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彼岸の華   作者: 杏ころもち
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四章 忍び寄る影

 四章 忍び寄る影

(ⅰ)

そこで、私は幸せだった。

キッチンで料理を作っている母。その隣でお皿の準備をしている父。きっといつか、どこかで見た休日の光景だ。

午後の西日が窓から部屋に注ぎ込み、窓の軒にある鉢植えたちに光が舞い降り、その中で植物たちは踊るように生き生きと光合成をしている。

父が母にいつものようなウィットに富んだ冗談を言って、母がそれを適当に受け流す。普段どおりの日常、だった。

これは夢だ。

だがいつもの夢とは違って、自分の体は思いの外自由に動きそうだ。夢の中で夢だと気づいている・・・きっとこれは明晰夢というやつなのだろう。

私のセンチメンタルな精神が、この幸せだった頃の記憶の欠片を見せているのか・・・。

自分の目の前に、オムライスが運ばれてくる。とても美味しそうな香りに私は喉を鳴らした。例え夢の中でも、久しぶりに母の手料理を食べられることが驚くほど嬉しかったし、当然のように悲しかった。

こんな記憶が何になるのかと、ニヒリストを気取る自分がいる一方で、子供のように大はしゃぎしている自分がいて、その人格のほうが今の私を支配しているようであった。

夢の中で、私はオムライスにかじりついた。突かれてぐしゃぐしゃになったオムライスが、皿の上で赤、黄を混ぜた絵の具のような姿に成り果てている。絵心のない子供が描いた絵のように、精細さに欠けていた。

「ママ!美味しいよ!」

それは良かったと母が答える。当たり前だと、何故か父が誇らしげに笑っている。二人はどこまでも幸せそうで、二人の男女が目指すべき形の極みを象徴しているかのようだった。

皿の上の絵の具がさらにミックスされ、どこか悲惨であった。

ふと、ダイニングテーブルを囲む四つの椅子の内一つが空席なのが気になった。

どうして四席あるんだったか。

そうだ、妹はどこだろうか。すっかり忘れてしまっていた。

妹はいつも自分の部屋が好きだった。その中でひたすら勉強しているときもあれば、こんこんと本を読み耽っているときもあった。私の知る誰よりも頭の良い子供だったことは覚えている。

妹が望むものは何でも買い与えられていた。それだけ将来に期待されていた。私と違って、才能ある人間なのだと、幼い時分に既に気づいていたことでもあった。しかしそれを妬ましいと思った記憶は一度もない。両親に愛され、才気煥発な自慢の妹を持っていた私。

足りないものなんてないと信じていた。

いつまでもこのままだと、根拠なく信じていた。

少し大人になればいくらでも分かることだった。変わらずにいられるものなど、この世にはほんの一握りしか無いのだと。

せめて、この夢の中だけでも幸せでいたかった。

「まづきは?」

母が天井をチラリと見て、「勉強してるのよ」と素っ気なく答えた。

そして、妹、真月は将来凄い人になるのだから、あまり勉強の邪魔をしてはダメなのだと付け加えた。それに対して父は肯定するわけでもなくただ沈黙を貫いている。

そういえば、妹と両親は喧嘩が絶えなかった。といっても、ドンパチ火花を散らすようなものではなく、例えるなら冷戦のような静かな闘争であった。十にもならない少女が両親と言葉なく喧嘩していることは、彼女の精神がかなり同世代のものと違ったということを明確にしていた。

それでも、今は家族揃ってご飯を食べたかった。

次第に、身体の自由が効かなくなってくる。夢の中の私が、一人でに役を演じ始めたようだ。

私は黙って席を離れて二階へ向かった。背後で母が何か言っているようであったが、それも無視して妹の部屋へと私は向かった。

二階へ上がり、妹の部屋の前に立つ。それから一拍置いて扉をノックする。そうしなければならないと、母が言っていた気がする。

「だれ」

冷たく鋭利なトーンで、中の人物が答えた。やはり喧嘩中だったのだろう。

「まづき!お姉ちゃんだよ」

私が舌っ足らずの口調でそう言うと、すぐに誰かが駆けて来る音が聞こえ、目の前の扉がわずかに開いた。

その隙間から、黒髪を短く切りそろえた少女が顔を出した。少女は私の顔を見るや否や、私の手を握り強く引っ張り自室へと引きずり込んだ。あまりの勢いに、ドア枠の小さな段差に躓きそうになる。

部屋の中はほぼ真っ暗闇で、唯一カーテンの隙間から漏れる光だけが二人にとって唯一の光源であった。その暗闇の中で、未だに私の手を握っている妹は、表情は見えないものの何か真剣そうなオーラを醸し出していた。

何かを決心しようとしているが、未だに踏み切れずにいる。そんな様子だった。

こんなことがあっただろうか?と夢の外の自分が冷静に思考するが、やはりうまく思い出せずにいた。そうこうしている間に、夢の中の私が勝手に口を開いて、妹の決心など分からぬまま間の抜けた口調で言った。

「まづきー、下に降りてオムライス食べよ?パパと、ママも待ってるよ」

その言葉に、私の手を握る真月の掌がぎゅっと閉じられたのが分かった。わずかな痛みに目をしかめると妹は小さい声ながらも、ハッキリとした怒気を込めて呟いた。

「待ってないよ、あんな奴ら」

その言葉は、私をとても悲しくさせた。

父も母もあんなに優しいのにどうしてこんなことを言うのだろうか。でもきっと真月に事情があるのだろう。そう思っては見たが、どういう対処をしてあげれば、この場を収められるのかも分からなかったし、幼さが混じる今の私如きの思考では、良案が浮かぶことのないだろうという諦めもあって、何も答えられずにいた。すると真月は、次こそ決意に満ちた表情で私との距離をぐっと縮めて、ほとんど密着した状態で私に告げた。

「お姉ちゃん!一緒にこの家から出よ!」

「え?お出かけするの?」

あまりにも突然の提案に私は目を丸くした。私の要領の得ない返事に語調を強め真月は続ける。

「違うよ!二人で暮らすの!あんな奴らから自由になって、二人で!大丈夫だよ、お金だって行く先だって考えてあるから!だから…お願い…」

妹の言葉にも、その必死な態度にも私は理解が追いつかず、呆然としてしまう。パパもママもいない場所で生きていけるとは到底思えなかった。

結局妹が何を望んでいるのかが分からなかったため、私は無難な言葉しか思いつけず言った。

「ダメだよ、怒られるよぉ」

妹の丸々とした大きなオニキスの瞳が苛立ちの炎に揺らいだ。真月はそのまま私を壁に押し付けると、その不機嫌さを隠すつもりもないまま黙って私を睨みつけている。怒りで言葉が出ないようにも見えるし、年不相応に激情を抑えようとしているようにも見えた。

私の怯えた、全く同じ色の黒い瞳を覗き込んだまま、彼女は一音一音はっきりと噛みしめるようにして呟いた。

「じゃあお姉ちゃんは、私よりもアイツらを選ぶんだね」

それは幼い私の耳に呪詛のように響き、思わず身を竦めてしまう。壁面に押し花のように私の小さな掌が磔になっている。

それから妹は俯き、何事かを小声で呟いたきり何も話さなくなってしまった。ようやく彼女が手を離し、支えを失った私の手は重力に従って腰の横あたりに垂れた。

真月はこのとき、一体何をしていたのだろうか。何も見えぬ、昼下がりの闇の中で何を考えていたのか…。

妹の理解し難い言動や行動に恐怖を感じ、私は後ろ向きのままジリジリと下がり、部屋の外へ出る。まるで危険な獣から一時も目を離せぬというような私の去り方に、妹は目尻をきつくした。階下から聞こえる両親の声に、不思議な安堵を感じ、早くそこまで逃げたいと強く願った。私が何も言わず踵を返そうとした所、真月はもう一度だけ、小さく口を動かした。

今度はそれが聞こえた。

「裏切り者」

瓶の底から響いたような妹の声が、まるで私の知らない誰かのもののような気がして、私は怯えその場を走り去った。

 (ⅱ)

 誰かの気配を感じて、私は目を覚ました。

その何者かの方をぱっと振り向いたが、そこにはソファに横たわったまま手探りで布団を探す緋奈子さんの姿があった。愛くるしい寝顔と動作に思わず頬が緩んだが、よくよく考えてみると、どうやら私は客人の彼女をほったらかしで床に入った挙げ句、彼女の寝床にはソファをあてがったようである。なんたる失態だろう。

それにしても、どうやら懐かしい夢を見ていたような気がする。きっと家族の、夢を。

肝心の内容が曖昧でよく思い出せないが普段見ている悪夢でなかったことだけは間違いない。こうして綺麗な記憶のほうが滲んでいき、思い出したくもない記憶が鮮明に残るのはどうしてだろうか・・・。

私は緋奈子さんを起こさぬように慎重にベッドから起きる。一瞬彼女を起こそうかとも考えたが、時計の針を確認するとまだ午前六時を過ぎたところであった。一旦起こしてベッドに入ってもらうべきか否か。逡巡した後私はとりあえず布団を彼女の体にかけてから、一度階下に向かい祖母の様子を確認してから再度考え直そうと判断した。

忍び足で部屋を出て、なるべく音を立てないようにしながらそっと階段を降りた。しかし、普段なら起きているはずの祖母が見当たらない。昨夜は遅くまで帰ってこなかったようだし、まだ寝ているのかもしれない。だとすれば、こちらも起こすのは不味い。そう考えて、私はどちらかが起きてくるまで、台所で紅茶でも飲みながら待つことにした。

三十分近くが経過するが、どちらともに動きがない。既に柔らかな朝の日差しが家中のいたる窓から入り込んでいることだろう。私の記憶が正しければ、こんな時間まで祖母が寝ていることは今までに経験したことがなかった。

私は顔を洗い、祖母の様子を見に部屋まで向かった。

静かに襖を開けて中の様子を伺うが、そこに祖母の姿はなかった。

(まさか、昨夜から帰ってきてない・・・?)

電気をつけて、室内を見渡すが当然探し人の姿はどこにも見当たらず、慌てて玄関まで足を運んだが、やはり祖母の靴が並べられてはいなかった。

私は、得も言われぬ感覚に襲われていた。あえて言語化するのであれば、嫌な予感、というやつである。

こんな時間になってまで帰宅しない点もそうだが、電話一本してこないのが何よりも妙である。祖母の性格上連絡すらしてこないというのは、にわかには考えがたいことだった。先程からやけにうるさく自分の心音が聞こえてくる。

考えすぎだ。私の悪癖なのだ。

そんな偶然はない。祖母が何か事件に巻き込まれているなどと、不謹慎なことは考えてはならない。なにもない。

そう考え込もうとしても、鼓動は大きくなる一方で、遂に私は駆け出して家中の部屋を探し始めた。脱衣所、風呂場、トイレ、物置、客間、庭まで、全て探し回ったが徒労に終わった。

徒労ではない、と脳内で冷静な私が呟く。そうだ、現時点でこの敷地内にいないことは把握できた。

オーバーヒートしかけている思考を落ち着かせ、神経を集中して考える。

すると昨日の祖母の様子が思い出された。明らかに様子がおかしかった祖母、それの原因は・・・。

「手紙・・・っ」

私は郵便受けまで走り出そうとしたが、受け取った手紙をまたそこに戻すわけもない。であれば、キッチンのダイニングテーブルの上か、いや、そこにあればもう気づいているはず。それならばと駆け出し向かったのは祖母の部屋だった。

庭からそのまま玄関を開けっ放しのままにして室内に戻り、祖母の私室に飛び込んだ。視線を巡らせ周囲を探すと、すぐに見覚えのある手紙が鏡台の前に置かれていることに気がついた。

駆け寄り手紙を手に取ると、躊躇なく中身を取り出し文字を目で追った。

考えすぎなら後で謝ればいい、祖母が無事なら何だってどうだっていい。

「なに・・・これ」

私が期待していたような宛先、人物名、その他の情報は一切何も記されていなかった。

そこにはバランスを考えられることもなく、無造作に綴られていた一文があるだけであった。

『忘れ物を頂きに参ります』

意味がわからなかった。こんなものはただのイタズラとか、無関係のものだったとか、そういう顛末だろうか。

いや、そんなはずはない。祖母のあの様子、あの姿には明らかに怯えが入り混じっていた。これだけの情報で祖母は何かを察したのだ。

それは何だ・・・。

しかしどれだけ考えても分からなかった。思考のどん詰まりでただ焦燥感だけがこの体に堆積していく。

その時、部屋の入口に誰かの気配を感じ取った。もしやと思い振り返ったが、そこには未だ寝ぼけ眼と言った様相の緋奈子さんが立っていた。

彼女は大きなあくびを一つしてから、ろれつの回っていない話し方で私に問いかけた。その姿が私の焦りと反比例しているかのようで、理不尽にも少しだけ癪に障った。

「おはよー、どうかしたの?さっきから走り回っているみたいだけど」

「祖母を見ませんでしたか?」と聞いたところ、

「見てないよ、昨日の晩も帰ってこなかったみたいだし・・・よくあるの、こんなこと」

と未だのんびりとした口調で呟いた。

私はかぶりを振って「いえ・・・」とだけ漏らしたが、その瞬間、彼女の手に握られているものに視線が吸い寄せられ、慌てて問う。

「そ、その手紙!」

彼女の手には、今朝私が見た手紙と同じデザインのものが握られており、思わず私は駆け寄って手紙を奪い取った。その普段と違う私の様子に緋奈子さんは面をくらっていた。

震える手で封筒を確認する。やはり宛名も差出人の名前もないし、消印なども見当たらなかった。直接ボストに投函したのだ。

私は同じものだと確信し、封筒を破り捨て中身に目を通す。

そこにはまた同じような乱雑な文字でこう短く書かれていた。

『これで一人ぼっち』

その一文を読んだ途端、目がくらんだ。意識が朦朧とし動悸が止まらなくなる。それなのに努めて冷静ないつもの私は、その一文の意味を理解しようと脳味噌をフル回転させる。回転音がけたたましく鳴り、データを高速で処理していく。

一人ぼっち。

一人・・・?

誰が?

そんなものは決まっている。

私だ。

この手紙は間違いなく・・・私宛に送られてきている。

「ひ、ひなこさん・・・これど、どこに・・・」と私はたどたどしい口調で問う。

知りたくはない、知るべきではないと心のどこかで感じているのに、知ろうとする冷静な自分がその言葉を何とか口にしていた。

口腔内は水分が一切合切奪い去られてしまったように乾燥しており、今の私には一言二言話すのでさえやっとの状態であった。

緋奈子さんは私の怯えた姿に、只事ではないと確信したのだろう。緊張した面持ちで口を小さく開けて私に説明する。

「さっき深月を探しに玄関に行ったときに置いてあるのを見つけたんだけど・・・まさか深月が置いたんじゃないの・・・?」

開けっ放しの玄関が脳裏に浮かんだ。生ぬるい風がその玄関から流れ込んでくる。

遂に立っていられなくなって、鏡台の前のスツールに腰を下ろした。緋奈子さんが遠くで何か言っているが、脳が余計な情報をシャットアウトしようとしてその音をかき消しているようだ。

恐怖によってまともな思考も出来ず震えている自分の前に、怯えを知らぬかのようにひたすら情報を整頓し、あるべき形に戻すことに徹している人格が立っている。まるで子を守る親のようにその事象と、いつもの弱い私の間に立ちはだかっている。

思考を止めることが、今や悪のように感じた。

いつ置いたのか。

今だ。ほんの今さっき。私が庭から祖母の部屋に駆け込んだほんの数分前に玄関に手紙を置いていったのだ。

つまり――まだ差出人は近くにいる。

鏡台に映る自分の姿は、ぷるぷると小刻みに揺れて、口元はわずかに開き半笑いを浮かべていた。私の少し後ろで佇んでいた緋奈子さんは、鏡越しにその表情を見て言葉を失っているようであった。

誰だか知らないが、この人物が祖母と私を害しようとしているのは間違いない。ちょっとしたイタズラのつもりだったとしても、もはや許すわけにはいかない。人のトラウマを掘り起こし、面白半分で私をいたぶっている。

私の中で怒りは恐怖を超越し、反射的に緋奈子さんを振り返り叫んだ。

「緋奈子さん!辺りに不審な人物がいないか探してください!」

私の気迫に圧倒され、「え?」と間抜けな声を漏らしたが、私は彼女を残して一人部屋から走り去り、家を飛び出した。

裸足のまま靴を履き、颯爽と敷地を出て、住宅街に入る。目を凝らし周囲を見渡して、何者かを探す。土曜の朝方の住宅街は閑散としており、私の荒い息遣いだけが狭い小道に反響している。

黒い電線が遥か彼方まで伸びている様子は、まるでもう犯人が手の届かぬところまで行ってしまったことを暗示しているようで妙に腹ただしかった。

冷静さを失い、沸騰した感情のまま闇雲に住宅街を走り回った。

(どこ!一体どこにいるの!?逃さないっ・・・!)

しかし走り回ったところで相手の容姿の見当もつかないため、すれ違う人々がみな一様に怪しく見えて無遠慮に睨みつけてしまう。誰もが気味が悪そうに私の目線から逃れようと顔を背け、その姿になおのこと猜疑心が増幅されてしまう。

 運動不足の体はものの数分の有酸素運動で疲労困憊となってしまい、息も絶え絶えに道にしゃがみ込んでしまった。

身を焼く焦燥感と怒りが徐々に収まり始めたが、次は脳が酸素を求める衝動に襲われ、肩で大きく息をする。どうも無闇に走り回りすぎたようだ。周囲には誰もおらず、一人になってしまっていた。

そう、一人ぼっちに・・・。

息を整えながら体を引きずるようにして帰路につく。五月の朝方とはいえこれだけ全力疾走を続けては全身が熱くなってしかたがなかった。汗が体中から噴き出し、服が体皮にへばりつく感触に不快感が募った。黒く長い前髪が額に張り付き、目の中に入りそうになっている。

思考の妨げになっている不快感に顔をしかめながら、なんとか脳を回転させようとする。

どうすればいい。私はどうしたらいい?

警察、とりあえず警察に連絡しなければならない。しかし、何と伝えるのだ?祖母が一日経っても帰ってこないと伝えても、あまり緊急性を感じてもらえない可能性がある。ならば手紙を見せてはどうか。いや、イタズラと判断されるか・・・。ストーカー事件などでも、実際に被害が起こらない限りまともに動いてくれないとよく耳にする。

私は思わず汚く舌打ちしてしまい、その事自体に驚いてしまう。随分冷静さを欠いているなと、他人事のように自分を評価した。

苛立っても、焦っても、決してそれらがポジティブな効果をもたらしてくれることは決して無い。百害あって一利なしである。特にこういう頭脳労働が必要な時は要注意なのだ。

何はともあれ、やはり一度帰宅して警察に電話するのが今できる最善策であることは間違いないと言えるだろう。それに、緋奈子さんのこともほったらかしなのは些か問題であろう。

 十分程経ってようやく家に辿り着いた。門の両脇に立っている桜の木からぽとりと毛虫が落ち、地べたでもぞもぞと蠢いていて、体に刻み込まれたグロテスクな紋様がうねうねと波打っている。庭の隅に空から小鳥が舞い降り、地面を漁っている。地に落ちた虫の末路がなんとなく予想できてしまい、私は目を逸した。

開けっ放しの玄関口に緋奈子さんが座り込んでいるのを見つけて、今更ながら申し訳無さを感じながらも私は駆け寄った。彼女はずっと下を向いていたが、私が近寄る気配を感じたようではっと顔を上げた。やはり気を悪くしているだろうかと不安になり、彼女に告げる一言目がなかなか絞り出せないでいると、彼女はまなじりをきっと吊り上げ、勢いよく立ち上がった。そして無言のまま私の傍ににじり寄る。緋奈子さんが両手を上げる仕草をした瞬間、私は叩かれると感じ、反射的に目を瞑って体を硬くした。

すると彼女は腕を広げて私をそのまま中に包み込んだ。鼻孔をくすぐる柔らかな香りに未だに強張っていた精神が弛緩していくのが分かった。彼女は少し鼻声の状態で「心配したんだから」と私の耳元で告げた。その言葉と同時に力が強く込められたことで、彼女がどれだけ心配していたのかが察せられ、一人で突っ走ってしまったことへの後悔の念が湧いたのと同時に、彼女の暖かな気持ちが胸に沁みて、私も鼻がツンとしてしまった。

そして遅れた形にはなったものの、私も自身の両手を彼女の背に回してその想いに応えた。その背は普段の精強さを薄め、年相応の女の子としての一面を晒していた。

彼女の耳元で、感謝の念を込めつつ謝罪を口にする。

 「ごめんなさい、居ても立ってもいられなくなってしまって・・・」

抱き合ったまま瞳だけ横を向けて、彼女の髪を緩やかに指で梳きながら話を続けた。

「祖母の行方が分からないんです」

「まだ出かけ先から戻ってきてないだけじゃないの・・・?」

ようやく二人は体を離して、互いの目を見つめ合った。こういうときに他者の存在を感じられるというのは結構重要なことなのだと改めて知った。自分の思考を俯瞰して考えるためにも、自他の境界を認識しておくことはかなり役に立つようだ。

『最低の思考は集団の中でなされ、最高の思考は孤独の中でなされる』という言葉が一瞬脳裏に浮かんだ。その言葉自体には賛同もするし敬意も表するが、今は他人との間でなされる思考で、情報を整理することが必要なのだと私は結論づけた。

彼女は怪訝そうに私を見やり、言いづらそうにそう口にした。私はナイトウェアのポケットに手を伸ばし、手紙を取り出して彼女に差し出した。よくよく考えれば寝間着のまま住宅街を駆け回ったのかと、今更ながらに恥ずかしくなった。

緋奈子さんは不思議そうにそれを受け取り、二折になった手紙を開き、ゆっくりとした目の動きでその数文字を追った。彼女は眉間に皺を寄せ、何かを言おうと口を開いたが結局そのままの状態で立ち尽くしていた。緋奈子さんは目だけで「これがどうかしたのか」と問うてきた。その問いに答えるように、今朝彼女が見つけた手紙をすかさず手渡した。同じように手紙を開いてそれを読んだ彼女は、先程とは打って変わって表情を変え私を見つめた。その表情には驚きと恐怖が混じった感情が容易く推し量れた。

彼女はかすかに震える唇で呟く。

「これって、深月が一人ぼっちってことだよね・・・?」

私はゆっくりと深く頷いた。それに対して彼女は早口で続けた。

「そ、それじゃあ誰かがおばあさんを誘拐したってことなの!?」

「断言はできませんけれど・・・私はその可能性が決して低くはないのではと考えています」

すっかりと落ち着いた私は淡々と言葉を口にした。状況を分析し、まるで機械のように語る私に彼女は「そんな他人事みたいに・・・」と呆れとも驚きとも言えない顔をして独り言のように言った。

彼女に血も涙もない冷血人間と思われたくなかったので、「走り回ってようやく冷静になれたの」とだけ告げたが、納得がいかないようでその言葉に緋奈子さんは返答も動きも示さなかった。そのまま二人で家に上がり、一旦警察に電話しようと話を決めた。

 結論だけ言うと、警察の対応は私の予期したものだった。事務作業のように必要最低限の確認事項だけ聞くと、煩わしそうな態度を隠すこともないまま電話を切られてしまった。緋奈子さんは彼らの態度に凄まじく憤激していたが、超高齢社会と言われる日本の現状で、一体どれほど彼らがそうした事案の多さに頭を悩ませているかが想像できてしまい、私は何も言えずに口を閉ざした。

キッチンのダイニングテーブルチェアに座り、やはり想像したとおりだったなと悠長に自己判断の正当性を感じていた。

のんびりと椅子に座っている私の向かい側に緋奈子さんはドンッと腰を下ろし、今にも噛み付いてきそうな勢いで私に言った。

「何を座ってんの!そんな場合じゃないでしょ!」

「分かっています。でも無策で立ち回るのは時間を浪費するだけです。」

私の冷たい物言いに、彼女は言葉を詰まらせた。緋奈子さんはまるで恐ろしいものでも見ているかのように体を引いた。

私はそんな状態の彼女のことなど全く見えていないかのように、目を瞑って静かに呟く。それは静寂の中響く鐘の音のように重々しく、しかし澄んで聞こえた。

「少し考えさせてください。」

私はそう言って瞬く間に思考を繰り返した。

どれだけ黙っていただろうか、実際は数分もなかったのだろうが、その時間は数十分にも一時間程度にも感じられた。

その間も彼女は組まれた腕の肘を指でトントンと一定のリズムで叩いては、上体を反らし、また曲げてを繰り返していた。私の行動が全く理解できずに苛立ちを募らせているのが思考をしている中でも感じ取られた。

私はゆっくりと目を開き、真正面に座っているであろう緋奈子さんを見据える。すると彼女はなぜかこちらに身を乗り出して私の顔を凝視していた。思いの外至近距離に彼女の凛々しい顔があったため一瞬目を丸くして、ぽかんとしてしまったが、私以上に緋奈子さんは驚いたようで、バっと元の位置まで一直線に後退した。

「な、何をしていたんですか?」

と私が問うと、「いや・・・まつ毛長いなぁって思って・・・」とモジモジと恥ずかしそうな素振りをしながら答えた。

緋奈子さんは一度咳払いをすると、少し怒った風を装って口を開いた。

「何をしているのってのは私のセリフなんだけど・・・で、何か分かったの?」

「ええ、このままでは何も解決できないことはわかりました。」

「えぇ・・・?」

彼女はあからさまに肩を落とし、呆れたようなテンションで吐息を漏らした。これだけ時間を無駄にしておいて何も分からないとは何事か、と考えたのであろう。ややもすれば、私は祖母が誘拐されたかもしれないのに呑気にシンキングタイムを過ごしているサイコパスにでも見えているのであろう。

いや、我ながら今のこの冷静さは私という人間の異常性を物語っているのかもしれない。昨日からの非現実的な状況の連続に、私の心は麻痺してしまっていると考えたほうがいいのだろう。しかし、この麻酔を打ったようなある種の冷静さを活かさない手はない。

彼女はダイニングチェアの背もたれに思い切り寄りかかり、上を向いて口を開けている。私からしてみればその行為の方が時間の無駄である気がするのだが、そうした個人の主観により差がある意見は口にしても大抵はナンセンスだと考えているので無言を貫くことにした。

時刻は九時前であった。街の施設のほとんどがあと数時間の内には開店し始めるだろう。当然夜に営業の重きを置く形態のお店は別としてだが。

私は先程の思考の内に用意しておいた質問を緋奈子さんに投げかけた。依然として上を見つめ呆然としていた彼女は、パッと上体を跳ね上げると私の質問をオウム返しした。

「人探しの職業ぉ?」

私はコクリと頷き、「そのワードから何を連想しますか?」と付け足した。そうすると彼女は「うーん」と唸り声を上げながら部屋の四隅を見ている。視線をせわしなく右へ左へと動かす姿はまるで獲物を探し求める獣のようで、時津緋奈子という女性の野性的な魅力を際立たせる仕草であった。そんなギラつく視線が私をキッと捉えたとき、思わず呼吸が止まりそうになった。それほどまでに彼女の眼差しは凛として美しい。

そして彼女は口を開いた。

「探偵・・・とか?」

私は再び頷いて、「そうです」と呟いた。そして続けて、「そこで質問なのですが」と前置きを踏まえて本命の問いを行った。

「この街に、探偵事務所、というか興信所のようなものはありますか?人探しをしてくれそうな心当たりがあれば何でも良いのですが・・」

多少難儀な質問かとも思ったが、緋奈子さんは知らない、という風な素振りではなく何かを言うべきか否か迷っているととれる沈黙をしていた。

私は彼女が話しやすいように、「本当に何でもかまいません、どんな心当たりでも良いのです」と促すように言った。

実際、情報が新鮮である内が事件を解決する上で重要なのではないかと思う。迅速かつ冷静な行動がきっと最善な選択へと導く最も大切なファクターであろう。簡潔に言うと、手遅れになる前にというやつだ。

先程から走りっぱなし考えっぱなしだったため喉がカラカラであったが、今席を立って紅茶かコーヒーでも淹れようものなら、流石に彼女から顰蹙を買う気がしたのでじっと座ったままで次の言葉を待っていた。

その私の発言を聞いたことで決心がついたのか、緋奈子さんはゆっくりと語り始めた。

「私の家の近所に確かそれっぽいボロい事務所があった気がするけど・・・。」

「それは探偵事務所、というものでしょうか?」

「そんな立派なもんじゃないよ。というか営業しているかも分からないし、人の姿なんか見かけたこともないし。」と彼女は顔を横に向けたまま自信なさげに続けている。どのみちここで何もしないというのが一番の愚行なのだから、今はその情報に頼るしか無いだろう。果報は寝て待てとも言うが、寝ている暇はないことは確かだ。

「緋奈子さん」と私は彼女の目を見据える。真っ直ぐ向けられた私の視線に彼女は未だ渋々といいた様子ではあったが頷いてくれた。

「はいはい、案内すればいいんだね」

「何から何までありがとうございます、緋奈子さん」

私は目を軽く閉じて頭を下げる、「頭なんて下げないでよ」と彼女は正面で両手を交互に振りながら慌てたように言った。

互いにまだ寝間着のままだったので、ひとまず着替えることにした。とは言っても彼女は昨日の制服しか代えの着替えがないので格好に大した新鮮味は無い。

私は自室に戻り、クローゼットを開けて適当な服を見繕った。春と夏の狭間にある五月だが、既に初夏の香りがうっすらと漂っていた。ある程度薄着でも構わないだろう。さらに、探偵事務所で人探しの依頼をする可能性があることを考えたら、多少印象を良くするためにも小綺麗な服装を選んだほうがベターなのかもしれない。

人は見た目ではないというのは詭弁である、とは私の極めて個人的な意見だ。しかし人はファーストインプレッションで相手の知られざる部分も勝手に想像して決めつけるし、人間は目で八割以上のデータを入手している。

小汚い服装はその人の品格を落とすし、派手な服装は貞操観念の欠如を印象づける。変わった服装はそのまま独特な人間性を推察させる。

人を見た目でしか判断できない人間は愚かだが、それもまた人間の性だということを直視せずに、外見を疎かにするのもまた愚かである。

もちろん、あくまで私の主観的意見ではあるのだが。

そんな本題とは関係のないことを考えながら、私はクローゼットから黒いワンピースを取り出して、すぐに着替えた。

後ろ襟と身体の隙間に入った髪を両手で抜き払い、私は自室を出て階段を降りる。階段が軋む音がいやに建物全体に響き渡り、祖母の優しい声を吸収して共に年月を過ごしてきた我が家に彼女が居ないことが現実味を帯びていく。

私は小さく震える掌を見つめる。徐々に今私の周囲で起きている事の重大性が認識されていく。優しい祖母。両親亡き後、誰よりも私を大事にしてくれていた祖母。

今の私にとって、一番大事な人。

私は目を閉じて静寂に尋ねる。

(これは・・・私のせいなのですか?)

手紙の内容がそれを示唆していた。少なくとも無関係ではない。あるいは二人共が狙いであるというのも十分あり得るだろう。

『これで一人ぼっちだね』

手紙の乱雑な文字が想起される。私宛の手紙。私の過去のことを踏まえての内容であることを考えると、やはりそれは間違いないと言っていいだろう。

ふともう一枚の手紙が思い出された。全く変わらない文字の書き方で記されていた『忘れ物を頂きに参ります』という一文。忘れ物とは一体何のことなのか。あれは誰に向けての手紙だったのか・・・。犯人は何を取りに来ているのか・・・。

ダメだ、情報が少なすぎる。こんな破片のようなデータではいくら集めても全貌が想像できない。今は無駄に考えすぎてはならない、先入観は必ず真実への道を惑わす原因になる。しかし何も考えないというのは難題を解くことよりも遥かに難しいことだ。

私は瞑っていた目をスローモーションで開くよう意識的に行う。そうして呼吸を整えて、もう一度掌を見つめた。

もう、その手は震えてはいない。

何としてでも、祖母を取り返す。

探偵事務所に依頼なんて、引き受けてもらえるか分からないし、頼むに足り得る相手かどうかも定かではない。だが今はやるしかない。

デカルトだってこう言っていたではないか。

『困難は分割せよ』と。

そのためにも今は目の前の問題から当たろう。

(ⅲ)

土曜日の町並みはやや閑散としていた。大型商業施設もレジャー施設も近場にはないこの郊外では、休日を楽しむ多くの人たちが交通機関等で都市部へと遊びに出かけてしまう。

五月の陽光を薄く透かす朧雲が空に無数に浮いている。雲越しの日光が程よい気温を下界にもたらしている。

その空を群雀が飛び交い遠くの方へと消えていき、羽ばたいていくその姿がやけに眩しく私の目に映った。

私達は緋奈子さんの案内で例の探偵事務所に向かっていた。私の家からは徒歩で二十分程度の距離にあるらしい。彼女曰くバスで向かうには近く、待っている時間が無駄になるとのことでこうして歩いて向かうことになった。どうやら先程の長考がやはり気に入らなかったようである。

何本目か分からない、つまらない灰色をした電信柱を追い抜いたところで、彼女がチラリと目線を私の方に向けた。初めは何か私に話があるのかと思ったが、私ではなくその向こう側の大きな家を見ているようだった。広い敷地を持ち高い塀に囲まれているその家は、随分と由緒ある旧家のように感じられた。

次に緋奈子さんの顔を見た時はもうその視線は既に正面の道に据えられていた。誰か知り合いの家なのだろうとその時は大して気にならなかった。

彼女ととりとめもない会話を続けながら、私は目的の探偵事務所について思考を巡らせていた。

果たしてどのような人物なのだろうか。異彩な職業というと少しばかり失礼かもしれないが、やはり現実では中々耳慣れない職業だ。興信所と呼ぶのが一般的なのだろうか。

フィクションの世界では、とりわけミステリー作品の中では常連と言っても過言ではないだろう。

風采の上がらない容姿に、人好きのする笑顔、しかし明晰な頭脳や土壇場での行動力を持ち、快刀乱麻に事件を解決する。多少ステレオタイプかもしれないがそれが私の持つ探偵像であった。最近はヒーロー然とした探偵が人気のようだが・・・。

フィクションの中ではともかく、現実の探偵は未知数であった。あのように華々しいものではなく浮気調査や人探しなどの依頼が多いと耳にしたことがある。どのような形式で依頼を請け負ってくれるのか、また依頼料はいくら程度なのか・・・下調べをする時間もなかったため全く見当もつかない。

相手の人柄によっては早急に引き上げ、他の手段を講じる必要性があるだろう。私達のような人生経験の浅い子供だけで訪れれば、下手を打つとカモにされる可能性だって無くはない。油断するのは危険だ。祖母がいない今、頼れる大人は私には居ない。

なるべく思考を研ぎ澄ました状態で事務所の敷居をまたぎたい。そんなことを考えている間はどうやら緋奈子さんの話をまともに聞いていなかったらしく、彼女が渋い顔をしていることにすら気づけなかった。緋奈子さんが肩を軽くぶつけてきたからそれに気づくことが出来たが、私よりわずかに下の位置で膨れ顔をしている彼女がとても可愛らしかった。

不機嫌なふりをしている緋奈子さんに一言何か言わなければと思い、言葉を探している内に彼女が突然立ち止まった。

私は彼女の視線の先を追った。

「これは・・・」と建物を見上げ呟いた。

緋奈子さんの顔は「だから言ったでしょ?」とでも言わんばかりに苦笑いを浮かべており、肩を竦めてその看板を見つめていた。

綺羅星興信所、と大きく銘打ってある看板に対して、その打ちっぱなしコンクリートで建てられた三階建てのビルはどう見ても老朽化していた。

なるほどこれは紹介したくなかったというのも頷ける。

第一印象というのはどうやら建物にも適応されそうだ。この中に住まう人間がまともに商売をやっているとは如何せん想像し難い。

一階はどうやら車庫になっているようでシャッターが降りっぱなしになっている。二階三階の壁には均等に窓が備え付けられており、ほとんどの窓には内側からカーテンが閉められており外からは中の様子が伺えなかった。

しかし、二階の窓の一箇所だけが開け放たれており、中に明かりが灯っているのが私達の位置からも確認できた。どうやら外から直接二階につながっている内階段を使ってそこへは行けるようだ。

ここまで来たのだ。行くしかないとは分かってはいるのだが・・・。

私も緋奈子さんも黙ったままで立ち尽くしていた。控えめに言っても怪しげな建物である。怖気づいてしまうのも当然で、あれだけ自分の腕に自信のあった彼女も流石に足を進めたがらない。そうこうしている間にどちらからともなく口を開いた。

「ねえ深月・・・本当に・・・」

私は彼女の言いたいことが痛いほど分かったが、ぐっと握りこぶしを作って気を引き締めた。先刻祖母のために困難に立ち向かうと覚悟を決めたのだ。

「ええ、行きましょう」と彼女の目を見て呟く。声量は小さかっただろうが、彼女にはしっかりと伝わったはずだ。きっと私の不退転の覚悟も。

緋奈子さんもその意図をしっかりと感じ取ったようで、コクリと深く頷いて階段に近寄った。彼女は先に上がろうとしたが、私はそれを制して先を譲ってもらった。

あくまで依頼主は私だ。それならば最初に顔を見せるのは私でありたい。緋奈子さんに頼っているような気配はできれば相手に悟られたくない。

今はそうした弱さはいらない。侮られたくないのだ。

私はそうして半ば部屋の中の相手を敵視しているような心持ちで扉の前に佇んだ。外観の無機質さに反してドアは高級感のある重厚な木製の扉であった。焦げ茶色の表面がなんだか重い沈黙を強いているようだった。

中に人がいる気配がして、一瞬気が引けてしまう。しかし、再び気を引き締めてそのドアノブに手をかけた。ノックをすべきだったろうかと思考し手を止めた瞬間、ドアの向こうから声が響いた。

「どうぞ」と短く中の人は言った。

どうやら中の人物は女性のようだ。

男性ではないというだけで、幾分か警戒が薄れて肩の力が抜けた。隣の緋奈子さんが小さな声で「女の人だ」とぼやいたのが分かった。

私はぐっとドアノブに力を込めて扉を押し開けた。思いの外ドアは軽く、必要以上に力を込めていた反動で勢いよく扉が開いた。

その先には私が想像していなかった光景が広がっていた。

一瞬、息をするのを忘れてしまうほどに。

部屋の入口から十歩ほど歩いた先に、ドアと同じような高級感のあるデスクが置かれていた。その正面にはガラステーブルと小洒落たワインレッドのソファが対に二つ置かれていた。中の空気は少し埃っぽかったが、開け放たれていた窓から爽やかな風が入り込み気分を害するようなものではなかった。しかし室内の蛍光灯の光は弱く中は薄暗かった。

私はその正面のデスクに両肘をつきこちらを見ているその瞳に覚えがあった。

――紅蓮の宇宙だ。

つい先日川沿いで出会った女性が目の前に座っていた。

「どこでここを?」と私を一瞥して、彼女が突拍子もなく告げた。相変わらずその口調には他を拒絶する冷酷さが含まれていたが、私はその言葉に反射的に答えた。

「知りませんでした」

「そう」

間隙を挟まず行われた短い会話に緋奈子さんが目を白黒させている。明らかに必要最低限、いや、それすらもないような言葉の数でなされた会話であったため、彼女にはきっと何の話かも分からなかったに違いない。できる限り頭の回転率を高めた状態でここまで来た私も、突然の彼女の登場に混乱してしまっていた。緋奈子さんは尚のことだろう。

しかしそれは相手も同じ条件だったはずだ。その証拠に昨日彼女とともに居た少年も呆然としてこちらと女性を交互に見比べていた。

それにも関わらず、この女性は一瞬で会話の口火を切ったのだ。

私は彼女の頭の回転の速さに脱帽していた。

目は口ほどに物を言う、とは先人は上手いことを言ったものだ。彼女の瞳に宿る無限の知性は伊達ではなく、そもそも私とは積んでいるエンジンが違うのだと直感的に感じられた。こちらが軽自動車なら彼女はレーシングカー並だろう。

刹那の沈黙の後、次は緋奈子さんが口を開いた。

「何が・・・?」

彼女にとって謎の会話を始めた二人に向けての気味の悪さを晒した口調であった。女性がどうしてこの場にいるのか、という驚きよりも先にその問いが出てしまうほどに。

私は緋奈子さんの方を向かず、依然として焦点は目の前の女性に合わせたまま説明することにした。

何故だか理由はわからないが、女性から目を離すのは危険な気がしてしまったのだ。一度そうすればこちらの心が見透かされそうな力が彼女の瞳には宿っていたのだ。

「きっと私達が自分を探してこの場所に来たのだと思ったのでしょう」

それを聞くと緋奈子さんは、「そんなわけないじゃん。こっちが驚いてるよ」と忌々しげに女性を睨んだ。しかしその目には普段のような力はなく、驚きのあまり怯んだ彼女の内情が如実に刻まれていた。

すると女性はまたこちらに向けて品定めするかのような視線を向けて、私の頭の頂点からつま先まで観察していた。かと思うとすぐさま姿勢を崩し背もたれに背中を預けて口を開いた。

「用件は?」

まったくもって、客に向けての態度でも口調でもなかったが、なるほど、これは当初の予想通りまともな商売ができている人ではなさそうだ。

隣で緋奈子さんが、その慇懃無礼な対応に目くじらを立てたまま、「あんたね・・・!」と文句を言いかけたが、私はそれを片手で制し、再び女性に向き直りハッキリとした口調で告げた。緋奈子さんは多少不服そうであったが、大人しく引き下がってくれた。

「こちらで人探しを依頼したいのです」

「そう・・・」と彼女は一切興味が無さそうに答えた。しかしその瞳は私を捉えたまま微動だにしていない。きっとこの間ももの凄い速さで思考を巡らせているのだろう。

開け放たれている窓の外には、晴天の五月の日常が広がっていた。それに対してこの部屋には何か現実離れしたものが感じられる。それが何かは言語化するのが非常に難しかったが、敢えて言うならばここには現実とは乖離した何かが充満しているように思えたのだ。

ふと彼女が早口で言った。

「何を考えているの?」

これには流石に反応できず、「え?」と間の抜けた声を上げてしまった。すると彼女は一度ゆっくりと目を閉じた後再び、「今、何を考えていたのかと聞いたのよ」と口にした。

緋奈子さんは怪訝な表情を浮かべており、未だに意図を察せずにいたがそれは私も同様であった。だが、再度聞き返すのは悪手だと自分の中のシックス・センスが告げており、私はそのまま考えていたことを正直に口にした。

嘘や誤魔化しはおそらくこの人には通じないし、それは極端に嫌う気がすると短い対話の中で判断した。

「この部屋の雰囲気が、少し・・・現実離れしている気がしただけです・・・。」

どうかお気になさらず、と付け足し数秒だけ目を伏せる。それは彼女に質問の内容を噛み砕かせたことへの謝罪のように思えた。

私の言葉に、女性の後ろにいる少年が息を呑んだ気配が感じられた。一体この会話から何を想像したのかは定かではないが、あの人にもきっと私に似た部分があるようだし、感受性が豊かなのかもしれない。最も、人が他人から感じ取れるものの多くが勝手な推測なのだから、それが真実に直結しているとは限らないだろう。

女性が身じろぎしたことで、私は視線を元に戻した。彼女はそのまま小さく笑うようにして息を漏らし、少しだけ口角を上げて言った。

「やっぱり、あなたは少し鼻が効くようね」

そうして女性はようやく私から焦点を外すと、後ろを振り返り少年に事務的な口調で告げた。

「紅葉、お客様よ。飲みものをお願い」

「え・・・は、はい!」

そうして大きな声で返事をした少年は足早に私達が入ってきたドアとは逆の扉の方に姿を消した。

よく分からなかったが、どうやら第一関門は突破できたようである。

私は内心安堵のため息をついて、女性を見据えた。

あいも変わらず高圧的に感じられる眼差しではあったが・・・。

(やっぱり、とても綺麗だ)

そうぼんやりと考えていると、彼女は私達二人にソファに座るよう手だけで促して立ち上がった後、ついでのように私に言った。

「きっと今、私もあなたと同じことを考えてるわよ」

心を見透かされているかのような発言と、その艶やかな立ち姿からの物言いが途端に羞恥心を煽り、私は自分でも分かるほど真っ赤になった。手の先ですら熱を帯びて赤くなっているのだ、顔は尚の事赤く染まっているであろう。それを誤魔化すために右手で髪を耳にかける仕草をするが、銀朱に塗られた耳朶が晒されただけで逆効果であった。

そんな私の様相を目にして、蚊帳の外である緋奈子さんは何がなんだか分からない、といった表情のまま私とともにソファに腰を下ろした。どこか面白く無さそうでもあった。

その後、女性も私の正面に座し流れるような所作で来ているワイシャツの胸ポケットから名刺を取り出し、私に手渡した。

何の装飾もないシンプルな名刺だったが、逆にそれが彼女の女王のような気品を映し出しているかのようでもあった。名刺には看板と同じく、綺羅星興信所という文言とその住所、電話番号などが簡潔に記載され、中央にその主である彼女の名前が大きくプリントされていた。

私が名刺から目を上げ彼女の顔を見つめると、こちらが何かを言う前に、私に笑みを向けた。それは美しいものでもあったが、それ以上に他を圧し、黙らせることを目的とし創造されたような、ある意味彼女にとても相応しいものであった。

その笑みのまま彼女はおもむろに言葉を紡いだ。

「私は綺羅星亜莉亜と申します。どうかお見知りおきを」

と一日越しの問いがようやく私に帰ってきたのであった。

 (ⅳ)

 「私は秋空深月と申します。こちらこそよろしくおねがいします」

と私が深々と頭を下げて告げて、続いて緋奈子さんが不本意ながらと言わんばかりのしかめ面で、「時津緋奈子です、どうもよろしく」とだけ告げた。

そうしている間に先程の少年が麦茶と珈琲をお盆に載せて戻ってきてどちらが良いかと聞いた。女性、綺羅星さんは無言のままに珈琲を手に取り自らの正面にコトンと置いた。そうなった時点で珈琲はあと一杯となったので、私は緋奈子さんにどちらがいいかと聞いたところ「麦茶でいいよ」と答えられたので、私は遠慮なく珈琲を受け取った。

全員に飲み物が行き渡った時点で、ようやく少年が緋奈子さんの前になる位置取りに座り込んだ。そのままワイシャツから綺羅星さんと同じように名刺を取り出したのだが、やはり彼女のような美しさはない。あれはきっと彼女独特の能力なのだろうと、さして重要ではないことに思考を巡らせてしまい、慌てて名刺に視点を落とした。

私がそれを読む前に少年が爽やかなテノールで言う。

「アシスタントの綺羅星紅葉です。よろしくおねがいします」

「綺羅星・・・あの、ご兄弟とかですか?」と私と同じ疑問を持った様子の緋奈子さんが質問した。

すると紅葉は小さく首を振って「従兄弟です」と口にし、続けて「自分のことは敬称無く、紅葉とお呼びください」と付け加えた。

紅葉の、誰かとは違った紳士然とした態度にどうやら緋奈子さんは好感を抱いたようで、彼女はにっこりと笑って「分かったよ紅葉」と非難を恐れずに友達口調で言った。確かに彼はどう見ても私達と近い年齢に見える外見をしているので、別段問題がある発言とは言えない。

しかし・・・。

(あんな風に初対面の人と砕けた口調で話ができるなんて・・・羨ましい・・・)

未だに緋奈子さんとも敬語を使っての会話しか行えない私は、純粋に彼女の社交性が羨ましくなった。じっと緋奈子さんを見つめていると、目の前の綺羅星さんは腕を組んでため息をついた。

机の上の各々の飲み物は、ハイクラスな装丁が行われているカップ&ソーサーに注がれていた。波紋一つ立たせていない水面に、私の心も常にこれぐらいの静けさを保つことができればなと夢想してしまった。そう、眼前の彼女のように・・・。

「そろそろ本題に入りたい」

緋奈子さんの凛とした口調とは違う、何者にも揺らぐことのない、完全に独立した個である彼女の話し方。

揺れぬ水面。明鏡止水のような、いや、その水面も凍りついてしまっているのではないかと思えるほど冷たく、鋭利であった。その声のトーンで会話を始められてしまうと、耳が自然にその声を聞き逃すまいと彼女に従属してしまうような気さえしてしまう。

緋奈子さんと紅葉はその声に無防備に晒されてしまい、一瞬身を固くする。しかし直ぐに緋奈子さんは態勢を立て直し、嫌味ったらしくため息をついて私の方を見た。

話は私がするから、と事前に約束してある。緋奈子さんのその仕草で、他の二人の視線も私に集まり、言葉を待っているのが分かった。特に綺羅星さんはそれが顕著であった。時間を無駄にするなと言わんばかりの目つきなのだ。

私は一旦深呼吸をして、気を静めた。

深い思考の海から必要な情報のみをサルベージする。

隣で緋奈子さんが何か言った気がしたが、今はどうでも良かった。冷静な人格が現れて、私の真ん中に立って思考をまとめる。そうして私の中の彼女がゆっくりと目を開くと同時に現実の私も両目を開けた。

クリアになった視界の中には、一番に綺羅星さんが現れた。彼女は先程までとは打って変わって興味深そうに私を見ていた。もう何度目かも分からないこちらを値踏みする視線であったが、今はもうそれに怯むことはなかった。

そうしてようやく私は第一声を放った。

「祖母の行方が昨日から分からないのです」

「何かご病気は」

その言葉に私は短く「いえ」とだけ答えて、促される前に話を続けた。

「警察には連絡しましたが、徘徊老人とでも勘違いされたのか、はたまたすぐにでも帰ってくると思われていたかは分かりませんが、まともに相手はされませんでした」

「世の中、行方不明届けというのは一年のうちで十万件近い数が寄せられているの。もちろんその中で行方知れずのまま・・・という方が稀よ。だから今日明日に警察が動くことはないでしょうね」と、綺羅星さんはまるで暗唱しているかのようにすらすらと私に告げた。客観的かつ公正なデータの提示は非常に参考になった。彼女は「その中でも三割近くが高齢者なのだから無理もないわ」と付け加えて以降、急に電源を切ったかのように押し黙った。先を促しているのだろうが、彼女の死んだような無表情さが際立って不気味だった。

「そうですか・・・。」と私が呟くと、彼女は突然苛立ったかのように言った。

「まさかそれだけ?」

それだけで私の時間を浪費したの、とでも言いたげに綺羅星さんは私を睨みつけた。

あまり感情を表に出さない人種だと勝手に思い込んでいたので、その隠すことのない苛立ち、怒りには少し意外なものを感じた。

隣で緋奈子さんが身構えたのが分かったが、私に黙るつもりがないのを察したようで行動には移さなかった。

私は「これを・・・」と囁いて、ワンピースのポケットに入れておいた二枚の手紙を取り出した。綺羅星さんはそれを凄い目力で凝視し、私が机にその二枚を置いた後も決してそこから目を逸らさなかった。

手紙は四つのカップの真ん中に置かれて、風にそよいでいる。その風でカップの水面に波紋が広がっていた。

綺羅星さんはようやく焦点を私に据えて、「開けても?」と確認した。ただし、それは承諾を前提とした問いであったようで私が返事をするより一瞬早く手紙を開いた。

彼女はそれをじっと見つめ、短い文字を何度も往復して目で追ったあと、じっと目を閉じてソファにもたれた。そのまま天井に顔を向けて沈黙を保っている。

紅葉は「僕も見てもいいですか?」と聞き、こちらはきちんと私の反応を待ってから中身を確認した。それからすぐ怪訝な表情になり、私の方へと視線を移し躊躇しながら口を開いた。

「忘れ物・・・っていうのは?いや、それより『この一人ぼっちだね』・・・という文面のほうが、とても、その不気味ですね」

「やっぱり紅葉もそう思うよね。これがあるから何だか話がホラーテイストというか・・・」

と緋奈子さんが珍しく情けなさそうな声を出して言った。紅葉が頷いて再び手紙に目を落としていたが、私はそれよりも黙ったままの綺羅星さんの方に注意が向いた。

思考している。

私は思考するとき海を想像してしまう。自分の中にある不鮮明で膨大な量の情報をなんとかしてそこから掬い上げようとするのだ。

しかしきっと、彼女は違う。これは勝手な私の妄想に過ぎないのだが、綺羅星さんのそれは宇宙だ。それ程の想像を絶する情報量が彼女の小さな頭の中に宿っているのではと無意識に考えていた。

だが決め手になる情報が無いのだろう。彼女は眉をピクリと動かして、眉間に皺を寄せることを繰り返していた。私は老婆心から欠けているであろう情報の供給をしようと試みた。

「この忘れ物云々の手紙はおそらく祖母宛でした。」

ピクッと綺羅星さんの整った先程より大きく眉が動いた。私は必要なデータだったことを確信し続ける。その間も私達以外の二人は黙ったままだった。綺羅星さんの邪魔をしてはいけないと考えているのか。

「そしてこちらの一人ぼっち云々は確実に私宛です。しかもこれは今朝、私が祖母を探しに一瞬家の外に出た後に、開けっ放しの玄関に置かれていたそうです。」

私の説明に、紅葉が明らかに顔をしかめた。不快感を隠す気のない様子に、何故だか少し笑えてきた。

私は彼女の出方を伺った。出会って間もないというのに、彼女の思考能力を当てにしきっている自分がいることに今更ながら気づき、あまり良くない兆候であると、周りに気づかれない程度に唇を軽く噛んだ。

人の助けを求める、自分に足りない技能を他人によって補填することはとても効率的な手法だと言える。しかし思考だけは別だ。

思考だけは常に自らが基準でなければならない。自分で情報を探し、それらをフィードバックして自らで決断する。これらを怠る人間は自己を捨て去り、人の群れに悪い意味で統率されている存在に過ぎなくなってしまう。

人間の価値は何を経験し、何を考え、どう動いたかで決まる―――とは誰の言葉であったろうか。とにかく私はその言葉の信奉者なのだ。

私が数瞬物思いに耽っている間に、目を瞑ったまま綺羅星さんは「それを何故早く言わないの」と短く私に尋ねた。言葉は苛ついているようだったが、そこに内包された感情は怒りではなくその皮を被った奇妙な興奮であった。

彼女は体を背もたれから跳ね上げ、大きな瞳を丸々と見開き私を見つめた。その際に瞳の瞳孔が広がり、彼女の急な動きに驚いている私の姿を反射した。そして口の両端をきゅっと上げ、先程見せていた上品な笑みではなく、まるで嬲る獲物を見つけた獣のような残虐な笑みを浮かべて言った。

「とても面白いわ」

その発言を聞いたときの三人の様相はそれぞれ違うものだった。紅葉は呆れたような表情であったため彼女のこうした不謹慎とも言える言動は特段珍しいものではないことが察せられた。次に緋奈子さんだが、彼女は綺羅星さんの態度に明らかな嫌悪感を滲ませており、今にも斬りかからんと睨みつけている。もちろん斬るための道具などここにありはしないのだが。そして最後に私はと言うと・・・。

私は初めて真っ直ぐ彼女の紅蓮の瞳に見据えられ、鳥肌が立った。こんなにも剥き出しの好奇心に晒されたことは未だかつてなかった。綺羅星さんは大きくこちらに身を乗り出していたため、自然と二人の距離は極端に縮まっていた。

艶やかな髪、知性の泉たる瞳、そして今にも噛みつかんとしている少し開いた赤い唇。そのどれもが私の感覚を麻痺させた。思考の回転速度が緩まり、彼女の事以外考えられなくなりそうだった。途中で緋奈子さんが肘で脇腹を小突いてくれなければ、永遠にその時間が続いていたのではないかとさえ思え、私は身震いした。思考を制御できなくなることが私は何よりも怖かった。彼女のお陰で冷静さを何とか取り戻し、改めて綺羅星さんの無礼とも言える言葉に反応することが出来た。

「私は真剣にご相談しています。面白い、というのは流石に不謹慎だとはお考えになられませんか?」と敢えて本心以上の怒気を声に含ませた。

必要以上に相手と揉める必要はないし、挑発的な行動・言動は文明人として恥ずべき行いである。しかしながら、私も感情で動く人間の端くれである。つまり、あまり舐められっぱなしでは気がすまない。

綺羅星さんは発言について横でたしなめている紅葉のことが見えていないかのようにただひたすらに私のことを見つめている。かと思えば、目を細めて外の景色に目線を移した。まるで「今日は良い五月晴れだ」とでも言わんばかりに眩しそうにしている。

「あなたは・・・いえ、秋空さん?深月さん?どう呼べば?」

「お好きにどうぞ。呼び捨てでもかまいません。」

「そう、では深月、私の意見を単刀直入に言いましょうか」と彼女は私を呼び捨てにすることを選んだらしい。緋奈子さんはその発言を聞いて露骨に舌打ちをした。たしなめるべきかと一考したが、とにかく彼女の話に集中することに決めた。それにしても自分で呼び捨てを許可したとは言え、なんだか少し照れくさく、そして畏れ多かった。

綺羅星さんはいつの間に息を吸ったのだろうかと思えるほど静かに呼吸を行った後、赤い唇がゆっくりと形を変えていった。

「今すぐ行動を開始しなければ、おばあさんは益々危険な状況に陥っていくでしょうね」

部屋の温度が急激に下がっていくのが分かった。空気が凍りつき、綺羅星さん以外の表情が皆一様にして固まった。

彼女は一体何を口にしたのか・・・?

祖母、危険・・・・。

そのわずかな単語のみが脳裏に浮かび上がったが、形にならぬまま崩れ落ちた。

彼女は既に冷めてしまった珈琲を呑気にすすっている。適温が損なわれてしまったことへの不満を表現するように少しカップを離してそれを見つめた。そしてそれをソーサーの上に戻す音で再び時間が刻み始めた。

「あんた!ふざけてる場合じゃないだろ!」

がたっと、机に膝が当たりながらも緋奈子さんが立ち上がった。その痛みも感じぬほど怒り心頭といった様相である。本来であれば私がこうした感情表現をする場なのかもしれなかったが、私にはそれが出来ずにいた。それよりも彼女の思考を解読しようとする意志のほうが私の中でイニシアチブをとっている。

激昂した緋奈子さんの顔をまともに見もせず、彼女は淡々とした口調で語った。

「あなたは今まともに会話できる状態ですらないわ。感情に支配された人間と話し合いの場を持つこと自体がナンセンスなの」

冷ややかな彼女の口調に緋奈子さんは頭に血が上ったようで、テーブルを叩いた。叩かれたテーブルの上で、飲みかけの液体がそれぞれのカップの縁に跳ねたことが、物言わぬカップの抵抗のようにも感じられた。

彼女は、綺羅星さんに言わせるところの『感情に支配された』状態で怒鳴り声を上げた。

「こんなときにっ、頭おかしいんじゃないの!!」

しかし、彼女の怒りとは裏腹に綺羅星さんは深い溜め息をついた後、「座りなさい」とだけ呟き、私の方をじっと見た。そこには明らかな非難の感情が込められており、まるで躾のなっていないペットについて飼い主を責めているようであった。

私はしょうがなく彼女の意図を汲んで、緋奈子さんに座るようお願いした。

「み、深月・・・でも」

「いいの」と私は小さく呟いて、落ち着けるように緋奈子さんの手を握った。

私のために怒ってくれた彼女。この気持を無下にしてはいけないが、そのためにも今は話を最後まで聞く必要があると私は判断した。その判断を自分の感情より優先してくれたのか、緋奈子さんは歯ぎしりしたままソファに腰を下ろした。もちろん依然としてその刺すような視線は綺羅星さんに食らいついて離れなかった。

隣で渋い顔をしていた紅葉が粛々と「無礼な態度をすみません・・・子供なんです、この人はまだ」と言った。それについて当の本人は心外そうな態度をとったが、彼に対しては何一言発せず、黙ったままであった。

私は場の空気が一応の形として静まったのを見計らって、「続きをお願いします」と神妙な顔つきで先を促した。

少し、冷静過ぎる自分が気持ち悪くなった。

まるで自分ではない自分が、思考だけを乗っとっているようだ。

綺羅星さんは私の冷静な発言にご満悦なようで、にっこりと先程の獣のような笑みを浮かべた。対して残りの二人は心配そうに、しかしどこか気味悪がるような成分を含めた表情で私を見ていた。そして彼女は続けた。

「まず、一通目の祖母宛になっていた『忘れ物を頂きに参ります』という手紙だけれど、随分抽象的過ぎて、現段階では分析しかねるわね。なら、視点を変えて、二通目の手紙が深月宛であったという根拠はそもそもなんだったかしら?」

と早口に論じながら、彼女は対面に座る私達二人を見た。というか、実質その問いは私に向けたものであろう。こんな簡単なことくらいは気づいているでしょう、とでも言いたげな瞳であった。

こんなことで彼女が気持ち良く始めた高説を止めるのは、なんだか罪悪のような気がして、私はその邪魔にならないように間を空けず素早く答える。

「祖母がいなくなり、家に一人ぼっちになっているのは私だからです」

すると彼女は大した表情の変化もなく「そう、文体の変化からも分かるわ」と頷いてみせた。

彼女は・・・私に最低限の資格があるのかを試そうとしている。

試す?何を。

資格?一体何の・・・。

不鮮明ではあるが、現在思考の大部分を支配している人格がそう告げているのが分かった。とにかく、この場では一言の聞き漏らしもないように、集中力を注ぎ、頭をフル回転させておかなければならないことだけは確かなようだった。

そして彼女はおもむろに立ち上がり、窓際までゆっくりとランウェイを歩いているかのように優雅に足を進めた。そこからクルリと向きを変え、窓枠に体を預けるようにしてこちらを振り返った。

青い空をバックに、妖しげな笑みを浮かべた女性の絵がそこには描かれていた。その絵には魂を刈り取るような狂気が秘められているかのようでもあったし、また一方でただ幽幻な美を求めた結果が映っているようにも感じられた。

もちろん全ては私の見た幻だ。白昼に見た幻視。

綺羅星亜莉亜という女性が存在しているこの世そのものが、今の私には幻影のように思えた。触れることの出来ぬ蜃気楼のような、届かぬ世界。

その幻世界の住人である彼女は再び語りだした。

「手紙が同様のものであったこと、筆跡も似たようなものであったことからも、この二枚の手紙は同一人物のものでほぼ間違いない。ここで考えたいのが、一枚目の手紙の意味。こんな漠然とした内容では普通は受け取っても、何が何だか分からないし、せいぜい気味の悪いイタズラだなで終わるレベルの話だわ」と一気にまくし立てた後、彼女は「でも」と一呼吸挟んで、今度は明確に私のみを見て言った。

「おばあさんは、イタズラだと考えなかったのではなくて?」

質問の形を真似てはいたが、それは断言した形の口調であった。

私は思考の海へ飛び込み、昨日の朝の光景を思い出した。

明らかに不審であった祖母の姿。たったあれだけの文しか書いていないとは思えないほど目を釘付けにして手紙を読んでいた。

あの姿は、手紙の意味を理解した上でのものではなかったか・・・。そうでなければ、あれほどまで動揺することはないのではないか。

そう情報を整理した私は、こちらが口を開くのを今か今かと待ちわびている彼女に向けて口を開いた。

「はい。おっしゃるとおりです。明らかに、この短文の意味を理解していたと思われるほど様子がおかしかったです」

彼女は「よろしい」と先生のように呟いた後、紅葉に飲み物のおかわりを要求し、再び話を始めた。隣の部屋へと消えていく彼は明らかに話の内容が気になっているようで、席を立つのが名残惜しそうではあったが、文句一つ言わずにさっと向こうへと姿を消した。

「深月、この段階でおばあさんは何処へ行ったと推論できる?」と今度は完全に授業で生徒を指名する先生、というか教授のようであった。しかし、相変わらずその整った顔には狂気じみた笑みが浮かんだままで、その歪なバランスが保たれていることが奇跡のように思えた。その美しさを孕んだ微笑みは、夜の海に灯る夜光虫の光のように怪しく私を彼女の元に誘っていた。

今度は間髪入れずに応答した。それについては聞かれると予測済みだったためである。

「手紙の送り主のもとです」

「どうして?送り主の住所もないのに?」と彼女も緩急おかずに次の問いを用意してきた。

比較的早いテンポで会話のラリーが行われている中、緋奈子さんは黙って私の隣で綺羅星さんを見据えていた。その瞳は最初に出会ったときと変わらず、どこか敵視するような、監視するような色を宿していた。飼い主の隣で控えている忠実な大型犬のようなその姿が何だかとてもシュールだった。

私は普段どおりの流れで目を瞑り、その一瞬の内に思考を巡らせその問いに答える。

「それは先程お話したとおり、手紙の意味を理解していた、つまり相手のことを知っているのだから、会いに行けたとしてもなんら不自然ではありません。あるいは祖母にしか分からぬ暗号のようなものがあったのかもしれません」

例えば、忘れ物、というあまりにも抽象的な単語がそうである。本当に忘れ物を取りに来るのであればあのような怪文書はしたためないであろう。

私はそう返すと、綺羅星さんはこの場にそぐわぬ美しい声で、笑った。

何がおかしかったのか、どこか矛盾点でもあったのかと心配になったが、彼女はすぐさま「失礼」と答えた後、「やっぱり貴方は面白いわ」とだけ今にも消えそうな声で囁いた。その刹那だけは、彼女の浮かべている表情や雰囲気は異質なものではなくなり、優しげで、自身もどこか喜んでいるような柔らかいものになっていた。笑った瞬間だけ身を硬くしていた緋奈子さんは、その雰囲気を前にして再び忠犬のような佇まいに戻った。

こんなところまで付き合ってくれる友人を忠犬扱いしていると罰が当たりそうではある。

再度、綺羅星さんは表情を歪め、話の深刻さとはミスマッチした笑顔のまま話を再開した。

「では一枚目の手紙は一旦保留にしておいて、二枚目の手紙に話を移しましょうか」

彼女はそう言うと、次は最初に彼女が陣取っていた執務用のテーブルの前に戻り、椅子に座ること無く片手をそのテーブルの上についた。毎回毎回あらゆる所作が優雅に映るのは、この美貌のせいであろうかと場違いなことを考えていたが、すぐに思考を戻し、彼女の声に集中しようと努める。

窓とは反対の壁にかけてある、これまた高級そうなビンテージものの掛け時計が低い音で何度か鳴った。

時刻はもう正午を示していた。普段ならば祖母とお昼ごはんを食べ始める頃合いである。その時間帯にこうしていることが、今更ながらに私の中の焦燥感を駆り立てていた。その焦りに答えるように彼女は早口で語りだした。

「二枚目は深月宛のものだった。それはどのタイミングで貴方の元に届けられたのかしら?私は詳細をまだ伺っていないのだけれど・・・」

いつまでこの質問コーナーは続くのだろうかと若干の苛立ちを覚えたが、これも必要な儀式なのだと無理やり自分に言い聞かせて、彼女の質問にテンポよく答える。

「私は今朝、祖母が昨晩から帰っていないことに気づいて、家中を探し回っていました。行き先も告げず宵を越すのは初めてでしたからどうしても嫌な予感がして・・・。そうして庭を確認した後、祖母の私室で一枚目の手紙を見つけて読んでいたら、緋奈子さんが手紙を持って私の所に来たんです。」

彼女の名前が出た瞬間、チラリと綺羅星さんは緋奈子さんの顔に視線を向けたが、すぐに興味が無さそうにして私に焦点を合わせた。思えば彼女が緋奈子さんをしっかりと見たのはこれが初めてかもしれなかった。

どうにも二人を構築している物質は相反するもののようで、お互いがお互いに良い感情を持っていないことが滲み出ていた。これからは協力することになるかもしれないのだから少しは歩み寄ってほしいものである。あまり衝突されては緩衝材になる私や紅葉のような人からすれば迷惑な話だ。

それから綺羅星さんは「そう・・・」と一拍置いて話を続けた。彼女にしては珍しく、長い沈黙が挟まることになった。とはいっても、常人からすれば並みの程度の間であるが。

「・・・何故、そのタイミングだったの」と彼女は半ば独り言のように呟いたが、目だけは私を捉えているままだった。つまりそれは私への問いかけなのだろうと判断し、私は再度思考の海へと降下を開始した。

確かに不思議ではある。手紙を出したかったのであれば、今朝のように郵便受けにでも突っ込んでおけば良いのだし、そうでなくとも、見つかる危険性を犯してまで何故わざわざ玄関に置くような真似をしたのか。

刹那、可能性として一つだけ浮上した考えがあったが、コンマ数秒なくそれは否決された。その人物、緋奈子さんが手紙を置いた、というのはあまりにも考え難かった。感情的な要因もあるが、その、能力的な面でも今回の犯人像とはかけ離れている気がする。

リスクを背負ってまで手紙を室内に置いたことによるメリットとは何か・・・。

ダメだ、何も思い浮かばない。リスク・リターンが合う行動だったとは思えない。

私が思考を煮詰まらせていると、綺羅星さんは再びソファの方に向かって動き出した。また対面に座るのかと思ったが、その足は私のすぐ隣で止まり、私をそこから見下ろしたかと思えば、上体を折って座っている私に顔を近づけた。

一瞬キスされるのかと勘違いしたが、彼女は私の眼前まで顔を近づけたところで急停止し、拳二つ分ほどの極めて近い距離で私の瞳を覗き込んでから小さく囁いた。

「今、貴方は深淵を覗こうとしているわ」

その声は美しく波打ち私の鼓膜を揺らした。だがそれは歓迎すべき音色としてではなく、得体のしれない恐怖を添えて私に届けられたものであった。

私を覗き込むその瞳からは一切が消え失せてしまい、無感情のまま何かが死んだように横たわっていた。それを視界に入れたくなくて、顔を背けようとしたが彼女のキリのように細い指が私の顎を捉えてそれを妨げた。

心臓の鼓動がアップテンポでビートを刻み、全身に血液を流し込んでいるはずなのに視界が暗くなっていくようであった。

私達の、というよりも彼女の行動に緋奈子さんは立ち上がって何か抗議をしているようであったが、その声も耳に入らないほど私は彼女の言葉に脳髄を揺さぶられていた。

「確かに、貴方にはその可能性がある」

彼女の囁きには怒鳴りつけられるよりも遥かに効率的に相手を萎縮させる力があるようだ。彼女の虚ろな眼光に、私の瞳も縫い付けられてしまったかのように微動だにできなかった。

「その生まれ持った能力と、頭の回転の良さは、十分にその可能性が感じられると私は判断したわ」

彼女の言葉が永遠に脳内でリフレインしているかのような錯覚を覚えて、次第に思考が麻痺していくのが分かった。光が閉ざされたように、私と彼女以外の存在が暗闇のベールに包まれて消えていく。

深淵を覗く、可能性。

「ただ一つ足りないものがある」

と彼女はひたすらに囁く。

その囁きはマインドコントロールするための儀礼的な言葉のようにも感じたが、聖書を諳んじているようにも感じた。その二種類の感覚こそが、彼女という人格を如実に表しているかに思えた。

邪悪と神聖。

女神のように美しく知性溢れた神々しさを持ちながら、一転して、悪魔のような邪悪な笑みと言葉を持って人を嘲る。

この人は危険だ。私の最も大事なもの、すなわち自由な思考さえ奪われてしまいそうで。

「それは覚悟」

覚悟、一貫性。

「貴方は繊細過ぎる、昨晩の様子から見てもそれは間違いない。」

繊細、脆弱性。

「その気質は、この先に進むつもりであれば邪魔なものよ。それを消しされるの?」

消し去る・・・。

「私は足手まといになるような人間はいらない。」

いらない・・・。

「さあ、答えなさい。この先に進むかとどうか」

彼女の言葉が終わった。

すでに麻痺した思考は、最早彼女の言葉を理解するには不十分だった。

これが弱さなのだろうか・・・。

遠くで綺羅星さんがなにか言っている。

「・・・その資格はなかったようね」

彼女が離れていく気配が感じた。目の前から彼女が消えることで、再び外の光が視界に差し込まれた。

それを皮切りに、私の中にも光が灯った。レンズを通した太陽光のように熱い光が。

少女が見ている。イヤに冷静そうな自分もただ黙って傍らにいる。どうやらこの一件については私に一任するつもりらしい。好き勝手に浮上してくるくせに、こういう時は自分だけで何とかしろということだろうか。

だが、そう思えたのも束の間で、すぐに彼女たちは私の元へと近寄ってきて、おもむろに手を握ってきた。

そうだ。彼女たちは私だ。

そう思った瞬間に、綺羅星さんから与えられた言葉が宙空に浮かび上がった。好き勝手に踊り狂うその様は彼女に本当にそっくりだ。

資格、覚悟、繊細、消し去る、いらない。そして極めつけは選べの一言。答えろだったか、まあどちらでも似たようなものだ。

何もかも気に入らなかった。

彼女は、私の中の神になろうとしている。何故か、そうハッキリと感じられた。

私の思考は私の自由だ。私が、私達だけが制御し支配しうるものだ。資格も、覚悟も、他人にジャッジさせる気は毛頭ない。

私の気質だってそうだ。生まれ持った宿命とも言えるこの感性を消し去れなどと・・・。それが出来ぬならいらないなどと・・・。どうやら彼女は既に私の神様にでもなったつもりのようである。

私を決める神は私の中にしかいない。この神のためだけに祈り、殉ずるのだ。

私の世界の神は私だ。私を苦しめる神も、私なのだ・・・。

思考がクリアになり、彼女が背を向け離れようとしているのが見えた。私はそれを半ば無意識に引っぱり、彼女の顔を無理やりこちらに向かせた。驚いている彼女の瞳を見て、いい気味だと子供のように思った自分を自覚し、心の中だけで微笑んだ。きっとその笑みはドス黒くて、とても人に見せられたものではなかっただろう。

そうして姿勢を崩しかけている彼女の顔をぐっと私の眼前まで引きつけ、私は彼女を真似て囁くように言った。

「話はまだ終わっていません」

私の小さな、ややもすれば聞き逃してしまいそうになる声は、綺羅星さんの耳にはしっかりと届いたようで、また死んだような目をして私を捉えた。

「私は終わったわ」

「ここまで来たんです、祖母を救うことのできる道筋があるんです。そしてその道標は綺羅星さんしかお持ちではない・・・。それならば、私を導いてください」

その懇願とも言えるセリフは、当然強引さも秘めた言葉として発せられた。それを聞いた彼女は、見間違いかと思える程短い時間、目を郷愁の色に染めたが、瞬きをしている間にまた元の色に戻っていたが、「そんな簡単に他人に縋るな」と彼女は途端に嫌悪感に満ちた表情に変わった。

こちらに来てから二転三転していた部屋の空気が、今までで最高の温度に跳ね上がった。傍から見ればキスをする恋人たちのように顔を近づけているのに、二人の眼には触れれば両断されるような鋭利さが宿っていた。

互いに一言も発すること無く睨み合う。傍らで立ち尽くしている緋奈子さんはもう何も口をはさむ余裕がなくなってしまったようで、静観することを決め込んでいるようだ。

私は綺羅星さんに真っ向から立ち向かうことにした。ここで退くことは出来ない。

「貴方は、何が言いたいのですか?依頼人という立場を振りかざすつもりはありませんが、依頼を受けるつもりで話を伺っていたのではないのですか?」

彼女は、短く失笑を漏らしたかと思うと、「食材を見ずに料理を始めるシェフがいるの?」と眉間に皺を寄せ、怒りと苛立ちを隠すこと無く言ってのけた。私もそれに反射的な速度で「注文がなく料理を始めるシェフもいません」と答えた。それに対して彼女も厭らしい笑いを隠さず即答する。

「私は金銭的な報酬を得るためにこんな仕事をしているのではないの・・・つまり、興味があるか否かの問題なのよ」

「それで・・・興味があるから話を聞いたのでは無いのですか?」

「ええ」と整った顔からは想像できない下卑た笑みで頷き、「後は貴方にその価値があるか・・・それを確かめるだけなの」と続けた。

ふと彼女の目が、初めて相対したときと同じ色をしていることに気づいた。

私を試している。値踏みするようなこの瞳は、私に何かを求めているということなのか。

「それでは、どのようにしてその価値を示せばよろしいのですか」

綺羅星さんはつまらなさそうにため息をつき、問いには答えず私を失望したような目で見つめている。

人間は機械だ、と口にした割には随分と感情的な生き物なのだなと、私は心のなかで吐き捨てた。

なるほど、これは彼女の思考を読む必要もない。くだらないことは聞くな、と言いたい様子だ。なんとも理不尽極まりない態度ではあるが、問題は至ってシンプルなのだ。つまり、彼女に私を助けることのメリットを提示してやれば良いということだ。それには、彼女が先程言ったような金銭的なものは不適切なものだろう。それならば他に私が提示しうることができるものは・・・。

とりあえず私は思いついたものを述べた。

「貴方が言ったように、私の思考力はそれに当てはまらないのですか?」

私の提案を聞くや否や、小さく舌打ちをした。

これには私も唇を噛むことになった。思考や霊感では足りないから、他のものを示してみせろと言っているのに、ナンセンスな回答をしてしまった。もしかしすると、次の回答がラストチャンスになるかもしれない。

最後の回答権だ。しっかりと吟味して発言するべきか・・・。しかし、この相手に常識は通用しない。文字通り私が持ちうる最大の報酬を提示するしかあるまい。とはいっても、金銭や私の能力では不足だというなら、これ以上のものはもう無いのではないか?

ふと、私の脳内に『出世払い』という言葉がよぎった。それからはもう、これ以上ベストの回答は無い気がしてきて、私は意を決し眼前の彼女の目を見据える。

「出世払い、という言葉をご存知ですよね」

「そんな不確実なものに大した価値はないわ」

私はその一言から、彼女の隠された思考が透けて見えた気がした。

今までの問いから、彼女が質問を無意味だと判断した場合はそれに対して言語を返すことすらしないことが分かっている。今回彼女は私の発言に返答を行い、その上『大した』という言葉を価値という単語に付加して用いた。つまり・・・。

「ならば、私の、未来ならばどうですか」と半ば確信に満ちた思いを抱きつつ、綺羅星さんに言い放った。

綺羅星さんはぽかんと口を開けたまま、「は?」と出会って初めて意味を持たない単語を口にしていた。私も彼女の反応が予想外だったため、彼女の反応についていけていなかったが、私が我に返ったときにまだ彼女は思考がフリーズしたままであった。それはすなわち、初めて彼女の先手を取ったということだ。

これはチャンスだ。彼女のスーパーエンジンが再稼働する前に畳み掛けねばならない。

「私に協力して頂ければ、その後は自由に使っていただいて構いません」

私は私が出し得る最高の報酬を捻出することに成功したと確信し、心のなかで拳を固く握りしめた。

綺羅星さんは無駄な会話を楽しむタイプではない。そんな人が私との会話をこんなにも長々と続けているということは、彼女が私に興味を持っていることは間違いない。

それがどういった感情なのかは分からないが・・・。少なくとも、飼い殺しにして可愛がってやろうなどというものではないように思える。何に利用する魂胆なのかは分からないが・・・今はそれに便乗するしかないのだ。

彼女はゆっくりと言葉を咀嚼していたようで、それを終えたと見えるや急に私の顔をにんまりと笑顔を作って見つめた。まるで少女のような天真爛漫な笑顔で、彼女には世界一相応しくない笑い方だなと勝手に判断した。

どうやら綺羅星さんのお眼鏡に適ったようである。もちろんこういった場合、支払った代償の大きさは返済が始まってから身に沁みて分かるものなのだろうが、一先ずは安心といったところか。

彼女のその反応に嫌な予感を感じずにはいられなかったのであろう、沈黙を決め込んでいた緋奈子さんが両手で二人を引き剥がしながら叫んだ。

「深月!そんな約束はダメでしょ!」

怒りと言うよりかは、悲壮な感情を抱いたような目で私を真剣に見つめて、両手で私の肩を力の限りの強さで掴んで言葉を続けようとしている。両肩に彼女の指が沈み込んで、鈍い痛みが走り、私は小さく悲鳴を漏らす。

「こんな人にそんな人生捧げるようなことしちゃダメ!ダメ!絶対ダメ!!」

耳元で大音量で叫ばれ、気が遠くなる寸前にまで追い詰められていたところ、その大きな声に驚いて、隣の部屋からエプロンを身に着けた紅葉が飛び出してきた。やけに遅いと思ったら、どうやら昼食を作ってくれていたようで、ホットケーキが一枚乗ったお皿を手にしていた。

「どうされたんですか時津さん!?ちょっと落ち着いて・・・!」

「落ち着けるわけないでしょ!こんな女に私の深月が・・・!」

それを聞いて綺羅星さんは「失礼ね」と今までで一番子供のような、明るい声で呟いた。

混乱気味の緋奈子さんはワケのわからないことを叫んでおり、ようやく私の肩を離してくれたかと思うと、次は紅葉の両肩を掴んで揺さぶり始めた。彼は器用にホットケーキを落とすことのないまま緋奈子さんの相手をしている。バターとはちみつシロップの香りが空っぽの胃を刺激した。

そういえば朝から飲み物しか胃に入れていない。それでこれだけ頭を使ったのだ、今体はさぞエネルギーを欲していることだろう。

依然二人が、というよりも緋奈子さんがパニックを起こし騒いでいると、ぱんっと渇いた音が室内に木霊した。どうやら綺羅星さんが手を打ったらしく、その表情は変わらず無邪気な笑顔で数分前とは全くの別人のような雰囲気を放っていた。

そうして彼女は「食事にしましょう。みんなもお腹が空いたでしょう」と突然聖人ぶった発言をしてのけた。緋奈子さんは物言いたげだったが、私がそれに賛成したことで一旦落ち着きを取り戻した。

しかし直後に綺羅星さんが不用意にも、

「それから深月のことでも決めましょうか」と呟き、先ほどとはうってかわって上品な笑みを浮かべた上で、「ゆっくりとね・・・」と舌なめずりするように告げたので、緋奈子さんが再び騒ぎ出すことになった。

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