三章 黒百合と雀蜂
三章 黒百合と雀蜂
(ⅰ)
温かい紅茶が喉元を湿らせながら胃に落ちていくのが感じられた。同時に先刻の重苦しい空気によって張り詰めていた体がほぐれていくのも分かった。やはり、ホットな飲み物は体をリラックスさせるのに最適なアイテムだ。
コツン、と焼物のティーカップがテーブルに置かれる音が響いた。その音は私からではなく、向かい側の彼女から発せられていた。
ずっと黙っていた彼女が、舌で唇を湿らせながら顔を上げる。その舌の軌跡を目で追い、艶かしさに思考が乱される、俗っぽい自分に嫌気が差した。
「落ち着いた?深月」
言葉は優しかったものの、今は夕方前まで彼女が見せていた恭しい姿は幻であったかのように凛々しく、私を追い詰めた獣のようであった。
この空気に私は沈黙が許されないことを悟った。
「ええ・・・本当に、ご心配、おかけしました」
「ほんとにね」
明らかな私を責める口調に、情けないことに身震いする。元々人付き合いのない私は他人の感情の機微に疎いのは自覚しているが、今彼女の怒気を感じられないほどは鈍感ではない。それほどまでに瞭然とした態度だ。
あの後、緋奈子さんは私を心配して自宅まで送ってくれた。もちろんそれだけが目的ではなかっただろう。既に道中で、事情を問いただそうという意思はヒシヒシと感じられていた。
家に帰ってみると、祖母の姿はなく、今晩は知り合いのところに出かけるから遅くなるとのメモが冷蔵庫に貼ってあった。恐らくは今朝の手紙の差出人の元に出かけたのであろう。
それから緋奈子さんをそのまま家に上げ、紅茶を入れて現在に至るというわけだ。
チラリと彼女を覗き見ると、じっと私を見据える視線と衝突してしまった。正門で交わった視線と同一人物のものとは到底考えられなかった。私が事情を語り出すまでは、梃子でも動かない、という気概は変わらぬままそこで待っている。
話すしかない。それも分かる。
もう半ば彼女を巻き込んでいるのだ。語らねばならないのは至極当然なのだ。
だが・・・。
私のこの不気味な能力について語り、彼女が私を嫌悪したとしたらどうだろう。
ふとこの数日間の彼女との記憶が蘇った。
あんなにも温かい想いをした後に、再び光の差さぬ日陰に戻れというのは残酷過ぎる。
人間は一度味わった心地よさをそう安々と手放せる程、単純な生き物ではない。
そう、何もかも効率的に判断できる機械ではないのだから・・・。
あの人が口にしたように・・・。
そんなことを考えていると、強烈な不安と怖れを感じて、目頭が熱くなるのを感じた。じわりと涙が浮かび、目の前の光景が歪む。机の上に置かれたティーカップの水面が独りで揺れている。
そんな私の様子に彼女はぎょっとして、固まっていたが、すぐに視線を再び私へとやった。
「泣いても、ダメだからね」
その言葉に、さらに目頭が熱くなる。遂にポタリポタリと涙が零れ、そのうちのいくつかがティーカップの水面に飛び込み波紋を呼ぶ。
私が鼻をすする音が部屋に響く。それに呼応するようにして、二段扉の冷蔵庫がうなりを上げて冷却を開始する。まるで私の情けない姿を責めているようでもあった。
普段なら、人前で泣いたりなどしないのに。どうして今日に限ってこんなにも涙脆くなっているのだろうか。やはり今は精神が不安定で感情の制御が追いついていないのだろう。
強烈な負の感情を浴びすぎていた。だから自分の中にいる様々な私が好き勝手しているのを止められないでいるのだ。
しっかりしなくてはならない。いつもどおりにすればいいだけだ。
いつもと同じように、自分を整理する。散らかっている本を、穴の空いた本棚へ挿し込むように。
最後の一冊を、棚に片付ける。先程まで騒いでいた自分がようやく鳴りを潜める。ふと振り返ると、少女がじっと濡れた目でこちらを見ていた。
(そうね・・・貴方だけは、どこにもしまえないものね)
最も普段の私の傍にいる少女。いつまでもこちらを見つめて、何も言わずに立ちすくんでいる。
瞳は濡れたままだし、鼻水だってすすりっぱなしではあるが、もう思考は整い始めている。怜悧さを取り戻した脳で現状を分析する。
緋奈子さんに私の能力の話をするというのは、つまりこの娘の話をするということに近い。当然私の頭の中に、事故当時の自分の姿をした少女が居座っていて、その娘のせいで幽霊が見えるのだ、などと宣うつもりはない。そんなことをしても、ただ猜疑と哀れみの感情を向けられるだけだからだ。
だが、直感的な感覚としては適した説明ではある。しかし、直感的な話とは往々にして感覚を共有することのできない存在に語ったところで、望んだ効果の二割程度の効果しか出ないものだ。
つまり、今は真摯に説明を行い、適宜彼女の感覚に沿わせて話をするしかないということだ。
意を決し、涙を拭う。水分過多で鼻の調子が悪いが、緋奈子さんの前で鼻をかむくらいならこのままでいこう、とよく分からない意地のほうが羞恥心に勝った。
「わかりました、話します」
私がようやく口を開くと、彼女はきちんと姿勢を整え私に向き直った。どうでもいいことだが、これからする話は、別に正座してまで聞くことではないと思った。かえって場の緊張感を高めるだけで、なんらメリットはないのではないだろうか。彼女の紳士的、あるいは生真面目な性格が滲み出た所作とも言えるわけだが。
彼女がゆっくり頷いたのを見届け、私は一度深く目を閉じる。少女がこちらを見ているのが感じられた。それから一瞬間を置いて、瞳を開いたのを合図にその話は始まった。
物心ついた頃から、あの世のものをかすかに感じられていたこと。
事故のこと。
それ以降、いやにはっきりそれらを感知できるようになってしまったこと。
話しかけてしまったこと、触れてしまったこと。そうした行動の結果、彼らの方から寄ってくる機会が増えてしまったこと。
そして、先程、今までにないほどの異形を垣間見てしまったこと。
さらにそれが、おそらく昨日の殺人事件の犠牲者であること。
彼女は話を聞いているうちに顔を青くしていたが、口を挟むことも、逃げ出そうとすることもなく、ただ最初の凛とした姿勢のまま話を聞いていた。
この話をするつもりはなかったのだが、彼女の真摯な態度に私も全てを包み隠さず話すべきだと思い、次のことも語った。
「おかしな話と思うかもしれないけれど、私の中にはね、あの事故の日からずっと、あの頃の幼い自分がいるんです。」
冒頭から荒唐無稽な話をしておいて、今更感のある前置きをして私は語りだした。
「幼い・・・自分?」
彼女はようやくここに来て口を挟んだ。私は軽く頷いたかどうかも分からない角度で首肯した。
「ええ、その娘はいつも泣きながら蹲っているのに、時折私の真ん中に立って大声で泣き出すの。そうなったら、私も勝手に口を開くんです。何かに急かされるように、私の、私達の感情を叫んでしまうんです。」
緋奈子さんは何かを察したように、あ、の形に音もなく口を開き、話の続きを待った。
「そして、その娘が彼らの姿を私に見せている・・・そんな気がするんです」
「それは、なんのために・・・?」
なんのため?
なんのためなのだろうか。自分の中の一人のはずなのに、それすらも分からない。
いや、人間とはそういうものか。自分の行動一つとっても、説明できないことが多い。
やはり、自分を制御できない不完全な生物なのだ。その場その場の人格が自分を支配して予期しない行動をとらせている。
今もそうだ、私の中にいるのに、私かどうか時折不安になる存在が、胸の中で首をもたげているのだ。
私は笑っていた。
それが何故かも分からなかった。
すぐ傍らまで少女が来ていた。
少女は笑っていた。
「きっと、忘れさせないためです」
緋奈子さんの表情が硬直し、ますますその肌が青みがかってくる。
三日月を描く彼女の笑みは美しかった。
そして私は、私の中にこんなにも不気味な美しさがひっそりと存在していたことに驚かされると同時に感心した。
私はよくもまあ、コレに獲って食われないものだ。
(ⅱ)
「きっと、忘れさせないためです」
その言葉を聞いた瞬間、私は背筋が凍るのを感じた。いや、言葉というよりも、秋空深月の歪な笑顔に寒気を感じた。
いつも教室の隅で読書をしていた彼女。陰気な空気を発しているというのに、その姿はまるで、日陰に咲く黒百合のようであった。
質素な美しさを身にまとい、一切他者を寄せ付けない。花粉を目当てにすり寄るミツバチ共すら遮断し、一人咲いていた。
ずっと、話してみたいと思っていた。だが良いタイミングもなければ、接点もなかった。古川顧問が言うように、男子中学生のような恥じらいが捨てられなかった。
そうして一年が過ぎたある日、初めて彼女とまともに言葉を交わすことができた。と言っても、喧嘩まがいの真似をしただけであるが。
その時の彼女は本当に鮮烈だった。
普段の声量はまさに蚊の鳴くような声なのに、私に噛み付いたときの声は、あまりにも透き通っていて、今でも耳の奥の鼓膜に焼き付いて、熱を持っているかのようであった。間違いなくあの瞬間から、私は彼女に魅了された。
美しく、気高く、しかし儚い。脆さと鋭さを兼ね備えた一振りの刀のような美が私の心を揺さぶった。
それから彼女のことを更に知っても気持ちは衰えなかった。ますます彼女のことを知りたいと思い、守りたいとさえ思った。
だが――今目の前で艶やかに微笑む女性は、誰だろうか?
ほんのり赤い口の両端がきゅっと上方に曲げられる。横たえられた三日月のような笑みは、はっきり言って不気味だった。
何がおかしいのか。笑う場面など露もなかった。
それともこれが彼女の言う、彼女の中の少女の片鱗なのか・・・。
深月の苦しみを知り、その上で彼女を守ろうと思えた。彼女を苛む邪なものから、私が守ろうと。
だが今は、私の目には彼女こそが邪なるものに感じられた。
彼女が紅茶を飲む動きで、ふと我に返った。少なくとも今の彼女からは先程のような不気味な気配は感じられない。
魔が去ったのか。否、去るべき魔は彼女自身の中にいるのだ。
深月の瞳が不安げに傾けられているのが分かった。当然だ、彼女はきっと私に気味悪がられる可能性を踏まえた上で、この話をしたのだ。彼女が私の何倍も聡明であることはこの数日間で思い知らされている。
私はなんて情けない人間だろうか。こちらを信じ、己の秘密を曝け出してくれた友に近づくことに躊躇してしまっている。
私は基本的に頭が悪い。ずっと剣道しか知らないまま生きてきた。つまり私にはそれしかないのだ。
私には、この剣術の腕と、それに伴い磨き上げてきた精神しかない。
普段の私なら何と言うか。決まっている。
「深月、ありがとう。話してくれて。」
深月が遠慮がちに面を上げて、定まらぬ視点でこちらを見ている。別に私を見ているわけではないのだろう、きっとこの間も彼女は様々なことを考えている。きっとその中の多くが悲観的な考えなのであろう、その瞳には暗い光しか宿っていない。
ならばそれを晴らすことが、今の私の役目である。そう断言できる浅慮な自分が、今はほんの少し誇らしかった。
「きっと、私なんかじゃ、深月のことしっかりと理解してあげられない。」
その言葉を聞いて、再び深月が俯いた。違う、スタートが悪かった。これじゃ不安がらせてしまう。私は慌てて次の矢をつがえる。
「でも、そんなやり方だってあると思う!分かってあげることだけが、寄り添い方じゃないっていうか、大事にしないっていうか・・・ごめん、やっぱり上手く言えないなぁ」
ははは、と尻すぼみになった言葉を渇いた笑いで誤魔化す。どうやら私には、人を説得する際に使うような語彙が欠けているようである。分かってはいたけれども。ボキャブラリーが貧困である、というやつだ。
宙空を彷徨える言葉に気まずくなって、私はとりあえず紅茶に手を伸ばした。家では麦茶しか食卓に出てこない私にとっては、なんだか不似合いのような気がした。本当は一気に飲み干したいが、それを憚られるような上品な香りである。つまり自分には品がないということではないのか。余計なことは考えないようにしよう。
チラリと深月の顔を伺う。私のまとまりのない発言に呆れられているのではないか。ところが、彼女は俯いていた顔をとっくに上げており、目を丸くしてこちらを向いていた。
視線が再び重なった。先刻とはうってかわって、甘美な一瞬に思えた。耳をすませば彼女の透明感のある声が聞こえる気がしたし、嗅げばその甘い香りが漂ってくる気さえした。
時が止まっているかのよう、とはこういうフラッシュのような瞬間のことを言うのかもしれないと、一人納得した。
深月はわずかに口を開き何か伝えようとした様子であったが、結局その言の葉は舞うことなく彼女の愛らしい唇に引っ込められた。しかし、彼女は思案気な表情を浮かべたあと、おずおずと、けれども期待に胸を膨らませる少女のように呟いた。
「それでは・・・緋奈子さんはどのような形で寄り添っていただけるのですか?」
顔は斜め下を向いたまま、視線だけでこちらを見やる。その仕草にまた胸が苦しくなったし、照れながら口にされたその言葉に、私の炎が滾るのが容易に感じられた。
相変わらず、敬語を崩さない丁寧な言葉遣いではあったものの、明らかに私への甘えが見て取れる発言だった。
私に期待している。
私は彼女という黒百合に触れることが許された蜂なのだ。しかも、ただ蜜を集めて回るだけの矮小な種族ではない。
「忘れたの?深月」
私は両手で竹刀を構える真似をした。いや、フリなどではない。今やそうした武具は私の身と一体であるといっても過言ではない。いつだって抜き放てる。そこに何もなかろうとも。
みなぎる自信が、私に言葉を続けさせた。
「こう見えても、腕は立つんだから。私がこの力で、深月を守るよ」
深月の顔が、瞳が、希望に美しく輝く。
そうだ、いつもの静寂を愛するような、しんみりとした美しさも良いが、私は彼女のこういう顔も見ていたい。
もっと、もっと。誰よりも、この花の近くで。
蜜蜂にはない、力と権利を持って、彼女の傍に。
そうだ、私はー黒百合の雀蜂だ。
なんて、ちょっとカッコつけ過ぎだろうか。
(ⅲ)
緋奈子さんの言葉に、私は今までにないほどの喜びと、安心感を抱かずにはいられなかった。感動で体が震える、というのがフィクションの中だけではないのだと初めて知ることができた。
先程までとは別の意味を内包した雫が両目から滴り、流線的なラインを描いた。本日何度目かとなる落涙に、もしかすると自分は本来涙もろい質であったのかもしれないとぼんやりと考えていた。
そんな私の頭を、彼女が優しく撫でた。
突然のことで驚きはしたが、もちろん嫌ではなかった。どこか懐かしいような、しかし経験したことのないような温もりに、私は目を細めその身を委ねた。
私を守ると言ってくれた、温かく強い手。
何故彼女が、友だちになってまだ間もない私に、ここまでの善意を向けてくれているのかは推測のしようがなかったが、そんなことは重要事項ではなかった。ありていに言えば、どうでも良い些細なことである。
それを追求してこの温もりを手放すくらいならば、このまま無知のままでいようと決めた。
壁にかかった年代物の時計の振り子が揺れる音だけが、しばらくの間続いていた。ゆったりとした時間を象徴するかのような規則的でスロウテンポなリズムであったが、同時に何かを伝えようとしている、時間という概念からの粘着質な警告のようにも思えた。
緋奈子さんの手の動きが止まり、間をおかずその手が離れていくのに名残惜しさを感じながら、ふと目を開けた。優しい表情のまま、彼女は黙ってこちらを見つめていたが、その視線は私を捉えてはおらず、何か考え事をしている様子であった。それからややあって時計を見上げて言った。
「深月はおばあちゃんと一緒に住んでるんだっけ?」
彼女の言葉に、祖母が遅くなるであろうということを返した。
一瞬彼女は意外そうな顔をした。恐らくは年頃の娘を、このような事件が起こっている最中、しかも夜中に一人にするというのが釈然としなかったのであろう。確かにそれは私としても怪訝に思う点ではあったのだが、朝の祖母の姿を思い出すと、余程の急用であったことが予測された。
正直、あんなものを見た後に一人で夜を過ごすのは非常に気が重い。こんな日は夜気に邪悪な意思でも宿ったかのように、私の不安をかき乱す夜となるのだ。
怖いものを見た、だから傍にいて欲しい。早く帰ってきて欲しいと頼めば、祖母はきっと駆けつけてくれるだろう。手紙を探せば連絡すべき場所も察しがつくだろうし。
とはいえ、そんな泣き言を言っても詮無いことである。どの道今日はまともに眠れはしない。こんなときにまで祖母のお荷物になるのは絶対にゴメンだ。
「珍しく、急用があったみたいで・・・大丈夫です。元々二人暮らしですもの。一人の夜くらい、何度だってありましたから」
努めて明るく話したつもりであったが、どうやら私の口を通すと、悲壮感、あるいはネガティブなフィルターがかかって言葉が放出されてしまうようで、益々彼女は不安そうな表情をするだけであった。
それからまた一時して、おもむろに緋奈子さんは立ち上がって私に問いかけた。
「電話借りてもいいかな?」
「え?いいですけれど、どこへかけるのですか?」
と私が問い返すと、「いいからいいから」とだけ言って、玄関に置いてある電話の元へと消えていった。
急に一人きりになってしまったことが、無性に私の不安感を煽った。やはりアレの衝撃は凄まじかったようだ。今でも網膜の裏にこびりついている彼の姿を想起してしまい、全身に鳥肌が立った。
いくつかのドアの向こうから彼女の声がわずかに漏れてくる。内容を聞き取ることはできないが、やけに落ち着いたトーンで喋っている気がする。
そうして聞き耳を立てていると、声が止み、こちらに戻ってくる気配を感じた。すぐに台所の扉が開き、緋奈子さんが帰ってくる。
何の話だったのか、と私が問うと、彼女は何故か敬礼のポーズをして芝居がかった口調でそれに答えた。
「上官に許可を求めておりました!」
その言い様がとてもおかしくて、思わず笑ってしまった。そんな私の様子を見て、彼女は満足そうに微笑んでいる。きっと調子の狂ってしまった雰囲気を元に戻そうとしてくれているのだろう。何故なら、彼女から見た私は、雪原の白兎のように目が赤いだろうから。
気を取り直して、私は同じ質問をする。すると、彼女はとんとテーブルに両手をついて勢い良く言った。
「深月!」
「は、はい?」
その気迫に気圧されて、声がうわずり、思わず姿勢を反らした。
「私、今日泊まっていくから!」
何でも勢いがあれば良い、というものではない。
本気なのか冗談なのかと思索するまえに、彼女のその自信満々な表情から本気なのだということが察せられた。
急に泊まっていくと言っても、互いに何の準備もしていない。明日は学校が休みだから良いものの、着替えもなければ、二人分の食材が冷蔵庫に入っているかも分からない。寝床の布団だって予備があるかも定かではない。そもそも祖母が帰ってきたら驚きで心臓が止まるのではないかと不安になる。いや、喜びはするだろうが・・・。
「え、でも・・・」
実際は、共に今夜過ごしてくれる、というのはとても魅力的な提案ではあった。彼女がいてくれたら、こんな日でもだいぶ不安は和らぐだろう。
ふと、彼女がベッドで眠りにつく私の手を握ってくれている姿を想像してしまった。きっと私が安らかで規則正しい寝息をあげるまで、傍にいて見守っていてくれるのではないだろうか。
「もしもーし。深月、聞いてる?」
緋奈子さんの私を訝しがるような口調に、妄想の風船が弾けた。自分のしていた空想の内容に徐々に顔が熱を帯びていく。我ながらなんと不埒な妄想をしてしまったのだろうか。いや、別に不埒ではない。ないのだが、何故か異常な背徳感を感じている自分がいた。
そんな私の顔を見て、彼女は私をからかうように囁いた。
「なーに、いやらしいことでも想像してたのかなぁ?」
冷静に考えれば冗談だったのだろう。私は何も口にしていないのだから、彼女はただなんとなくからかう気になってそう言っただけのはずである。
しかし、私は内心を見抜いたかのような緋奈子さんの発言に体が硬直し、思考が停止してしまった。圧倒的な羞恥に、脳が埋め尽くされ、この状況を打開するに相応しいワードが思いつけなくなってしまった。
とりあえず何か言わなくてはならない。なにか、この恥ずかしさに窒息しそうな空間を換気する一言を・・・。
考えれば考えるほど、焦燥感だけが募って、遂には頭が真っ白になってしまった。振り子時計の音だけが、未だに私を急かしている。
「ご、ごめんなさい」
結局、ついて出た言葉はそれだけであった。
これでは、ごめんなさいの直前に、「破廉恥な妄想をしていました。」とご丁寧に付け足したのと何も変わらない。このような自白まがいの発言になってしまったことは、悲惨としか言いようがなかった。
言葉はどれだけ学び身につけたと思っていても、適したタイミングで使うこと、思い出すことができなければ、途端にナンセンスなものとなる不思議な形無き財産である。
「し、してたの?あ、全然悪いことじゃないよ?うん、だから泣きそうな顔しないで、ね?」
慌ててフォローをする彼女の心遣いが身に沁みた。しかし、傷口にも染みている気がしたのはきっと気の所為ではない。
なにはともあれ、このような発言をする相手を気遣ってくれる友というのは、素晴らしいものだ。私は、自らの傷口に塩を塗るようなものだと分かっていながら、礼を述べようと口を開こうとした。しかし、一歩早く彼女のほうが口を動かしていた。
「ちなみに、どんな想像してたのかなぁ・・・なんて」
チラリと私を盗み見る彼女に、私は再び赤くなった顔で、ほんの微量の怒りを込めながら呟いた。
「いじわるしないでください」
すると彼女は、残念そうな態度を隠すこともないまま、「冗談だって」と言った。
結局彼女は泊まっていくことになった。というか、いくら私が言ったところで、その意志を翻す様子ではなかったし、私自身彼女がそれで良いというのであれば、ありがたい申し出だったのも確かなのだ。
時刻は午後八時を回り、外はすっかり夜の帳が下りていた。網戸から吹き込む五月の夜の風は、かすかに夏の匂いを孕んでいた。
夕食の準備を手早くこなす。どうやら祖母が食材は多めに買い足していたようで、ゆうに数日分の食材が冷蔵庫に所狭しと並んでいた。普段は買い溜めしない祖母にしては珍しいことであったが、お陰で私と緋奈子さんの二人分の食事はレパートリーに富んだメニューとなった。
私がダイニングテーブルの上にあるほうれん草のおひたしに箸を伸ばしている間に、彼女は若鶏の唐揚げを頬張っている。どうやらお気に召したようで、緋奈子さんは幸せそうに目を瞑って味を堪能している。
「美味しいよ!深月!」
あまりにもストレートな褒め言葉に、私は照れる暇もなく返礼を述べる。
「ありがとう、お口にあったのなら嬉しいです」
「いや、本当だよ!頭も良くて、美人で料理も上手い!完全無敵じゃないか!」
私は何と戦うのか。いや、そもそも無敵とはいえ戦う必然性もないか。
あまりにも我が身に不釣り合いな美辞麗句が並べられたため、もう何と返事をすればいいのかも分からなかった。ここ最近はお世辞を言われるような相手もいなかったから、こういうときの対処法を検索しても脳内からは発見できなかった。
とりあえず、曖昧な笑顔だけ浮かべ、未だに興奮冷めやらぬ様相の彼女を見やった。お味噌汁をすすり、続けざまに白飯をかき込む。食べ盛りの男の子のようだと思った。
そうして和やかな夕食を済ませ、皿を洗う。これは彼女も随分と献身的に手伝ってくれた。献身的、という言葉に効率的という意味合いが込められてはないことも留意すべきだろう。だが、二人で並ぶ台所は、祖母と並ぶ際とはまた違った温もりのある空間だったため、私は幸せな心地のまま片付けを終えることができた。
布巾をラックに掛けながら、私は何気なしに言葉を紡いた。
「それじゃ、もうお風呂沸かしておきますね」
「え?」
彼女の素っ頓狂な反応に、初め私は理解できなかったが、彼女が少し頬を染めていたことでその意図を汲み取ることができた。
「え?い、いえ・・・入りますよね?」
別段おかしなことは言っていないというのに、まるで私に下心があるかのような状況だ。だが、なんと言えばいいのかやはり分からない。
「そうか・・・深月はさっきこういう邪な想像をしてたのか・・・」と彼女がはにかむ。
反射的に私は「ち、違います!」と大声を出してしまった。
すると緋奈子さんは、今度は最初から冗談であったようで、子供のような笑顔を私に向けてこう言った。
「嘘だよ、からかっただけ!」
緋奈子さんのこうした無邪気な表情は、学校生活の中ではあまり想像できないものであった。
知り合って数日、緋奈子さんの日常生活を観察していたのだが、基本的に彼女は気が強く、厳しい物言いが目立つタイプであったため、気弱な生徒からは恐れられているような人間であった。授業が終わればすぐさま部活に行っていたため、彼女が他の誰かと話しているところはあまり見る機会がなかった。あるとすれば、部活仲間と話している姿だけで、その時の彼女は笑みを浮かべていても、なぜかギラついだ輝きをうちに秘めているようであった。
緋奈子さんは依然としてニコニコ、正確にはニヤニヤと笑いながら、お風呂場へと向かう私の後ろをついて来る。彼女のこんな子供じみた一面を見られるのは、もしかすると学校では私ぐらいなのかもしれない。と希望的観測を私は抱く。
二人が歩く廊下の木板が軋み、悲鳴を上げている。嗅ぎ慣れた木の家の匂いに混じって、嗅ぎ慣れぬ甘い香りが漂っている。廊下の窓に映った幸せそうな私達の顔が、なんだかとても見慣れぬもののように瞳に焼き付いた。
私が、私ではないような気がする。
廊下を照らす薄明かりを放つ電球が、一瞬だけ明滅した。その閃光の合間に、窓に映っていた二人の姿は消えていた。
分かっている、幻覚だ。
幸福になることを恐れているのか。それは、またそれを失うことへの恐怖か・・・。
私は首を一度だけゆっくりと振って忌々しい幻を打ち払った。幻はまるでチャンネルを切り替えたかのように一瞬のうちに消えた。
負の感情を必要以上に自らの精神にフィードバックしてしまうのは、私の悪癖である。
窓には、深刻な表情で己を見つめている自分の姿と、突然立ち止まった私を不審に見つめる緋奈子さんの姿が映っている。
そうだ、彼女は私を守ると言ってくれた。私も彼女を信じて前に進もう。変わることを恐れずに。
「どうかした?もしかして、本気で一緒に入りたかったの?」
彼女の脳天気な発言に、思わず私はじっとりとした目を向けた。しかし、緋奈子さんは随分機嫌がいい様子で、再び軽口を叩く。
「そんなに言うなら、一緒に入ってあげてもいいけど?」
そう言って彼女は私の隣に並ぶ。狭い廊下の横いっぱいに広がったため、肩と肩が触れ合っている状況である。明らかにこちらをからかっているのが分かった。
ため息をついて、呆れたような表情をわざと作り、そのまま無視して風呂場に入る。後方で彼女の謝罪が聞こえたが、バスタブに水が飛び込む音でほとんど打ち消されていた。
遅れて風呂場に入った彼女が謝罪を口にする。その声が壁に反響して、四方に木霊する。私が何も言わないのを怒っていると勘違いしているのか、今度は肩を叩いて「ごめんってば」と言った。
私は怒っていないことを伝えようと振り向いた。すると、私の頬に彼女の指がめり込んだ。
「はは、引っかかった」
どうやらだいぶ調子に乗っているようである。彼女が嬉しそうに微笑む顔は、とても鮮やかで見る者の心を幸せにする魅力がある。しかし、それも時と場合による。
やられっぱなしというのも少々癪というものだ。一つ、こちらもからかってやることにした。
私は黙って立ち上がり、制服を脱ぎ始めた。ここから先はチキンレースのようなものになる。
彼女が慌てるのが先か、私が羞恥の限界を超えるのが先か。尋常に勝負だ。
「み、深月?何してんのさ?」
「何って、一緒に入るのでしょう?」
精一杯の平静を装い、脱衣所に上着を放り投げた。彼女の顔がみるみるうちに真っ赤に染まっていく。
慌てて私の手を抑えて、「冗談だってば」と早口で言う。この時点で半ば私の勝ちのようなものだが、この程度では不十分だ。まだお灸を据える必要性がある。
私はまるで暗唱していたかのようにスラスラと言葉を繋げた。
「緋奈子さん、早く脱いでください。濡れてしまいますよ」
「い、や、待って待って。ほら、まだお湯だって溜まってないし」
「なら先に体でも洗えば良いでしょう?貴方が言いました。一緒に入っても良いと」
反響して聞こえる自分の声は思いの外真剣味を帯びており、今はきっと女優顔負けの演技が出来ているのではないかと我ながら感心した。
緋奈子さんの目は一点に定まることなく、延々と部屋の四隅を彷徨っている。私が彼女の制服の肩紐に手をかけると、こちらが驚くほどの勢いで体を跳ね上げ、口をぽかんと開けたままこちらをぼうっと見つめた。
互いの息が届く距離で、見つめ合った。これ以上はなんだか冗談では済まなくなりそうな雰囲気だったので、私は彼女の衣服から手を離し、体を引き離した。我ながら結構大胆なことをしてしまったものだと、顔が熱くなる。
すると彼女は呆けたまま、尻もちをお風呂の床に着いていた。
ここまで彼女が平静を失うとは予想していてなかったが、そろそろこの小芝居も終わりにすべきだろう。十分に灸は据えたと言って問題ないはずだ。
私は彼女を見下ろした姿のまま、小さく笑ってから口を開いた。
「冗談ですよ。緋奈子さん」
(ⅳ)
「もー酷いよ、深月・・・確かに最初にからかったのはこっちだけどさぁ」
お風呂から上がり、火照った体を引きずりながら緋奈子さんが出てきた。部活もないのに癖で持ってきていたらしく、上下ジャージの姿で私の隣に立った。当然、お風呂は別々で入った。先に私が入り、続いて彼女が入浴した。
上気した肌がほんのり赤く、妙に色っぽい雰囲気を醸し出しているが、少しでもそれを口にすれば再び彼女がからかってくるやもしれないと思い、気にしていないふりをした。
いじけた顔をして横目でこちらを見る彼女に軽く謝罪を口にした。
「ごめんなさいね?でも、これに懲りたらもうあんなにからかったらダメですよ?」
彼女は少しの沈黙を置いて、「まぁ・・・」とだけ呟いた。どうやらまだ懲りてはいないようであった。
しかし、これも友情という不明確なものの提案されるべき一つの形なのだろうか。どうにも、そうした感情に十年近く渡って絶交されていた私にはまだブランクが有るようだった。
自室の時計の針は十時過ぎを指し示しており、夜が深まっていることを教えてくれた。平均的な広さと勝手に決め込んでいる私の部屋には、ベッドが一つと、デスクが一つ、そして古ぼけたソファが置いてある。他にも書籍を並べておく棚がいくつかあるが、全体を通して、特筆すべき点がない、というのが強いて言えば特徴的であった。
私が今座っているソファは、座り心地が良いと言えた物でもないが、なにぶん長く愛用しているものなので一番居心地が良い。
私の身を包むダークブルーのナイトウェアの裾が、本のページを捲る動きに連動してゆらゆらとそのレースを揺らす。
緋奈子さんはおもむろに隣に腰を下ろし、部屋を見渡していた。興味深げな瞳であるが、私には大して面白味がある風景のようには思えなかった。趣味を想起させるものと言えば、棚の書籍だけであるし、勝手な先入観ではあるが、彼女は本に親しみ深い人種には見えなかった。
彼女は足を組み、それを外し、さらにまた組みという動作を繰り返している。手持ち無沙汰なのだろう、何か彼女にと話した方が良い気がするが、いかんせん今日はもう眠気の波がすぐそこまで来ていた。彼女と話す話題を思案している間に、うつらうつらと船を漕ぎだす。それを彼女に見られてしまったようで、「もう寝ようか?」と母のような声色で囁かれた。
その声でわずかに覚醒した意識でぼんやりとしたまま、ふと祖母がまだ帰ってきていないことを思い出した。
「おばあちゃん帰ってくるかもしれないですから、もう少し・・・」
「いいよ、私がもう少し起きてるから。深月今日はもう寝なよ」
緋奈子さんの言葉が、膜一枚隔てた先でリフレインしている。それならばと私はよたよたベッドまで歩いていき、横向きに倒れた。
横たわる私の頭を誰かの手がゆっくりと割れ物にでも触れるかのように上下に往復している。それがとても心地よくて、私の意識は急速に繊細さを欠いていった。
深い意識の淵で漠然と、そういえば緋奈子さんはどこで寝るつもりなのだろうかと考えとところで、私の意識は完全に途切れた。