表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
彼岸の華   作者: 杏ころもち
6/8

六章 欠片

六章 欠片

(ⅰ)

遅すぎた夕食を終えて、時刻はもう十時を回っていた。

長い一日であったと、無意識にため息が漏れて、布巾で拭いていた白い丸皿にそれがかかった。その吐息のせいで、淡く変色しなければいいと本気で考えていた。

「疲れたでしょう?大丈夫ですか?」と洗い物をしている紅葉が私を気遣った。やはり、先刻の四人の中では彼が最もまともなのは間違いなさそうだ。

私や綺羅星さんのような明らかな異端者はともかく、緋奈子さんも激情家なところがあり、少々暴走気味だ。さらに綺羅星さん曰くポエミストらしい。

彼のようなまともな形で状況をまとめてくれる存在は、とてもありがたい。

私は、「はい、ありがとうございます」と短く礼を述べた。

「無理はなさらずに・・・早めに寝た方が宜しいかもしれませんね。就寝の時は声をかけてください。」と彼が事務的に返す。それからややあってから、彼は言葉を継ぎ足した。

「珍しいんですよ」

「え・・・?何がでしょう?」

「亜莉亜さんが、こんなにも積極的に他人と関わることです」

洗い物を終えて、私が拭き終わるのを待つ間に、ティーポッドに茶葉を用意して紅茶を淹れる準備をしている彼は、どこか嬉しそうで、だけど少し寂しそうだった。

ポットの中で茶葉がジャンピングしている。ダージリンティーだろうか、とても上品な香りが漂った。

私は何と返していいか分からず、ただ彼の言葉を待った。男性にしては珍しい、サラサラの黒髪を耳にかき上げて、彼は紅茶を蒸している。

「あの人、もうお分かりでしょうけど人間嫌い、その上厭世家なんですよ。本来家から一歩も出ずに、ただ思考に没頭していたい種の人間です」

彼は、「だけど・・・」と神妙な面持ちで一旦言葉を切った。

「そうもいかなくなったんです。というか、亜莉亜さんがそれを良しとしなかった。とにかく、ある目的のために彼女はわざわざ大嫌いな下界に降りてきて、大嫌いな人間相手の商売をしている・・・。」

「それほどまでして、果たしたい目的というのは・・・?」

ティーポットを傾けて、それぞれのカップに紅茶を注ぐ。薄いオレンジ色の液体が容器の四分の三程まで満ちたところで手が止められた。彼はその色にうっとりするような儚い笑みを浮かべた後、ゆっくりと首を振った。

「それはまたいつかお話します」

私よりわずかに低い目線から伝わってくる紳士で、でも力強い眼差しに、それ以上は何も聞けなかった。

「さあ、それでは三階にご案内します。就寝スペースも、風呂場も上にあります」

「お願いします・・・ところで、亜莉亜さんはどちらへ・・?」

「お風呂ではないでしょうか?あの人は勝手ですからね」と紅葉は言葉とは裏腹に嬉しそうに笑っている。彼が彼女をどれだけ大事にしているかが分かるような表情であった。

「どうか、亜莉亜さんの求めに応えてあげてください」

「どういう・・・」

「僕では、彼女の話についていけませんからね。そういう相手に飢えているのだと思いますから」

私は彼の誤魔化すような言葉に、一応頷いてみせる。こちらとしても、そうしたいとは本気で考えている。

あの時は場当たり的に、私を導いてくれと頼んだが、今は少なからず彼女なら私を教導してくれるのではないかと思えていた。

その後、彼に促されるままに私はダイニングを出て、階段を上がっていった。事務所からダイニング、そして階段のある狭い部屋は連続して繋がっており、どの部屋も建物の外観に反して格調高い装飾がなされていた。

我が家とは違って軋むことのない階段を上がり終えると、再び狭い部屋があり、そこを右に曲がると長い廊下に出た。

右手には扉が三つ。そして突き当りに一つ。

ここが最も奥まった生活空間なのだから、個室は右の扉の三部屋で、突き当りが先程紅葉の語ったバスルームなのだろうと瞬間的に部屋の役割を割り振ると(これまた勝手な憶測なのだが)、突然奥の扉がガチャリと開き、中から湯気とともに綺羅星さんが姿を見せた。

見せた、のは別に問題なかったのだが・・・。

「ああっ!亜莉亜さん!またそんなはしたない格好で廊下に出てきて!今は彼女もいるんですから、戻ってちゃんと服を着てきてください!」

そう、紅葉がカンカンになって言ってくれたように、彼女はバスタオル一枚という裸同然の姿で共有スペースに顔を出したのだ。

私は時が止まったようにその姿に釘付けになっていたのだが、彼が怒鳴り声を上げてくれたお陰で体の硬直が解けた。どうやら彼はメデューサの瞳に睨まれることはなかったようである。

だが、一瞬とはいえまともに視界に飛び込んできた彼女の艶やかな姿は、脳裏に焼き付いていて、とてもじゃないが消えてくれそうになかった。

すらりと伸びた手足、私より数センチは高いであろう身長、そして明らかに私よりも豊かな胸部は、同じ女である私にとっては嫉妬することすらできない程完成された美であった。

さて、当の本人はと言うと、悪びれる様子もなく極めて大儀そうに顔をしかめているだけであった。この様子では、彼女の瑞々しい肢体が惜しみなく晒される事は、常態化しているのであろう

「別にいいでしょう、脱衣所を出てすぐが私の部屋なのだから・・・」

「良くないです!!綺羅星家の人間がそんな醜態を晒すなど言語道断です!」

怒り心頭と言った様相の紅葉の言葉の中に、私は引っかかるものがあった。

(綺羅星家の人間?)

その言い回しは明らかに、綺羅星という姓が名門であることを仄めかす言い様であった。まあ、彼女たちがどこか普通の人間ではないことは、言語化されなくても節々から予測できることではあったのだが。

建物の内装といい、明らかに下流・中流階級の人間ではなかった。もしかするとハイソサエティな人々なのかもしれない。

そこまで考えて、ハイソサエティが営む興信所というのは何ともアンバランスで、シュールだとついつい含み笑いしてしまった。

するとそれに反応した紅葉が何を勘違いしたのか、「ほら、秋空さんも呆れていますよ!」とこちらを巻き込むような発言をした。

「そうなのかしら?」と綺羅星さんはとぼけた口調で私を見つめている。先程から、どこか彼女の声音は柔らかく、友好的であった。顔つきだけは、無表情、上品な顔、冷酷な顔を目まぐるしく入れ替えてはいるが。

私は急に話題を振られたため、思考が一瞬ショートしてしまった。反応が遅れた私を綺羅星さんが訝しむように見据えている。呆れられてはいないものの、彼女の問いには早く答えなければという、謎の焦りが私を追い立てて、頭が真っ白になる。

真っ白な脳裏に浮かんだのは、先程の鮮烈な映像だけであった。

「き、綺麗だと思います・・・!」

「え・・・?」と私の突飛な発言に二人は声を合わせて驚きの声を上げた。私が弁解するよりも、いち早く発言の意味を理解した綺羅星さんがきゅっと口の両端を上げて笑う。彼女にしては珍しく、少々厭らしい笑みであった。

「そういうところが、緋奈子はたまらないのでしょうねぇ・・・」

「ち、違います・・・今のは、違います」

「秋空さん、フォローになっていませんよ」と彼にまでからかわれて、私は羞恥で全身が熱くなるのを感じた。

沈黙は金なり、とは言ったものだ。いや、この場合口は災いの元か・・・。

相変わらず、はしたない格好のままの彼女が私の傍までやってきて、「どうやら、私はちゃんと服を着たほうが良さそうね」と囁いた。

その言葉を聞いていた彼は「当たり前です」と冷たく言い放ったが、まるでその声が聞こえていないかのように、綺羅星さんは、目を合わせようとしない私の方をじっとりと眺めているようだった。

いつまで経っても彼女が何も言わないので、私は痺れを切らしてそちらの方に目を向けた。するとそれを待っていたかのように、彼女もまたしっかりと私の目線と己のそれを交差させる。

赤みを帯びたその白い肌が、あまりにも扇情的で、何故だかとても噛みつきたくなるような衝動に駆られつつあった。

「ええ・・・今度からはそうするわ。子犬と思って拾ってきたのは、狼だったみたいだから」

私室の扉を開けてから、完全にその姿を室内に消すまで、綺羅星さんはその粘着質な笑みを浮かべたままだった。

紅葉は彼女とは違ってさっぱりとした笑顔をしていた。

「安心してください。時津さんには黙っておきますから」と言い残して部屋に消えていった。

一体全体、何から弁解し、安心すれば良かったのか・・・。

 (ⅱ)

  一度部屋に入って、荷物の整理を行った後に熱い湯船に浸かろうと扉を開けた。

私用に割り当てられた部屋は、我が家の私室よりも何倍も豪華であったが、同時に居心地を損ねるデザインでもあったが、まあ一日限り、長くても数日間だけの仮住まいだ、文句は言うまい。

最初に私の関心を集めたのは、壁にかけられた絵画だった。どこかで見たことがある作品だったが、名前を覚えているほど鮮明な記憶の中にあるわけではなかった。恐らくは美術の授業や教科書で目にしたことがあるのだろう。

その絵画は右端から、赤ちゃんとそれを囲む数人の人々、中央に林檎を掲げる半裸の女性の姿、そして左端には座り込む老婆と白い鳥が一羽描かれていた。人の一生が右から左へと描写されているようだ。

私なら自室にこれを飾ることはないだろうと言える一品だった。こうした作者の死生観が色濃く反映されているような作品は、眺めていると頭痛がしてくる。

その上絵画が飾られている部屋の壁は、周囲四方がモノクロームの壁紙で整えられていた。あまりにも目にうるさい白黒の壁に私は気が滅入りそうだった。

更に絨毯はどうやらペルシャ絨毯がチョイスされているようで、メダリオンコーナーのデザインである。

どれもこれも想像以上に金額が掛かっているのだろうが、私はこれらの価値を実数値で表すことができるほど詳しくはなかった。

その他の家具はなんとか一般的なデザインをしていたので、私は胸をなでおろした。ただ、ベッドがダブルなのが広すぎて少し落ち着かなかったが。

私はため息をついて、荷物の元へ足を運んだ。既に部屋の中に紅葉が搬入してくれていたため、チャックを開けて寝間着を取り出す。レース付きでダークブルーのナイトウェアと下着を手に再び廊下に出た。

後ろ手に扉を閉めて、脱衣所へと入り込む。そこで身にまとっていた衣類を引き剥がし、カゴに放る。そのまま折れ戸タイプの浴室ドアを開けてバスルームに進む。

黒のタイルが敷き詰められた狭い空間があって、その隣に大きなバスタブがバランス悪く並べられており、限られたスペースの中で、最大限に大きな浴槽を置こうとした試みによる歪な結果と思われた。

風呂蓋を外して、湯気の立ち上るバスタブに片足からゆっくりと浸かっていく。少し熱いぐらいのお湯が凝り固まった全身をほぐしてくれるのが分かり、自然と口から息が漏れる。リラックスできる状態になってようやく、自分の身体が疲労困憊の状態であったのだと気付かされ、苦笑した。

立ち込めた湯気が天井へと登っていくのをぼうっと見ながら、今日一日のことを漫然と振り返っていた。

祖母の失踪、残された三枚の手紙、綺羅星興信所・・・今日一日の密度があまりにも濃過ぎて、果たして本当にこの十数時間の内に起きた出来事だったのかと、疑問を抱いてしまう程であった。

私は未だ残る様々な問題に思考を巡らせる。

祖母は何処へ行ったのか、祖母と私を害する人間は一体何者で、何の目的があるのか。

かくして、問題は山積みであったが、時間がないというのもまた事実だ。

私は事件について考えることを意識的に止めて、さっさとやるべきことをしてバスルームから出た。

身体をバスタオルで拭き、寝間着に着替えてから脱衣所に備え付けてあるドライヤーで髪を乾かす。部屋に戻ろうと脱衣所のドアを開けると、廊下の向こうから紅葉が歩いてくる。

彼はこちらを見て柔和な微笑みを浮かべてから、「湯加減はいかがでしたか?」と口にした。

私は最適だったと伝えて、彼にお礼を述べた。証拠があるわけではないが、間違いなくお風呂を沸かしてくれたのも彼だろう。なぜなら、ここへ来てから綺羅星さんが家事を行う姿は一度も目にしていないからだ。

彼は就寝の挨拶をしたあと、思い出したように再びこちらを振り向いた。その際の彼の瞳が妙にあどけなくて、弟が居たらこんな感じなのだろうかと勝手に妄想した。

「この建物は、古びた外観のわりにかなり最先端のセキュリティで守られています。だから、安心して眠ってくださいね」

「・・・はあ」

私は色々と質問したくなったが、彼がその後直ぐに扉の向こうに消えていったので、私は廊下に独り取り残される形になってしまう。心のなかで、最先端、ともう一度口にしてから、私は自室の扉を開けて中に入った。

もう日が変わりそうな時間である。

彼はああ言っていたが、とにかく部屋の戸締まりだけは念入りに確認してからベッドに腰掛けた。

ベッドサイドランプのスイッチを入れ、室内照明を消した。ぼんやりとした暖色の光だけが室内に残り、部屋を照らしている。

普段ならばとっくに寝ている時間だったし、疲れも溜まっているであるはずなのに、どうしてか目が冴えてならなかった。

窓の外では依然として雨が振り続けており、その強さは先程よりも増していた。私は睡眠薬を服用しようかと立ち上がりかけたが、結局やめて座り直した。どのみち効果がないことは、既に何度も実証済みである。

 もう少し瞼が重くなるまで、読書の続きをしようと思い、本を手にして再びベッドに腰掛ける。

本をめくる渇いた音だけが部屋に響いている。きっとまだ二人も起きているだろうに、防音がしっかりとなされているのか、とても室内は静かであった。

本の中のシーンは、主人公が罪の告解をヒロインにしているところであった。自らの信条に基づき人を殺めた主人公は、その犯行の渦中、成り行きで関係のない人まで手にかけてしまい、罪悪感に苛まれるようになる。

自らが求めたような自分に、主人公はなれなかった。それになるための資格が無いのだと、実行してから気付かされる。後には罪業だけが残る。

そう、資格が・・・なかったから。

私の意識がページに吸い込まれるようにゆっくりと、静謐に、夜は更けていった。

 (ⅲ)

結論から言うと、私はいつもの悪夢を見た。しかし、普段と同じラストシーンが流れた後に、丁度フィルムを入れ替えたか、チャンネルでも切り替えたかのように夢はその形を変えていった。

私はその夢の中で、遠くの景色を眺めていた。空は雲ひとつ無く澄み渡っており、遠く地平線さえ見ることが出来ていた。途端の強風にグラリとその景色が揺れ、同時に鉄の軋むような音が頭上から聞こえてくる。

すると目の前の少女は、怖がる私を見つめとても愉快そうに大声で笑った。

「あはは!深月もしかして怖いの?」

「真月は怖くないの・・・?こんなに揺れてるよ?」

私達姉妹は、両親とともに遊園地に来ていた。そして今、二人だけで観覧車に乗っていた。昔からあるテーマパークではあったものの、未だに人並みは衰えておらず多くのレジャー客で賑わっていた。観覧車もその例に漏れず年代物で、人気のアトラクションだった。

しかし、錆付き、ちょっとした強風で軋むゴンドラは私のような臆病者には居心地が悪かった。

妹は上機嫌になって、わざとゴンドラを揺らしている。それに怯える私を彼女は楽しんでいるようだ。

私はこのような高空アトラクションを提案する人物は、何処へ向かっていたのだろうかと時々考える。観覧車だけではない。バンジージャンプ、スカイダイビング・・・。わざわざ命の危険にその身を晒すことを好む人間の不可思議な感性は、生存本能とは真逆のものではないか。

あるいは、自ら死に近づくことで強く生を感じられるのか・・・。

高く、より高い場所へ。

深く、深い死の淵へ。

真冬に炬燵の中で、アイスクリームを舐める喜びに似ているのかもしれないとも思う。

「怖くないよ」

続けて真月が言う。

「だって、深月が一緒だから」

時折自分の声と妹の声が重なって、どちらの言葉なのか分からなくなる時がある。性格は真逆の姉妹だったが、顔つきと声と、その闇夜を映したような瞳は瓜二つと言われていた。

ゆっくりと彼女は瞬きを繰り返す。真っ黒な瞳が閉じられ開かれる度に、彼女の虹彩が爛々と黒く輝く。

狭いゴンドラの中には二人だけだ。眼下に広がる景色には、無数の人間が蟻のように蠢いているが、彼女のオパールの瞳には私だけがぽつんと映っていた。

間もなくゴンドラの高さは頂点に達しようとしており、窓の外の光景は尚の事不鮮明に、美しく見えた。遠く、あらゆるものがミニチュアに映ったことで、景色は複雑さを失い単純化されている。

シンプル・イズ・ザ・ベスト、という言葉は核心を突いていると私は信じている。飾り気のないプレインな存在こそがこの世で最も美しく強い。

人間という生物において、シンプルであるというのは決して愚者というわけではない。自分の中に大事な核が一つあって、それが絶対的にぶれないのだ。

妹がそうだった。自分の意見に従い、それと相反するものには正面からぶつかり捻じ伏せようとし、例えそれが親だろうと友達だろうと関係なかった。だからこそ、彼女の自由を阻害する両親が嫌いだったのかも知れないなと、大人に近づいた今なら思える。もちろん両親だって、真月の突出した能力を充分に伸ばしてやりたいという願いからの行動だったのは間違いない。

「私は怖いよ、真月」と妹の爛々とした瞳を見つめ返しながら呟く。

すると、彼女は立ち上がり、私の隣へと移動してくる。私達が腰を下ろしている座椅子は固く、決して座り心地が良いものとは言えず、ところどころ変色しているし、ほつれもいくつか見られる。

その動きで再びゴンドラが左右に揺れた。私は妹のその行動に肩をすくめて怯えたが、直ぐに揺れは収まった。

真月は身体を私の方へと傾けて、しだれかかってきた。彼女の熱がじんわりと身体を伝い、妹と接している箇所がやけに熱くなった。

真月は、今まで頭を吊っていた糸が切れたように、首を私の肩に乗せて、「お姉ちゃん」と珍しく名前ではなく、家族としての記号で彼女は私を呼んだ。それがとても不思議に思えて、首だけ動かして様子を伺った。

いつもヘラヘラしている真月が、無表情で反対の窓の外を見つめていた。突然人格というソフトが入れ替わったような様相に、私はたまらなく不安になる。

このように、最近真月は人が変わったようになることが度々あった。何が原因で回路が変更されるのかは分からなかった、決まって二人きりのときにこれは起こった。

「どうしたの、真月」

「このまま観覧車が落ちたらどうする?」

「え?」と反射的に私は身体を離そうとするが、真月がそれを阻止するかのようにその視線で私を縫い止める。いつものように茶目っ気たっぷりではなく、何も映っていない鏡のような双眸がただ私を反射している。

こちらの反応をじっと待っているのが分かるが、私は彼女の求める言葉を何も持っていないことに気づき閉口した。

遂にゴンドラは天に最も近い軌道上に位置した。風をまともに受けて金具が悲鳴を上げる音が頭上で鳴っている。

「もしもそうなったら、二人で一緒に死ねるね」

「なんでそんなこと言うの・・・?」

「例えだよ、落ちたりしないよ。落とそうとしなければ」

「私は、嫌だよ・・・」

彼女の冷たい無機質な言葉に、背筋がぞわりと凍り、反射的に否定の言葉を口にした。

その言葉を聞いた直後、隣で真月が歯ぎしりをするのが分かった。少しでも距離を離そうとする私の前に立ちはだかり、鬼のような形相で私を睨んだ。

「深月はなんでそんなに私から逃げるの」

「そんなつもりじゃ・・・」

「嘘、この間だって、私を裏切ったじゃん」

「裏切ってなんか・・・」と私は口ごもる。

真月は両手で私の肩をぐっと、掴んで身体を近づけた。私には無い相手を征服しようとする意思が込められた瞳が、吐息さえ感じられる距離まで近づけられた。彼女の必死さが不気味さを増長させ、私は怖くなって真月の両手を振り払おうとした。しかし、それをさせまいと私の上に腰を下ろして、こちらの行動を制限する。ピンで固定された標本のように、私は微動だにできなくなった。

「深月!」

「いや、放して・・・!」

「なんで・・・!」

真月の苛立った声を聞きつつ、首から上だけを動かして真正面から真月と向き合わないようにするが、彼女が額と額を勢いよくくっつけたことでそれもできなくなった。

刹那、零距離で視線が交差する。それを深く認識するより早く、真月が動いた。

真月の唇と私の唇が重ねられる。押し付けられるような接吻に、私は頭の中が真っ白になり、先程とは別の意味で微動だにできなくなっていた。

黒いダイヤのような両目が閉じていく様子が、世界を二人だけのものに遮断するためのシャッターを連想させ、なぜか見とれてしまった。

未だに小さく揺れるゴンドラが、振り子のように一定のリズムを刻む。催眠術にかけようとする振り子かメトロノームのように踊るカゴの中、私は妹とキスをしていた。

彼女の閉じられた瞳が、ゆっくりと開かれて私を見つめている。それによって、私はかなり遅れてではあったが我に返り、改めて両手に力を込めて真月を突き飛ばした。

ベーゼの余韻には、息を荒げる二人の声だけが残ることとなり、あまり風情があるものとは呼べなかった。もちろん二人の間に残ったのが愛の言葉であったとしても、キイキイとなる金属音がそれを台無しにはしたであろうが。

「なんで・・・、こんな」

そう私が呟いた頃には、ゴンドラはほぼ真下まで移動しており、すぐそこに係員が立っているのが確認できた。真月は私が何を言おうとこちらを向こうとはせず、扉が開けられるまでの間、外の景色を睨みつけていた。

係員が扉を開ける。先導の必要もなく無言で真月はゴンドラから降り立ち、私もそれを追うように飛び出していく。

「真月!」

「ごめんね」と彼女は立ち止まりながら呟く。遠くの方でベンチに座ったまま両親が、私達姉妹の様子を眺めている。

真月はくるっとこちらを振り返り、猫のような目を細めて「冗談だよ」と言った。

その妹の姿は、七年間生きてきた中で一番儚く、魅力的な表情であった。

 (ⅳ)

 叩きつける雨の音で私は目を覚ます。

昨晩よりも轟々と窓に降りつけている雨は、依然としてベッドに横たわったままの私を咎めるかのようであった。

意識が覚醒していく最中、見覚えのない風景に一瞬目を白黒させて動揺した。だが、趣味の合わない絵画が目に入ったことで、自分を取り巻く状況を思い出すことができた。

「真月・・・」と私は夢を想起して、無意識に呟いた。

妹との最後の鮮明な記憶が夢に現れたが、結局現実でも彼女の行動を理解することができないまま、遠く離れ離れになってしまった。

血を分けながらも、決定的な何かを分かち合えなかった姉妹。

そんなものか。

血は水よりも濃い、というのに・・・。

両親から同様に、半分ずつ命を貰ったはずなのに、人は兄弟同士でも争う。

何かを巡って、奪い合って、妬み、憎み合って。

真月は最後の最後、私を憎んだだろうか?

間接的に彼女を殺したのも、私かもしれない。

幼い頃は、双子でもないのに頻繁に間違われることが嬉しくてたまらなかったことを思い出し、顔が緩んだ。まるで・・・。

まるで、複製みたいに・・・?

ふと気づけば、私は思考の海の縁に立っており、ややあってから海の底を覗き込んだ。

その海底に煌めいていた欠片が私に一つの可能性を示すように、少しずつ海面へと近づいてくる。

まさか、そんなはずはない。

だが・・・。

私はさらに、いつも見る悪夢へと思いを巡らせて、パズルの欠片を探し出して顔を青ざめた。あの日の現実を複製したような悪夢の中で、私は一度もあるものを見ていない・・・。

私はさっと立ち上がり、服を着替えて廊下に出た。激しい動悸を落ち着かせるためにも、一度頭をシャッキとさせたかった。下から人の気配を感じられたが、先に右に曲がって洗面台へ向かった。

顔を洗って、鏡に写った自分の姿を凝視する。夢の中で、真月の瞳に反射して映った自分の姿とは、全く変わってしまっていた。

背丈は同世代の平均を軽々と越えてしまい、髪の毛だって二倍近く伸びたのではないだろうか。

純朴だった瞳は、見るものに歪さを感じさせる水晶になってしまっていた。

真月が生きていたらどんな姿に成長したのだろうか・・・。

頭を振って思考をリセットし、扉を開けて廊下に再び戻る。脱衣所兼洗面所を出てすぐ左の部屋が、綺羅星さんの私室だった。そのドアには『起こすな』と短く警告文が描かれたボードが吊り下がっていたが、彼女が低血圧だろうが朝寝坊の常習犯だろうが今更驚きはしない。

起こすと面倒だと考え、可能な限り忍び足で廊下を通り抜けて、そのまま階段を下に降りて行きリビングに出る。

そこには、朝ごはんの支度をしている紅葉が、エプロンを身にまとってこちらを振り返っていた。

「あ、おはようございます。早いですね」

「雨の音で・・・」

すると彼は窓の外を見ながら、「ああ・・・」と吐息混じりで呟いた。

「秋空さん、トーストでも構いませんか?」

「はい、なにかお手伝いしましょうか?」

「ありがとうございます。でも、すぐに終わりますので・・・」

ピーナッツバターらしきものを食パンに塗りながら、紅葉は相変わらず紳士的な口調で告げる。手持ち無沙汰になり、仕方がなく椅子を引いて腰を下ろし周囲を観察する。

ダイニングセットの向こう側、丁度紅葉の背後に当たる場所には、三人がけのカウンターが備え付けられており、その上には小さなブックシェルフが置かれていて、分厚い本が数冊並べられていた。それらは小説や、文学的な書物もあれば、何かしらの専門書のようなものまであった。

私がそうして暇を潰していると、「ああそうです、もしもよろしければ、亜莉亜さんを起こしてきて頂いてもいいですか?」と紅葉が首を傾げていった。

彼の突然の難題に、私は目を丸くして「私がですか」と返事をした。

「はい。大丈夫です、どうせもう起きてはいるけれどベッドから出たくない、という状態だと思いますから。引き剥がしてきてください」

「はあ・・・」と私は渋々といった雰囲気を隠すこと無く呟いた。

気は進まないが、彼に朝食を用意してもらっている以上、このお願いを無下にすることはできず、リビングを出て、再び階段を上がって彼女の部屋の前に立った。未だ吊り下げたままの『起こすな』のプレートが、先刻とは違ってイヤに重々しく感じられた。

念の為、気持ち程度のノックをしたが、中からは一切物音が聞こえないままであった。どうしようかと思いつつ、何となくドアノブに手を伸ばすと抵抗なく回ってしまった。

あ、と口を開きかけたが、何とかそれを閉じて少しずつ扉を押す手に力を込めて部屋に入った。

彼女の私室は私の部屋と同様に格調高い家具が並んでいたが、ここではわざわざ彼女の私室について細かく言及する必要はないため割愛させてもらう。だがそれでも、彼女が眠り姫のように横たわっているベッドに天蓋とカーテンが着いていたことは特筆すべき価値があると言えるだろう。

薄いベールの向こうで規則的な寝息を立てている彼女があまりにも美しく、私は蜜に惹かれる蝶のようにふらふらと引き寄せられていった。

まつ毛の長さに感嘆の声を漏らすと、彼女が軽く身じろぎをした。綺羅星さんが身にまとっていた赤色のパジャマの首元が少し乱れており、真っ白な肌が露出していた。

陶器のような、というと手垢がついた表現だが、まさにその比喩が適切な艶やかさだった。

ついつい調子に乗って近づいて彼女を観察してしまう。

その寝顔はあどけない少女のように見え、意識があるときの冷たさや、無機質さ、あるいは西洋人形のような上品さはなりを潜めていた。

両手をベッドサイドについて、身をかがめて彼女に最接近する。相変わらずはだけた首元が、凄まじい引力を持って私の視線を釘付けにしている。

(鼓動が、うるさい・・・)

自分の中で拍動する心臓の音が静まり返った彼女の部屋に響かないか、などと無用な心配をしていると、途端にベールの向こうから手が伸びてきて、私は前のめりに倒れ込むことになった。

その突然の出来事に「きゃっ」といかにも女性的な声が出てしまう。

引き寄せられるがまま、今まで味わったことがないほど柔らかなマットに身が沈み込む。何が起きたのか分からず、目を見開きながらその手の主の方に視線を移すと、微睡みの気配を残しながらも、いたずらっぽく目を細めてこちらを見つめている彼女と目が合った。

「まさか本当に狼になるとはね・・・」と綺羅星さんは口元に弧を描いた。

彼女の顔が目の前にあったため、私はそのからかう言葉にまともに反応できずに、固まったまま動けなかった。そんな私の様子にご満悦なようで、鈴のような音を鳴らして上品に笑う。

「今なら私も寝ぼけているから、キスぐらいしても怒らないわよ」

急に真顔になって彼女がそんなことを囁くものだから、私は夢の中での真月とのキスシーンを思い出してしまった。それによって私の羞恥心は我を取り戻したようで、バッと彼女から身を離して大声を上げる。

「お、起こしに来ただけですよ!」

「ふぅん」と今更興味なさげに声を漏らす。

あちらの手が届かぬ距離まで離れてから、じっと彼女を観察する。姿形は眠り姫と比喩しても、差し支えないほどの優雅さをまとっていたが、幾分中身が不似合いであった。無邪気と言えば聞こえは良いが、殆どの場合彼女は他とは一線を画するほど異質だった。どういうことかと言うと、その人格の内奥は、無邪気さではなく、冷徹冷酷、無関心さが大部分を占めていた。

今は上機嫌なのか、童女のような笑みを浮かべているが、心を許し過ぎてはダメだと私の中の誰かが警告していた。

彼女から視線を逸して、部屋の中を観察していると、その書物の多さに気づき驚かされる。部屋は四方を本棚で囲まれていて、綺羅星さんが身を横たえているベッドの傍には雑然と本が散らばっていた。彼女がいかにだらしない私生活を送り、紅葉によって人間らしい生活が可能になっているのがはっきりと分かる部屋だった。

「あまり女性の部屋をジロジロ見回すものではないわ」と先ほどとは全く違う声のトーンで彼女が呟く。もうスイッチが切り替わったのか。

「すみません・・・本ばかりで驚きました」

「まだ足りないわ、これだけじゃ直ぐに読む本が無くなってしまう」と残念そうに頬に手を当て、考える仕草をとる。

「この量で・・・」

彼女の脳内メモリを覗く方法があるのならば、今すぐそれを実行してみたいと思った。その瞳がもういっそ破裂してしまいそうな危うい輝きを秘めているのは、その圧縮された高濃度の叡智が原因なのかもしれない。

私の呟きから心を読んだかのように、「読み物なんて誰でもできるわ」と心底どうでもよさそうに言葉を発する。

「読んで感じたものを、確かな形で抽出できなければ、読書の時間なんて無駄な一時になりかねない」

「確かな、形・・・」

「そう、きちんと自分にフィードバックしなさい。貴方も好きなんでしょう?読書」

綺羅星さんが、ベッドの縁まで身体を引きずりながら私に問いかけた。ちなみに彼女が行う質問のほとんどが形骸化したものであったのは言うまでもあるまい。つまり、自分の中では答えが決まっているのだ。

私が何も答えず、ただ彼女の赤みを帯びた絹糸のような髪を見つめていると、その沈黙を肯定と受け取ったのか彼女は続けた。

「罪と罰、素敵な作品よね」と恍惚とした口調で呟きを漏らした。

ああ、どこかで私の本に目をやっていたなと思い返し、頷く。

「特に、ラスコーリニコフの罪の告解のシーンは最高だわ。私は彼の思想にいたく共鳴したのだけど、残念ながらドストエフスキーは違ったようね」

「あ、待ってください。まだ途中なので・・・」

「あら、それは失礼」と彼女はそう言うと優雅に立ち上がり、「先の展開の情報漏洩は死罪だものね」と芝居がかった風にウインクしたが、そこに謝意など皆無だったことは間違いない。それから顔を上げて、私を改めて見つめると楽しそうに頬を緩めた。

「読了したら、感想を聞かせて頂戴。貴方とは良い語りができそう」

と、今まで見た中で一番自然な笑顔を彼女は浮かべていた。

「はい、必ず」

本当に本が好きなのだろうと、その笑顔を見て確信する。

私は彼女の周囲に積み上げられた茨の森を薙ぎ倒さないように、軽く片付けながら彼女の着替えを待った。私は、羞恥心など微塵もないような彼女の着替え方に呆れる一方、そちらを振り向かぬよう意識するのに苦労を要した。

綺羅星さんは何やら楽しそうに私を揶揄していたが、いちいち反応していてはあちらの思うつぼだと判断し、努めて冷静なフリをしていた。もちろん、そんなものは彼女に筒抜けだったに違いないが。

本を隅に寄せる途中で、どことなく引っかかる瞬間があった。かつて見たことがある一冊が視界の端に映った気がしたが、彼女の着替えが終わったことで、私の意識は深く潜ること無く、水面に浮上した。

「おまたせ」と綺羅星さんはジーパンにワイシャツという、シンプルなスタイルでこちらを向いて立っていた。彼女の長い足と、豊かな胸部が引き立てられ、とても魅力的だった。

「いえ、それでは下に降りましょう。もう、朝食の準備が済んでいると思いますから」

「ふむ・・・メイドが二人になった気分だ」との彼女の呟きに、いくら中性的と言え、男性の場合は執事なのではと考えたが、もしかすると男性の場合でもそうした言い回しをすることがあるのかもしれないと思い直し沈黙することに決めた。

階下に降りようと、階段とステップに足をつけたときには、もう胃を刺激する素敵な香りがリビングから漂っていた。トーストだけではなく、ウインナーの匂いもしているおり、私は唾液が分泌されるのを口内で感じながら急かされるように急ぎ足で階段を降りた。

背後で綺羅星さんが、「腹が空けば子供に戻るか」と淡々とした口調で独り言を漏らしていたが、聞こえぬふりをしてリビングに入っていった。

「あ、遅かったですね。もう準備できていますよ」

扉の先では、エプロンを後ろ手で解きながらこちらを見て微笑む紅葉と、

「おはよう!深月・・・と綺羅星さん」

感情の起伏を、天から地へと上げ下げしている緋奈子さんが座っていた。視線を私からゆっくりと背後の綺羅星さんへ移して、少しつまらなそうに口を尖らせたものの、昨日のようにはっきりとは態度に示さなかった。どうやら多少は彼女のことを受け入れたのかもしれない。

「お、おはようございます。時津さんどうしてここに・・・」

「どうしてって、ここまで来て私だけ蚊帳の外っていうのはナシだからね!」

と彼女は満面の笑みをして見せた。朝食は済ませているのか、カップを正面に据えてカウンターに座っている。昨日とは打って変わって、ジャージではなく女の子らしいスカート姿だった。桜色の薄い生地のもので、同じスカートでも制服とは全く違う印象を受けて思わず頬が緩んだ。裾から伸びた足は、やはり筋肉質で無駄がなく洗練された芸術品のようであった。

スカートが女性らしい、というのはくだらない固定概念であったか。

私は紅葉に促されるようにして席に着いたが、綺羅星さんは黙ってカウンターまで移動し、緋奈子さんの隣に腰を下ろした。

彼女の意図が分からぬままに、緋奈子さんは目を丸くして相手を見つめていたが、当の本人は自分には関係ないと言わんばかりに澄ました顔をしている。彼女の突飛な動きに冷静に反応していたのは相棒の紅葉だけで、彼は食卓の上に置いておいたトーストとウインナーの乗ったプレートを綺羅星さんの正面へと届けた。

「どうぞ」

「ありがとう。紅葉、椿に連絡をとっておいて」

「椿さんにですか・・・。また急に呼び出したら迷惑ですよ」

「良いのよ、どうせ暇なのだから」

「はぁ・・・まあ分かりました」と渋々といった様子で彼は事務所の方へと消えていった。

綺羅星さんは速いテンポで会話を終えると、赤い唇を無防備に開けてトーストに噛み付いた。口周りに付いたピーナッツバターをぺろりと舌で舐め取る。上品な容姿の彼女には似合わないその無防備な所作が何故だかとても魅力的に映った。

聞き慣れぬ名前がしたため、私は「どなたですか?」と質問をしたが、彼女は「直に分かる」と淡白な返事をしただけで、その間もトーストから目を離すことはなかった。

一人取り残された私はしょうがなく食卓につくが、四人がけのテーブルだったため少し物悲しい雰囲気を醸し出していた。

彼女に倣ってトーストにかぶりつくと、ピーナッツの芳醇な香りが鼻孔をくすぐり、私の思考が活性化されていく。続けてウインナーに手を伸ばし、数本ぺろりと平らげた。口元に手を当ててから咀嚼する。非常に美味しい。私は常々思うのだが、味の良質さを言語化するのに美味しい、という言葉以外が存在するのは些か無粋ではないだろうか。

テレビの中では、マイクを片手に食事の感想を言葉巧みに述べるレポーターの姿が多見されるが、味の詳細を伝え、必要以上の言葉数を弄するのは、食事が保証された平和な国ならではの光景だ。もしかすると命を繋ぐための食事には、「美味しい」という言葉すらも無用の長物なのかもしれない。

だからこそ敢えて口にしたい。平和な日々を称えるためにも。

「美味しい・・・」

私がしみじみと呟いていると、少し離れたカウンターのところで二人がじっとこちらを見ていた。

「空腹が満たされても、年相応の表情をするのね」

「綺羅星さん、変な目で深月を見ないでよ」

「あら、貴方に言われたくないわね」と彼女は緋奈子さんの方を向く。

「ま、また言いがかりつけるつもり?」

緋奈子さんはカップを口元に持っていったが、どうやら中身が入っていなかったようで、誤魔化すように咳払いをして机上に戻した。しかし、目ざとい綺羅星さんはそれを確認していたようでニヤついた品のない面持ちをしている。

「動揺しているわね、貴方は常に年相応で、単純ね。あ、褒めているのよ」

「バカにして」

「いいじゃない、歳不相応の深月と良い相性かも」

とその言葉に、目を大きく開けて声を高くして「ほんと?」と呟いたが、彼女が声を上げて笑ったことで自分がからかわれていたことに気づき、ガタリと音を出して立ち上がった。

憤慨する彼女と、相変わらずまともに相手をしようとしない綺羅星さんは、傍目で見ると中の良い姉妹のようにも見えた。もちろん外見は全く似ていないが、二人の間にはそうした打ち解けた空気が漂いつつあったのだ。

昨日はあんなに険悪だったのに、と私は不思議に思わずにはいられなかったが、それは当人たちの問題なので深く考えることを避けて口を出さなかった。

もしかすると、真面目な話でもないときはこうした柔らかさを前面に出しているのかもしれない。

彼女に弄られ疲れたようで、緋奈子さんは私の隣まで大きな足音を立てながら歩いて来る。椅子を引いたときの高い音が、引っかかれた床板の悲鳴のように響いた。

「あの人の相手は疲れるよ、ほんと」

「ふふ、昨日よりは仲良くなれたみたいですね」

「は、何その冗談・・・。深月までからかわないでよ」

少し責めるような口調ではあったものの、腕を組んで背もたれになだれかかった緋奈子さんは、優しげな笑みを口元に浮かべていた。

「ま、深月の様子を見れば、少なくとも怖い目にはあってないみたいだし」と真面目な顔をして机の上を見つめる。きっと昨晩は彼女なりに様々なことを心配しながら、床についたことだろう。

ペットを預けていたようなその口ぶりに複雑な気持ちにはなったものの、自分の考えすぎだったと思い直す。

プレートの上が空っぽになった頃合いに、扉を開けて紅葉が部屋に戻ってきた。少し疲れたように肩を落とし、首を回した。毎日綺羅星さんに付き合って振り回されているのだから、それも当然と言える。

昨晩少し一緒にいただけなのに、私も充分に振り回されたのだ。これを日々絶え間なく続ければきっと、疲労でその肩は重しを付けたようになるのではないか。

連絡を終えた彼に慰労する言葉もなく、綺羅星さんは「どうだった」と無機質に言った。

「多少ごねられましたが・・・まあ、何とかなりました」

「違う、いつ来るの」と電話の相手が来るのは大前提といった様子で、彼女は冷たく言い放った。傲岸不遜な態度に、紅葉が気分を害しないだろうかと気になったが、彼も慣れたもので表情一つ変えなかった。

「さあ、すぐ来るとは言っていましたが、どうせ当てにはなりませんよ」

「まあ、あいつは時間にだらしないやつだからな」と男性的な口調で綺羅星さんがため息をつく。

身の回りの世話を、紅葉に一任している貴方がそれを言うのかと内心呆れたが、二人の関係に首を突っ込むのは出過ぎた真似だと思い口を閉ざした。と言えば聞こえは良いが、単に面倒事を避けたかっただけでもある。

再びため息を漏らしてから、綺羅星さんは口元をナフキンで拭う。仕草は気品あふれるものだったが、ナフキンに付着したピーナッツバターがそれを台無しにしていた。そして紅葉は頼まれもせずに食後の飲み物の用意をしている。ルーティンワークとなっているのか、それとも彼の生来の気質なのか・・・。

私は姿勢を正して、二人の方に視線を向ける。時々忘れてしまいそうになるが、命を狙われている・・・かもしれない身分なのだし、それに祖母のことだってそうのんびりしていられないはずだ。紅葉も居るのに依頼のことを疎かにしているとは考えにくいが、そろそろ行動指針の方を確認しておかなければ気が気でない。

「あの、これからどうするのでしょうか」

私はそう問いかけて、続けて「その、具体的に」と念を押した。

その質問に紅葉は、困ったように綺羅星さんに視線を動かした。彼女は黙ったまま食後の珈琲をすすり、香りを楽しむように鼻をひくつかせた。そのはぐらかしたような行動に、まさかと不安が一気に押し寄せたが、私が次の言葉を紡ぐ前に綺羅星さんはくるりとカウンターチェアを回転させてこちらを向いた。

「こちらのペースがある、と言いたいところだけど・・・」

彼女は足を組み替えて膝の上に肘をついて頬杖をつく。優雅だがどこか怠惰な印象を感じるその所作は、どこか彼女らしい気がした。

しかしながら、今はそのアンニュイな態度は私の癪に障り、その感情がぴくりと私の眉を突き動かしたが、それが言葉となる前に彼女がそれを遮った。

「深月にとっては、そうは言ってられないのも事実ね」と珍しく他人を慮った発言を綺羅星さんが行った。いや、人として以前に依頼された側の人間としては当然の義務なのだが。

むこうで安堵のため息を漏らす紅葉の姿が見えた。彼が何も言わないのは、あくまで仕事の進行のイニシアティブは、主である綺羅星さんが取るということなのか。

彼女はカップを片手に席を立ち、私の正面に座る。先程までの柔らかな佇まいは消え失せ、既に件の冷酷さを身にまとっていた。

鈍い輝きを放つ瞳が、私の瞳を覗き込む。その行動は私の心をリーディングしようとしているようで、少し不気味だった。

「どうかしましたか?」とその気味の悪さを誤魔化すように問いかける。

私や緋奈子さんをからかって楽しむ彼女と、人を観察対象としてしか認識していないような冷徹な彼女。どちらの彼女が本物なのか、それともそのどちらもか。

私はそこまで考えて、そのくだらぬ考えを吹き消した。

本物や偽物を作り出してしまうのは、人間の弱さだ。善悪、正誤、それらの一般的な基準が無ければ不安になり、自らの中の価値基準を信じられない人間の脆さが作り出した幻。

本物であれば正しい、偽物は間違っている。偽物だって、研ぎ澄まされたものならば、本物に迫り、時には凌駕する輝きを放つはずだ。

本物だろうが偽物だろうが、それによって影響されたものの価値は不変である。

そう、例え彼女の人格のそのどちらかが、意図して作り上げられたものであっても・・・。

「これから警察の人間が来るわ」

「え・・?」

「まあ、情報提供者ね。どのみち情報が無ければ効率的な行動は起せない。国家機関からもたらされる情報量、これ以上の収集力を発揮できる存在はほぼいないでしょうしね」

彼女のその話に私は舌を巻いた。私が思っていた以上に彼女たちはその道のプロフェッショナルだったようだ。

一般的な興信所、及びに探偵事務所が警察とのコネクションを保有しているものなのか、全くの素人である私には想像もできなかったが、少なくとも、警察関係者をこちらの都合一本で即日呼び出せるというのは、控えめに言っても特異ではないか。

私は目を瞑りながら首肯し、「口出ししてすみませんでした」と呟いた。そうした謙虚染みた態度が気に入らなかったのか、綺羅星さんは鼻を鳴らした。その傲慢とも言える態度に、緋奈子さんが、「そういうところが、子供っぽいんじゃないの」と普段と違って冷静に返す。

大人びた対応を見せた彼女に、紅葉は満足げに頷いてみせた。自分に近しいと思っていた紅葉のその態度に、綺羅星さんは不満げに顔をしかめて、今度は露骨に舌を打ったが、もう誰も何も反応しなかった。

皆が一様にカップの中身をすすった後、一拍置いて紅葉が、「とにかく、今はその人待ちということです」と呟いた。

中身の空っぽだった緋奈子さんだけが、苦々しい表情を残した。

 (ⅴ)

五月雨が窓を打ち、テレビの音をかき消す。ニュースでは一昨日の事件を報道していたが、私が知っている以上の情報は一切流れておらず、両腕の欠損に関しても遅ればせながら情報統制が行われたようで、そうした話はされなかった。しかしそうした統制も虚しく、ネットニュースなどではその情報も囁かれていたらしい。

綺羅星さんは事務所の方へと姿を消しており、リビングには読書している自分と、退屈そうにテレビを眺めている緋奈子さん、淡々と帳簿か何かに筆を走らせている紅葉が残っていた。

三者三様に好きなことをしていたが、私は読書に集中できないでいた。それもそうだろう、祖母のことがあるのにこのように余暇を過ごしているのには、どうしても罪悪感を覚えるのだ。

ふうっと息を漏らして、本を閉じる。ぱたんという渇いた音は、やはり外の激しい雨音に飲み込まれた。

そのまま何ともなしに時を過ごしていると、隣の部屋から話し声が聞こえ始めた。綺羅星さんの声はほとんど聞こえなかったものの、例の客人の声ははっきりと隣のこの部屋まで響いていた。

「だいたい君は僕を何だと思っているのかなぁ」と、ハスキーな声が聞こえてくる。

その声にリビングにいた三人は同方向へ顔を向けて、その後顔を見合わせて立ち上がった。無言のまま紅葉が扉の前まで移動し、ノックをした後、「失礼します」と声をかけて扉を開けた。客人が来ていると、自分の生活空間の一部でさえパブリックに近い性質を持った空間になってしまう。仕事場と居住区が同じ場所にあるというのは、不思議なものである。

彼が扉を開けた途端に、先程のハスキーな大声で「久しぶり!もみちゃん!」と客人が言った。

その声に苦笑いしながら頭を下げて「どうもご無沙汰しています」と彼が真面目に答える。

その後恭しい仕草で手を室内に向けて広げ、私達二人を事務所へと招き入れる。唐突に他人行儀な、労働人の側面を垣間見せる紅葉に目を丸くしたが、気を取り直して部屋へと足を向ける。

「失礼します」と意識してはきはきとした口調で声を出す。

相手は警察関係者、いわば、興信所の二人とは違う意味のプロフェッショナルだ。気合を入れ直して対峙する必要があるだろう。そう考えながら、事務所に足を踏む込み、ソファに座り込みこちらを見据えている客人を見据えた。

自己紹介をしようとしていた私を遮るように、客人は切れ長の目を見開いて言った。

「おお!君が例の美少女依頼人だね!」

「え・・・?」

まず相手が女性であることに酷く驚いてしまって、反応が遅れたが、その上あまりにも場違いな明るく陽気な声に唖然としてしまった。

客人は音もなくすっとソファから腰を上げ、言葉を思索する暇も身動ぎする間もなく客人は目前にまで迫った。

「ふむ、もみちゃんが可愛いと言うだけはある!」

そう口にした唇は真っ赤な口紅で塗られており、少し派手な印象を受ける。髪は染めているのか美しいブロンドで、身長は明らかに私よりも高い、綺羅星さんよりも高いかもしれない。十センチ近く上の目線から女性はまじまじと私も見ている。

この種の視線にもここ数日で随分と慣れてしまった。

こちらを観察する、あるいは値踏みする瞳だ。彼女と違って少しはオブラートに包まれた視線ではあるが、友好的であると即断するには明らかに時期尚早だった。

「僕は天野椿あまのつばき。君たち市民を守る頼れる刑事だ」

私の手を無理やり取って、握手する。目を白黒させて天野さんを見つめていると、窓際で外を眺めている綺羅星さんが腕を組んで舌を打った。

「何が頼れる刑事だ、つまらないジョークはやめろ」と攻撃的な口調で彼女は視線を外にやったまま呟いたが、私たちには見せない獰猛さを初めて目の辺りにして、一瞬誰が喋っているのか分からなくなるような錯覚を覚えた。

だがそんな獰猛さを気にも留めること無く笑いながら、「君は相変わらず、ジョークが分からないんだな」と大げさに肩を竦める真似をした。手は繋いだままだったため、私の腕までつられて上下し、まるで猿回しの猿のようだった。

私は「あの」と声をかけて天野さんの注意をこちらへと向けさせると、小さく声を上げながら彼女は私へと視線を戻す。

「こちらで依頼をしています、秋空深月と申します。ご協力の方、本当にありがとうございます」

「そんな畏まらないでくれ深月ちゃん、こちらこそ光栄だよ。こんな可愛い子の手助けができるなんて」

そう言って、天野さんは繋いだ手を口元へと持っていくと、音だけの接吻を私の掌に落とした。驚きのあまり情けない小さな声が漏れてしまったが、天野さんが軽くウインクしたのを皮切りに赤面してしまった。

「おや、顔が真っ赤だ」と呆気にとられた表情をわざとらしく浮かべると、ようやく彼女は私の手を離す。すると痺れを切らしたように大きな足音を立てて、背後から緋奈子さんがやってきて私の隣に並んだ。顔は見えないが、怒っているのは間違いない。

緋奈子さんは私の腕を痛いほどしっかりと握ると、必要以上の声量で自己紹介を始めた。

「時津緋奈子!深月の親友です!以後よろしくおねがいします!」

綺羅星さんとは違う意味で攻撃的な語調と声量に、私は耳を塞ぎたくなる衝動に駆られたが、その手の片方が彼女に掴まれている以上、無理な話であった。

だが天野さんはそれに臆すること無く、再び芝居がかった様子で手を大きく広げて「なんと」と目を見開いた。

「まさかもう一人、こんな若くて可愛い子がいたとは・・・聞いてないぞ亜莉亜!」

「言う必要がないだろうが、そろそろ本題に移れ。さもなくば黙れ」

依然として外の風景から目を離さないまま立腹そうに呟いているが、天野さんは聞こえていないようにさっと、緋奈子さんの手を取って、私にしたように口づけを落とした。

その怒涛の勢いで繰り出される連続の行動に緋奈子さんは、分かりやすく顔を紅潮させて、魚のように口をぱくぱくさせている。

「深月ちゃんのように儚げなタイプも良いが、私は君のように真っ直ぐで純粋なタイプの方が好みだ」と恥ずかしげもなく言ってのけた。

「ど、どうも・・・」と我が友は顔を下に向ける。彼女の攻撃性すらも沈黙させる天野さん独自の強引さは、ある意味で脱帽ものであった。

人懐っこく笑うその面持ちに、緋奈子さんの肩から力が抜けていくのを傍で感じた。

「天野さん、そろそろ綺羅星さんの言う通り・・・」

「ああ、すまないね。ついつい興奮してしまった。あ、僕のことは椿で構わないよ」と言って、「苦手なんだ、他人行儀ってヤツが」と軽く片目を閉じて笑ってみせた。

それからゆったりとした速度でソファへと戻っていった。その悠然とした足並みは、北国の肉食獣を彷彿とさせるようなキレと美しさがあり、その上とても静かだった。

「それじゃあ、話を始めようか」と人好きする笑みを浮かべる。

ようやくか、といった様子で綺羅星さんもデスクの方へと移動すし、すれ違うようにして私達と紅葉がソファの方へと移動したが、その際に綺羅星さんの端正な顔立ちが苛立ちに歪んでいるのを見て、本能的に萎縮してしまう。これに動じない椿さんはやはり只者ではなさそうだ。

「椿、この間の話を初めからしてあげて、新しい情報があれば適宜付け足してくれればいいわ」

「オーライ。これを」と言って、椿さんはモノクロでプリントアウトされた資料を私たちに手渡した。その途中で、「少しショッキングな写真がある。苦手なら見ないことだよ」と忠告してくれた。

さっと目を通すと、どうやら一昨日の事件のデータのようで、添付されている被害者の写真には確かにグロテスクと表現するのが正しいものも含まれていた。

両腕が千切り取られ、壁にもたれかかる男性の写真。殺害現場のものだろう。

男性の周囲には床一面、壁一面に鮮血が飛び散っており、まるで赤一色のみで、ウォールアートを描こうとして失敗したみたいだ。

横で緋奈子さんが、顔をしかめて口を抑えている。私はまだこうした死体・・・というかそれに似た存在を目にすることが多々あるので、割と平然としていられた。もちろん実際に死体を目の当たりにすればそうはいかないだろうが、写真であれば、霊体を見るよりもリアリティに欠ける。

表情一つ変えない私を、正面の椿さんがじっと見据えて、「意外にも肝が座ってるね」とオーバーに驚いてみせた。

だが、その双眸は風のない湖面のように静止しており、このコミカルな振る舞いも全て、作られたものなのではないかと訝しんでしまう。仮面を付けて、素顔を決して見せないようにしているとしたら、間違いなくこの人もとんだ食わせ者だろう。

他人の懐に、その持ち前の人懐っこさで忍び込み、油断したところでそのはらわたを食い千切る。そんな狡猾で獰猛な狼の姿を想像してしまう。

彼女を観察している自分を悟らせぬように、私は敢えて椿さんと目線を合わせる。

目は口ほどに物を言う。隠し事をしている人間というのは、瞳から意図を気づかれぬよう目を合わせないものだ。

視線が交錯したことで、椿さんは一瞬眼光を鋭く光らせたが、すぐにこやかな表情に戻し、視線を資料へと移した。

「こうした写真が得意な人がいれば、会ってみたいですね」と彼女に合わせてジョークを口にしてみる。どうしてそんな気分になったのかは自分でもよく分からなかったが、椿さんが素で驚いたような顔をしてくれたので、何となく満足できた。

少し離れたデスクで、綺羅星さんが鼻で笑ったのが聞こえた。その反応が呆れによるものなのか、単に面白かったのかは判別がつかなかった。

「それもそうだ」と、椿さんはシニカルに笑った。

「ですが、この事件が祖母のことと何か関係あるのですか?」

私の問いかけに、椿さんではなく綺羅星さんが「さあ」と返答する。

あまりに投げやりな言い様に少し思うところもあったが、どうにか堪えて目を伏せる。その短いやり取りに椿さんは口を真一文字にして渋面を作った。

「君はどうしていつもそうなんだ」

「いいんです。共に過ごした時間は短いですが、綺羅星さんがああいう人だというのは重々承知していますから」

伏せた目をゆっくりと開きながら、そうはっきりと呟いた。多少の嫌味ぐらいは許されて然るべきだろう。私のこの一言に彼女は片目を瞑りながらこちらを睨んだようだが、敢えて彼女の方を向こうとしなかった。

私の皮肉に椿さんは「環境への適応が早いのは、優秀な証拠だ」とほんの一瞬だけ真面目な顔つきになり、「それでは、続けようか」とウインクして再び話を始めた。どうやら片目を瞑ってかすかに微笑むのは、椿さんの癖のようだった。

「事件現場は、君が通っている高校近くの路地裏だ」と彼女は事件の顛末を口にし始めた。

被害者の情報に大して真新しいものはなかったが、その現場については初めて耳にすることばかりであった。

完全にその道化師のような仕草は、彼女の胸の奥に仕舞われてしまったようで、今は録音されたテープのような淡々とした口調で話を続け、口以外は死んでしまったように微動だにしない。

未だに私の隣で目を薄く開けて、資料を恐る恐るといった姿で読んでいる緋奈子さんとは対照的で何だかシュールだった。

「死亡推定時刻は午後十時から午前十二時頃、死因は頚椎骨折――」

「え、頚椎骨折・・・ですか?」

私がその報告に目を丸くして椿さんにオウム返しで確認すると、その問いに静かな瞳のままこちらを見返して、胸の内ポケットから煙草を取り出し綺羅星さんに振ってみせた。それを見て綺羅星さんは「勝手にしろ」と興味なさげに答える。

椿は煙草を口に加え、同時に取り出したライタでその先端に火を点けた。ゆっくりと煙を吸い込み、同じようにゆっくりとした動きで目を閉じながら息を吐き出した。煙たい空気に眉間にシワを寄せるが、随分と心地よさそうにしている彼女を前にしては、文句をつけるのも気が引けたため黙っていた。

煙が天井まで届きそれが染み込もうかというときに、椿さんはようやく口を開いた。

「時代は変わっていく」

彼女の唐突な発言に、皆が一様に訝しがるような視線を向ける。いや、唯一綺羅星さんだけは窓の外に視線をやっており、まるでそうすることで他人を排除して、世界を自分だけのものにできるかのようである。

「今や電子タバコなるものが、この紙巻き煙草に取って代わろうとしている。きっと、徐々にこの比率は逆転していくだろうね」

「えーと、何の話?」と緋奈子さんが冷静に問いかけたが、変わらず椿さんは自己の世界に耽溺している。チラリと紅葉の方へと視線を向けるが、黙って首を振っただけであった。

彼女は煙草を咥えたまま器用に話を続けたので、どうやってあれが口に接着されているのか不思議でならなくなった。

「私は古き良き伝統を好む人間でね。それは煙草だけに限らず、例えばそう、フィクションに関してもそうだ。昔のミステリーといえば、現場を駆け、推理を巡らせ、かすかな証拠を手繰り寄せてようやく犯人逮捕・・・という代物だった。」

彼女は天井を睨みつけており、そのずっと向こう側を何とか透視しようとせんばかりの眼力であったが、一拍間を置いた後、大仰に肩を竦めて鼻から息を漏らし、大儀そうな目つきで私を見据えた。何となくではあったが、今の椿さんのセリフは本心から生じているものであると感じられた。

「横溝正史の描く、金田一耕助なんて最高だった。風采の上がらない飄々とした男が、自分の身体のみを駆使して謎を解く・・・。」と聞き知った作家の名前を呟いたかと思うと、煙草の火を消そうと机の上に視線を走らせた。その動きだけで、紅葉は黙って立ち上がりリビングに消えたかと思うと、灰皿を片手に素早く戻ってきた。その配慮の行き届いた行動に短くお礼を述べると、その灰皿の表面に煙草の先端を押し付けた。

害虫でも焼き殺すかのような徹底した手の動きに、彼女の内に秘めた獰猛さが見え隠れしているように思えてならなかった。

「それが今の時代どうだ?科学様の進歩はめざましく、先進的な技術の前には推理もクソもあったものじゃない。これじゃ名探偵たちも職を失い、路頭に迷ってるだろうさ」

溜め込んでいた不平不満を放出し終えたかと思うと、未だに捻くれた笑みを浮かべたまま写真を指差した。

隣から緋奈子さんが、「こいつもヤバイやつじゃないの」と耳打ちしてきて、その囁きに半ば無意識に頷いてしまう。少なくとも彼女も綺羅星さんに負けず劣らずの変人であることには間違いない。

警察が捜査技術の進歩を忌々しげに唾棄しているのだ。これが世の警察の標準装備なら、秩序ある社会などは絶望的である。

「前口上が長くなってすまないね、深月ちゃんの想像通り、彼の死因は失血死でも出血性ショック死でもない。それは科学技術様が保証してくれてる」

「縊死・・・いえ、扼死ですね」

「ほお、難しい言葉を知っているね」と椿さんは驚きを表に出した。

「や、やくしって・・・?」と緋奈子さんが頭をかきながら、私に尋ねた。しかし私が答えるよりも速く、「首を絞められて殺されました、ってことよ」と退屈そうに綺羅星さんが答えた。

いつの間にかその視線は窓の外ではなく、私達の方へと向けられていた。

「うへぇ・・・」と開いているのかどうか分からないぐらいに目を細めて、彼女は呟く。

「大丈夫ですか?」との紅葉の問いに、次はしっかりと目を瞑って何度も頷いた。

私は資料へ再び手を伸ばしながら、「つまり」と前置きした上で、正面の女性の目を覗き込んだ。あちらの意図がはっきりとは読めないが、どうやらまた謎解き大会が始まったようだ。

一体、何を試しているのか。

「犯人は、首を絞めて殺害した上で、両腕を引き千切ったということですか」

自分でも語調が強くなったのを感じる。それだけ口にするのに勇気、というか覚悟が必要なタイプの言葉の集合であったのは疑うまでもない。

私の穏やかではない物言いに、緋奈子さんがまた「うえぇ」と妙な言葉を絞り出していた。車道で潰されている蛙だって、まだまともな断末魔を上げそうなものだが。

そんな友の肩に手を当てて、これまた先程と同じように「大丈夫ですか?」と紅葉が聞いた。

「何それ流行りのジョークなの?最高に面白いね」と苦笑いしてから「大丈夫なわけないじゃん、皆何で平気なのさ」と頭を抱えるようにして口ごもっていた。

緋奈子さんの様子を気にかけた様子で、彼は皆に飲み物のオーダー聞いてリビングへと姿を消したが、緋奈子さん以外は全員珈琲を注文していた。彼女だけが「水でいい」と発言したのは、緋奈子さんの精神的疲弊を分かりやすく表現した一言であった。

「緋奈子ちゃん、もしも辛いなら席を外しても構わないからね」と優しげな口調で椿さんが提案したが、彼女はいつもの凛とした目をしてからそれを辞退した。

ふと彼女と目線が重なる。その目が、今更引き下がるつもりはない、と言外に断言していたので、もう止める気にはなれなかった。

「話を戻すが、深月ちゃんが言ったとおり、死んだ後に引き千切ったようだ」

「その引き千切るっての、やめない?まさか本当に引っ張ったわけじゃないんだからさぁ」

「いや、それが本当に『千切った』、あるいは『握り潰した』という表現が的確なのさ」

「え・・・ほんとに?」

これは私も気になっていた点だった。

何故なら傷口は明らかに刃物の断面ではなく、固まる前の飴を引き伸ばして、それが途中で千切れたような状態であったからだ。

だが・・・。

人の胴体から腕を引き千切る力、というのはきっと私が想像しているよりも大きな力である気がする。例えば、ショベルカー並みの力で固定した人間の腕を引っ張りでもしなければ、こうした惨状にはなりえないのではないか。

チラリと綺羅星さんの方を横目で見る。気づかれぬように視線を送ったつもりだったのだが、彼女の死んだような鈍色の瞳と衝突してしまい、一瞬息が詰まった。

「どうかしたの、深月。言いたいことがあるなら言いなさい」と冷淡な口調で私に命じたが、その言葉の投げられ方は、まるで鋭く尖った氷を喉元に当てられたかのような緊張感を誘うものであった。

綺羅星さんの突然の発言に、未だ断面の話をしている二人が黙ってこちらを見つめた。

「ここは、そのための場なのだから」

私の身体がじんわりと汗ばむのが分かった。とにかく、彼女のその期待とも叱責とも言える指示に答えることにした。

「人の腕を千切る力・・・というのは、少しリアリティに欠けませんか?」

「まだその話するの・・・」と緋奈子さんが顔をしかめると、綺羅星さんは、「嫌なら向こうに行きなさい」と冷たくも、明らかに怒気を含んだ物言いで彼女を制した。その言葉にたまらず首を縮めたが、どうやら緋奈子さんは我慢して話に参加することを決めたようであった。

今回ばかりは綺羅星さんに分がある発言だったため、私も流れを止めること無く話を続けた。

「人間の靭帯や、軟骨、骨、そうしたものは思いの外頑丈に出来ていると耳にしたことがあります。何か大きな機械が無ければ、こんなふうには・・・」

「ふむ・・・」と小さく呟きながら、椿さんは視線をデスクの綺羅星さんに送った。そのアイコンタクトは何かの許可を求めているようで、私が知らない何かが内密にされていることを感じて、内心不愉快になる。

この期に及んで何を隠すのか。私の親族の命がかかっている、ついでに私の命も。

「貴方の言う通り、人間の身体はフィクションで描かれるほどやわな構造をしていないの」とどうやら自ら説明することに決めたらしい綺羅星さんが、すっと席を立ち上がりながらそう口にした。そのままテーブルの前に来て、資料をつまみ上げる。優雅で余裕のある所作だったが、どうにもその手にある写真がそれらとミスマッチだった。

「そうね、例を挙げるのであれば、牛裂きの刑や、八つ裂きの刑がその良い参考になるわね。それくらいは知ってるわよね」

「はい、古い処刑方法ですよね。人の四肢に縄を結び、それを家畜に繋げて四方に引き裂くという・・・」

何が、それくらい、なのかは理解に苦しんだが、一応知ってはいたので会話が滞らずに済んだものの、隣では我が友が完全に沈黙してしまっていた。

すると黙っていられなかったのか、今度は椿さんがその説明を引き継いだ。

「そう、まあ名前で何となく想像できるね。だけどアレって、実際は人を引き裂くことなんてできないんだ。根本的にパワーが足りないんだよ」

私はその意外な返答に「そうなんですか?」と目を丸くした。

話の良いところを横取りされた綺羅星さんが、不満そうに咳払いをしたため、椿さんは無言のまま両手を上げて背もたれに深くなだれかかった。彼女の黄金の絹糸が両目にかかり、その表情が伺えなくなる。

「例え家畜を上回る馬力を持ったもの、そうね、車なんかで四方向へ引っ張ったとしても、本当に同時に同じ力でそれを行わない限りは成功しないはずよ」

「では・・・これはどのようにして・・・」

「さあ、それは分からない。ただ、この場でそれを行ったことは間違いないはずよ。大型の機械が入るスペースの無いこの場所でね」

と綺羅星さんは最後にとびきりの笑顔を見せて言う。それを見て椿さんは「相変わらずチャーミングな笑顔だ」と戯言を言ってのけたが、笑顔の彼女は爽やかに礼を述べて口を閉ざした。何がどうチャーミングなのか私には理解不能だったし、分かりたくもなかった。

瞬間妙な沈黙が室内を覆った。

その沈黙にはどこか不気味さが忍び寄っていたようで、私は先程とは違う嫌な汗をかいていた。

それもそうだ。これではまるで、彼女が示唆したいことは・・・。

「それじゃあまるで、誰かが機械も使わないで両腕をひ、引き千切ったみたいじゃん・・・」

私の頭の中にある言葉をそのまま口にしたかのような台詞を、緋奈子さんが呟いた。その顔は蒼白で、彼女がその一文を吐き出すのに、どれだけエネルギーの必要なことだったのかが容易に見て取れた。

「まあ、それは分からないけれど・・・。少なくとも、こんな異常な行動をやってのけた。その行為が絶対条件となる何らかの理由があったのか、それとも単なる異常者か」と冷静な口調で椿さんが言い、そのまま前に乗り出して怯える緋奈子さんの頭を撫でた。一瞬彼女は目を大きく見開いたが、しばしの逡巡の後、赤面し俯いたたままそれを甘んじて受け入れた。

何故だか、胸の奥が粘性の高い液体で満たされていく気がしたが、不意に彼女の発言が引っかかって動きを止めた。

異常者・・・。

まさか、綺羅星さんは、そうだと言いたいのか。

いや、だとしたら、この話はより一層きな臭くなってしまうのではないか。

それこそ、彼女の言う深淵の傍へと近寄ることになる。

「そうね、深月。貴方は賢い子よ」と満足げな物言いで綺羅星さんが佇んでいる。

その口元にある真っ赤な三日月が、私の心をかき乱した。夜空に浮かぶ黄金の輝きを放つ神秘的な月とは違って、原始的な不安を煽るような笑みであった。

「こんな常識外の行動をとる人間に、私達は心当たりがあるのではなくて?」

一体何が楽しいのか、何がそんなに心躍るのか。どうにも彼女の行動はいちいち私の胸の中にいる衝動的な自分を刺激することが多い。

「それは私を狙う誰かのことですか、それとも――」

自分の感情に素直過ぎる、といえば単純明快な性質になるがそうではない。ただ、自分の欲望に素直になりたがっているように思えた。こうして喜びを示すことで、彼女は自分を保とうとしているのではないか。

紅蓮を宿す、知性に満たされた瞳が、鈍く揺らめいている。

「こんな状況下で、そんな品のない笑い方が出来る、貴方のことですか?」

本来の自分のものではない、私の物怖じしない一言に、綺羅星さんのつり上がった眉がかすかに反応した。その顔から件の笑みは消えていき、今や無機質で能面のような表情だけが残った。

一瞬の静寂の後、彼女が舌打ちをした。それが妙に気に障り、私はつい攻撃的な口調を残したまま口を開く。

「言いたいことがあるなら、どうぞ」

綺羅星さんのまなじりが上がり、より一層険しさを露わにしたところで、「ここがそのための場かどうかは、知りませんけれど」と彼女に対して意趣返しを試みた。

胸の内側で、沈着な私がため息をこぼした。レベルの低いやり取りに辟易しているみたいだ。おかしなことだ、同じ私がやっていることなのに。

だが、そうして刹那的な衝動に駆られた一部の自分が、他の人格を抑えて行動を起こす。その結果を後になって内省すると、馬鹿なことをしたものだ、と思える時が人には往々にしてある。その刹那的な衝動に支配されなくなることを『大人になる』と人は定義づけるのだろう。

だが、残念なことに私はまだ子供である。社会的にも、肉体的にも、そしてきっと精神的にも。

そうした純粋な感情に影響されなくなってしまうことは、とても寂しいことに思える。。

もしかすると、彼女もその寂しさから逃れようとしているのかもしれない。

「随分口が達者ね、深月」と綺羅星さんは我慢できなくなったようで、遂に口を開いた。いや、忍耐という仕組みは彼女の中にはインプットされていないのかもしれないけれど。

「貴方はもっと思慮深い子供かと思っていたけれど」

「子供にそうしたものを求めるのは、大人として少し情けないと思います」

私の反論が余程業腹だったのか、彼女は持っていた資料を机の上に思い切り叩きつけた。渇いた紙が立てたその音に、身が竦みそうになったが何とか表に出さずに抑え込んだ。

そのまま腕を組んで私を殺気立った表情で見下ろし睨みつけていると、先程よりも更に大きな音が部屋の中に木霊する。椿さんの平手が机を叩いたのだ。

「いい加減にしないか、そんなことをしている暇はないだろう」

決して大きな声ではなかったが、そのハスキーさで低く唸るように言われると、とても凄みがあり、普段のコミカルな喋り口とのギャップがまたそれを強調していた。彼女は机を叩いた手の指で、トントンと音を鳴らす。

「亜莉亜、君はこれだけ歳の離れた子供を相手に恥ずかしくないのか」

「・・・歳の話なんか、聞きたくない」

そう彼女が口を尖らせて呟くので、椿さんはわざとらしく大きなため息をついた。彼女もまた綺羅星さんのお世話係なのかもしれないと、悠長に思い耽っていると、だんまりを決め込んでいた緋奈子さんが両手を頭の後ろに添えて、「深月も、ちょっと嫌味が過ぎたかもね」と言った。

常にフォローしてくれる側だった彼女の口から、だいぶ遠回しではあったものの責めるような言葉が発せられたことに驚き、目を丸くして彼女を見つめていると、誤魔化すように笑いながら緋奈子さんが告げた。

「深月って、意外と勝ち気というか、喧嘩っ早いというか・・・んー、特に綺羅星さんに対しては戦闘民族みたいだよね」

正直彼女にそう言われるのは、かなり心外であったが大人しく忠言を聞き入れ、「すみませんでした」と渋々口にした。

確かに、私は綺羅星さんの一挙手一投足に過剰に反応してしまっているようであった。理由は分からないが、最近唐突にまた人とのコミュニケーションというものを強いられることになったのもその原因の一つかもしれない。その上見知らぬ他人なのに話の中身は常に私に密接だった。少し、肩に力が入りすぎているのかもしれない。

それを受けて綺羅星さんは何かを言おうと口を開いたように見えたが、何も言わぬまま口を閉ざしてしまい、その動きを横目で見ていた椿さんが、一度強く指で机を叩きその手を額に持っていく。

「君は十歳近く下の子供に先に謝らせた上、だんまりを決め込むのか?」

「だから歳の話はするなと・・・」と早口で喋りかけたが、椿さんの彼女を見る目がいやに優しい輝きを持っていたため、少し考えるような素振りをしてみせた後私のことを横目で捉えた。それからその視線が何度か私と虚空を往復してから、「悪かったわ」と小さく囁いた。

「謝れるんだ・・・」と不用意にも、私の心の中とシンクロする発言を緋奈子さんがしたため、綺羅星さんは背を向けて窓際まで遠ざかってしまった。

出会って数々の無礼を受けた気がするが、まともな謝罪をされたのはこれで初めてであった。彼女からまっとうな謝罪の言葉を引き出した椿さんが、ひどく聖人じみて感じられ、私がどこかむず痒い気持ちになっていたところで、隣の部屋から紅葉が戻ってくる。その手には先日と同じようにお盆が添えられていて、違うのはカップの数が一つ多いことぐらいだった。

彼は四人の微妙な空気を敏感に察知し、苦笑いしながら、「どうかしたんですか」と言った。

「なぁに、痴話喧嘩のようなものだよ」

「違います」

「違うのかい?喧嘩するほど、というじゃないか」

「話を続けてください」

私はこれ以上このむず痒さが生じるのを避けるために、問答無用で彼女に先を促した。すると椿さんは軽く笑ってから、「それは亜莉亜にお願いしてくれ」と言って紅葉が持ってきた飲み物に手を伸ばした。

依然として我々に背を向けたままの彼女が、チラリと首だけでこちらを振り返った。しかし目が合うや否や、直ぐにまた窓の外を向いてしまい、そのいじけたような仕草に思いがけず口元が緩むこととなった。

五月雨はより一層強さを増しており、かすかに開いた窓からは絶えず雨音と湿気が入り込んできている。

「綺羅星さん、その、お願いします」と私が言うと、彼女は小さく息をついた後、背を向けたままの体勢で話を始めた。

「つまり、こんな異常な犯行が、同時期に、同じ街で、そうそう起こるものじゃないということよ」

「でも、超超偶然ってのもあり得るんじゃない?」

「そうね、確証は無いわ。でも、他に捜索の取っ掛かりがあるわけでもない」

「亜莉亜さんの言う通り、今他に取れる選択肢が無い以上、その線に頼るしかないと、僕も思います」とカップを皆の前に配り終えた紅葉が、最後に彼女へとそれを手渡しながら言った。

「なるほどね、でも、どこを調査するのさ?さっきの話じゃ、本当の現場はこの場所じゃないんでしょ」

緋奈子さんが目を細めて写真を見ながら言う。

確かに彼女の言う通りで、犯人が意図的に死体を路地裏に運んだのだとしたら、そこに犯人を示す痕跡が残っているとは思えないし、そんなものがあれば警察がとっくに見つけてしまっているはずだ。刑事である椿さんが何も言わないのは、やはりそうした情報が見つけられなかったことを示しているのだろう。

「それにしても、なんたって死体を移動した挙げ句、その、腕をもいだりしたんだろうね」

「何かを隠すためでしょうね」と淡白に綺羅星さんが答える。

彼女の瞳が一瞬私に焦点を合わせた。それはほんの短い間であったが、今の言葉が私へと向けられたものだと察するのには充分な時間だった。

隠す、ため。

両腕を千切るという、凄まじいインパクトを以て隠蔽したかった事実とは・・・。

ふと、先日の亡霊の姿が脳裏に浮かんだ。痛々しく、それでいて鮮烈な存在感を放つ彼の姿を。

それに連想して夕焼け空、腐敗した空気、生々しく残る死の香り、川の流れ・・・。

私は一瞬で脳裏を駆け巡った先日の光景に、違和感を覚えて動きを止めて、そしてその正体に気づくと同時に、思わず私は声に出してしまっていた。

「あの場所・・・」

「え?」

私は目をゆっくりと瞑りながら、それでも一言一句を確認しながら言葉を紡いだ。

「どうしてあの場所だったの?」と私は誰に聞くでもなく呟く。

彼の遺体が発見された路地裏は、私が被害者の霊を目撃した川辺からかなり距離があった。

何故、彼が川岸にいたのか。いや、そうじゃない、どうして路地裏にいたのか、という方に焦点を当てるべきだ。

ようやく、綺羅星さんが見せたいものの全景が朧げではあるが浮かんできた気がする。

私はこの一見無関係であった事件について、もう少し焦点を絞って当たってみることにした。それが祖母の、ひいては私にまつわる不可解な出来事の解決の端緒になると、今なら思えたからだ。それがどういった理屈なのかは説明しがたいが、やはりこの異常な二つの事件は、どこかしらで関与していると思えてならなかった。

「秋空さん、犯人の行動に何か心当たりがあるんですか?」

「違った、のね。きっと。殺されたのは路地裏ではなくて、あの川辺・・・」

「そう・・・貴方がそんな風に感じたのであれば、その方針で進めなさい」と綺羅星さんがこちらを振り向きもせず告げた。淡白な声音ではあったが、決して否定的な口調ではなかった。

「ちょ、ちょっと待って!また蚊帳の外だ、仲間外れはよろしくない、説明してもらえない?」と緋奈子さんが私を含む周りの人々を順番に見回す。私は自分自身の情報を整理するためにも、その提案に沿うことにした。

彼女の方へと身体を向けて、小さく呼吸をして気持ちを整える。とりあえず今は状況の確認からだ。

「緋奈子さんにもお話しましたが、私達が川辺に行ったとき、私は両腕を失った男性の霊を見ました。これは紅葉も確認しているため、ほぼ間違いありません。同時に、霊の特徴からこの事件の被害者であることも断定できます」

「それで・・・?」と緋奈子さんはぎこちない表情のまま首をひねった。一体何が言いたいのかわからない、といった様相である。

私はできるだけ彼女に伝わるように、要点を細やかに噛み砕きながら説明することにした。そうすることで自分の中での再認識に役立つだろう。

「先ほどの資料には、扼殺された後に両腕を取り除いたことが記されていました。それでは、わざわざこんな手間のかかることをした理由はなんでしょうか?」

「え、と・・・。単に頭がおかしいか、綺羅星さんが言ったみたいに何かを隠したかったとか?」

「そうです、確かに異常な行為ですが、もしもこの犯人が私を脅している人物と同じなら、一時的な快楽のせいだとは少し考えづらいのです。あくまで推測の域を出ていませんが、犯人は私を怖がらせるために手紙を何度も送り付ける、しかもリスクを承知で人の家の中に置いていくほどの徹底ぶりでした。」と私は暗唱するように、すらすらと言葉を並べていった。

未だに目を白黒させてこちらを見ている彼女に、「となるとやはり明確な目的が存在していて、それはおそらく何かの隠蔽であったと予測するのが妥当かと思えます」と告げる。そのうえで、一度珈琲を胃に流し込んでからもう一言、「もちろん、同一人物であるという大前提が強く影響していますので、鵜呑みにはなさらないでください」と断った。

私たち二人が話をしている間も紅葉だけは真摯に話に耳を傾けている様子であったが、残りの大人二名は目を瞑っていたり、外の景色を眺めていたりと自由気ままであった。

やはり、この二人は私が至った結論に既に帰結しているのだろう。

しかし、それならば何故今すぐ行動に移らないのか甚だ疑問であったが、聞いても答えてくれない気がした。どうにもずっと試されているようで、落ち着かなかった。

「でもさ、隠すって言ったって、これだけ派手にやらかしておいて今更なんじゃないの?」

「それは確かに、僕もそう思います。いや、ということは犯行を隠すことが目的では無かったんですね」

その紅葉の呟きに、「そうです」と短く返事をする。もう紅葉は私の出した答えに自力で辿り着けそうな様子であった。

もう一度深く息を吸って、隣の緋奈子さんを見据えたが、彼女はもうただ黙って私の言葉を待っている。

「きっと、見られてはいけないものを見られた・・・」

「見られてはいけないもの?」とオウム返しに緋奈子さんが呟き、それから「あ、顔か!」と大声を上げた。

「いえ、その可能性もあることにはありますが、そうなると場所を移した意味が分かりません。顔を見られただけなら、殺すだけ殺してそのまま川にでも放り込んだほうがよっぽど効率的ですから」

早口で私がそう答えると、彼女は渋い顔をしながら、「えぐい」と小声で呟きを漏らしており、我ながら過激な言い回しになってしまったと反省し、一旦咳ばらいをしてから再び話に戻った。

話が核心を突いているような気がして、段々と動悸が速まってくる。興奮しているのか、緊張しているのか自分でも分からなかった。

「場所を移した理由、という点に焦点を絞れば、自ずと答えらしきものは見えてくるはずです」

すると、考え込んでいた紅葉がぱっと顔を上げて言った。

「そうか、犯人の住んでいる場所、あるいは拠点ですね!」

「いや待ってよ、別にまだ何もしてないなら、家に帰るとこ見られるぐらい問題なくない?」

緋奈子さんの冷静な返しに、「違うんですよ」と明るい笑顔を向けながら紅葉は言ったが、そうした年相応の無邪気さを見ると、本当に少女のように誤認してしまうから不思議だった。もちろんこの話題にその性質の笑みは非常に不適切だったのだが。

「多分ですが、家のような一般的なものではなく、そこに入っているだけで不審に思われるような、例えば廃墟や・・・そうです、あそこの川辺には地下水道と繋がった古い横穴があったはず!」

「なるほどぉ・・・。じゃあそこに入ろうとしてるところを見られて、口封じに殺しちゃったってこと?」

話に夢中になっているためか、彼女から怯えた様子はなくなっており、その真剣味を帯びた表情はその精悍さを取り戻していた。

「可能性としては、充分考慮してもよいものかと」と彼女に応えながら、私はまだどんよりとした街並みから目を逸らさない綺羅星さんを盗み見た。

窓枠に両肘を乗せて、わずかな隙間から外界を眺めている。窓に張り付いた無数の雨粒が、不気味な集合体を連想させた。

私の視線に気づいた彼女は二度三度素早く瞬きをすると、湿気で重くなった髪をかき上げながら、姿勢をこちらに向けた。先程の苛立ちを感じさせない優雅な立ち姿に思わず私は息を漏らしてしまいそうになり、こうした彼女の純粋な美には同じ女性として憧憬の念を感じずにはいられなかった。

「答えは出たようね」と短く彼女が言う。

「はい、ですが、この後はどうすれば・・・」

「そんなの、刑事さんが来てるんだから、警察に動いてもらえばいいんじゃない?」と緋奈子さんは当たり前の顔をして口にしたが、事態はそう単純ではない。

公的機関である警察が、こんなにも曖昧な情報で動いてくれるとは思えないし、そもそもこの仮説の根幹には『被害者の霊』というあまりにも非現実的なワードが前提となってしまっている。その私の否定的な予想に反することはなく、椿さんは肩を落としながら緩やかに首を左右に振った。

「悪いがそれは無理だよ。幽霊を見たから現場とは程遠い地下水道に調査員を派遣したい、なんて言ったら頭がおかしいと思われるからね。我々公務員はマニュアル外の動きはしづらいのさ」

彼女のその言葉に、隣で緋奈子さんが「そんなぁ」と悲壮な声を上げた。

残念だがその言い分は最もであったし、確証のない話に警察を付き合わせることなどできなかった。

せめて、確固たる証拠が欲しい。

私と緋奈子さんが俯いていると、紅葉がその肩に手を置いた。振り向けばいつもの紳士然とした柔和な笑みを浮かべている彼がいて、紅葉は一度上司である綺羅星さんを一瞥し、彼女が頷くのを確認すると口を開いた。

「何を落ち込んでいるんですか?その警察にできないことを行うために僕たちがいるんですよ」

紅葉の言葉に顔を上げると、窓際に居たはずの綺羅星さんがすぐ傍までやって来ていた。二人の名前を口にした私に、彼女は上品な笑顔を向け続けて言った。

「一時間ほど準備があるから、それが終わったら出発よ」

そうして私の頭に手を乗せて、昨晩したように丁寧に撫でた。どうしてか、以前のような温もりを感じることはできなかったけれど、それでも思わず頬が緩んでしまう。

彼女は撫でる手を止めて、真面目な顔つきになって、「貴方も、来るのでしょう」と小さな声で呟いたが、その声は彼女の威風堂々たる振る舞いとは打って変わって弱々しいものであった。自信がないか、あるいは本当は来ないでほしいと言っているようにも聞こえたが、私は深読みをやめてゆっくり深く頷いた。

すると突然、部屋の中に乾いた大きな音が広がった。ソファに座っていた椿さんが立ち上がりながら手を打ったようで、彼女は満足気な笑みを私たちに送り、ゆっくりと声を発する。

「とりあえず、僕はお役御免かな?」とシニカルな口調で彼女が言った。

「そうね、もうお帰り頂いて結構です」とわざとらしく丁寧な口調で綺羅星さんが告げる。その態度を紅葉が咎めたけれど、彼女は悪びれた様子もなく、「私、犬って大嫌いなの」と短く返す。

その言葉に椿さんは肩を竦めただけで、何も言わなかった。そしてその調子のまま壁に掛かっていた上着を手に取った。

「今のどういう意味?何で犬の話してるの?」と小首を傾げながら我が友が私を覗き込むが、その純朴無垢な存在にこうした微妙に品のない知識を授けるのは、些か呵責を伴うものであったが少し悩んで私は素直に答えることに決めた。

「国家の犬、ってことです」

「ああ・・・」と彼女は得心した様子で何度か頷いて見せたが、そのやり取りを見ていた椿さんが、「んん・・・純粋な少女がこうして汚れていく、というわけだ」と悲しげに漏らした。それからすぐ彼女は上着を羽織り、傘も持たずに外への扉を開け私達の方を振り返り、片目を瞑って笑ってみせた。

「それじゃあ、健闘を祈るよ。何か分かれば連絡を、君たち美少女三人のためなら飛んでくるよ」

「綺羅星さんは少女じゃ・・・」との緋奈子さんの声に、

「え?あぁ・・・そうだよ。僕は亜莉亜のためには飛んでこないからね」と愉快そうに微笑しながら返し、手を降ってドアの向こうに消えた。すかさずそれを追いかけて扉を開ける。既に階下に降りてしまっている彼女に、「あの、ありがとうございました」と感謝を伝えた。

椿さんはただ背を向けたまま手を振っただけだったが、その仕草に不覚にも大人の魅力を感じてしまい、ハードボイルドとはこういうものだろうかと私には縁遠い単語を想像していた。

部屋に戻ると、ふと、彼女の最後の言葉が蘇った。

「美少女、三人・・・?」

亜莉亜のためには、飛んでこないからね・・・。

私ははっとして、机の上の資料を片付けている紅葉を見やると、彼は私の視線を横目で受け止めると苦笑いをしながら告げた。

「まあ、よく間違われますから」

そのままリビングに消えていく彼、ではなく彼女の背中を唖然として見送った。

私と同じ結論に至った様子の緋奈子さんが、目を丸くしてこちらを見ている。その視線が重なり私は、「何という失礼を・・・」と渋面を作って呟いた。それに対して、彼女は何度も感心したように頷きながら、「さっきの椿さんの言葉・・・」と眉間に人差し指を当てる。そんな珍しい彼女の知的な所作を何となく観察していると、突然緋奈子さんは弾かれたように顔を上げて、大声を出す。

「つまり!綺羅星さんは27歳くらいだ!」

目を輝かせる彼女に私はため息だけが漏れたが、奥の部屋からは彼女を上回る大声で、「まだ25歳だ!」と攻撃的な口調で返事が聞こえてきた。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ