばせば届く距離に来た今なら分かるが、それの発光していた顔面、そして掌には仮面とグローブが取り付けられていたのだ。どういった機能かは分からないが、この暗闇をライト一つなく駆け回っていたことを考えると、おそらくあの仮面は暗視ゴーグルのようなものになっているのではないか。

そして、このグローブは―――。

「ぐっ・・・!」と呻き声が漏れた。

それは、誰のものであっただろうか。

首の骨が軋む嫌な音が、頭の奥で木霊していた。

少しずつ、体から力が抜けて、膝から崩れ落ちる。

世界が、明滅する。

激しい速度で、白と黒とが入れ替わっている。

何も、考えられなくなる。

冷たい視線をした私が、私を諦めている。

私に似た幼い少女が、私を嗤っている。

遠い、何もかもが。

あぁ・・・そうか。

忘れ物を、取りに来たのか。

 (ⅱ)

突然走り出した深月を追って暗い地下道を駆け抜けながら、何度も彼女の名前を叫ぶが何の反応も返ってこない。

彼女があまりにも思いがけない行動をとったため、私の動き出しが一歩遅れてしまった。私が走り出す直前に、綺羅星さんが遠慮なく舌打ちをしたのを耳にしたが、彼女もまさか私ではなく深月が独断行動をとるとは予想していなかったのだろう。

全力で後を追ったが、結局その背中を捉えることはできずに足を止めた。彼女の持っていた懐中電灯の光は何処にも見当たらず、完全に後を追う術を失ってしまった。

いや、と弱気になりかけた自分の思考を頭を左右に振って打ち消す。

(これだけ静かで、狭い空間なら)

息を止めて、静かに目を閉じる。暗闇のしじまに耳を傾け、身体全体を聴覚の受け皿に変えてじっとそれを待った。

数秒の間、静寂だけが降り積もっていた。

刹那、何かが床にぶつかった音が壁に反響した。それはきっと小さな反響音だったはずなのだが、聴覚以外を可能な限り遮断していた今の私の耳にははっきりと聞こえていた。

音のした方目掛けて、がむしゃらに足を動かす。狭い地下道に反射した音では正確な位置を把握することは難しかったため、今夜限りは蝙蝠のようにエコーロケーションができたらと思った。

残りは勘で、目的地を目指すしかない。やはり私は頭が悪く不器用な人間だから、体力の続く限り、全身を駆使して行動するしかない。

通路の奥に細い光が見え、加速度的にその光と距離が縮まっていくにつれて、その輝きの正体が床に転がった懐中電灯の明かりだということが分かった。

少し開けた部屋に出た瞬間、その弱々しい光条に照らされた二人の姿が目に飛び込んできた。依然として正体不明の人影が、その片手を深月の首に手をかけて締め上げている。

深月の顔は血流が止まっているのか真っ赤に染まっており、彼女は赦しを請うようにして膝を地面に付いて、影をぼんやりと見つめていた。

その光景に全身の血が頭へと逆流していく。深月の口から冷たく濡れた唾液が垂れていて、彼女の意識がもうまともに残っていないことが伺える。

私の大事な深月が。

刹那的な衝動に身を委ね、身体は思考に頼らずに一人でに動き始める。

猛烈な力で地を蹴り、距離を詰める間に片手は背中の袋から竹刀を取り出しつつも、ライトと袋を放りその人影目掛けて袈裟斬りの構えをとる。

「何を、しているっ!」

喉の奥から獣のような叫び声を上げながら、渾身の力を込めた一振りはすんでのところで奴に躱される。

しまった、力が入りすぎだったと私は歯噛みする。その後も返す刃が一歩遅れてしまい、距離をとられる。

奴と真正面から向き合いつつ、すかさず倒れている深月の前に出て横目で彼女の様子を確認するが、胸のあたりが上下しており気を失っているだけだと分かる。何とか間に合ったことに、内心安堵したもののすぐさま気合を入れ直す。

ぐっと竹刀の切っ先を相手に向け、出方を待つ。立ち姿から察するに負けるような実力の相手だとは感じられなかったが、こうした勝負の場で油断するのは三流のすることだと教わった。

一本取るまでは、気は抜かない。

私よりもだいぶ身長が低いようで、160cmは無く体つきも小柄だから、明らかにこちらの方が有利である。だというのに下がろうとする気配は微塵も感じられず、今でもその視線は倒れている彼女へと向けられていた。

そんなにも、深月を殺したいのか。

体の底から沸騰する怒りを私は堪えきれずに大声で叫んだ。

「どうして深月を狙う!」

しかしそれが聞こえていないのか、相手は全く微動だにせずに深月をじっと見つめており、その気味が悪くも生意気な態度に一層腹が立ち、再び私は怒鳴りつける。

「深月が・・・彼女が何をしたっていうんだ!」

それとも理由など無いのか、そう問いかけようとしたところ、奴はようやく私と目を合わせる。仮面越しなので、もしかすると私がそう感じただけなのかもしれなかった。

不意に、風が抜けるような音が聞こえた。相手が小さく笑ったのだ。

「何がおかしい!」

「全部だよ、まぬけ」

それは若い女の声で、こちらを完全に小馬鹿したような嘲笑を含んでいた。少なくとも私や深月と変わらない年齢の声色であり、そうして私を侮辱した彼女はそのままゆっくりと距離を詰め始めた。私の構えた切っ先など目に映らないかのように、あるいは大した障害でもないような悠然とした足取りであった。

後少しで、間合いに入る。私は出来るだけ冷静さを装って低い声で短く告げる。

「・・・本当に怪我するぞ」

彼女は間合いの一歩手前で立ち止まり、コテンと糸の切れたマリオネットのように首を横に倒す。

「やってみなよ、やれるもんならね」

そうして目に見えぬ最後のラインを奴が踏み越えた。

瞬間、竹刀を振りかぶり、相手の面に思い切り打ち込む。相手の正中線に真っ直ぐ切れ込みを入れるような振り下ろしを意識して行う。

多少は痛い目にあってもらう、深月を半殺しにしたようなものなのだから、コイツもそれだけの覚悟はあると判断していいだろう。

しかし、その一撃はギリギリのところで後ろに避けられた。

奴が体勢を整える前に、振り下ろした先端をそのまま素早く上げて中段突きを繰り出すが、さっとそれを手で捌き、次はこちらの懐に飛び込もうと奴が前進してくる。

得物の適正間合いを維持するため、こちらも軽やかに後退する。攻守が入れ替わる瞬間に相手の動きを予測して先手を打つ準備を行う。

相手が片手をかざして接近してくる、おそらく掌底か、それとも掴み技かのどちらかだろう。確かに敵は身軽だが、今まで相手をしてきた選手や父親に匹敵するほどではない。

その掌が届く前に、腕を目掛けて左から切り払う。

短い舌打ちと共に手が引っ込められるが当然予測の範囲内だ。そのまま思い切り、奴の頭上目掛けて縦一文字に竹刀を振り下ろす。相手は辛うじて上体を反らしてそれを躱すが、完全に体勢は崩れてしまっていた。

こうなればもう、雌雄は決せられたも同然だ。

沈めた切っ先を下から潜りこむようにして、その無防備な喉元へと突きを繰り出す。鈍く、固い抵抗を感じたが、容赦なく踏み込んで相手を吹き飛ばす。

わずかに首を捻り、直撃は避けたようだが、相手はまともに呼吸も出来ず倒れ込んで激しく咳をしている。

「自首しなよ、武道家としての力量差が分からない時点で相手にならないから」と相手を見下ろして告げ、「深月を殺そうとしてこれだけで済むんだ。ありがたいと思いなよ」と語調を強めて竹刀を向ける。

奴も喉元への突きがかなり堪えたようで、ぜいぜいと蹲って喘いだまま動かずにいた。殺人犯かも知れないことを忘れて少しやりすぎただろうかと一瞬思ったが、後方で倒れている深月のことを思い出し、再び怒りの炎が激しく燃え上がった。

もう二、三発叩き込んでおこうかと、脅しの意味を込めて切っ先を相手の頬に当てた。その時だった。

ぐっと竹刀を掴まれたことで身体が引き寄せられ、そして奴が顔を上げた。仮面のせいで表情は見えないものの、何故だか厭らしく嗤っているような気配を感じた。

「深月、深月・・・」とやはり半笑いのような声で未だに咳き込みながら呟いていて、その響きには呪詛のようなものが混じっていた。

するとどこからか、とても小さくモーター音のようなものが聞こえ、何事かと周囲に目をやった瞬間に掴まれていた竹刀から抵抗が消えた。

「うるさいんだよ、お前!」と彼女は獣のように叫び、同時にその手に握られていた竹刀が途中から潰されていくのを目にし、私は思わず悲鳴を上げてしまっていた。

アイスのコーンでも握り潰しているかのように、パリパリと乾いた音を立てて竹刀が真っ二つに折られる。その光景をしっかりと認識した途端に、深月の声が脳内でリフレインされた。

『犯人は、首を絞めて殺害した上で、両腕を引き千切ったということですか』

その記憶が脳内で再生されたとき、悪寒と鳥肌が体中を瞬く間に覆った。

無意識的に距離を取りながらも、切羽詰まったようにして私は言う。

「お前が全部やったのか・・・!」

武器を失い、身を守る術を失った私に一直線に突っ込んでくる彼女の姿が目に映り、一瞬の内にいくつかの対応をシミュレートするが、どれもやはり危険性が高かった。短い間合いであんな握力のリスクに身を晒し続けるのは正気の沙汰ではない。

有効な手段が思いつけないまま、奴の必殺の間合いに入り込まれる。その手が私の首元目掛けて伸びてくるのを目視したことで反射的に上体が仰け反り、そのまま半ば自棄になって反った勢いのまま地面を強く蹴りつけ、力の限り後方へ宙返りしようと身体を丸め飛び上がった。

世界が一瞬だけ天地の境を失ったが、火事場の馬鹿力なのか思いの外身体は重力を感じさせないほど軽やかに舞い上がり、ふわりと桜色のスカートをたなびかせて着地した。

もう一度やれと言われたら出来そうにもない命がけの軽業に、私は脳内で様々な物質が分泌されているのをヒシヒシと感じ、口の両端が吊り上がりそうになる。普段は重たい防具を身にまとって試合するため、こんな派手な動きはしようとすら思わないものなのに、不思議なものだと私は妙な笑いが込み上げてくるのを抑えられずにいた。

「・・・化け物じゃんか」と相手が鼻を鳴らしながら口にしたので、同じように嘲笑しながら、「あんたに言われたくないね」と返した。

どうしてか、顔にこびりついた笑みが消えない。恐怖のあまり剥がれなくなっているのかもしれないし、最早正気を失っているのかもしれない。

私は数歩下がって部屋全体を見渡せる位置に立つと、周囲に使えそうな武器がないか確認した。すると幸運なことに、壁際のパイプ管の一部が取れかけていたので無理やり引き抜いてそれを真っ直ぐ相手に向けて構えた。

深く息を吐いて、全神経を目の前の敵に注ごうと試みていると、部屋の隅っこの方で深月が呻きながら身体を起こしているのが見えた。彼女は目をこすりながら落ちたライトを手に取ろうとしている。

「深月!ライトはそのまま照らしておいて」と私が短く大きな声で伝えたので、その手を引っ込めて、代わりに部屋の逆方向で睨み合う二つの影を何事かと凝視していた。

「ひ、緋奈子さん、これは一体・・・」と未だ混乱の最中にある彼女は、目を白黒させて二人を交互に見比べていた。

「大丈夫、深月。ちゃんと守るから」と努めて優しく、彼女を安心させるような口調で呟くと、深月は小さく震えた声で私の名前を囁いた。

その小さな声が、今は何よりもの力になっていた。

全身に気力が漲り、この身体の端々まで自分の意志で正確に操れることを確信し、再びパイプを真っ直ぐ構えて、「参る」と呟き目の前の相手に全神経を注ぐ。

「ははっ、なぁに?あんた侍か何かなの?」と彼女は私の発言を揶揄するが、今はそんなこと少しも気にもならなかった。

「そうだね、そうありたいと願ってる。深月のために」

「もう・・・お前は喋るなよ!」と私の落ち着き払った態度が気に入らなかったのか、何の前触れもなく全速力でこちらに駆け出す。耳の奥で深月の悲鳴に近い声が鳴っていたが、集中しきった私には単調的なノイズとしてしか響いていなかった。

先程は虚を突かれ危うい事態となったが、もうその心配はない。

相手の動きがとても緩慢に感じられ、私は少し冷めたような心地になっていた。冷静に立ち会えば、天と地ほどの差が私達の間にはあったのだと今更ながらに気づく。

一つ覚えのような、掴み技を切っ先で捌き、相手との距離を一定に保つ。素手のあちらの方が機動力では分があり、それは向こうも理解しているのだろう、どうしても懐に飛び込みたいという意識が全身から溢れて隠しきれていない。

ならば、それを利用しない手はない。

私は敢えて、捌き損ねのようにして彼女の腕を誘い込む。好機と悟ったのか、奴はその勢いのまま身体を深く私の懐に潜り込ませようと前進して来た。

来た、と絶好のチャンスを前に心の中で呟く。

後の先を取る、最高の一瞬だった。

滑り込んでくる彼女の体躯に合わせて、重心を傾けて強く一歩踏み込みながら返し技として肩で当て身を強く行う。自らの機動力が仇となり、その勢いを逆手に取られて奴は高い声を上げて大きく体勢を崩して仰け反った。

尻もちさえも付きそうな勢いで弾かれる彼女の脳天に目掛けて、流れるような動作で再度踏み込み上段に構え、振りかぶった。

敵が呆然として息を呑むのが感じられた。何度も経験してきた、勝利の瞬間だ。

(後はいつものように竹刀を振り下ろすだけ―――)

と瞬間、力を込めた掌に冷たい感触を感じて私は我に返った。

竹刀、じゃない。

握り込まれた鉄のパイプのことを思い出す。

こんなものを人の頭に全力で叩き込んだら、どうなってしまう?

全身から血の気が引いて、動きと思考が鈍くなるのが分かった。自分が今しようとしていた行動に愕然とし、パイプを振りかぶった状態で身体が完全に硬直する。

危うく人を、殺すところだった。

自分は何をやっている。

止めるのが一歩遅かったら、今頃人殺しだ。

なんて、なんて馬鹿な真似をしていたんだろう。

こんなことをしたかったんじゃない。私はただ―――。

自らの愚かさを悔い、歯ぎしりした瞬間、狭いこの部屋に彼女からは聞いたこともないような大音量で、私の名を叫ぶ声が響いた。

「緋奈子!!」

その声に我に返るのと、目の前に人魂のような朧気な光が迫ったのはほぼ同時であった。

 (ⅲ)

 突然、棒立ちとなった彼女の名前を、喉が割れんばかりの声量で呼んだ。

素人目から見ても明らかに隙だらけになっている彼女。その彼女に、不気味な人影が反撃の一撃を繰り出そうとしていたのだ。

あの手のグローブ、あれは間違いなく何らかの仕組みで握力が増幅されるものだ。自分の頚椎が軋む音を耳にした人間が言うのだから、きっと的外れではない。

床に転がる割れた竹刀も、もしかしたらその被害を受けたのかもしれない。

私の声で我に返った緋奈子さんは反射的に相手と身を離して、どうにか首元を掴まれることだけは避けたが、急な後退でバランスを崩し彼女は地面に尻もちを付いてしまった。

「ダメ!」と叫んではみるものの、相手はすかさず倒れた緋奈子さんの足首を握りしめる。それから間もなく、彼女の絶叫が室内に木霊した。

痛みに表情を歪め、片手に持ったパイプで反撃を試みるが、それももう片方の手に抑えられて徒労に終わる。

緋奈子さんの悲痛な表情と声に随分と満足しているようで、その人物は耳をつんざくばかりの声で狂気的に嗤っていた。

「ははは!何が侍よ、くっだらない!」と彼女に覆いかぶさるようにして、動きを制止している女が愉快そうに罵った。

「くそ・・・!離せよ!」

「なぁに?私を殺しちゃうと思ったの?だから打てなかったんだぁ、優しいんだねぇ?」

このままでは・・・。

椿さんが持ってきた写真が脳をよぎり、私はなんとか震える足で立ち上がろうとした。しかし、腰が抜けてしまって全く下半身に力が入らず、情けなく芋虫のように地をうねることしか出来ずにいた。

その間にも彼女の掴まれている足首の周囲が明らかに変色し始めており、このまま力を入れられ続ければ足の骨が折れてしまいそうだ。

悔しさに、涙が滲んでしまう。私も、緋奈子さんも、うっすらとその両の眼を濡らしていた。

女は再び空気が割れんばかりの声で嗤い、緋奈子さんにぐっと顔を迫らせて挑発的な表情をする。

「人が斬れないで、何が侍よ!!」とパイプを掴んでいたもう片方の手で、首を締め付け始めた。

呼吸が出来ず、段々と緋奈子さんの抵抗が弱まっていくのを私はただ呆然と眺めていた。

まるで自分は無関係のホラー映画でも見ているように、黙って見つめている。

私を守ろうとしてその身を危険に晒した友の窮地を前にしても、身体は恐怖で動かず、泣くことしか出来ない。気でも狂ってくれれば、その方がよっぽどマシだった。無力な自分を感じずに緋奈子さんの後に続くことが出来ただろうから・・・。

私の中の、私達も、すでに私を見放している。

背を向け、黙っている彼女と、ただ蹲っている少女。

ああ・・・死んでしまえ、こんな命。

がくりと項垂れた私の頭。何の役にも立たなかった、飾りのような脳味噌。

そのとき、ふと、誰かが私の肩を叩いた気がした。

しかし、振り向いても誰も居ない。

それでも確かに、肩に残った温もりを知っているような気がした。

刹那、脳内で線香花火のように小さな光が弾けて、古い記憶が蘇ってきた。

静まりかえった病室、電源を切ったようにベッドに横たわる幼い自分の体、それなのに煮えたぎる感情の渦。

幼い頃の自分が、目の前で泣いている、声を押し殺して、泣いている。

それに反比例するように胸の中の少女は、両手を振り回してなりふり構わず号哭している。

どちらも、何も信じられずに泣いている、怒っている、呪っている。

そんな鏡写しのような二人の小さな弱々しい肩に、誰かがそっと触れた。

『おばあちゃんに、なにかできることはあるかい?』

祖母の柔らかな姿が、私たちの側にあった。

それだけで充分だった。もう、何もいらなかった。

それだけで涙は止まる。足に力がこもる。頭が回転する。

私達が、黙って私を見据えている。どうやら、全てを私に任せてくれるつもりのようだ。

細胞の一つ一つがその温もりに活性化し、私はこの数日間で集めた情報でとびきりの一手を練り上げた。息を大きく吸い込んで、それを女に、この一連の事件の犯人にぶつけなければならない。

起死回生の、一撃を。

そのためにはまず、場の流れを引き寄せなければ・・・。

「もうやめなさい!」

その言葉に女の動きが止まり、それからゆっくりとこちらを見つめる。その動作だけで私は確信に近いものを悟っていた。

「少し黙っててよ」と女がつまらなさそうに呟く。

宙空を舞う言葉の羅列を一つ一つ高速で繋ぎ合わせて、一本の物語を編む。あとはそれを開いて見せればいい。

「最初に違和感を覚えたのは、二枚目の手紙だった」と私はゆっくりと女に近づきながら、堂々たるストーリーテラーを演じ始める。横たわる緋奈子さんは意識を失うまではいかなかったようで、激しく咳き込み、四肢を投げ出して喘ぎながらもこちらを見据えていた。

「その手紙には、こう記されていた。『これで一人ぼっち』と・・・。でもおかしな話なの。祖母がいなくることで一人ぼっちになるのを知っているのはごく限られた人間だけなのよ。私は嫌な意味で有名人だったから、両親がいないことは知られていた。だけど、祖母と二人で暮らしているのを知っているのは、先生たちか近所の人ぐらいのもの・・・。だってそうでしょ、両親を幼くして亡くした子供なんてものは、施設に入るか、親戚の家に引き取られるかするのが定番だから、祖母との二人暮らしを想像するのは不自然よ」

すらすらと暗唱するように語る私を女は黙ったまま見つめている。何も言わないのは私の言葉を待っているからなのか、それとも他の理由があるのか・・・。

チロリと舌先だけ出して唇を湿らせる。長々と口上を垂れたわけだが、まだまだ先は長いので、ゆっくりと着実に論理を構築して行こう。彼女にその真実を認めさせるためにも。

「もちろん些細なズレではあるわ、こんなことは全体的に見ても大した問題ではなかったの・・・。でもこの違和感が、いつまでも残っていた」

緋奈子さんがわずかに動き、起き上がろうとするが女の足がその身体を押さえつけ制止する。彼女の苦しそうな呻き声が上がり、私は話を止めた。緋奈子さんが歯を食いしばって痛みを堪えている姿に私は怒気と共にまなじりを吊り上げる。

「今は私が話しているのよ、私を見なさい」

自然と語調が綺羅星さんを模倣したものになり、胸中に驚きが満ちた。自分が咄嗟にこんな真似が出来るとは夢にも思っていなかった。

私の冷淡な命令口調に、女は気分を害したのか、それとも興味を持ったのか鼻を鳴らしながらこちらを首だけで振り返った。話の続きを促すような沈黙に私は再び口を開こうとした。

しかし、そのとき背後からカツカツと一定のリズムで高い音が聞こえてきた。音のする方へ顔を向けると、暗闇の先から二本の光条が向けられており、暫し経つとその光の後方から紅葉と綺羅星さんの姿が現れた。一体今まで何処に居たのかと怪訝に思ったが、そもそも勝手な行動を最初にとったのは私だと反省する。

目を丸くして二人の名を告げた私には目も向けないまま、綺羅星さんは女の方をじっと何の感情もないような瞳で見据えていた。

「遅くなってすみません」と紅葉が生真面目に謝罪しながらも、綺羅星さん同様に女のことを凝視しており、足元の緋奈子さんにさっと視線を巡らすと、「何てことを」と珍しく怒りを露わにして拳を握り込んだ。

綺羅星さんは、今にも飛び出して行きそうな紅葉を軽く手で制した後、チラリと私を一瞥し、それから何を考えているのか後方の壁まで下がってライトを置いてもたれかかった。

「良かったわ、どうやらメインディッシュには間に合ったようね」

「メインディッシュ・・・?亜莉亜さん、今はそれどころじゃ」

彼女に詰め寄り、声を荒げる紅葉の肩にそっと触れ、その瞳を覗き込んだ。

「幕を引くべき人間、というものがいる。今はまだ私達の出番じゃない」と今までで一番冷たい口調で紅葉に接した。まるでその邪魔だけは、誰にもさせないし、許さないと言わんばかりに冷ややかで、攻撃的であった。その言葉に少しの間逡巡する様子を見せたけれど、短くため息をついて紅葉は彼女の隣に並んだ。それから綺羅星さんは私の方を真剣な面持ちで見据えて私の名前を呼んだ。

「・・・なんでしょうか」

「任せて、いいのよね」

いつかのようにほんのわずかな不安に瞳が揺らめき、彼女らしくもない表情が垣間見えたため、私はまるで相手を鼓舞するかのようにハッキリと強く頷いてみせる。するとようやく普段の彼女らしい上品な笑顔を漏らし、壁と同化するように静かに瞳を閉じた。

そうして私は女の方を振り向くと、女は人質がいるから油断しているのか人数的不利を背負っても物怖じする気配を見せなかった。

それから無言で綺羅星さんが手を差し出して続きを促したので、それに頷くこともせず話を始めた。

「その違和感が私を、祖母が一通目の手紙を受け取ったときへと記憶を遡らせたの。あのとき、手紙を読んでいた祖母に私は後ろから声をかけた。出来る限り自然に、手紙に集中している祖母を驚かせないように・・・」

私は少しずつ、少しずつ女との距離を縮めていき、それと同じように少しずつ話の核心へと触れていく。

「でも、声をかけられた祖母はとても驚いていたわ。そして、その後祖母は『深月だったのね・・・私はてっきり』と呟いた」

くるりとターンし女に背を向けると、体の回転に追従するようにワンピースの裾が丸く円を描いて舞った。私は頭の中で、綺羅星さんが話をする様子をイメージし、それをトレースしながら論じていることを自覚していたが、本人がそれを察しているかは不明だった。それから私は目を薄く開き無表情で黙っている彼女へと話の矛先を向けた。

「私は幼い頃、ある人物と声が非常に似通っていると言われていたわ、顔と瞳と声は瓜二つだとも・・・」

私の勿体ぶった言い方に紅葉が、「それは誰なんですか」と急かすように問いかけた。

意図せず笑みが零れた。何の笑みかは分からなかったが、いつものことであった。

いつも自分自身を制御できないことに、自分の支配者になれないことに苛立ちと諦めを感じながら生きてきた。ときに怒り、ときに嘆きながら・・・。

私はその諦めと共に、きゅっと唇を三日月状に曲げて笑った。彼女のように優雅にこなせただろうか。まあ、どうでもいいことだ。

「死んだ私の妹、真月・・・」

「え、でも・・・それは・・・」と紅葉がチラリと私の背後の女を見てから、綺羅星さんの方を覗き見ると彼女は軽く頷いただけで沈黙を守っている。

「秋空さん、残念ですがその方は実体があります。亜莉亜さんにもその人が見えているんですよ?霊体の犯行では・・・」

彼女の素っ頓狂な指摘に、思わず、「ふふっ」と笑い声を漏らしてしまったため、紅葉から奇怪なものを見るような視線を送られることとなってしまい、こんな非常識さまで綺羅星さんをトレースする必要はないと内省する。まずいことに段々とコントロールが取れなくなってきているような気がする。

私は感情を一度平坦化するためにも一度咳払いをしてから、ゆっくりと首を振る。

「私は雨の日は、いつも事故直後の夢を見るの。ずっと、その悪夢から目を背けていた。見たくはないもの、忌避すべきものとして逃げていた。ですが、それは間違いだった。しっかりとあの日の記憶と対峙すべきだった・・・なぜなら・・・私はあの日、真月の遺体は見ていなかったのだから」

私は細い腕を軽く組んで、目を細める。今の仕草は中々本物に近い動きだったのではないかと我ながら感心した。私が何を真似しているかやっと気づいたのか、綺羅星さんは一瞬だけぽかんと口を開けて目を丸くした後、小さく舌打ちした。私の仕草より話の内容に興味があるらしい紅葉は、「ですが、死亡届は出ているんですよね」と冷静で的確な返しをする。

確かにこの話の穴はそこだった。確かに書類上は死んでいるはずであったのだが、私はこの数日間のお陰で飛躍的な話を前提に置くことに抵抗がなくなってしまっていた。

だがそこで、「その問題は、解決できないでもない」と綺羅星さんがぼそりと呟き、私を真似るように腕を組んだ。いや、真似しているのは自分なのだが。

「現代は、戸籍を偽造して擬似的に人を製造できる世の中よ。人一人死んだことにするのなんて、そんなに難しいことではないでしょうね」

彼女は後ろ髪を払いながら、さもどうでも良さそうにしており、その言葉と仕草に反論の言葉を失ったのか、納得したのか分からないが、紅葉は黙って私達を交互に見つめた。

暗く湿った地下空間に、ある種異様な空気が立ち込め始めた。凶器を持っている殺人犯に追い詰められていると言っても過言ではないこの状況なのだが、それにも関わらず、まるで女を裁く法廷を連想させるような厳粛な空気が漂っていた。

綺羅星さんがまるで最高裁判官のように、荘厳な面持ちでありながら、無表情なまま顎を上げて先を促す。

これ以上続ける必要があるとは思えず、女の方をぱっと振り返って告げる。予想通りならば私が言いたいことを既に察しているはずなのに、彼女はずっと無関心な姿勢を崩さないままであったため、私はどうしてもやりきれない思いが募り悲壮な声を上げてしまう。

「真月、どうして生きていたなら連絡してくれなかったの?私、ずっと寂しかった。ずっと、ずっと・・・!」

しかし、私の懇願も届いていないかのように、女は壊れた人形のように首だけを横に倒して言った。

「何の話をダラダラとしてるの?もう話が終わりなら、コイツ踏み潰していいかなぁ?」と足に力を込めて、横たわる緋奈子さんをいたぶる。

壊れた機械人形のような外見なのに、その内側では強い感情が渦巻いて様々な色に変わるのが見て取れた。怒り、苛立ち、憎悪、嫉妬、怒り、悲しみ、愛、苛立ち・・・。

これ以上下手な刺激は逆効果だ。

後方ではいつでも飛び出せるように紅葉が姿勢を低くしている。このままでは、誰かが傷つく。もう、そんなのはごめんだった。見たくない、もうこれ以上は失えない。緋奈子さんも、紅葉も、綺羅星さんも・・・妹も。

私は足早に女に近づき、互いに手を伸ばせば届くような距離まで到達した。後ろから私を制止する声が聞こえるが、それに構うことはなかった。

じっとお互いに見つめあうが、仮面が邪魔で彼女の本当を覗くことが出来ずにいた。

その邪魔な垣根を取り払うために、私は最後の言葉を紡いだ。

「三通目の手紙・・・、いつも貴方の影にいる、という言葉」

ゆっくりと目を閉じて、開く、また閉じる。

瞬きというものは、息継ぎのようなものだと思う。この息苦しい世界で何とか生きている私達が編み出した、一瞬だけこの現実から逃れ得る術なのではないか。

その緩慢な息継ぎを数度繰り返して、私は最後に大きく息を吸った。

「私の名前は深い月と書いてミヅキ、そして妹の名前は、真の月と書いてマヅキ」

ビクンと目の前の人間の身体が跳ね上がり、先程まで異様な存在だった女が途端に人間染みた姿に変わっていく錯覚を覚えた。

彼女も、様々な自分を内に秘めているのだろうか。

人を殺め、傷つけて笑う妹。

私に接吻をして、自嘲気味に笑った妹。

私が気づいてくれることを期待しつつも、それを拒む妹。

「深月、という言葉は、美しい月と読み替えることが出来るわ・・・。一般的に月が綺麗というのは、丸々とした月がはっきりと輝いて見える夜に使われるわ」

もう、仮面はいらない。

「そして真月、という言葉は、新しい月と読み替えることができる。地球から見て、月と太陽が同方向に並ぶことで、月は太陽光を地球に反射できずに、その姿を隠す・・・」

私はそっと手を伸ばして、その仮面に手を掛ける。足元では緋奈子さんが言葉を失って、顔だけでその驚きを表している。

「光を放つ月の裏側、影になっている部分に、光の当たらない場所に・・・貴方は居るのでしょう」

その仮面をゆっくりと、彼女の顔から外した。

短く切り揃えられた黒い髪が一瞬持ち上がって、柔らかく肩にパサリと降り立った。

そのオニキスのような瞳が虚ろに地面を見つめており、何もかも諦めきったような表情で嗤った。

その相貌を見て、私は驚愕した。彼女の姿にはあまりにも昔と変わらないあどけなさが残っていたので、もしかすると今までの出来事はあの観覧車の中で見ている夢だったのかもしれない、と荒唐無稽なことを考えてしまうほどであった。だが、周囲を漂っている下水の刺激臭が私をすぐに現実へと引き戻した。

二人が息を呑んだ気配が背後から伝わってくるが、きっとあまりにも顔つきが似通っていたことに対しての驚きなのだろうと想像した。

ふと、どこから来たのか彼女の横を通り抜け、転がっていた懐中電灯の光に蛾が数匹群がっていた。毒々しくも、美しい翅を広げ舞うその姿は、真実の輝きに魅せられ寄り集まった私達に類似していた。

無声映画のような静けさの中で私達姉妹は数奇な定めによって再開を果たし、一言では言い表せない感情によって口が開かれる。

「真月・・・また会えるなんて思ってなかった」

妹は未だに俯いており、その表情を窺い知ることはできなかったが、私はとにかく彼女を抱きしめたくなる衝動に駆られてその手を伸ばした。

しかし、その両手がぴたりと虚空で停止する。

私は、もうこの邂逅をただ喜ぶことが出来る状況ではないことに気づき、差し伸べられた指先が震えだすのを感じた、

人を殺め、友を傷つけ、そして祖母を・・・。

私はどうしたらいいのだろう、と心の中の私達に問いかけたが、誰も何一つ答えてくれることはなく、先程まで揺るぎない自信に満ち溢れていた精神はいつの間にか元の弱々しい自分に戻っていた。

祖母の魔法が解けたのか、それとも自身に投影した綺羅星さんの残像が消え失せたからなのか・・・。

不安に駆られた私は意見を求めて、綺羅星さんの方を振り返ってしまう。信頼できないと内心ぼやきながら、こんな窮地には安々と縋ってしまっている私の心を見透かすようにして、彼女は鼻白んで肩を下げ目を瞑った。

頼る先を失った私は目を何度もぱちぱちさせて、他にどうしようもなく真月に視線を戻したのだが、私がもう一度彼女を見たときにはあちらも私を見つめていた。急に目があったことにひどく驚き、情けなく取り乱しそうになってしまい、十年ぶりに出会ったその黒々とした瞳に体が痺れて動けなくなった。

「もう、遅い」とあまりも冷たく耳朶に響く声音で真月が呟く。

何かを言ってあげなくてはと、必死に言葉を探すがやはり的確なものが見つからない。肝心なところで役に立たない財産だこと、と一人心のなかで愚痴を吐く。

何も言えない私を見て、軽く鼻で笑ったあと、彼女はゆっくりと瞳を閉じた。それから少しだけ首の傾きを上に大きくして黙っている。

初め私は妹の意図するところが全く理解できなかったが、ふと脳内でその表情がいつかゴンドラで見たものとシンクロしていることを悟った。

私は自分が何を求められているのか、それが分かっても動き出すことが出来ずにおり、そもそもがその行動をこんな状況で求められる意味が全くもって不可解であった。しかし、観覧車から降りた後の真月の儚い微笑みが思い出され、私は掌を強く握り覚悟を決めた。もしかすると、彼女の中では大きな意味を持つのかも知れない、あの日の接吻だってそうだったかもしれないじゃないかと自分に強く言い聞かせ、身体を真月に寄せた。後ろで誰かが小さく私の名を呼んだ気がしたが、もう振り向けなかった。

少しずつ、彼女との距離が縮まっていく。

光と影、月の表と裏側という決して交わることができない二つが、今一つに重なろうとしていた。

彼女の唇が近づけば近づくほど、私は何か取り返しのつかないようなことをしている気がしてならなかったものの、それが何かは定かではなかった。

二人はまるで、宇宙の隅でランデブーしている二機の方舟のようだった。速度を等速に合わせ、やっとの思いで隣り合った二人。

ここで衝突すれば、果たしてどうなるだろうか。

互いに弾け飛び、遠く離れ離れになって二度と会えないのではないか・・・。

あるいはあのゴンドラの中で彼女が言ったように、共に滅びゆくことができるのだろうか。

彼女の本当の願いを理解できずにいる自分が、真月と繋がることはとても背徳的な行為であるかのようにさえ思えてならなかった。

だが重力も摩擦もない宇宙空間では動き出した物が止まらぬように、私達にはその口づけを妨げる何もかもが失われていた。

ふわりと、彼女の甘い香りが強く感じられ、同時に唇に訪れた慣れない感触に思わず私も瞼を下ろした。周りのみんなが息を呑んで事態を見守っているのを感じながら。

不思議と緊張感も、嫌悪感も芽生えなかった。あるべき場所に帰り着いたかのような奇妙な安心感すらそこにはあった。

それもそうか、私達は同じ場所からこの世界にやってきたのだから。

一瞬とも、永遠とも思える数秒間が過ぎて、私達の距離は更に近づいた。真月の腕が私の首を絡め取り、口づけは一層深く、濃厚になっていった。

時間や、空間の境界が不明瞭になり、周囲の音も、匂いも、閉じられた目の裏に映る遥かな闇さえも、全てが互いの鼓動の音に重なり溶け合っていた。

切ない息遣いも、口内で繋がった舌も、すでにどちらのものなのか分からなくなっていた。

彼女が求めていた世界が、これなのだろうか。

あの日、観覧車の中で妹が真に望んだ接吻は、これだったのかもしれない。

二つが一つになれる一瞬を、雨を待つ草花のようにずっと待っていたのだ・・・。だがだとしたら、それほどまでに草花に乾きをもたらした存在は何だったのか、誰、だったのだろうか。

(ⅳ)

そのときだった。

頭の中に苛烈な閃光が奔った、と同時に叫びだしそうになる程の痛みに身体を突き放そうとするが、がっちりと固定されたかのように真月は私から離れなかった。

何が起こっているのか分からない驚きと、今まで感じたことのない電流が走ったような痺れる痛みに、目が自分の意志とは関係なく大きく見開かれている。

口の中に濃厚な鉄の味が広がり、不愉快さと痛みに顔を歪めたが、目の前にある妹の顔は歪な喜びに満ち満ちており、目だけがキラキラとした黒曜石の輝きを放ちながら細められていた。

彼女の肩を強く叩き抵抗したものの、その必死ささえも嘲笑うように口づけをしたまま器用に笑い声を上げている。

私が渾身の力を込めて真月の肩を叩いたことでようやく、身体を離してくれる気になったようで、途端に身体が解放されて、慌てて後ろに飛び退る。私と真月の間にある1、2メートルの空間に赤い斑点のようなものが飛び散っていて、それが私の口から零れている血液であることに遅れて気づき、私は再び痛みに身体を襲われてその場にしゃがみ込んでしまった。

口内で舌を強く噛みつかれ、あわや食い千切られるかというところで何とか窮地を脱したようである。

久しぶりに再開した恋人たちのような接吻の後に、あまりにも痛々しい傷跡が残ることになり、一連の惨状に紅葉は驚きながら駆け寄って来た。

「秋空さん!」と私と痛覚を共有しているかのような苦しげな表情で、こちらの顔を覗き込んでいる。

「はははは!変わってないねぇ、深月。昔と変わらず、バカで、のろまで、臆病者のまんまだ!」

真月は狂ったように嘲笑った後、手を激しく叩きお腹を抑えている。チロリと舌先で口の周りに付着した私の血を舐め取って恍惚の色を浮かべている。いつまでも彼女の哄笑が反響するかのような錯覚を感じたが、何度か壁に跳ね返った後、ようやく静かになった。

「深月ぃ・・・あんたさ、私が何のためにこんな面倒な真似までしたと思ってんの?」

心底どうでも良さそうに髪をかきあげながら、真月がため息をつく。隣で歯ぎしりしている紅葉の様子を見ながら、彼女は誰のためにこんなにも怒るのだろうかと、ぼうっと考えてしまった。

いつのまにか隣に来ていた綺羅星さんが、無表情のままジーパンのポケットから真っ白のハンカチを取り出して、私の口の周りの血を拭き取った。その純白が赤く染まっていくのを見て、息が詰まるような罪悪感を覚えた。

小さくも有無を言わせない声で、「見せなさい」と綺羅星さんが囁いた。彼女に促されるままに口を開けて、口腔内の状態を確認してもらうと、彼女は「まるで獣ね」と心の底からどうてもいいというような淡白さを込めて呟き、それから私の髪を撫でて、両の手で頬を包み込んだ後上品に微笑んだ。

「残念だったわね、死ぬような怪我ではないわ」

「は、はい」と薄ら返事をする私に、「あら、調子が狂うじゃない、ここは怒るところよ?」とその笑みを絶やさぬまま言った。

「もしもーし、コイツのこと忘れてない?」と必要以上に大きな声を出して真月は、足元の緋奈子さんのお腹を爪先で蹴り上げる。彼女の悲痛な喘ぎに、紅葉の胸の奥に閉まってあった怒りの炎に日がついたようだ。彼女は素早く立ち上がり、片手を前に構えて重心を低くして腰を下げた。その瞳は全くの別人のように攻撃的な形に吊り上がっている。

「紅葉」と、そんな冷静さを失いつつある彼女の様子を綺羅星さんが咎めたが、普段とは逆の様相に私は思わず交互に二人の姿を見比べた。すると綺羅星さんは横目だけで真月を捉えて、ふと相好を崩したが、それは明らかに場違いな微笑だったため、部屋の緊張感は増々張り詰めていく一方になってしまう。

「どうぞ?言いたいことは言ったほうがいいわ。大好きなお姉ちゃんに伝えたいことがあるのでしょう?」と彼女が片手を出して、相手を揶揄するようにわざとらしい甘い声でぼやく。

「なに、あんた」

「お気になさらず、名乗るほどのものではないわ」と優雅にまた微笑んで見せる。

「ああそう」と真月は吐き捨てるように言った後、私に視線を合わせ、その憎悪で塗り固められた瞳で力の限り私を睨みつけた。抑えの効かなくなったブレーキで、必死に自分をコントロールしようと努めているが、やがて堰を切ったかのようにして彼女は口を開く。

「深月が・・・私を裏切ったから、あんな両親なんて捨てて、私と来れば良かったのに、あんたは私を選ばなかった!」

「ま、づき」

「あんたは知らないでしょうねぇ、私が影でどんな思いをしていたかなんて・・・。あんたは理解してくれると信じてた、だから最後の日だってチャンスをあげてやった」

真月は肉食獣のように歯を剥き出しにして怒りを露わにし、血走った目で私のことを睨みつけており、私は初めて妹にそうした敵意をぶつけられて激しく動揺し足が震えそうになる。

「さいごの、ひ・・・。まさか、あの事故は」

「うんそうだよ、私と、私たちが起こしたことだよ」

妹のその言葉に唇がわなわなと震え、心臓が早鐘を打ち、あの事故の日の記憶が走馬灯のように脳裏を駆けて、頭が真っ白になり自分が立っているのか蹲っているのか分からなくなるほどのショックを感じていた。周囲で生じている音の全てが、鼓膜を震わすことなく私をすり抜けていく。

「どうして」と、誰かが口を開いた。どうやら私の口から放たれた言葉ではあったようだが、まさか私の身体が起こした行為であったとはにわかには信じられなかった。きっとショートした私の身体を使って、私ではない誰かが言ったに違いない。

そんな私の魂の抜けたような佇まいを見て苛立ちを覚えたのか、真月は鬼のような形相を浮かべて部屋いっぱいに轟くほどの怒鳴り声を上げた。

「あんたたちが大嫌いだったからよ!大体、何生き残ってんのよ、何のうのうと暮らしてんのよ、頭おかしいんじゃないのぉ?」

一息に罵声を私に浴びせて彼女は息を荒げ肩を上下しながらも、その狂ったような笑みは残したままであった。私はそうして繰り返し吐かれたその呪詛の言葉に、体の末端が冷え切っていくのを嫌でも感じた。

真月は少し息を整えるように目を閉じて深呼吸した後、急に私の方に唾を吐き捨てて、「あんたなんか、苦しんで、不幸になって死んじゃえ」とどこか満足そうに呟き、それとほぼ同時に緋奈子さんの首根っこに手を伸ばす。

真月のその動きに紅葉が普段の彼女からは想像もできない瞬発力で地を蹴って距離を一息に詰めたが、「動くなよ」と刺すような視線を彼女に向けたことで、結局間合いに入ることなく紅葉は立ち止まった。

「あんたの友達なんでしょ?深月なんかが生意気にも友達なんて作ったからこうなるのよ」と再び私を首だけで振り返り言う。その口調は投げやりで、どこか凄惨な響きを内包するものであったが、彼女のセンシティブな感情に思いを巡らす人間は誰一人としていなかった。

場の空気が極度の緊張でひりつき、誰もが一触即発の事態に息を呑み、互いの一挙手一投足に神経を尖らせていた・・・のだが。

不意に、その騒がしい静寂を鈴を転がすような麗しい音色が引き裂いた。

「ふふふ」と手を口に当て、我慢できないといった風に綺羅星さんが花咲くように破顔し、そしてわざとらしく目を丸くして、「あら失礼ついつい我慢できなくって・・・それにしても深月、可愛い妹さんね」と私の方を呑気な口調をしながら見やった。

その、人を喰ったような態度に明らかに気分を害した様子で真月が「あ?」と意味のない単語を漏らす。私は綺羅星さんの自由奔放な、いや傲慢で理解不能な発言に言葉の一切を失っており、返事が出来ずに呆然としていた。

そんな私を見て彼女はさらに愉快そうにコロコロと高い声で笑っており、再び室内に美しい音色を奏でられた。その笑いがようやく収まったかと思うと、それまでの朗らかさや上品さが嘘だったかのような下卑た薄ら笑いを浮かべて真月を眺め言った。

「だってそうじゃない、お姉ちゃんが私を選んでくれなかった、お姉ちゃんは私が居なくても生きていけてる、お姉ちゃんが私以外の人間と関係を築こうとしている・・・」

真月の顔が怒りと羞恥で真っ赤に染まっていく。足元の緋奈子さんのことを忘れたかのような不用意な発言に紅葉が彼女を振り返り、「亜莉亜さん!」と叫んだ。

その紅葉の咎める声に、下種のような笑みを消して彼女は一つため息をついたかと思うと、手を後ろ手に回し腰のあたりで動かしていたが、もう一度その手が私達の目に見える位置に戻ったときには黒光りする物体が握られていた。

ゆったりとした動作で手を胸の高さまで水平に上げ、ガチャリと撃鉄が鳴る。

「ああ・・・貴方は深月そっくりね。本当に愛らしくて、愚かだ」

急に興味を失ったかのような口調をした綺羅星さんのその絶佳な佇まいと、その手に添えられた黒い花束のような拳銃がアンバランスながらも絶妙な美しさを醸し出しており、そんな場合ではないと分かりながらも瞳を奪われずにはいられなかった。

すでに彼女の瞳は無機質で淡白な色に染まっており、彼女が引き金を引かないでいられていることのほうが不思議に思えるほどで、さすがの真月も彼女の行為に驚きを隠せずに言葉を失ったまま拳銃を構えた綺羅星さんに釘付けになっていた。

「大好きだけど大嫌い。そんな悲劇のヒロインぶった貴方のアンビバレントな感情を見させられる身にもなってごらんなさい、本当に反吐が出そうよ。自分意外の誰かに縋らないと保っていられないような生命なら・・・さっさと捨てなさい」

そのあまりにも挑発的で他を圧する口調に、遂に真月が頭に血が上りきった面持ちで叫ぶ。

「黙れ!立場が分かって言ってんのか!」

「立場?私に弁える立場なんてあったかしら」

「この女、今すぐ捻り潰してもいいんだぞ」

「あらそう」と戯けたような態度で肩を竦めて、さっと視線を緋奈子さんに巡らせた。地に伏した彼女の敗者には似つかわしくない毅然とした瞳に何を感じたのかは分からないが、綺羅星さんはすぐさま視線を真月に戻し、「ご自由に?」と素っ気なく返した。

「冗談だと思ってんの・・・?」と私と同じことを考えた妹は、緋奈子さんの首を上から押さえつけるようにして締め上げ始め、その嫌な音に彼女は本気で殺そうとしていると直感し、「やめて!」と私は無意識に叫んだ

すると綺羅星さんは非常に冷たい物言いで、

「やめなさい、深月。彼女は誰でもない貴方のために死ぬのよ」と偉そうに吐いた。

「そんなの・・・絶対許しませんから!」

「許す許さないではないの、個人の生き死にに口を出す権利は誰にも無いのよ」

諦観したような、あるいは本当にどうでも良さそうな彼女の発言に居ても立ってもいられなくなり、押さえつけられた緋奈子さんの顔を目だけ動かして覗き込んだ。

依然として強く輝く意思をその瞳の内に宿して、彼女は弱音を吐くことなく歯を食いしばって痛みに耐えており、最悪の事態すら覚悟していることがありありと描き出された顔つきに私は背筋が凍っていく。

「銃を捨てろ・・・本当に殺すぞ」

「亜莉亜さん・・・!」と紅葉が切羽詰まったように呟く。

「さっさと殺しなさい、それとも私が先に引導を渡してあげましょうか?」

そう言うと、綺羅星さんは拳銃を両手に持ち直して銃口を真月の心臓にピタリと定めたが、迷いのない優雅な動作に、それが命を奪おうという非道徳的な行為だとは露も感じさせなかった。

私はもう我慢できなくなり、舌の痛みなど忘れて綺羅星さんに飛びついて大声を出す。

「もうやめて!」

「何をするの深月!どきなさい!」

「やめて、やっと会えたんです!真月に、家族に!」

「じゃあ緋奈子を殺すのね!いいわ、それが貴方の選択なら、見殺しにしなさい!」

私はその発言に、どうしようなく涙が止まらなくなる。どうしてそうなるのか、何故どちらも大事だと思うことが間違っているというのか、大切なものは一つに絞られなければならないというのか、私の願いは、そんなにも我儘でおかしくて無理なことなのか?

それでも、情けなくても私は叫び続ける。

「それもダメです!」

「いい加減にしなさい!!どちらも選ぶなんて都合のいい選択は無いのよ!」

「どうして・・・二人とも失いたくないのがそんなに間違っていますか!?」

仲間割れとも言える二人の揉み合いを、死んだような目つきをして真月が見ている。

怒り、悲しみ、苦しみ、諦め・・・。

今さら戻れはしないことも、再び二人で共に歩めないことも、分かっている。

私はそこまで馬鹿ではない。

それでも、理屈に感情が従属してくれるわけではない。

人は機械ではないのだ。

楽しかった記憶も、何もしてあげられなかった無力感も、十年経とうと色褪せて消えることはなかった。

忘却の彼方に、救いがあればいいのに・・・。

何もかも忘れて生きられたら、どんなにか素敵だろう。

遂に突き飛ばされる私の脆弱な身体。弾かれる刹那に、涙が淡い色をした粒となって空中を舞った。地に零れ落ち、四散するその姿が、誰かの心の叫びのように音もなく私の網膜に焼き付いた。

さっと紅葉が傍に駆け寄り、私を支える。彼女に綺羅星さんを止めるように懇願しても、苦しそうに顔を歪めて首を振るだけであった。

綺羅星さんが両手で拳銃を握り直し、狙いを正確に絞る。その顔からは、何の感情も読み取れず、まるで機械のように無垢で、冷酷だった。

真月が緋奈子さんから手を離し、私に身体を向ける。

諦めに満ちた、あまりにも儚い顔つきで妹がこちらを見つめ、それからややあって笑った。だがその表情は今日この場で私に見せた歪な笑みではなく、あの日遊園地で私が向けられた笑顔に非常に似ていた。

一枚の絵画のように、均整の取れた美がそこには描かれていた。何かの終わりを告げるような儚げな微笑みが、消えそうなくらい眩しく輝き残像を落とす。

そうして破滅的に甘美な瞬間が刻まれた後に、花火のような発砲音が部屋に木霊した。


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