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彼岸の華   作者: 杏ころもち
1/8

一章 時津緋奈子

 序章 悪夢 

 (ⅰ)

雨が、降っていた。

アスファルトを打ち付ける降りはじめの雨の臭いと、漏れ出すガソリンの異臭と、炎が有機物を燃やす悪臭。

私はただ、立っていた。

何もせず漫然と、あるいは呆然と。目の前の光景に声が出せない。立ち上る黒煙が肺をかき乱し、私は途端に咳き込んだ。その瞬間、自分の息が止まっていたことに気づく。

脳が酸素を求めて激しく呼吸をしようとするが、それとは相反して空気中の有害物質を吸うまいとする自分が息を止めようとしている。

涙が出て、呼吸ができない窒息感が私を現実に引き戻す。

散乱する車の破片とそれを暗く照らす炎。

最早原形をとどめていない肉塊とそれを焦がす炎。

何台もの車が潰れ、獣のように頭をぶつけ合っているその惨状に、私は共に車に乗っていた母と、父と、妹のことを思い出す。どうして忘れていたのだろうか。そうして振り返った先は、他の車と何ら変わりない光景で。

そこにはもう何も無くて。いや、もう元の意味を失った残骸しかなくて。

そこで私はさらにふと思い出す。

これは、夢だ。

あの日の、悪夢。もう何度も繰り返し見た悪夢。

消えない、誰か、消して。早く、

起きて、早く起きて、起きて。じゃないと、この先は…。

夢の中の私は、この悪夢の終着点も知らないまま震えだす。

視界の隅で、何かが蠢いた。潰れた虫のように、本来曲がりはしない方に折れた四肢を這いずらせて、こちらに少しずつ近寄ってくる。

それを見てはいけないと、夢の続きを知る私は警告するが、悪夢は録画された映像のように再び同じシーンを繰り返し流す。これが映画なら、あまりにも安直で、先の読めた展開に場はしらけてしまうところだろう。

「深月」

地の底から響くような、しかし、耳のすぐ傍で囁くような声に、私はその方向に視線を向けてしまった。

潰れた虫のようなそれの、虚空を見つめている双眸が、ふと私に焦点を合わせたような気がした。目線が逸らせず、その仄暗い闇を咥えた口がゆっくりと動くさまを私は見ている。

「一緒においで」

優しく、甘い母の言葉が頭蓋を揺さぶり、私をこの世に繋ぎ止めている足を引き剥がすように父が掴む。冷たく濡れそぼった父の掌に、全身の毛穴から恐怖と汗とが吹き出る。

瞬間、恐怖に麻痺した五感を金属音が打ち鳴らす。鼓膜をつんざく正体不明の轟音。いや、もう分かっている。これはいつもの終わり方。

私を現実に引き戻すそれは…。

あの日私が我を失って、両親の亡骸を蹴やりながらあげた、

歪な笑い声だった。

  ⅱ

 荒い呼吸と共に覚醒をはじめた私の意識は、薄ぼんやりとではあるが、現実世界の様相を取り戻しだす。目の前を塞ぐ涙と、息苦しさをもよおす鼻水とによって、私は完全に我に帰った。

また、あの夢だ。

雨の日は往々にしてあの日の悪夢を見る。それが分かっているから、睡眠導入剤を服用した上で眠りにつくのだが、最近はそれもやめようかと考えている。どの道あんなものでは、安らかな眠りを手にすることはできないことも学習している。

古い木製の窓枠に張られた薄いすりガラスが、無数の雨粒に無慈悲に叩かれて悲鳴を上げている。いつ割れてもおかしくないような音が響いているが、存外丈夫にできているものだ。この部屋に住みだして十年弱、ひび一つ入る様子は無い。

寝汗でぐっしょりと濡れた体を、服をたくし上げ、用意していたモノクロのタオルで拭き取る。こちらもこういう時のために、サイドテーブルに常備している。不快感でしかめられていた眉は次第に普段の形を取り戻す。

 十年前、私は家族と共に遊園地に出かけていた。私と妹の希望―とりわけ私の希望で訪れていた遊園地の帰りに、私たちは事故にあった。何台もの車を巻き込んだ悲惨な事故は、お茶の間に悲しみと同情をもたらす話題としてマスコミにとりあげえられた。

事故の原因が土砂崩れによるものだった、というのもニュースに鮮やかな悲劇の色を与えるのに一役買ったが、事故が有名になった何よりもの原因は別にあった。

事故の唯一の生存者は、当時七歳だった幼い少女だったことである。そしてそれはもちろん私―秋空深月(あきぞらみづき)のことであった。

世間は両親と妹を一度に失った上に、自らもその事故に巻き込まれたにも関わらず全くの無傷だった私を悲劇のヒロインとして舞台に押し上げた。心の整理すらできないまま、突然舞台に立たされ、マスコミの客寄せパンダ、あるいは傀儡のように扱われる。当時の私は塞ぎこみ、神を恨み、無常な世の中を厭い、そして無責任で他人を慮ることすらできない周囲の人間を、いや誇張して聞こえるかもしれないが、人類そのものを呪った。

その呪いを加速させた要因の一つとして、今までは水面に浮かぶ波紋のように危うく、ぎりぎりの存在として私と接していた「ソレ」が、その日を境に、鮮明に浮かぶようになったからでもあるだろう。

 私は物心ついた頃から、この世のものではない、いわゆる霊的なものの一端を知覚することができた。だがそれは、物語に出てくる霊能力者が見るようなものではなく、ふと体を透過して吹きぬけるような風であったり、嗅覚を苛立たせるような悪臭であったり、鼓膜を舐めるような囁きであった。ごく稀に視覚の捉える情報として表れることもあったが、それでもほとんど形と呼べるものではなかった

しかし、その事故以降、彼らはさも親しき隣人であったかのように日常に介在するようになり、珈琲が真っ白なシーツに滲むようにゆっくりと、しかし確実に私を蝕んでいった。

道端で私に痛みを叫ぶ男性。

進入禁止のフェンスの内側から虚ろに見つめる少年。

放棄されたぼろぼろの車の窓から覗く、小さな赤い靴を履いた細い足。

河川に架かる橋の上で、膝を抱えすすり泣く女性。

みな、同じだ。

みな、そうだ。

人を、この世を呪っている。

自らの命の終末も分からず、雑踏に踏みにじられる矮小な草のように人知れず嘆いている。

だが、彼らは分からないのだ。その救いを求める声は届かないということに。分からぬまま、同じ場所で終わりの無い日々を無為に過ごしている。過ごす、という言葉は語弊があるかもしれない。彼らには流れる時は無い。時計の針は苦しみと孤独の頂きで止まったままだ。

私も初めのころは同情した。この世に一人取り残され、他者と隔たりを持ったまま部屋に閉じこもる。死んでいるのか、生きているのかも分からない自分と彼らを重ね合わせてしまっていた。

今思えば、生きていることと死んでいることの境などあるのだろうか。何を以ってして生きているというのか。心臓が拍動することに生があるのか。あるいは脳や心などという不明瞭なパーツが、思考というその時々の電気信号を発することに生があるのか。

とにかく、同情した私は彼らに触れてしまった。声をかけてしまった。

当時の私を振り返ったとき、私の脳内にとあるニーチェの言葉が浮かんだ。

『深淵を覗くとき、深淵もまたこちらを覗いているのだ。』

私は愚かにも、一時の同情心と自らを慰める目的だけで、その深淵を覗いてしまった。

やめておけばよかったのだ。そうすれば、今の自分を苛むものは、過去の記憶とこの私を窒息させようとする社会だけだったはずであった。

届くはずの無かった救いを求めた声が、届いてしまった。

それに気づいた彼らは、私を覗きはじめた。

決して光の差さない漆黒の深淵から…。

   (ⅲ)

 カーテンの隙間から差す、早朝の日の光で私は再び目が覚めた。いつの間にまた眠りについていたのだろうか。

ようやく雨もやんで、生まれ変わった太陽の光が昨夜の悪夢を霞のように打ち払い、部屋の中を明るくしている。時計の針を確認すると、まだ六時を回ったところであった。秒針がせかせかと円盤を回っている。

なぜに人はこうも時間に縛られて、急かされて生きるのだろうか。

本来、人のために人の手によって作られた概念であるはずの時間は、いつしか人間を縛りつけるようになった。かつては日の出と日没による自然の営みの中でのみ存在していたはずの概念が、現代ではどんな場所にいても支配してくる。一分一秒、何コンマ何秒、技術が発展すればするほど単位は小さく細かくなる。円盤を回る極短の針が存在していれば、それはもう必死に回り続けるのだろう。私たち人間を象徴するかのように、あるいは揶揄するかのように。

際限なく回り続けるのか、壊れるまで。

だが、私に回る針をあざ笑う資格もない。こちらは止まったままの過去を示す針を恐れて進めずにいるのだから。体だけが時を刻み、心の中の大事な部分はあの場所で、少女のまま震えている。

憂鬱な朝焼けに染まる小部屋の中、ふとノックの音が響き渡った。

「深月ちゃん、起きてるね?」

気づかぬうちに入っていた力が全身から抜けた。その柔らかなのんびりとした声に、音を漏らさぬように安堵のため息をつき、私は乾いた唇を動かし返事をする。

「…うん、起きてるよお婆ちゃん」

今の私にとって唯一の光。

すべてを失ったと自暴自棄になっていた私を、姿の見えぬ何かに怯え咽ぶ私を優しく抱きしめてくれた人。私の祖母である。

事故でひとりぼっちになった私を、祖母は温かく迎え入れてくれた。おかげで今私は生きていられるのだろうと思う。

扉を開けて顔を覗かせた祖母―秋空月子(あきぞらつきこ)は、心配そうに眉を斜めにして私の様子を確認している。雨の日は決まって悪夢を見ることを祖母は知っているのだ。昔は雨が降るたびに祖母のベッドに潜り込んだものだが、今ではそういったことはない。恥ずかしいとか、子供じみた理由ではなく、ただこれ以上の心配をかけたくなかったのだ。

以前、私が悪夢を見て酷く錯乱した際に、心配して駆けつけようとした祖母は、二階に上がってくる途中、階段で足を滑らせて転げ落ちてしまった。幸い、命に別状は無かったものの、そのときの後遺症で足を引きずって暮らしている。

我に帰ったときに見た階下で蹲る祖母の姿を今でもたまに思い出す。事故の光景がフラッシュバックして、祖母まで死んだのか錯覚さえもした。あんな思いは二度とごめんだ。

私は未だに不安そうな祖母に、できる限り明るく努めた笑みを浮かべて声をかける。

「おはよう。今日の朝ごはんは何にするの?」

空元気を出して強がって見せただけであるし、祖母もそれを見抜いているのだろう。その上で、祖母も安心した風に微笑んで、しわしわの頬を引き伸ばして言う。私は女神、というものは本来、このような姿をしているのではないかと、近頃考えるようになった。そう思えてしまうほど柔らかな慈悲深い笑みであった。

「今日はトーストと卵焼きと、きのこのお吸い物だよ。深月ちゃんは卵を割っておいて頂戴な」

その言葉を聞いて、体は胃袋が空っぽであることに気づいたようだ。消化器官が動く音がする。私は祖母の言葉に頷き、ふと考えた。

そういえば、昨夜は大して何も食べてなかったか。

私は布団を跳ね除け、ベッドから降りると、祖母の後を追いキッチンにやってきた。床が軋み、少したわむが何とか絶妙なバランスを保っているようで、また形を取り戻す。

既に火にかけられているお吸い物が、えのきや椎茸の香りと湯気を放っている。すぐにでも食べたいところではあるが、今は我慢する。

さっと制服に袖を通す。ダークグレイ一式の制服は、多少なりと着るものに雰囲気の重さを与えたが、これが意外にも着慣れてくると心地の良いもので、自然と安心感を得ることができた。しかし、この薄暗い色彩は学校の生徒たちの間ではかなり不評のようであるが。

キッチンに戻り、冷蔵庫から卵を三つほど取り出し、卵同士をぶつけて片方の卵にひびを入れ、最後の一つにシンクの縁でひびを入れた。それからボウルに注ぐ。砂糖などの調味料を入れてかき混ぜる。渦を描き泡立つ姿に先ほどの時計盤を思い出し、ふと鼻で笑った。

人間、薄暗い場所にいると良くないものだ。すぐに憂鬱な方向に物事を考え込んでしまう。あるいはそれは自分のようなペシミストに限るのかもしれないが。

キッチンに出て、祖母の柔らかな光に触れていると、先ほどまで脳を支配していた重苦しい感情が嘘のように消えてしまった。もしかすると、祖母からは何か人間をポジティブにする成分が排出されていて、それらを吸うとたちまち清廉な人間に変わってしまうのかもしれない。

そのようなことを夢想し、とき卵を熱したフライパンに入れ焼き加減を気にしながら形を整えていく。多少は失敗したが、味に問題は無いだろう。

既にその他の用意を終え、席に着いていた祖母の元に卵焼きを運ぶ。何も語らずとも、その微笑みだけで気持ちが軽やかになる。

「頂きます」

手を合わせ、二人の声が揃って上げられ朝食が始まった。

他愛も無い話を交えながら、箸を進める。やはり、祖母の作るお吸い物は上品でほっとする。料理の味もその人を体現するかのようだと一人思う。

食事を手早く終え、後片付けを終える。気づけば時計の針はもう七時前を示している。学校までは大して時間はかからないが、先に図書室によって本を返しておこうと考えていた。早朝から図書室を使えるのは、図書委員のわずかな特権である。使えるものは使っておく方が得であろう。

洗面台の前に立ち、歯を磨き、髪をブラシですいて整える。しばらく切っていない重苦しい鴉の羽のような長い髪がいかにも陰々滅々とした印象を与える。別に性格そのままであると自覚しているので大した問題ではない。

口腔を満たす歯磨き粉のミントの香りが、鏡に映る自分とはあまりにも不釣合いな感じがして、思わず苦笑いしてしまった。ニヒルな風に歪んだ赤い唇の方が何とも私らしい。

鞄を自室に取りに戻り、二人の洗い物を片付けている最中の祖母に、なるべく背をしゃんと伸ばし声をかける。

「お婆ちゃん、そろそろ行ってくるね」

祖母は手を止めて、不思議そうに尋ねる。

「今日はやけに早いねぇ?何か用事でもあるのかい?」

私は祖母に朝一で図書室による旨を伝えた。祖母は合点がいったとばかりに頷き、「いってらっしゃい」と手を振り告げた。

私にとってこれは魔法の言葉だ。

失われるはずだった魔法の言葉。

唯一の肉親である祖母から告げられるこの言葉は、私の胸の奥をじんわりと温めてくれる。しかし、それと同時に焦燥感を駆り立てられるときもあるのだ。

祖母も八十歳を控えるほど高齢だ。人間五十年と言われた時代から数世紀過ぎた現代では、八十過ぎくらいが平均的な寿命ではあるが、もう遠い話ではないのが現実だろう。

もしも、祖母が他界し、自分独りになったならば?

私はその時どうするのだろうか?生きていくのか、いや生きるにしてもそれは本当に生きているのか…。

ぎゅっと目を瞑り、不安な思考を打ち消す。ナンセンスな思考なのだ。考えてどうなるわけでもないのだ。この手の考え事に自分が納得のいく答えが出た試しなど一度も無い。

だいぶ間を置いて祖母に手を振り、分厚い玄関の木製扉をスライドさせる。ぎこちなくスライドする扉は開く者に容易くその年季を感じさせる。

外は雨上がりの様相で、空気中に水分を十分に含み、そこかしこの草木には鈍色に輝く水泡が宿っている。じんわりとした庭の地面を踏みつつ、私は学校への道を歩き始めた。

今日は、何ともすれ違わなければいい。


 一章 時津緋奈子(ときつひなこ) 

(ⅰ)

静まり返った正門を通り抜ける。本来生徒で溢れる時間帯であれば、生活指導の先生が立っているそうだが、ありがたいことに自分が登校する時間帯にそのようなことは未だない。

濡れた桜並木を横目に昇降口まで辿り着き、学校指定のローファーを脱いで靴箱に入れる。静謐に包まれる校内はとても居心地が良い。職員室に向かう途中で、朝早くからクラブ活動をしている生徒の声だけが遠くグラウンドの方角からわずかに聞こえた。

我が家とは一転して、スムーズなスライドをしてみせる職員室の扉を開け、小さな声で失礼します、とだけ呟く。ちらりと何人かの職員がこちらを見やり、すぐに興味なさげに視線をデスクに戻す。こうして週に何度か朝一番で図書室の鍵を借りに来ることがあるので、特に気にもしないのだろう。そのまま真っ直ぐ担任の先生の机まで足を向ける。

「おはようございます。古川先生」

「おはよう。こんな日にも図書室か?」

と言い、引き出しから図書室のタグの着いた鍵を取り出す。何がこんな日なのかと疑問に思ったが、とにもかくにも既に準備してくれていたお陰で、早々に立ち去れそうで安心する。

何度訪れても職員室というものは好きになれないし、緊張してしまう。生徒、というものは多くがいつの間にか先生との上下関係をインプットされているもので、そしてそんな上流階級ぶった存在がこの部屋には蔓延っている。私のように陰気な生徒にとっては、ここは難攻不落の要塞、牙城のようなものなのだ。

礼を言い、鍵を受け取り足早に立ち去ろうとしていると、背を向けたところで担任の先生が声をかけてきた。

「秋空さんは一人でこの時間帯に登校しているんだよな?」

「…ええ、そうですが…」

そう答えると、彼は眉をひそめ、少し考えるような仕草をとった。

古川先生は熱血漢、という成分を多分に含んだ教師である。私にとっては暑苦しいだけの人間に感じられるが、なにぶん生徒からの信頼は厚く、人気がある…らしい。今度は私が眉をひそめる番であった。

もしや、友達もおらず一人で誰もいない時間帯に登校する生徒がいることを有事だとでも考えているのか。だとしたら、とんだ迷惑だ。この学校の教師、いやこの学校で過ごす人間で秋空深月の名前を知らぬ者はいない。友達はいないのに不思議なことだ。

あれだけ事件が取り沙汰されたのも、もう十年前のことである。それにも関わらず噂とは厄介なもので、どこが口火になったかは知らないが私は入学早々有名人になった。かつての悲劇のヒロインとして、再び私には舞台が用意されたのだ。

だが、もうそんなものを馬鹿正直に相手するような、純粋でいたいけな世間知らずの少女はもういない。早々に他者との隔たりを持ち、誰にも何も話さなかった。話の種を得られないと知ったパパラッチ共は、やがて私の元を訪れなくなった。

とにもかくにもそうした経緯があって、私の周囲には友人と呼べる存在がいない。傍から見れば孤独で哀れな存在に見えてしまうのだろう。そして彼はそういった人間を放っておけないタイプの人間なのだ。

内心うんざりした面持ち彼の次の言葉を待った。だがそうして語られた話は全く予想しない内容であったのだ。

「それは…危ないなぁ」

先生の言葉の意味が分からず、訝しげな態度をして早口で問いかける。

「何が、危ないのでしょうか?私の家はそう離れていませんし、大通りしか通りませんから…」

そもそも早朝といっても、七時前後である。通勤通学する人間は少なからずいるし、路地裏のような人通りの少ない道を通ることは無い。

だから不審者に襲われる心配など無いと彼に伝えようとしたが、それよりも早くあちらは口を開き言った。

「いや、んー。少しまずいことになっただろう?」

「まずいこと、とは何のことですか?」

判然としない返答に若干の苛立ちを覚えてしまい、こちらの語気が少し強くなる。といっても私は元々小さな声で喋ってしまうので、彼がそれを感じ取ることは微塵も無かっただろう。

すると、彼は「え?」と驚きの声をあげ、未だに黒々とした頭髪をかきながら続けた。

「秋空さん今朝のニュース見てないのかい?」

それを聞き、今日は朝刊を見ていないことに気付く。彼の言葉から察するに、不審者か物盗りでも現れたのだろうか。それならば、多少の心配をするのも致し方ない。というか教師として正しい反応とも言えるだろう。

私は古川先生の言葉を曲解して、心の底で勝手に彼にフラストレーションを感じていたことを詫び、質問に答えた。

「すいません、今日はまだ…」

その返答に彼はさらに深くうなり声を上げ、話を続けるか迷うような素振りを見せて、しばらく逡巡した後、再び私を見据えて声のボリューム抑えて続けた。

「あまり不安がらせるのも良くないんだが、どうせ耳に入るだろうしね。」

私は彼にしっかりと向き直り、佇まいを整えて、言外に彼に続きを促した。あまり良いニュースでないことは確かである。

「今朝、ここの近くで死体が見つかったそうなんだ」と彼が告げたのは現実味の全く感じられない話題であった。

私は半信半疑の心境で「え?死体…ですか?」と小さく返した。

ああ、とさらにボリュームを抑えて、彼は私に座ったままの椅子のキャスターを滑らせて近づき言った。

「自殺、とかなら良かったんだけどな?あ、いや良いってことはないが、そのぉ…」

自分の発言の不謹慎さに律儀にも訂正を加えながら、続きの言葉を迷っている彼を前に、言葉尻を取るような形で私は言葉を発する。

「殺されていたのですね?」

私からその様な物騒な言葉が出たことを意外に思ったような驚きの表情をした後、「まだしっかりと確認が取れてないから何ともな」、と腕を組みながら頷いた。分厚めの胸板がせせりあがり、彼の暑苦しさを増大させた。

しかし彼の煮え切らない口調は、事件が自殺ではないことを確信しているかのような調子が含まれていた。

大方警察か、事件現場に近い知り合いにでも詳細を聞いたのではないか。表向きには他殺と公表されていないため、口を滑らせるわけにはいかない、といったところか。だから生徒たちに連絡が間に合っていないのだろう。

「とにかく今日はみんなには早く帰ってもらうと思う。まだ家にいる生徒には自宅待機してもらうだろうな。集団下校には先生たちも当然出るから大丈夫とは思うが…秋空さんは一緒に帰るような人はいるか?」

少し言い辛そうな口ぶりである。そんな人間はいないと、彼も分かって言っているのだろう。

集団下校とはいえ、全員最後まで一緒というわけではない。だが、先に言ったとおり私の家は近所で、比較的安全ともいえる。余計な心配だとも考えたが、こんな風に人を想える彼の好意を無駄にしたくはなかった。なるほど、古川先生が生徒に人気があるというのも納得である。

だが、前にも言ったが、そんな友人は私にはいない。

適当にはぐらかすか、嘘でもつくかと考えたが、既にこの返答までの間が暗黙の答えになっていたのは言うまでもあるまい。

彼は再三獣のような唸り声をあげて、考える素振りをとった。どうしたものかと私も表には出さぬまま考えていると、突然職員室に、溌剌とした声が響き渡った。

「失礼します!」

首だけで振り向くと、見覚えのある生徒が入り口に立っていた。そして、視線を古川先生に合わせると、ずんずんと足を進め、すぐに私の隣に立った。

その瞬間、同じクラスであることは思い出した。

彼女は気の強そうな瞳でじっと私を見た上で、何も言わずキッと彼を見据えて話を始めた。

「先生、部活動の中止の件ですが、納得いきません。」

凛として喋る彼女を横目に、ずいぶんと喧嘩腰だと感じた。古川先生が剣道部の顧問であることを考えれば、彼女も剣道部なのだろう。そして、今朝の事件によって中止になった部活動について直談判しに来ているのだ。

何というバイタリティだろう。私のような人間からすれば、人種が違うとさえ思える。彼女にとっては難攻不落の要塞を踏み荒らすことなど容易いことなのだろう。

それにしても、彼女も今朝の事件を知らないのか。携帯も持たず、家にテレビも無い私と同様の情報網であることに驚いた。本来私たちのような女子高生とは、ネット社会の精鋭であるはずなのではないのか?それとも、それもまた個人的な偏見なのだろうか。

「あのなぁ時津、それはさっきも理由を話しただろう。」

「殺人事件がなんですか。今日だけならまだしも、むこう一週間も中止なのは反対です!」

私はこの会話を耳にして、目を丸くした。

彼女―時津さんは事情を知っていて直談判を行っているのか。

さすがの古川先生も、いや、生徒のことを大事に想っているからこそ尚のこと、その発言には気を悪くしたらしく、語気を荒げて彼女を叱っている。

そんなにも部活が大事なのだろうか。それとも、自分には関係ないと本当に思っているのだろうか?

そんなものかと私は思う。

本来人の死、あるいはそれを平然と奪う行為など、遠く無縁な年頃であり、国民であるはずだ。

この国は平和だ。

そう、一部の人間にとっては。

違う…、一部の人間以外は、か。

私のような、運命に愛されなかった人間以外には。

彼女には分からないのだろう。人が死ぬ、ということが。

しかし不意に、人の「死」とは厳かで、ゆったりとしたものであると私は思った。

では、私を包むものはなんだ?

もし、今私が考えたものが「死」なら、それこそ私には縁遠いものだ。

ならば―私の両親の、妹の死は…。あるいは、私に縋りつく彼ら彼女らの肉体に訪れたものは…。

私はまた自分が答えの出ない問答をしていることに気付き、拳を握り締めた。

考えてはいけない。

それは、私を救いはしない。堂々巡りの暗闇に私を誘おうとするだけだから。

深く呼吸を繰り返し、落ち着きを取り戻す。

もうここに用は無い。鍵を手に、職員室を出て、図書室に行き本を返し、教室に向かい、指示を待ち、帰宅する。それだけだ。

そう思い私は、今や言い合いに発展した二人をおいて立ち去ろうとした。

そのときだった。

「もしお前が部活の帰りに襲われでもしたらどうするんだ!」

「そんな奴に私は負けないから!先生だって私の実力は知っているでしょう!」

その発言からして、余程腕に覚えがあるのだろう。そういえば、彼女は以前全校集会で表彰されていた気がする。

だが、そんな力が何になるのか。

相手の命を奪おうとするもの。自らの人生をかけて他の人生を奪おうとするもの。そこまでの破壊的衝動を持った人間の何を推察し、何を根拠にそんなことが言えるのか。全く不思議でならない。私からすれば、どちらも完全に理解不能の生物だ。

今や鬼の形相をしている古川先生が言葉を発するより早く、彼女は第二の矢を放った。

「とにかく!そんなわけの分からないことで殺される程度の私じゃありませんから!」

彼女の今の発言が、深く私の頭蓋を揺さぶった。思いがけず、放たれた矢は私の中心に突き刺さったようだ。

私の家族は、そのわけの分からないことに命を奪われたようなものだ。

殺人だろうが、天災だろうが、不意に訪れる災いには違いない。

では、なにか。私の愛しき家族は、その程度のものに命奪われる存在だったのか。

そんな弱い人間だったから、死んだ。死んでしまった。

そんな奴らは、死んでも仕方がないのか?

これ以上考えては駄目だとわかっている沈着な自分がいて、その人格は、もう一人の…あの日、あの場所に蹲ったままの幼い私を宥めようとしていた。だがそうして膝を抱えていた私が急に立ち上がり、私の真ん中に来て、そして私を支配し、閉ざしていた口を開かせた。

「人が」

か細い声だったはずだが、私が言葉を発したことに驚いたのだろう。二人は言い合いを止めて、私を見据える。

そして私は一言一句を確かめるように、その言葉の意味の深奥を確かめるように続ける。

今度はもっと大きな声量で。雨に打たれる少女ではない、普段の自分の明確な意思の元で。

「人が、死んでいます。」

時津さんは何か言おうとしたが、それより早く私は続ける。

「時津さん、人が死んでいるんです。死のうとして死んだわけではない人間が死んでいます。」

そうだ、なぜ私は黙っていようと考えたのか。そんな必要はない。

確かに彼女は知らないのだ。人が突然死ぬということが。それが分かっているから、それを知る私は黙っていた。

人間が何かを話し合うとき、それを知らぬ相手に理解してもらう、というのは至難の業だ。外側だけの形や概念を知っていても、それは経験して理解しているのとは何十枚もの壁を隔てたものである。だから無意味な議論をすることなく立ち去ろうと思った。また理解してもらう意味も私には無い。

だが―今もあの雨の中悄然としている小さな私のためにも。

時津さんの表情が厳しくなる、私の境遇を思い出したのか。それでも彼女は躊躇いなく言ってのける。

「あなたには、関係ないでしょ」

明確な敵意を感じる。部活のいち早い再開のためにも、私が邪魔なのだろう。

分かっている、でももう止まれない。止まらない。

「関係はあります。仮に今の時津さんの発言のために部活動が再開し、誰かが死ねば、その不利益と恐怖を被るのは私たちです。とくに、古川先生は間違いなくその責任をとらされます」

心の中で、震えている少女の手を握る。そしてできる限りの笑顔を向ける。あなたを傷つけるものと、今私は戦うから。

あの頃の、何の思いやりも無い人間たちを思い出す。唾棄すべき、己の利益のためだけで動いていた人間たち。

「わ、わたしは負けないって…」

「あなたはそうかもしれません。でも、みんなはあなたのようには強くないのですから。」

その言葉で、時津さんが言葉を失うのを感じる。

次第に冷静になっていく思考。少し言い過ぎたのかもしれない。なにぶん喧嘩とは程遠い人生を送ってきたこの身だ。どこまで許されるのかも分からない。

いや、人を傷つけてもいいラインが存在するのか。だが確かにそれはあるのだろう。全くもって不思議なものだ。物語の中では、唯一無二の親友、あるいは運命の相手と喧嘩してから一層仲が深まるものだ。雨降って地固まるという言葉もある。

すっかり冷静さを取り戻した私は、気まずそうに俯いている彼女に目を向けた。

このような収束を迎えては、彼女の溜飲も下がらないだろう。一応クラスメートではあるのだし、関係はできるだけ良好であることに越したことはない。

「それに…」

私の声に反応し、時津さんが顔を上げる。古川先生に至っては止めるべきかと右往左往しているのだから面白い。もう争いを続ける気はさらさら無い。

私は私の中の少女が、ぎゅっと手を握り返してくるのを感じ、自分のとった行動は、自分を救えたのだと誇らしく思った。

そのお陰か、現実の私もしっかりと瞳を彼女に向け精一杯の笑顔で言うことができた。学校で笑うなんていつぶりだろうか、表情が引きつっていたとしても不思議はない。

「時津さんが怪我でもしてしまったら、私は悲しいですから」

呆然とし、そして仄かに頬を染めている彼女をぼんやりと見たまま、私はヘミングウェイの言葉を思い出していた。

『人生はすばらしい、戦う価値がある』

そうだ、少なくとも今は、戦って、戦うことができて良かったのだ。

(ⅱ)

職員室での一悶着の後、私は図書室で本を返し、適当な本を選び教室に向かった。八時前にもなれば、普段ならば生徒で賑わっている教室が未だに閑散としていた。明らかに状況がおかしい。そう思いながら、とりあえず自分の席に着く。すると、先ほどの彼女―時津緋奈子がずんずんと歩み寄ってきた。わずかに登校している他のクラスメートたちが何事かと息を潜めて見守っているのが分かった。

彼女は私の前で立ち止まり、つり目気味の瞳を一層細くさせた上でこう告げた。

「即時帰宅だってさ」

なるほど、だからこのような具合なのか。

いつもならば、親切にどうもといった旨を返せるのだが、なにぶん彼女の表情が親切といったものとはかけ離れていた。顔はよそを向いているのにも関わらず、その負けん気を象徴する瞳はじろりと私を捉えて離そうとはしない。

まだ何か言い足りなかったのか。あるいは闘争の炎が再燃してしまったというのか。この手のタイプの人間の考えていることはあまり想像しがたい。とりあえず礼は言うべきだと思い、ありがとう、とだけ口にして席を立った。

こうなればできるだけ早くに帰宅したほうが良いだろう。一般的に通勤ラッシュの時間帯に差し掛かっている。私が帰る道ならば、まず襲われる心配も無いだろう。相手がよっぽど場所と時間を選ばずに行動していないのであればだが。しかしそれも、今朝方遺体が発見されたという情報から漠然とではあるが推察できる。犯行は深夜行われていたのだから、犯人は姿を見せまいとした、つまりは法的な裁きから逃れようとする正常さを持つ人間なのだろう。その予測は危険な空想ではないだろう。

すっと席を離れ、教室を出ようとした私を後ろから彼女が呼び止めた。

「秋空さん、帰るの?」

未だに友好的な態度を示してくれない彼女に多少の警戒心を感じながらも、首肯する。すると彼女もバッグを手に取り、近づいてきた。

「古川先生が、秋空さん帰り道一人かもしれないからって」

意味がすぐには理解できなかった。それが何か?という表情で佇んでいると、察しの悪い私に苛立ちを覚えたのか、語気を強めて彼女が言った。

「だから、一緒に帰るって言ってんの!」

言ってはいないだろうに、何故にこうも彼女は威圧しがちなのだろうか。

「いえ、悪いですから、そんな」

ならばと、こちらも言外に迷惑さを醸し出しながら答えたつもりだったのだが、残念なことに彼女には伝わらなかった様子であった。

先に教室を出て、行くぞと言わんばかりにこちらを振り返る。こうも気が強く、我が強いともなれば、古川先生も中々手を焼くことだろう。私は彼女の背を追いつつ、彼に同情の念を抱かずに入られなかった。

それから数分後には、高校生活初の一人ではない帰り道が始まっていた。出番を待ち望んでいた鬱陶しい太陽が燦燦と降り注いでいる。まだ昼前の上、五月も始まったばかりなのに、夏の匂いを感じさせる不愉快な日差しであった。

そして、今の状況は正直に言って気分は良くなかった。

彼女はずっと黙っているし、それなのに私のゆったりとした歩調に合わせて隣を歩いている。彼女自身、朝言い合いしたような陰気な女とは時間を共にしたくは無いだろうに。古川先生の顔を立てたのか、あるいは迷惑をかけた侘びにと頼みを承諾したのか・・・。彼女の様子を見るに後者ではない気がする。まあどちらでもいいが、こちらとしては非常にありがた迷惑である。

かといって、私のせいで彼女が一手間かけられているのは事実ではある。その感謝ぐらいは口にしておくべきだと名前を口にしたところ、

「緋奈子でいい」

とぶっきらぼうに告げられた。想像もしていなかった一言に、ぽかんとしていたところ、ちらりと私を横目にして彼女は続けた。

「私も…深月って呼ぶから」

もはや許可を求める気はさらさら無いような発言ではあったが、どうやら彼女は私に敵意を向けているわけではないらしい。だが呼び捨てとは、ある程度親交を深めた相手とするものではないのか・・・。よく分からないまま、「どうぞ」と答えた私の声にぴくりと反応し、立ち止まった。

「緋奈子さん?」

初めて呼ぶその名は、訝しげな響きと共に発せられた。

すると途端に緋奈子は頭を下げた。直立の姿勢から綺麗に曲げられた上背が何故だかとても健康的で、清潔な美しさを放っているように見えた。

「今朝は、ごめん。」

隣の車道では、車が絶え間なく行き来している。そこで清廉な謝罪を見せる女子高生と、それを見つめる私。今の私たちは普通の人にはどう映るのだろうか。なんだか随分シュールな光景なのではないかと、私は他人事のように感じていた。

そして顔だけ上げて、意を決したように彼女は続ける。

「私、大会前だったからどうしても部活したくて、先生に食い下がっちゃって…でも、深月が隣にいるのにしていい発言じゃなかったと思ってる。本当に、ごめん」

もしかすると彼女のことを誤解していたのかもしれない。

私は彼女を、自らの技量に驕り、その傲慢さゆえに他人に害をなしても気にも留めず、命の価値に思いを馳せたことなど一度も無い、叱る者のいない幼子のような印象を勝手に抱いていた。

だがそれがどうだ。今目の前にいる彼女はとても誠実で、自らを省みることができて、きちんと謝罪を口にすることできる。目先の情報に囚われて、先入観を持って緋奈子さんを見ていたのは私だった。

彼女は謝罪の形をとったままだが、その身には威風堂々たる輝きをまとっており、かえって自分の陰々滅々とした性が感じられてしまった。

じんわりと温められているアスファルトだけが、対象的な二人の姿を見つめていた。

私はせめてもの詫びにと、同様に腰を折り目線を同じ高さに揃えた。とはいえ彼女とは違い身体が綺麗に曲がらず、少し不恰好で見栄えがしないのだが。

私の行動に目を丸くした緋奈子さんの溌剌とした瞳をどうにか見据え、できる限りの笑顔を作り、口を開く。

「謝るべきなのは私のほうです。私は、あなたのことを勝手に誤解していました」

互いに礼をして顔だけ上げている、なんとも形容しがたい姿勢のまま私は続けた。

「緋奈子さんは、その、もう少し傲慢な方…なのかと思っていました。いえ、すいません。さすがに表現が直接的過ぎました、オブラートに包むと・・・そう、自信家なのかと…」

途中から言葉の選択に不安を感じてしまい、視線が覚束なくなる。そうこうしているうちに侮辱しているのか、謝罪をしたいのか分からない口ぶりになってしまった。このようなつもりではなかったのに。やはり思考する際に言葉を羅列するのと、実際に口にして相手に言葉を伝えるのでは雲泥の差があるものだ。

彼女は私が百面相し始めたのを見ると「それ包んでるの?」と、曖昧な、または幼子のいたずらを赦す母親のような慈愛に満ちた微笑みを浮かべた。

呆れているのだろうか。まあそう思われても仕方が無いほど私の謝罪はたどたどしかった。

「深月ってさ、意外に喋るんだね?気も強いみたいだし」

慈愛の笑みから一転、途端にいたずらっ子のような表情を浮かべると、彼女はそう口にした。

照りつける朝の太陽を頬に受け、緋奈子さんは姿勢を正す。後ろの高い位置で結った黒髪がゆらりと揺れた。なぜかその姿に私は感銘を受けてしまった。

先程の肉食獣のような目つきで校内を闊歩している彼女とは全くの別人のように見えた。そう、まるで御伽噺の中に出てくる精悍な顔つきでありながら、優しさも兼ね備えたような騎士のようで…。

ふと我に帰り、あまりにもメルヘンチックな空想に浸ってしまった自分が途端に恥ずかしくなってしまった。その羞恥心を紛らわすためにも慌てて口を開いた。

「あまり意地悪なことを言わないでください、緋奈子さん。あのときは少し気が動転してしまっていたんです」

「うん、分かってるって。これでもう後腐れ無く友達になれるね」

私は彼女の発言が、最初は全く以って理解できなかった。

(友達…?)

脳内でその言葉を反芻する。だが情報の処理にエラーが起こってしまったようで、私はぼうっと口を開けたまま、立ち尽くしてしまった。

突然悪魔に魂を抜かれでもしたかのような私の振る舞いを不審がり、緋奈子さんは私の眼前で手を左右に動かす。

「深月?聞こえてる…?もしかして、友達なんて気安すぎたかな」

「そんなことないです!」

ようやくエラーの処理が終了し、不安げな表情をしていた彼女に慌てて返事をする。願ってもないこの機会を危うく不意にするところだったため、必要以上のボリュームで発言してしまった。

「わ、私も、緋奈子さんとお友達になれるのでしたら…とても、嬉しいです」

一言、一言、今度は失敗しないように音を舌の上に乗せて発し、彼女を見やる。恐る恐る、といった態度であったせいか、肩をすぼめて首を縮め、自分を小さく見せるような姿勢になってしまった。彼女から見たら、いやに上目遣いになっていただろう。

ごくり、と緋奈子さんがつばを飲む音が聞こえる。

どうかしたのだろうかと、不思議そうな表情を私が見せると、緋奈子さんは何でもないよと顔を背けた。その横顔に朝日が灯り、彼女自身が薄明るく発光して私を照らそうとしているかのようだ。

事故以降、まともに友人など作ってこなかった。作る気もなければ、そうなりたいと思える人間もいなかった。だからこそ、彼女の発言は新鮮で、私の心を風に舞う花びらのように軽く、澄んだものにさせた。しかも…。

(こんな凛とした、私とは違って堂々としている人と友達になれるなんて…!)

棚からぼたもち、いやぼたもちに例えるのには失礼があるか。しかし、それほどの僥倖であることに変わりはない。

「じゃあ、これからよろしく、深月」

そう言って彼女は片手を差し出す。シェイクハンド、握手、というものだ。友達のなり方としては伝統的かつ日本では退廃的な手法ともいえるだろう。だが、だからこそ胸が高鳴り心躍った。まるで青春小説の中のワンシーンのようだ。

今度は彼女が訝しがる前に、私も応じることができた。ゆっくりと片手を伸ばし、確かに彼女の掌を握る。とても女性的でありながら、剣道をしているというだけあって、力強い。緋奈子さんが握る力を少し強くしたのが分かった。彼女の掌から肘、制服の裾に隠れた肩の付け根までの流線的なラインが緋奈子さんの美しさを象徴しているようであった。

無駄のない筋肉と、女性の持つしなやかさが互いに反発しあうことなく共存している。鏡写しのように繋がっている対のラインが、病的な白さと脆弱な弱さをひけらかしていることも、かえって緋奈子さんのその均衡の整った美を奇跡的でさえあるように私に思わせた。

かの有名なアインシュタインだって言っている。

『人生には二通りの生き方しかない。ひとつは、何も奇跡など起こらないと思って生きること。もう一つは、何もかもが奇跡だと思って生きること』と。

陰気な私は、奇跡などこの世にはないのだと考えて生きてきたが、彼女を知ってしまったら、考えを改める必要があると言わざるを得ない。

「よろしくお願いします。緋奈子さん…。」

なによりも、陰と陽とも言うべき二人が友と呼び合えるようになったことこそが奇跡と呼べるだろう。

ああ、今日という日は一生忘れることはないだろう。そしてこうした出会いが、私の悪夢を払ってくれる唯一の光になるかもしれない。祖母との出会いが、私を生きた亡者というべき存在から、人間に戻してくれたように…。

そう、今日という日は確かに一生の思い出となったのだ。

私の呪われた人生の歯車が、未だ誰にも気づかれることなく回りだした記念すべき一日目として。

  (ⅲ)

 それから二人は少し遠回りをして、帰路に着いた。

その中で沢山の話をした。意外と彼女が少女趣味であること、甘いものが好きであること。表情が厳しく、物言いがきついためクラスメートから怖がられていること。またそれがコンプレックスであること。様々な話をしたが、中でもとりわけ興味深かったのは…

「インターハイで準優勝?それって凄いことなのでは・・・?」

「まあ、二番だから、大したことじゃないよ」

それが謙遜だというのは、スポーツ、ひいては武道に疎い自分でも良く分かった。なるほど、あれほどの自信もあながち伊達ではないということだったのか。

「ただ、家が由緒正しき剣道一家、とかいうやつだからさぁ。というか剣道バカだもん。物心ついたころから竹刀握らされて、汗臭い防具着けられて、もう大変なんだから」

小さいころからそういった家元で育ったのであれば、この凛とした佇まいも頷ける。文字通り、生きる世界が違うのだ。そして、それがとても新鮮で素晴らしい。

「そうとは知らず、私、あんなことを…」

「いやいや、深月が言ってた通りだから。私が強くても、他のみんなはそうじゃない。当たり前のことなんだけどね…ついつい忘れちゃうときがあってさ。こんな話お父様にしたら、正座させられてお説教だよ」

彼女の口から発せられたその言葉に、不覚にも私はお父様、と呟いてしまった。あまりにも時代錯誤な呼び方である気がしたのだ。やはり由緒正しき家柄というのは、こちらの想像を遥かに超えてくるものである。生まれも育ちも庶民の私には、とても遠い世界の言語のように思えたのだ。

緋奈子さんは少し恥ずかしそうに俯いて、鼻頭を人差し指でかきながら言った。

「小さいころにそう教えられてね、癖で今もね、はは」

少年のように笑う彼女を、眩しいと感じた。でも今は、その眩ささえも心地よかった。

ふと気づけば、すでに数十メートル先に自宅が見えている。私の目には見慣れたはずの古びた木造の一軒家が、今日は風情のある素敵な建物に写った。ペンキの剥がれた外壁さえ味があるようではないか。

人の目とは、その者の心を通して世界を映すものだとぼんやり私は思った。くすんでいた風景さえも、彼女のような人と一緒ならば輝いて見えるのか。

私は歩調を緩めて、名残惜しさを隠さずに緋奈子さんに家がすぐそこであることを伝えた。彼女は一瞬残念そうに「そっか」と呟いたが、二三度ほど瞬きした間にまた元の明るさを取り戻して太陽のように笑って言った。

「それじゃあ、また明日学校でね?」

私もそれに笑顔で返事をする。

学校からの連絡待ちではあるが、集団登校、集団下校を前提とした学校生活が始まることはほぼ間違いないであろう。

もしかすると、また明日も一緒に帰られるのだろうか。

いけない。あまりにも浮かれ過ぎている。もう少し自分を俯瞰して見つめて、落ち着きを取り戻したいところである。これでは恋人ができた喜びに浮かれる若者のようである。―もちろん、そんな経験はなく、活字の中での物語で知るにとどまるのだが。

彼女はそのまま道を引き返していこうとするが、よくよく考えれば、彼女の家はどのあたりなのだろうか。

古川先生に私のことを頼まれた、ということであったし、おそらくはそう遠くはないのだろう。しかし、来た道を引き返していることを加味して考えると、もしかするとそんなに近くはないのかも知れない。

気になって、私は少し離れた彼女に向かって問いかけた。

「緋奈子さん!家は近くなのですか?」

彼女は少しはにかんで、親指を立てただけで、何も具体性のある返事をしなかった。眩しい太陽光を身にまといながら去りゆく彼女は、とても毅然として、日陰者の私には無い強さを物語っているようであった。

彼女の姿が遠くなり、角を曲がり完全に見えなくなってから、私は家の敷居を跨いだ。敷地の入り口にある桜の木が、花を失って途端に寂しく見えた。

すると、玄関の土間に丁度祖母が出てきており鉢合わせる形になった。

祖母は意外そうに目を丸くし、老人としては滑舌の良い口調で私に言った。

「あれまぁ!やっぱり深月ちゃんじゃないの!こんな時間にどうしたんだい?」

祖母は早退でもしてきたのかと思っているのだろう。時たまにそういうときもあるから仕方ない。そんなときは決まって、朝の通学路で見たくもないものを見ているときだ。

私は祖母に事情を話す。どうやら殺人事件があったようだと伝えると、祖母は顔を蒼白にしたまま私の顔に手を当てて、「かわいそうにねぇ」とまるで自分のことのようにため息を漏らしながら呟いた。

見ず知らずの人の不幸を嘆く祖母の姿に、私は自然と畏敬の念が湧き上がるのを感じた。こうした祖母の人柄に触れ、私はじんわりと体の底が暖かくなるのだ。

生暖かい風に髪を揺らしながら、「大丈夫?」と私に尋ねる祖母に満面の笑みを返し、そのままの笑顔で祖母に告げる。

「私、何年ぶりかに友達ができたの」

すると祖母はポカンと口を開けたまま私を見つめていたかと思うと、ようやく息をするのを思い出したかのように二三呼吸をして声にならない声を上げていた。突然の祖母の涙に私は困惑し、近寄ることもできず、かといって言葉をかけることもできずにいた。

祖母と暮らし始めてから先、一度も友だちの話などしたこともない。最初の頃は祖母も友達はできたのかと、中学、高校にあがる度に聞いてきたものだが、ある日私があからさまに不快感を表してからは一度も聞かなかった。当時の自分はなんて幼稚だったのだろうか。

そんなこともあってか、祖母のその感動もひとしおのようで、ようやく絞り出した声で「良かったねえ」とだけ口にした。

玄関先まで出てきていたことを考慮するに私が誰かと話をしているのを耳にして、まさかと思いながら覗こうとしていたのだろう。

私は涙を流してくれる祖母の肩をただ無言で抱きしめながら、家の中へと入っていった。

それからお昼ごはんの準備に二人で取り掛かった。話題はもちろん、新しい友達である時津緋奈子さんのことでもちきりであった。

とても凛々しく堂々としていること、礼儀正しい一面もあり、そのうえ剣道の腕が非常に達者であること。同じ女性目線から見ても美しい顔立ちで、しなやかな筋肉が無駄なく宿る肉体は見るものに感銘を与えるほどだ、などとたくさん彼女の話をした。

称賛してばかりの私に祖母は、「本当に素敵な方なんだねぇ」とニコニコとした表情で言った。祖母の間延びした声が、年季の入った木造の床や壁に吸収される。きっとこんな風にこの家は祖母のあらゆるものを吸収してきたのであろう。

遠い未来、この家が朽ちるときは、きっと呼吸をするように自然に還るのだと、なぜか私にはそう想像できた。

 友人の話題など二人の間で交わされたことはなかったため、その会話を二人は心から楽しんでいた。もう、とうの昔に殺人事件があったことなどは忘れ去られていた。

さっと昼食を済ませて、片付けをしている間に、回覧板を回しに向かった祖母が帰ってきた。ようやくその時になって、再びその話題が持ち出されることになったのだ。

「今お隣さんのところで聞いてきたんだけどね、この近くらしいじゃないの」

それを聞いて私はすぐさま事件のことを思い出した。そのおかげと言うとかなり不謹慎だけれど、それが元となって緋奈子さんと仲良くなれたのだと考えることもできる。

そうすると、二人の間に芽生えた小さな絆の新芽が、なんだが腐敗してしまうような気がして思わず目を閉じてしまった。

祖母はそんな私の態度を、過去のトラウマによるものだと考えたのか、私の手を握って「大丈夫」と微笑んだ。見当違いではあるが、その心遣いは単純に嬉しいものであった。

それから祖母は話の続きをするか逡巡していたようだが、私が先を促すと、一瞬の沈黙の後再び語りだした。

その内容は要約するとこのようなものであった。

死体は今朝、近くの袋小路になった路地裏で見つかった。犯行はおそらく昨晩遅くに行われたであろうとのこと。

被害者は中年の男性で、近くに住んでいた独身の会社員らしい。実家は遠い地にあるようだ。

そして、何よりも特筆すべきだった点は︙

「両腕が欠損していたの?」

欠損、という妙に整理された生々しい表現に、祖母は体を小さくして肯定した。

これらの情報はニュースでマスコミによって垂れ流されてしまったらしいが、最後の情報などは特に、警察はまだ秘密にしておきたかったのではないだろうか。犯人にしか知り得ない、切り札的カードを意図せぬところで切らされたことになる。時間帯と場所のこともあって、目撃者は未だゼロらしい。この先も見込めないだろうと、冷静な私が現れて考えている。

「なんとまあ酷い死に方をねぇ、こんな死に方せんでもよかろうに。神様はどうしてこんなことを・・・」

神様なんていない。

祖母には聞こえないように、胸の奥でひっそりと呟く。その言葉に、そこに住まう私の断片とも言える住人たちも賛成のようであった。

そんなものの存在に縋れるほど、もう私は純粋ではない。祖母のように、性根に善良な心を持つ人間とは住む世界が違うのだ。あるいはそうした世界の人々には、神も救いの手を差し伸べ、慈愛に満ちた光を降り注ぐのかも知れない。

私のような、不気味で歪な性と感受性を持つ人間はその世界から弾き出されるのだ。そして流刑の地として、神のいない世界を彷徨っている。

だが、今日のように救いを感じるときがあるのも確かだ。

だとすれば、私の世界に住まう神とは何者なのか・・・。

私に苦渋を強いた神は、一体どのような姿なのか・・・。

 私の無意味な長考は、祖母の話題とは不釣り合いなのんびりとした声によって中断させられることとなった。

「車にでも轢かれてしまったのかねぇ」

いや、と心の中で一人ごちる。

当然、車によって引き起こされた事故とは考えづらい、と冷静な私が私の中心に座り思考を巡らせ始める。

人の両腕が欠損するほどの衝撃を、車が与えたと考えた場合どうしても整合性が取れない部分が多く残る。

例えば、それだけの勢いならば、両腕だけではなく体全体が破損している必然性があること。

またさらに、そんなにもド派手に人を轢いてしまったのだとしたら、とっくの昔に車の様子で犯行が露呈してしまっているだろう。

これらの情報から推測できることは、明らかな殺意。それとー

(あまり考えたくはないけれど・・・両腕は、意図して切断された可能性が限りなく高い。)

その結論は、晴天が広がる五月であっても、私の背筋を凍えさせるには十分足りえるものであった。

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