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彼岸の華   作者: 杏ころもち
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五章 綺羅星亜莉亜

 五章 綺羅星亜莉亜

 (ⅰ)

「うーん、やっぱり紅葉の作る珈琲とホットケーキは最高ね。お陰でいいアイデアが浮かびそうよ」

と綺羅星さんが美しい朱の唇をさっとナフキンで拭いながら語った。その姿だけ見ていると、彼女はまるで中世ヨーロッパの貴族令嬢のように私の瞳に映った。このような所作が彼女以上に似合う人間はこの世には存在しないのではないかと掛け値なしに思えた。

私達は今、再びソファに腰を落ち着けて紅葉の作ってくれたホットケーキを堪能していた。確かに程良い甘さが疲れた脳に染み渡りはしたものの、失礼ながら、さして特別美味であるとは思えなかった。

紅葉は苦笑いして、手放しで褒めてくれた綺羅星さんに対して言う。

「それは亜莉亜さんがインスタント食品ばかり食べているからでしょう?本当に・・・健康に悪いですよ」と紅葉は心配と呆れの中間のようなトーンで告げた。

先刻からずっと上機嫌の綺羅星さんは「紅葉のがいいのよ」と可愛く小首を傾げ微笑みながら彼に告げた。一般的な視点から見ればその仕草と微笑みは、芸術的な価値さえ見受けられるものであろう。しかしながら彼はそれにすっかりと慣れてしまっているのか、じっとりとした視線を彼女に向けるだけであった。

すると、隣で延々と無言のままホットケーキをいじくり回していた緋奈子さんが、乱暴にそれをカットして口に放り込んだ後、そのままフォークで綺羅星さんの方を指して言った。

「さっきの条件、無効だから」

行儀が悪い、と内心彼女に注意したが当然伝わるはずもなく、彼女の手に握られたフォークの先端が室内灯の光を鈍く反射していた。ここに来てからずっと不機嫌になりっぱなしの彼女は、チラリと私の方を横目だけで覗いた後、露骨に顔を背けた。どうやら怒りの矛先は私の方にもしっかり向けられているようだった。

綺羅星さんは、彼女の苛立ちなど気にも留めていないように再三上品に微笑みながら、「それは深月が決めることよ」と淡々とした口調で告げた。その言葉を受けて緋奈子さんはまたチラリとこちらを一瞥して私に向けて呟く。

「・・・で、どうするの深月。一応、聞くけど」

無言のプレッシャーがかけられ、私はバレないようにそっとため息をついた。心配してくれる彼女には悪いが今回ばかりは選択の余地は無い、綺羅星さんの力なくしては祖母を救うことはできないだろう。いや、仮に協力してもらったとしても確実に上手く事が運ぶ保証はどこにもないのだ。

どうしたものかと綺羅星さんの方を上目遣いで覗き見たが、彼女は未だ微笑んだまま何も言わずにいた。こちらの視線に気づいた後も、ウインクしただけで私の言葉を待つスタンスを崩す様子はなかった。

再び私はため息をついた。今度は隠す気も起こらず、深い溜め息をあてつけのように吐いたが、それを聞いた緋奈子さんがとても小さな声で、「なんで迷うのよ」と呟くのが聞こえた。あちらも故意に私に聞こえるように言ったのかもしれない。

どうして私がこんな浮気を咎められ修羅場に陥る不埒者のような扱いを受けなければならないのか・・・。

全くもって納得などできなかったが、どうやらこの場は浮気者を断罪する裁判所と非常に近い性質を持った空間のようで、皆の注意が私に向いているのが察せられた。

意を決し私は話を始める。先程まで綺羅星さんと論争を行っていた際とは反して、自信なさげな口調であったと自覚している。

というよりはこちらの私のほうが本来の人格なのだ。時折現れるその他の私が、昨今やたらと出たがっているだけであり、余程な場合ではない限り私は事なかれ主義者だ。

「その条件で・・・綺羅星さんが私に全面的に協力して頂けるのであれば、私は構いません」

すると私の発言を聞いた緋奈子さんは、フォークを持ったままの手でテーブルを叩き私の方を素早く振り向いて私の名を呼んだ。そこにはもう怒りというよりは縋るような響きのほうが色濃く表れていた。

私は彼女の縋り付くような瞳を見返して、「大丈夫ですよ、獲って食われるようなことにはならないでしょうし」と彼女が安心できるように呟いた。それと同時に手をしっかりと握る。お陰で私は一旦食事をお預けにする形になってしまっている。

私のその発言を聞いて、少しだけ諦観するような表情を浮かべたが、綺羅星さんの余計な一言でまた騒然とすることとなった。

「それはどうかしら?私も女だから、綺麗なものが大好きなの。」と早口で一息に言い切った後、「食べたくなるほどに・・・」と珍しく緋奈子さんの方を向いて意味深に呟いた。

紅葉が咎めるような表情を浮かべた刹那、何よりも迅速に緋奈子さんが語気を荒げて声を上げた。

明らかに彼女は緋奈子さんを玩具にしているのは見え見えなのに、どうしてその相手をして面白がらせてやるのかが私には理解できなかった。

「どど、どういう意味よ!」

「さあ?人によって捉え方の異なる発言だから。でも恐らくは・・・」

二人の子供のような言い争い、(否、争いになるほどレベルが拮抗しているわけではないのだが)を聞いて、紅葉は深い溜め息をついた。綺羅星興信所の二人の人間とはまだ数時間程度の付き合いではあるが、彼が苦労人で、彼女が放蕩人であることは想像に難くない。

明らかに緋奈子さんをからかうだけの会話を始めた彼女は、なんだか少しだけ楽しそうであった。そしてその様相を崩さぬまま、少しだけ緋奈子さんに身を寄せ、囁くようなジェスチャーをして手招きした。彼女は一瞬だけ訝しがる顔をして見せたが、すぐに美しい極彩色の花に引き寄せられるかのように綺羅星さんへと体を傾けた。

「貴方が彼女にしたいと願っていることと同じね」

何やら耳元で囁かれた緋奈子さんは、口を金魚のようにパクパクとさせたかと思うとみるみる間に顔を真赤に染めた。その姿を確認した綺羅星さんはとても満足そうに目を細めて姿勢を戻し、腕を組んで彼女を見つめていた。

皿の上のホットケーキは私のもの以外は空っぽだった。二人が大人しくしてくれている間に箸を進めておくことにする。残り四分の一くらいになった切れ端を更に細かくカットし、口に運ぶ。程よい甘さが口腔に広がり、スポンジによって失われた水分は同じく紅葉が淹れてくれた珈琲で潤す。独特の苦味に脳が得も言われぬ喜びを感じ、カフェインによって思考の乱れが静まっていく。大昔の日本には珈琲など存在しなかったのだろうが、そんなことでよくもまあこれだけの文化の礎を築けたものだ。これらを駆使してもくだらぬしがらみや悪習を断ち切れぬ現代日本は、昔に比べて愚か者の集団と化してしまっているのではないかと想像した。

私がそんな無意味な空想をしている間にも、二人は何事かを話し合っていた。

「な、なんのことよ・・・」

深刻そうな緋奈子さんに対して、依然腕を組んで彼女を観察していた綺羅星さんは呆れたように、「貴方はからかい甲斐があるわね」などとため息混じりに告げた。

玩具にされたことに気づいた緋奈子さんは唇を震わせて怒りを露わにしていたが、綺羅星さんはどこ吹く風とおかわりした珈琲を音を出してすすっている。

「温かい飲み物、とりわけ紅茶や珈琲は思考を研ぎ澄ませてくれる・・・」

そうは思わない?と付け足して、綺羅星さんは誰を見るでもなく視線を漂わせて呟いた。

その考えについては同感だが、無視された緋奈子さんはもう涙目の様子であった。自らの感情の行き場もなく、その怒りが私に飛び火しないことだけを今は祈ることにした。

私は、空腹を満たし脳内エンジンの給油を終えたところで当初の問題に立ち返ることにした。

「先程中断された話の続きをしたいのですが、よろしいですか?」

「貴方をどう好きに扱うかっていうお話?」

緋奈子さんが再び立ち上がりそうな気配を感じたので、私は彼女の軽口を「違います」と一蹴した。本当に上機嫌な時はまるで別人のようだと内心ひとり愚痴った。

頭脳明晰で、明鏡止水の心を体現したような波風立たない精神、そしてあまりにも冷酷な表情をする彼女。それに対していたずらっぽく、子供のように表情を変え、自分の言い分を押し通そうとする傍若無人な彼女。今回だけで、様々な彼女を感じたが、帰結するべき彼女の人格は未だ不明であった。

「手紙が何故あのタイミングで出されたのか・・・という点です。答えはもうお持ちなのですよね」

そう、その問題の答えを彼女は知っている。知っているから、私を試そうとしていたのだ。未来はくれてやると約束したのだ、ならばあちらにもそれなりの労働を期待して然るべきであろう。

綺羅星さんは珈琲の入ったカップを音が鳴らないようにソーサーの上にゆっくりと降ろし、いたずら小僧のような表情を一変させて、例の上品ながらも無機質な顔つきを表面化させた。

「貴方に協力はするわ。でも、肝心な部分は貴方も共有する必要がある、そう思わない?」と彼女は小首を傾げた。

私も佇まいをなおし、再び彼女とのロジックトークを始める準備をした。食事を終え、珈琲を摂取したことで、私は容易く二人の会話に集中することができそうであった。

「はい。当事者である私しか知らないことが潜在意識にあるかもしれませんから、私の思考が整理されなければ、大事な見落としが起きるかもしれません」

私の返答に満足そうに一瞬だけ相好を崩し、「よろしい」とだけ呟いた。

会話の蚊帳の外になっている二人は今のところは沈黙を保っていた。だが、会話に対する姿勢はそれぞれで、緋奈子さんは会話とは違うところで情報を収集しているように感じた。曖昧なものなので、うまくは言語化出来ないが、敢えて言葉にするのであれば場の空気感や人の反応に傾注しているようであった。対して紅葉はきちんと話を聞きながら、適宜参加しようという意思がひしひしと発せられていた。

そうして議論は再開された。

「先刻も言いましたが、貴方は深淵を覗こうとしているの」と彼女はあまりにも抽象的な言い回しを再度行ったため、私はどうしてもそれが理解できない旨を表明した。すると彼女は目を瞬きする平均速度よりも何倍もゆっくりと瞳を閉じた。きっとどう伝えるかを吟味しているのではなく、私に会話レベルを合わせるために、古いバージョンの思考回路に切り替えているのではないかと思える間であった。

「貴方がこれから相対する出来事はおそらくは常軌を逸した思想、思考を持った人間が関わっているものよ。つまり単に相手の行動を予測する際に、自分の価値観や社会的常識などというマジョリティが作り出した愚かな幻想を前提にしていては、望んだ結果は得られないと言うことね」

彼女が言うことは確かに最もだと思った。すなわち柔軟性が必要なのだ。

相手のことを予測する・・・。

私は思考の海に没頭した。

私が仮にあの手紙の差出人だとして、何のため、いや理由を求めてはダメだ。このアプローチは昼食前に行っている。ならば、ああした形で手紙を出したことで相手は何が起こりうることを想像できただろう。

私はどう感じた?

あのとき私が二枚目の手紙を読み、その入手場所を緋奈子さんに聞いた際、私は・・・。

頭は依然として思考の途中段階にいたのだが、ある種の天啓のようなものを受けて、突然パッと顔を上げた。

メリット・デメリットではないのだ。もしかすると、もっと悦楽的な、原始的な欲求に基づいた行動だったのではないか?

私の顔を見た綺羅星さんはすぐさま何かを察したように「言ってご覧なさい」と懺悔を聞こうとするシスターのように神聖な笑みを携えて言った。場所さえ的確であったならば、神々しさに両膝を床について、祈りを捧げたくなったかもしれない。

「私はあの手紙の不気味かつ大胆な送り方に、恐怖を感じました。それと、苛立ちも・・・。もしかすると、それ自体が目的なのですか・・・?」

私の自信なさげな発言に、紅葉はまさかと音もなく口の形だけで呟き、綺羅星さんの表情を垣間見た。

「半分は私も同じ意見よ」

「半分ですか?」と私。

彼女は頷いて、「そう、きっとこの手紙の書き手は貴方がこれを読んで、恐怖することは予測していたでしょうね。しかし・・・。」とそこで一度言葉は区切られた。それから緋奈子さんの方へ向き直り、淡々とした口調で続ける。

「彼女が一緒だったことが、相手にとって誤算だったのではないかしら」

突然自分に話しの矛先が向けられたことで、緋奈子さんは「私?」とようやくここで声を発した。彼女は目を丸くして、瞬きを数回行ったが、綺羅星さんの言葉を理解することは難しかったようだ。かくいう私も、それが何を意味するのかぼんやりとした形でしか分からなかった。

そこで紅葉が立ち上がり、机の上の皿を重ねて持ち上げて隣の部屋に立ち去っていく。まるで執事のようだなと彼を見つめていると、完全に部屋から出ていく直前に一度こちらを振り向いた。

「とすると、犯人も武道をかじっている・・・ということになりますね」

その犯人、というあまりにもフィクション然とした響きに現実感が損なわれた気がしたが、それよりも話が飛躍してしまっているような感じがして、私は説明を求めて綺羅星さんに視線を戻した。すると彼女が何か発するよりも半歩早く、緋奈子さんが口を開く。

「ある程度洗練された武道経験者なら、相手の足さばき、立ち居振る舞いで技量を推測することぐらいは自然とできる・・・でも待って、それじゃ・・・」

形の整った眉を歪めて俯く。どうやら彼女には話の概要が理解できたらしく、私は自分だけ会話に入れずちょっとした疎外感を覚えた。綺羅星さんはそんな彼女の様子を見て、ほんの一瞬ではあったが興味深そうな表情を浮かべた後すぐに元の無表情に戻った。

「意外と察しが良いのね。そう、貴方が考えたとおりよ。」

私は我慢できずに「どういうことですか」と口を挟んでしまった。気分を害するかと心配になったが取り越し苦労だったようで、彼女は一切の感情の変化を見せることなく私の方へ焦点を合わせた。何故だか、今から彼女が言う言葉は核心を突いたものになるだろうという予感が私の中で膨らんでいく。

「武道経験者の緋奈子がいたことで犯人が躊躇した理由、と言えば後は分かるわね」

彼女の言葉を理解した途端に、私の全身を急速に鳥肌が覆い、嫌な汗が吹き出すのが分かった。

皿の片付けが終わったのか、ハンカチで手を拭きながら紅葉が元の席へと戻ってきた。私の混乱と不安が混在してできた表情を、緋奈子さんと二人で心配そうに見つめている。

何ということだ。

私は祖母が帰ってこなかったこと、そしてこちらを煽るように置かれた手紙という、相手に与えられた情報だけを見て、祖母の無事以外のことは一切気にも留めていなかった。

不意に誰かがこちらを見ている気配がした。それはこの場にいる誰のものでもなかった。

その視線の正体は自分の内側に存在しているものだった。

あの日の少女がこちらを見ている。厭なねっとりとした笑みを浮かべて一定の距離を保つように私の周りを、円を描き歩いている。彼女にまとわりついた錆の匂いが可視化されたような不気味な笑みだ。

「どうして、私を・・・?」

その声はもうどちらの自分が漏らした呟きなのか、私には理解できなかった。

私が答えに辿り着いたことが満足だったらしく、綺羅星さんは無表情から一転して満面の笑みに変え、それがまるで祝福の言葉であるかのように告げた。

「そう、狙いは深月、貴方なのよ」

 (ⅱ)

 蔦が這うように茂っている古びた外壁の中央に、小さな門が申し訳程度に備え付けられている。その少し横に、秋空と銘打たれた表札が掛かっていて、とても古い一戸建てのようだった。だが庭の手入れは行き届いており、住んでいる人間の清廉さが滲み出ているように思えた。

門の直ぐ側に立っている雄大な桜の枝葉が風に揺れ、青々とした香りを周囲に散布している。しかしその真下では、昆虫の死骸が無残に取り残されており、鳥にでも啄まれこぼれ出たであろう体液はもう、地面に吸われ干からび始めていた。

まるでこの人間世界の縮図だと、私は考える。

表層だけが美しく彩られ、その着飾った皮膚の内奥には穢れた精神が蠢いている。

豊かなものと、貧しい者たち。

愛されるものと、愛されないもの。

知っているものと、知らないもの。

社会の成り立ちは、美しく、気高いものにだけ価値があると言外に宣っている。敗れ去り、再起できなかった者たちに光が届くことはない。マジョリティに属せぬ者たちは爪弾きにされ、異端者として度々物笑いの種にされる始末だ。

「亜莉亜さん」と物思いに耽っていた私の肩を紅葉が遠慮がちに叩いた。

こうも多くの人間がいる場所で、思考などするものではない。特に思想的なものであればなおさらだ。『最高の思考は孤独の中になされ、最低の思考は集団の中でなされる』、世界的な発明家であったトーマス・エジソンもそう言っている。自分の中身や、世界の真理と見つめ合いたいのであれば、最高の状態でなければならない。

私は紅葉の方を見やり、曖昧に肯くだけの動作を行った。人間がテレパシーを使えないのはどうしてだろうか。わざわざ動作にして表現しなければ同種類の生物ともコミュニケーションを取れないのは、非常に効率の悪いメカニズムだ。こんな程度の能力の生き物がこの惑星の支配権を握っているのだ、もう地球は絶望的だと言えるだろう。ツキが無かったと、彼には諦めてもらおう。人間は、大海原を往こうというのに、自分たちの船でさえ航海中に風穴を空けて回っているような愚かな生物だ。

私は人間に生まれたことに後悔することが度々あった。

もっと単純で、純粋な感情だけで生きられるような生命でありたかった。

ただ一条の光の中で、日夜を過ごし、受粉することもなくやがて死を待つ花のように・・・。意味もなく、ただ生きていくという行為のため存在していたかった。人間は自縄自縛のライフサイクルを構築し、時間を重ねるほど不自由になっていく脆いものだった。だが、そうして高まる不自由の中、完全な自由とも呼べる死を迎えられるように出来ている点だけは、評価しても良いと思った。

私は・・・もっと・・・。

「綺羅星さん、どうかされましたか?」

またも思考が阻まれ、私は眉に皺を寄せて不快感を表しそうになったが、すぐにそれを留めて平素の相貌を取り戻した。

今は、一人の人間である『綺羅星亜莉亜』としてではなく、探偵の『綺羅星亜莉亜』として依頼人と共にここへ来ているのだ。この場合、一応として咎は自分にあるだろう。

依頼者――秋空深月は黙ったままの私を、不安げな瞳を揺らしながら小首を傾げ見つめていた。

彼女のまとう雰囲気は、得も言わせぬ感情を胸の奥に燻ぶらせる魔力を秘めたものだった。内心舌打ちをして、彼女の視線を真っ向から見つめ返す。そうすれば、暗く美しい輝きが私の視細胞に反射することを期待しているような自らの行動に釈然としない苛立ちが募った。

深月は生態系の最下層に存在する弱者のように、私の視線に怯え目を逸している。その行動が何よりも気に食わないのだ。

私の中で、彼女の総合的な評価は決まっており、それは圧倒的に彼女の価値を認める方へと天秤が傾いていたのだが、私の中の主たる部分が深月の多重的な人格性を危険視しているのは明らかだった。

このようにさも弱者でございます、という素振りを見せているくせに、ある一点を境に豹変したように牙を剥いてくる。まるで子犬が突然狼に姿を変えるように。

私は理解できないものが嫌いだった。しかし、この世のほとんどのものは確固たる意思を持ってそれに対峙すれば、紐解いてインプットすることができる。

なのに・・・。

深月は曖昧模糊な微笑みを浮かべている。媚びているのか、哀れんでいるのか、慈しんでいるのか・・・。私は彼女が分からなかった。

昨晩出会ったときから、彼女は目まぐるしくその様相を入れ替えていた。

霊体に怯え、友人に守られている姿。と思えば、霊体に同情して憐れみ涙を流す聖母のような彼女。そして、私の発言に異を唱え叫ぶ、遠吠えを行う狼のような姿。

私の理解の範疇の外にいる生き物など、私にとって怪物と何ら変わらない。

だが、人は古来より毒を以て毒を制してきた・・・ときにはそうした力に頼らざるを得ないのだろう。

「あの・・・お話聞いていましたか?」

「いえ、聞いてないわ」と素っ気なく返した私に、彼女は文句一言発さず、再び説明をしてくれる。

こういう人格者然とした素振りも気に入らなかった。

頭上には綿飴のような積雲が点々と空の各所に存在していたが、遠く西の空には大きな積乱雲が確認できた。雨が降るようだと目を細めて、秋空宅の屋根の下に潜り込んだところで、空はほとんど見えなくなった。

彼女はこの家に祖母と二人で住んでいるらしい。他の家族はと確認したところ、「十年間に交通事故で他界しました」と些末なことであるかのように答えた。その淡白な態度は、丁寧な会話のやり取りを心がけている普段の彼女の姿とはかけ離れたものであったため、その事故が未だに彼女の中で風化していないことが容易く理解できた。あまり気は進まないが、調べておく必要がありそうだ。

世の中、天涯孤独な人間は少なくはない。確かにこの年齢でそうなったのは憐憫を感じずにはいられないが、この娘だけが特別なわけではない。

私は一度目を閉じて、わずかに揺らいだ感情を平面化してから深月の話に耳を傾けた。

「ここに、置かれていました。」と土間から段上の床を指差していた。私はそこを見つめ、彼女に先を促すと、「どうぞ上がってください」と中腰になって手で私達三人を招き入れた。近代西洋におけるメイドのような所作であった。

後ろで無意識にため息を漏らす緋奈子の姿が視界の隅に映った。彼女はどうやら深月に惹かれているようであった。私には関係ないことだが、到底ながらこの未熟で純粋な少女にこの怪物は手に負えないと思った。

靴を脱ぎ綺麗に揃えて、秋空宅に上がり込む。内装もやはりクラシカルなものであったが、庭と同じで整然とされており、彼女の祖母の清廉な人柄が知れた。あるいは深月もそれに習い綺麗好きなのかもしれない。

壁に掛けられた時計はもう昼の三時を指し示していた。本来であれば、珈琲片手に甘味を味わっているところなのだが・・・。

そうして台所を通り抜け、廊下を経て彼女の祖母の自室へと導かれた。ところどころ床の軋む音が鳴っており、建物の老朽化が足元でも如実に表れていた。

深月は「ここです」と言って、鏡台の前を指した。そこに一枚目の手紙が置かれていたということらしい。

今の所、目新しい情報は得られていない。そもそもここに足を運んだ理由としては、深月でさえ知らない情報を模索するためであった。具体的には『忘れ物』の正体を探りに来たのだ。

「少し、おばあさんの部屋を調べてもいい?」

「はい、私に協力できることがあれば、声をかけてください」と深月が控えめな笑みを浮かべて言った。

「なら、珈琲を淹れてくれる?」と私は彼女の方を見ずに淡白に答えた。彼女は小さく返事をして、台所の方へ消えていった。その後ろ姿を緋奈子が追っていた。

この場には私と紅葉だけが残り、「亜莉亜さん、何を探しますか?」と紅葉が問い、私は押し入れを開けて、中を覗き込んだ。建物と同じように年季の入った桐箱やボックスが並べられており、床は埃が堆積している。押入れ自体はあまり使われていないようだ。

「祖母の過去を知ることが出来るものを。とりわけ深月に関わることがあればそれを。日記なんかがあれば最高ね」

「日記であれば、押し入れには仕舞わないのでは?」と当然の疑問のように紅葉は苦笑いをしながら呟いた。

私は日記というものを書いたことがないので、「そうなの?」と何気なく返した。すると紅葉は「日記というのは、人に見られたくないものですが、すぐに書けるように近場に置いておくものですよ」と机に近づきながら答えた。

そういうものか、と私は新しい情報をインプットした。

「あ・・・。ダメです、鍵が掛かっています」と残念そうに紅葉がため息をもらした。

「開ければいいじゃない」と押入れの中からいくつか箱を取り出しながら私は答えた。

「そうですね、とりあえずは秋空さんに許可を頂いてきます。」と私の返事を待たずに足早にアシスタントは部屋を出ていった。あの子のこういった行動の速さには時折舌を巻くことがあり、まるで思考と行動の回路が直結しているかのようだ。

箱を開けると、中身は着物が詰まっていたので、これは関係ないなと、箱を閉じ隅へ追いやる。そうして次の箱に手を伸ばしている頃、紅葉が深月を連れて戻ってきた。彼女の手には珈琲が二つ乗ったお盆が持たれており、先程とは逆だなとどうでもいいことを考えた。「どうぞ」とか細くも庇護欲をそそる儚い声を出し、テーブルにお盆を置いて、それらを降ろした。

私達がお礼を言うと、「お構いなく」と恭しく呟いた。微笑む以外に顔つきの変化が乏しい点が、より一層その微笑みに多大な価値を付与していると言っても過言ではないだろう。そうしたことを無意識にしている点が子供らしくなくて可愛げがない。などと口にすれば、たちまち腰巾着のような少女が現れて私を罵倒したうえ、我が助手にも口酸っぱい忠言を頂戴することになると予測できたので、私は何も言わないことを選んだ。

深月は机に近寄り、引き出しに手をかけて「本当ですね」と言った。無意味な動作だと冷めた目でそれを見ていると、紅葉が申し訳無さそうな顔で彼女に質問する。

「鍵の在り処はご存知ですか?」

すると彼女は否定の言葉を呟きながら、首を小さく振った。この様子では、自分の祖母が日記をつけていたこと自体は知っていそうだ。

その返答を予測していた我々としては、既に鍵をこじ開ける算段はしてあった。というよりは、自然と人の秘密を暴くようなことを生業としていると、こういった作業をすることも増えてくるものだ。標準装備として、鍵開けの道具くらいは用意している。

深月の許可を得て、紅葉がガチャガチャと鍵開けを開始する。こうしたことに手慣れている我がアシスタントは数分もかからずに解錠に成功する。「良くやった」とほぼ無感情なままでお礼を述べると、それに込められたほんのわずかな本物の謝意を汲み取ったのか、紅葉は黙礼してこちらを振り向く。その姿はどこかマジックに成功した奇術師のように仰々しかったため、私は白けた表情を意識的に浮かべてみせた。

私はゆるりとした所作で立ち上がり、引き出しの前まで足を運んだ。木目調のそのデスクは机上に無数の傷が残されており、長い間使い込まれているのが用意に想像できた。

そこから彼女の祖母の人格性が改めて好意的に評価され得るものだと認識し、清潔感があるというデータに加え、物を大事にする女性、という情報がここに来てまた一つ私の脳内にインプットされた。

さて、蛇が出るか鬼が出るか・・・と内心呟き、引き出しの取手に手をかけて一思いに引っ張った。

私と紅葉はそこに入っていたものを目にして動きが止まった。その時間が一瞬だった私と違って、紅葉は未だに目を見開いたまま一点を凝視している。

これは・・・とんだ怪物が出てきものだと私はそのワードの語感に反して、薄ら笑いを浮かべてしてしまった。

「どうしましょう・・・亜莉亜さん、これ・・・」と紅葉が私の方を見つめつつも、実際その注意は私ではなく、私達の後ろで何事かと事態を見守っている深月へと向けられていた。

そうだ、問題は彼女だ。

私は一瞬で頭をフル回転させて、まるで演者がするように初めから定められていたみたいな動きで深月の方を振り向く。彼女の鴉の羽のような黒髪はとても日本人らしく、この日本建築を一心に信仰してきたかのような家屋にあまりにマッチしていた。

「深月、少し外してくれる?」

「え、どうしてですか・・・」

「答えたくない」

どちらが家の住人なのか分からないような慇懃無礼な発言に、紅葉はおろか深月さえも眉をひそめた。一方は咎めるような気色を、また一方は嫌悪感――いや、憐憫の情か。またも彼女の内側が思考の及ばぬシャッターの向こう側に遮られているような感覚を覚えて、苛立ちが募った。

彼女は静かに微笑みを口元に浮かべて、「珈琲、冷めないうちにどうぞ」とだけ述べて緋奈子の元へと帰っていった。その後ろ姿を眺めながら、助手は「秋空さんの方が随分と大人ですね」と批判混じりに呟いた。言外に、いい加減にしてくださいという響きが感じられ、さすがの私も戯言を口にすることは憚られたが、どうしても胸の内に湧いた苛立ちを消化するためにもへらず口を叩かずにはいられなかった。

「大人?あの娘のように複数の人格を使い分ける子供なんて・・・気味が悪い」

私が吐き捨てるように告げたことが相当意外だったようで、紅葉は唖然とした表情で私の方を見つめた。そして次第にその相貌を変え、不快そうな顔をしてから「その発言、聞かなかったことにしておきます」と先程の私と同じように吐き捨てるように言った。

私の助手は怒ると存外怖いのだ。

そうして私は何も言わずに視線を目的のものへと戻した。目的のもの、それはこの見覚えのある手紙だった。最早差出人を確認する必要はない、そんなものはもう分かりきっている。

私はさして興味のないような顔をしたまま手紙を手に取り許可なく開封する。それについて紅葉は何一つ言わず、非難するような顔もしなかった。中身を確認してから深月に見せたほうが良いという判断をしたのだろうが、私はただ面倒だったに過ぎない。我が助手とは人格の方向性が真逆とも言えるため、私達二人がパートナーとして仕事を共にし、同じ生活空間で暮らしていることがよっぽど不自然に感じられた。

紙が擦れ合う音がして、その手紙が開かれる。そこには、前回、前々回と同様の文字で、短い一文が変わり映えなく添えられていた。

『いつも貴方の影にいるよ』

手紙を覗き込んだ紅葉が眉間に皺を寄せ、唸るように「気味が悪い・・・」と呟いた。

「やってくれるわねぇ・・・」

私のその発言を紅葉は手紙の送り主に対してだと受け取ったようだが、そうではない。そっと手で引き出しに触れ、全体を念入りに観察する。

私は手紙が取り去られた後の引き出しの中を見て、薄ら笑いがこらえきれなくなる。一見もう何もなかったが・・・。私は底に手を触れて、奥に手を突っ込み確信した。

「ふふふ・・・きっと聡明な人間なんだわ」

私のデスクにも同様のものがある。だから気づいたが、これを置いていった人間はきっと想像もできなかっただろう。

先手を取ったことが嬉しくて、笑いがこらえきれなくなりそうだ。

誰に対しての先手か、そう、全部だ。

「こんなときに笑うなんて、不謹慎ですよ」

「不謹慎?」と呆れた声を出して、「私が何を楽しもうと私の勝手よ。それとも私の感情まで管理しようと思うの?」と言った。

「僕と亜莉亜さんの二人だけのときなら別にいいです。でも、今は彼女たちがいて、仕事できているんですから気を遣ってください。」

私は心底嫌気が差して大きなため息をついた。最高の気分が台無しである。私は紅葉を横目で睨んだ。

こういうときは我が助手ながらつくづく意見が合わないと感じる。思想の違いなど誰と接しようと存在するものであり、その差が大きい、あるいはどちらかの思考がフレキシビリティーに欠けている場合は争いに発展するほどの軋轢が生じる。

だが特別なケースとして、双方の関係が非常に密接であるときも争いの頻度は増加する傾向にある。互いを信頼しているが故に、意見をすり合わせて一つの個体に近づこうとする。私達の場合は前者なのか後者なのか、と問われると前者と答える他ないだろう。

別に私は紅葉と一つになりたいと思わない。私達の思想に違いがありすぎるのだ。

紅葉は冷静で大人びた振る舞いができる人間ではあるが、やや甘さが抜けきれない点が見受けられるし、基本的に人間の善良さを信じているきらいがあり、その善心に反するものは受け入れようとしない頑な潔癖さを持っている。

本当にくだらない、と私は内心毒づく。

人間なんて大半が腐っていて、自分勝手で利己的な生き物だ。だがそれでいい。誰もが腐食した心を持っていて然るべきなのだ。

生きていく過程で、人は少しずつ心を腐食させていく。そう思えば、命の終わりに体が朽ちて腐り果てるのは、ようやく体が心に追いついたとも考えられるだろう。

私が思考に没頭していると、紅葉が「いいですね」と釘を刺した。その一言が癪に障り、私は鼻で笑って露骨に嫌悪感を示す。

「気を遣う、というのは日本人が好む習慣の中で最もナンセンスで愚劣なものの一つだ。私は私が露ほども意味を感じられない物事に時間を割いたりしない」

「亜莉亜さん、そんなことだから仕事が立ちいかなくなるんですよ。どれだけ僕が苦労しているのか知っていますか?」と明らかに怒気を含んだ物言いをする助手に、私は少しばかり自分の発言の軽率さに後悔した。

仕事のことを引き合いに出されると、私はどうも取り付く島がなくなる。紅葉はぐいっと間合いを詰めて私の胸三寸の距離まで来たが、私の反論を待つつもりもなく口を開く。

最近の若者はパーソナルスペースというものが極めて狭いのかもしれないと、事務所での深月の行動を思い返し苦笑したが、あれは自分への意趣返しだったなとその小生意気な行動を思い出して笑みを消した。

「亜莉亜さんが仕事を選ぶから、結局家に頼ることになるんですよ!それは嫌なんでしょ?でも嫌なものを嫌と言ってばかりでは、土地代の支払いも滞るんですからね!」

私は本当に聞きたくない話題を出されたので、両手を上げてホールドアップのマネをした。コレ以上の抵抗を試みたところで、敗北は濃厚だろう。戦略的撤退を敢行するべきだと早々と判断し、「ごめんさない、私も悪かったわ」とこの場を収めるために一先ず謝った。

すると紅葉は「私も?も?」とさらに語調を荒げて詰め寄ってきた。

こうなった助手は止められないと、長い経験則が私の耳元で囁いてきた。すると、紅葉が「大体亜莉亜さんは!」と怒鳴りつけたところで、心配そうな顔をしている深月がおずおずと顔を覗かせた。その後ろで緋奈子が何かぼやいているのが聞こえる。きっと放っておけと深月に助言しているのだろう。私なら助言がなくともそうするなと考えたが、今は彼女の老婆心は天からの救いであった。

「あの、どうかされましたか?」

「あ、秋空さん・・・」

彼女の不安げな黒々とした瞳は、ある種異様な魅力を持っていて、それは目があったものの心を落ち着けさせる一定の効果が期待できるものだった。しかしながら、頭に血が上り気味の紅葉にはそれも効果不十分だったようで、未だ不満げな面持ちを崩すことはなかった。

「すみません、秋空さん。これは私達の問題です。この人の仕事に対する姿勢を根本から叩き直さなきゃいけない」

「深月、紅葉を静かにさせてくれない?捜査が進まないの」

熱く語り始めた紅葉の言葉を遮るように私は深月めがけて言った。彼女は私と紅葉の顔を見比べた後、少し困った微笑みを浮かべた。その控えめな笑顔は日陰にひっそりと咲く花のような謙虚な美麗さが込められていた。

どっちつかずの態度を示すだろうと予期しての発言だったが、あまりにも想像通りだったため、私は思わず噴き出してしまった。私がお腹を抑えて笑う姿を意外そうにアシスタントが目を丸くして見ていると、私の行動をどう捉えたのか、「珈琲冷めてしまいますよ?」と深月がお盆に並んだままの二つのカップを眺めながら言った。

本当にこの娘は、愚かで不気味で、面白い。

残りの人生を捧げると勇敢にも宣言した彼女の姿を思い出して、無意識的にまなじりが下がった。

 (ⅲ)

 私達はキッチンに戻り、ダイニングテーブルを四人で囲んで話を始めた。時刻はもう夕方前にさしかかっており、もう数刻もすれば心地の良い虫の声が聞こえ始めることだろう。夏の匂いがするとはいえど、日が沈み始めれば気温はだいぶ下がる。服の丈に迷う時期でもあるなとぼんやり私は考えていた。

「ところで、貴方達は私と助手が捜査している間は何をガサガサしていたの?」と綺羅星さんが小首を傾げながら、相変わらず無表情な面持ちで言った。冷めてしまった珈琲が余程気に入らないのか、一度カップに口につけた後はもう二度とそれをすすらなかった。

隣で肩を回しながら緋奈子さんが「荷造りだよ」と素っ気なく呟く。明らかに良好とは言えない二人の関係に頭痛がしそうだったが、綺羅星さんがあまり相手にしてないことが幸いであった。思えば誰とでも、私とでも衝突を繰り返している彼女だが、この中では当然最年長である。言動や態度だけを切り取って参照してみると、どう考えても紅葉の方が大人びていた。見た目はどこに出しても恥ずかしくなさそうな綺羅星さんだったが、紅葉の言葉を聞くに至るところで人との軋轢が耐えないようだった。

彼女は訝しげな表情をしたまま問う。

「なんのために」

「深月が危険だって言うなら、ここに一人で残していけないでしょ」と緋奈子さんがじろりと相手を見据えた。

部屋の隅には最低限の着替えや日用品が詰められたボストンバッグがぽつんと置いてあり、久しぶりに押入れから叩き起こされて未だに寝ぼけ眼であるように見えた。

既に彼女からその提案を聞いており、しばらくは緋奈子さんのところでお世話になっても良いとのことだった。他人の家、しかも彼女の保護者が共に暮す場所にお邪魔するのは、正直あまり気が進まなかったが、こんな状況でこの家に一人で居られるほど肝が座っているわけではないため、その言葉に甘えることにした。というか、今一人になるのは明らかに自殺行為であることは間違いない。言葉の綾ではなく、もしかすると本当に命取りになる可能性すらある。

「確かにそうね。でもそれはこちらの役目よ」

彼女が冷酷な光をその目に浮かべるのと、緋奈子さんが疑問の声を上げるのはほぼ同時であった。彼女は、「なんでよ」と憤る緋奈子さんに対して、腕をゆっくりと絡み合わせながら、顎を引き顔を斜めにした姿で答える。

「人を巻き込みすぎよ。あまり大所帯で事を構えていると相手が警戒して姿を見せなくなる可能性だってあるし、思わぬ被害が生まれるかも知れない」

「それって、深月を餌に使うってこと・・・?」

「大げさに考えすぎよ、ここに残すのは論外、でも貴方の家まで巻き込むのはもっとダメ」

緋奈子さんの怒りと驚きを撹拌した口調に、綺羅星さんではなくその隣の紅葉が申し訳無さそうに眉を下げた。彼はというと、黙ったままで冷めきった珈琲の微動だにしない湖面を見つめていた。

私はその発言を耳にしても別段驚くことも、怒りを覚えることもなかった。現時点では情報が不足しすぎている、相手の出方を伺う余裕はあまり私には残されていないように思える。ならば多少危険を冒しても解決の糸口を探す必要があるはずだ。

友のために真っ直ぐに感情を滾らせる緋奈子さんが羨ましく感じられた。自分にはあのような実直さは無く、その対極にある歪みしかこの心には宿ってはいない気がした。

「すみません、今はそのほうがいいかと・・・」と常識人だと思っていた紅葉が発言したことで、緋奈子さんの表情は益々険しくなり、両手で机を叩いた。カップがその衝撃で音をたててわずかに動いた。時が止まったかのように動かなかった水面も細かく揺れ始めた。

緋奈子さんは感情が高ぶりすぎて言葉がうまく出てこなかったようで、唇だけ震わせて二人を交互に見ていたが、途端に彼女を鼻で嗤う声が聞こえて声の主に注目が集まった。

「本当に分かってないのね」と綺羅星さんがゆっくりとした口調で呟いた。あえて区分する意味もないとは思うものの、怒りが二割の呆れ八割といった調子であった。

緋奈子さんが苦々しい面持ちで「何がよ」と短く尋ねると、綺羅星さんは「冷静になりなさい。感情に支配された人間との会話はナンセンスと教えたはずよ」と極めて冷たく突き放した物言いをしたが、その中にはわずかばかりの教導的な精神が垣間見えていのは気のせいではあるまい。砂粒程度ではあったが。

緋奈子さんがその意図を察したのかどうかは分からなかったものの、少なくとも彼女は綺羅星さんの言葉に従い、冷静になろうと努めているようだった。目を閉じて、チェアの背もたれになだれかかり深い呼吸を繰り返し始めたからだ。

「悪かった・・・です。理由を教えてよ・・・ください」と半ば意味不明な語尾を乱用しているのが、何だか変なところが生真面目な彼女らしかった。そんな彼女に「別に敬語はいらないわ」と前置きした上で、ズボンのポケットから手紙を取り出して机の上に投げ出した。もちろんその桜色の手紙は私達も見覚えがあるものだったため、私と隣の緋奈子さんは目を丸くして動きを止めてしまった。

「これは・・・三枚目ですか?どこに・・・」と私は思わず自問自答するように呟いたが、直ぐにピンときて「まさか鍵の掛かった引き出しの中ですか?」と続けて言った。

すると彼女は少し微笑んでから頷き、私達を交互に見やった。

手紙に手を伸ばし内容を確認する。そこには今まで通りの荒々しい文字で短く『いつも貴方の影にいるよ』と記してあった。

影・・・?と私は口には出さなかったものの心内でその一文についての問いかけを行った。

影・・・闇、黒、裏側、後ろ・・・後ろ?

私は言葉の羅列の中で奇妙な違和を感じて、寒気を感じた。

「どういう意味だろ・・・?」

「どうでしょうか、気味が悪い一文にはなりますが、おそらく・・・」と紅葉と緋奈子さんが顔を突き合わせて唸り合っているのを横目に確認しながら、私は正面の彼女に焦点を当てた。彼女はただ無言で私を見つめており、どうやら私のことを試すためにこちらの言葉を待っているようであった。

綺羅星さんのこうした行動は、初めのうちは何か目的があって私を見定めているのだと考えていたのだが、どうやらそれは勝手な思い違いだったのかもしれない。彼女にとって癖のようなものなのか、あるいは値踏みすること事態が目的で趣味と似たようなものなのかもしれない。

全ての物事に意味があると信じ込むことはやめようと思った。綺羅星さんが言っていたではないか、個人の価値観や、社会的常識といった幻想を前提にしてはならない、と。

私は彼女の瞳を改めて見つめた。

人と目線を真っ直ぐ交わすという行為はそもそも日常的に行われることではない。数瞬視線を交差させても直ぐに外すのが一般的で、家族や余程親密な相手でない限り長い間見つめ合うことは難しいのが人間であるらしかった。

それでは、眼前の彼女は人間ではなく、魑魅魍魎か何かなのか。よくもまあここまで無遠慮に人の目を覗けるものだと、私も彼女から瞳を逸らさぬよう意識しながら考える。

「影という言葉には、裏側、後ろ、そういったニュアンスが含まれているように感じます」

私の言葉に彼女は少し目を細めて、つまらなさそうにしただけで大した反応を見せてはくれなかった。

大丈夫だ、まだ思考は終わっていない。

だからどうか、そんな寂しそうな目をしないで欲しい。

「あるいはもっと別の、何か暗号じみた意味が含まれているのかも知れません」と私は確信に近い口調で言う。

その言葉に、彼女は瞳の色を一変させた。目の奥を赤い銀河に輝かせて、瞳孔は獲物を捉えた猫のように大きく開かせている。

話の聞いていた残りの二人も顔をしかめていた。

「うわぁ、なんかそれってば漫画の中の殺人犯みたいで気持ち悪いよぉ」と緋奈子さんが顔を引きつらせる。

「ふふ、素敵じゃない。そんな熱烈なアプローチを私も受けてみたいものだわ」

腕を組み、望郷の念に駆られたように目を優しく閉じて彼女は機嫌が良さそうに呟いた。いつもであれば我が友の癇に障りそうな発言であったが、彼女は珍しく黙って綺羅星さんを見ていた。

しかし不意に、「過剰に気を遣うことはないわ、これも貴方を精神的に追い詰めるための一手なのでしょう。相手の思い通りに考えてやることはない」と急に真面目な顔に戻って言った上で、「ともかく、こうして向こうからのアプローチが途絶えていない以上、出来る限り被害を受ける可能性のある人間は少ないほうが良いわ」と続けた。

すると紅葉が軽い咳払いをした後に、片方の目だけ開けて横目で彼女を睨んでから私の方へと少し姿勢を向き直った。その仕草がウインクしているように見えてしまい、巷で話題のアイドルだと言われてもさして驚かないだろうと妄想した。それだけ彼も中性的で整った顔立ちをしているのだ。他の二人とも違う意味で魅力的な容姿で同性にも異性にも人気がありそうである。彼の紳士的な口調が異性への警戒を解くのに一役買いそうなものだ。

時の話題とは全く無関係なことを考えながら彼を見ていると、少し照れたようにはにかまれた。一瞬少女のような顔つきになったため、私はその変わり身に感心する。なるほど、こうやってギャップのある魅力も周囲に展開するのか。

世の中で上手に人付き合いができる、あるいは積極的に恋愛ができる人というのは、他人とのコミュニケーションの中で自分という魅力を効率的にアピールすることが可能な人間のことを指すのだろう。

もちろん私のような自分のことさえ好きになれない人間には、そのような方々の真似事は不可能に思える。というか、誰が好き好んでこんな陰湿さの滲む人間とコミュニティを築こうと思うだろうか。それこそ緋奈子さんのような、相手の鬱陶しい陰気ささえもまとめて抱きしめられるような優しさと、強さを兼ね備えた精神の持ち主でなければ到底無理な話だろう。

そうして改めて彼女のありがたさを認識してしまうと、何故だか心がくすぐったくなって、ついつい隣に座る彼女の細くもしなやかな手を握ってしまった。

「え・・・?ど、どうかしたの深月?」と突然手を絡め取られてしまったことに驚きを隠せなかったようで緋奈子さんは目を白黒させて私の顔と、繋がった掌を交互に見比べていた。赤い顔が交互に視線を動かす様子は、踏切の警報機のようで少し滑稽に、そしてとても愛らしく見えた。

「ごめんなさい」と言って私は馴れ馴れしく繋いでしまった手を離し、「数日前に知り合ったばかりの私なんかのために・・・本当にありがとうございます」と素直に感謝を口にした。こういう言葉は思ったときに言わないと、段々時間とともに口にできなくなってしまう。だからしっかりと伝えたいと思ったときに伝えて、習慣化しなくてはならないよ、と祖母が言っていた。

私は祖母に、心からのありがとうを伝えきれていない。だからまだ、終わらせてはいけないのだ。

離れ行く私の掌を見つめながら、彼女は抜けていた魂が戻ってきたように瞳に力を込めて凛然とした表情で私を見据えた。

「なんか、じゃないよ。深月なんかじゃない。誰でもない、深月のためにやるんだ」

私の知る中で、誰よりも実直さに満ちた瞳が炎を滾らせるように爛々と輝いている。

こちらが何かを口にするよりも早く、彼女は言葉を繋ぐ。私が思考するよりも早く、心に従って想いを口にできるのが緋奈子さんの魅力の一つなのだろう。

この世には光よりも速いものはないらしいが、きっと彼女の想いなら、それに比肩するぐらいに空間を駆け抜けられるのかもしれないと、改めて握り返された掌に、彼女の熱を感じながら並行するように考えていた。

「出会ったばかりの奴にそんな事言われても信じられないかもだけど、それでも信じて欲しい」

そう言って彼女は以前したように、繋いだ手を自らの額に持っていき目を瞑った。癖なのかは分からないが、その所作にはある種の神聖ささえも感じられて、私は彼女の名前を呼ぶことしか出来なかった。

二人が互いの信頼に蕩けていると、紅葉が気まずそうに二度目の咳払いをした。

二人の存在を意識の遥か彼方、何光年か先に追いやっていた私、おそらくは私達は、それを思い出して、二人して羞恥心に顔を真紅に染め上げていた。

あからさまな深い溜め息と共に、綺羅星さんが目と口を開けたまま大儀そうな口調で言った。

「緋奈子、貴方意外とポエマーなのね、そんな顔しないで、可愛らしいということよ。・・・それにしても若いって良いわね・・・それで?キスでもするのかしら?大丈夫よ、私も紅葉も居ないものとして続けてもらって構わないわ」

「すみませんでした・・・」

「謝らなくていいのよ、時には感情に支配されることも大事よ。恋愛なんて感情が暴走しなくては出来ないことなのだから」と存外しつこく彼女は続けた。

恋愛、というつもりはないのだけれど・・・。傍からすれば恋人同士の睦言のように見えてしまっても致し方ない行動だったかもしれない。私はどう思われても構わないが、それに緋奈子さんまで巻き込むのは憚られた。

緋奈子さんは牙を抜かれた獣のように大人しくなってしまい、綺羅星さんの厭味ったらしい呟きを甘んじて受け入れていた。

「貴方もどうして手を繋ぎ直した後、押し倒さないの?根性が無いわね」ととんでもなく下品な言い様に流石の緋奈子さんも口を開きかけたが、誰よりも早く、「話を続けます。仲睦まじいのは宜しいですが、それは事件が解決してからにしてくださいね」と紅葉が、彼にしては冷たい刃のような語調で言ったため私達は黙るほかなかった。そんな私達を見て、愉快そうに上品に笑っていた綺羅星さんも、「亜莉亜さんも次また減らず口を叩いたら、僕はしばらく書類整理しませんから」と釘を刺された途端、無表情になって黙り込んだ。

 ようやく場が静まり返ったところで、彼は皆の方へ向き直り話を再開した。

「とにかく、この辺りで一旦事務所に戻りましょう。時津さんも、気になるのであればお越しくださって構いませんので」

確かに、時計の短針は六時頃に到達している。移動するのであればそろそろ動き出したほうが良いだろう。あまり遅くなっては、不都合なことが多い。だが・・・。

「あの」と私は控えめな素振りで手を上げた。彼女たちは何か私が反対意見があると思ったのか、少し真剣な表情に変えてこちらを見つめた。そしてその代表者であるかのように綺羅星さんが「何か」と呟いた。

「あの、私はどこに行けばいいのでしょうか・・・?」

「貴方ね・・・」と呆れ半分驚き半分と言った口調で、綺羅星さんはテーブルに両肘をついて両手を頬に添えた。周囲の二人も苦笑いでこちらを見ている。

何かおかしなことでも言ったのかと不安になり、三人の顔を俯きがちに見比べた。

「おかしな娘ね。貴方の頭は変な方向にしか働かないのかしら」

「別にいいでしょ、こういうところも可愛いじゃん」

机の上に置いてある私の本に手を伸ばして綺羅星さんがぼやき、それに困ったような笑顔で緋奈子さんが応対している。だがそれも聞こえていないように彼女は「ドストエフスキーね・・・」と興味無さそうにしていた。

紅葉が立ち上がりティーカップを流しに持っていきながら、眩しそうに目を細めて言った。「僕らのところに来ればいいじゃないですか。少なくとも僕たちはそうするものと思っていましたよ」

 (ⅳ)

 「お邪魔します・・・」と呟いた私の声は、薄明かりの室内に吸い込まれて消えた。

彼が直ぐに照明のスイッチをオンにしたことで、室内は多少明瞭になったが、数時間前まで同じ部屋に居たというのに、先刻とは全く異質な空間に感じられた。その原因が太陽が沈み夜が訪れたことによる副次的な効果なのか、それとも私にとって一夜の宿となったからなのかは分からなかった。

結局あの後、もう暫く荷物の整理をするために、私と紅葉だけがその場に残っていた。綺羅星さんは、「楽しみはとっておけないタイプなの」と言って足早に帰宅し、緋奈子さんは今夜のところは家に戻ることとなった。二日も続けて家に帰らなければ、両親もさぞや心配することだろうし、当然ではある。

別れ際の彼女の心配そうな、だがどこか恨めしそうな面持ちが脳裏に浮かんだが、泡のようにすぐ弾けて消えた。

がらりと、先に帰っていた部屋の主が窓を半分程開け、私の顔を見て一瞬ではあるが痛々しいものを見るような目をしてからすぐに相好を崩して、視線を窓の外へと向けた。それが一体どんな感情によるものなのかはさっぱり分からなかった。

外からはアスファルトが湿る独特な匂いが漂っている。彼女は目を細めて「雨ね」と惚けている。どこか嬉しそうな雰囲気は、私には理解し難いものだった。

よりにもよって・・・、と内心ごちりながら、私は睡眠導入剤を持ってきていただろうかとぼうっと考えていた。

クルリと優雅に百八十度ターンしながら、綺羅星さんは気品溢れる微笑みをこちらに向けた。黙っていればどんな人間でも魅了できるだろう彼女が、特異な性格に育ったのは、神が一手間加えてバランスを調整しようと試みたのかもしれない。何の、と聞かれると答えに窮するのだが。

「顔色が悪いわ、怖いの?」と心配しているかのように問う。だが彼女の性格上、そう感じているのは私の勝手な思い違いである可能性のほうが高い。。

私は話すかどうか少し迷った後、窓枠にもたれている彼女の隣に並んだ。

外の景色は、わずかな街灯はあったもののほぼ真っ暗であった。

月も出ていない、雨の音だけが聞こえる静謐な夜。

ぞっとする黒のベールを避難地帯から私は眺めている。

あの日の夜もそうだった。あの全てを失った夜も。

病室のベッドで横になって私は外を眺めていた。夢ならば醒めてくれ、という常套句があるが、実際自分がその立場になると何も考えられないものだと知った。

「雨が怖いのです。あの日も雨が降っていた・・・」と私は独り言のように呟き、目を閉じる。

未だにこんな雨の日は瞼を閉じれば、その裏側に焼き付いている記憶が、望むと望まざるとに関わらず顔を覗かせる。

臭いものに蓋をして封印したつもりになっても、その実中身は腐ったままで何も変わっていない。そして残念なことに、永遠に蓋をしたままではいられないものだ。いつの日か独りでに蓋は開く。

綺羅星さんは再びターンして、「そう」と呟いた。私と同じように外を眺めていたが、見ているものは全く違うものだろう。彼女が景色に焦点を当てているのか、それとも何も見てなどいないのかは分からなかった。

黙って隣に並んでいることから、私の言葉を待っているのかもしれない。これもまた、私の勝手な推測なのかもしれないが。

「私が遊園地に行きたいと言ったのです。そしてその帰り道に大きな事故がありました。土砂崩れに巻き込まれた沢山の車がぶつかり合って・・・多くの人が死にました」

あの夜の病室と違うのは、私の話を静かに聞いてくれる人が隣にいるという事実だ。

それが今は心地よかった。

「人はいつか死ぬものよ。誰が生き残って、誰が死のうと、何が原因だろうと・・・」

「分かっています。ですが、心が理屈に従えるかというのは別なんです・・・」

ぽんっと私の頭上に温かい何かが置かれた。遅れてそれが彼女の掌だと気づいたとき驚きよりも、その温もりによる安心感が勝った。

今、彼女の方を向いたら、この手は離れていくだろうか。そう考えると私は名残惜しくて、綺羅星さんを振り向くことができずにいた。

「私も雨の日は感傷的になるわ・・・だからこんな話に耳を傾けるのかもしれないわね」

私は「すみません」と呟いたが、心の底から謝罪したわけではなく、ただ成り行きで口を突いて出た言葉だった。彼女はゆっくりと私の頭を撫でながら続きを促した。

「独りにされて、周りの大人たちは私を話の種として利用することしか考えてなくて・・・ほとぼりが冷めるまではずっと、代わる代わる事故の話をさせられた。祖母が来るまでずっと・・・!」

あの日を思い出して私は歯ぎしりした。勝手な人間たちへの苛立ちが、遠い記憶の彼方で篝火のように燃えている。一体あの炎は何を知らせるために燃えているのか。いい加減消えてくれれば良いのにと、自らが生み出した幻想に心からそう思った。

目を開いて、暗闇の一点を見つめる。そこには過去の私が死んだような目をして立っている幻がぼんやりと浮かび上がっている。

「人間は勝手だものね・・・それが本質だもの。大人になるというのは、腐食した利己的な社会に適応していくということだから」

「綺羅星さんもですか?」と私が尋ねると、「そうよ」と一瞬で返事をした。

「初めは・・・周りから、生き残ったことに意味があるのだと、亡くなった家族のために幸せになることが使命だと言われて、それを信じようとしました。でも、ダメだった」

私は自嘲気味な瞳で綺羅星さんを見つめた。撫でる手が止まるかと思ったが、彼女はこちらを見ただけで変わらず頭を撫でてくれていた。

紅蓮の宇宙を横たえた瞳が、とても優しい輝きに満ちていた。それは気の所為ではないと信じたい。その暖かさに背中を押されるように、私の中の澱んだ感情がアウトプットされる。

「死んだ人間のために?死んだ人は何も感じません。死者への手向けとなる行為は全て、生きた人間が自分のためにする自己満足です・・・!それで、あの日の私が救われますか?そんなものに、何の価値が・・・!」

「深月」と熱くなった私の言葉を遮って綺羅星さんはこちらに向き直った。頭を撫でていた手は肩へ移動し、じっとこちらを見つめている。

彼女の白い肌が、まるで死人のようだった。

「何に対して価値を感じるかは人それぞれよ。亡者を手厚く葬るのも、ある人にとっては極めて重要な儀式的行為よ。それを頭ごなしに否定してはいけない。そういう考え方では―――」

そこで彼女は黙り込んでしまったが、私は彼女の顔つきが必死なものに変わっていくのを目にして目を丸くした。

初めてこうした感情を私の前に曝け出してくれている姿に、歪んだ喜びを感じてしまう。彼女のように常人離れしたスペックを持つ存在も、私と変わらぬ人間なのだと知ることで彼女との距離が一瞬で縮まった気がした。

綺羅星さんは苦しそうな形相をした後、何とか口を開く。

「私のような人間になってしまう」

「綺羅星さんのような・・・?」

それは良いことなのではないか。彼女のように強く、揺るぎなく、知性の女神のような存在に近づけるのであれば喜ぶべきことだと思えた。

だが、綺羅星さんはそれ以上何かを語ることはなかった。もう自分のことを話すつもりはないというのが表情に出ていた。

「もう・・・言いたいことは言えたの?」

「はい・・・」

本当は、もっともっと彼女と話したいことが山程あったが、これ以上の贅沢は身体に毒のような気がした。

二人の会話が終わると同時に、それを待っていたかのように紅葉が奥から声をかけてきた。どうやら夕食の手伝いを私にお願いしているようだ。綺羅星さんがそういった点では役に立たないことは先に聞いていた。

私は感謝の言葉を短く述べて、足早に彼の元へと向かう。

そのとき綺羅星さんが後方から、私の名前を呼んだ。振り向いた私に彼女は無機質な表情で囁くように言った。

「全ての人間にとって意味のある物事などないわ。だから、意味は自分の中に求めなさい。貴方にはきっとそれができる」

それから目をゆっくり閉じて、それからまた開いてから背を向ける。彼女は外の闇に愛の告白をするかのように吐息混じりに艶やかに続けた。

「私と違ってね」

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