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03 戀、息をのむ

 彼が「養護の森さん」と呼んでいたことで名前を知った養護教諭のコンパクトカーで、戀は彼と一緒に自宅まで送ってもらった。ナビを操作する森の確認で彼の家が戀の家から徒歩十分ほどのところにあることも知るともなしに知った。

 冬の夕方はまだ十七時にもならないというのにすでにそこかしこが影に沈んでいる。空だけが褪めたように青白い。

 ヘッドライトに浮かび上がる三階建ての狭小住宅。戀が生まれるときに両親が思いきって買った家だ。プロバンス風の外観に戀の生まれた年に植えられたシンボルツリー。冬に涸れた空気は乾いた音を立てている。

 戀と一緒に車を降りた彼に森が「何かあったら相談にのるから」と声をかけていた。森の知り合いがストーカー被害に遭ったことがあるらしく、誰よりも真剣に危惧していた。


 玄関ドアが閉まった瞬間、三井 絢斗は深々と頭を下げた。

「申し訳ありませんでした」

 戀は息をのんで動きを止めた。驚くほど真に迫った声だった。

「もしかして、ずっと気にしてた?」

「当たり前だろ。せっかく結城が助けてくれたのに、人目のあるところで謝るわけにもいかないし」

 真っ直ぐに戀を見つめる彼の目は摯実だ。

「とりあえず上がって」

 戀に促された彼は「おじゃまします」と断ってからスニーカーを脱ぎ、それを自然な仕草できっちり揃えた。

「リビング二階だから」

 戀がそう言うと、彼はほんの少し目を細めて、玄関から真っ直ぐに伸びる階段の先を見つめた。


 勧めたソファーに腰をおろし、彼は物珍しそうにあたりを眺めている。

 そんな彼を横目に、戀は困り果てていた。来客を予定していなかったせいで飲み物がない。まさかミネラルウォーターというわけにもいかず、暖房を付けたばかりの家の中は冷え切っている。温かい飲み物がいいにしても、健康志向の充がカフェイン規制を敷いているこの家には緑茶もなければ、コーヒーも紅茶も常備していない。

 キッチンで頭を悩ませながらパントリーを覗いて、レモンを見付けた。はちみつレモンを作るつもりで充が有機レモンを箱買いしたのだ。ドイツ産のハチミツもある。

「ホットレモネードでいい?」

「なんでもいい」

 本当になんでもよさそうな声だった。

 手を洗い、ついでにうがいも済ませる。キッチンで外出後の手洗いうがいをするなんて不衛生だと怒る充の顔が頭に浮かび、シンクをざっと洗い流してから、レモンを洗う。

 お湯を沸かしながら半分に切ったレモンを搾っていると、いつの間にそばに来たのか、彼が興味深そうに戀の手元を覗き込んでいた。

「まさか一から作るとは思わなかった」

 驚いたような感心したような彼の様子に、戀は曖昧に笑うしかない。

「手伝うよ」

「あ、じゃあ、そのドアの奥に洗面所があるから」

 自分はキッチンで手洗いうがいをしたくせに、と内心で苦笑しながら彼を洗面所に誘導する。細く開いた扉の向こうから手を洗う水音のあとに、うがいの音が聞こえてきた。


 彼は物の形と手触りを確かめるような扱い方をする。半分にカットしたレモンを手のひら全体で包み込み、しばらくその感触を確かめていた。ハンドジューサーの構造を矯めつ眇めつ眺めてから一気に力を加えて絞っていく。その仕草もどこかプロっぽくて妙に手際がいい。耐熱グラスの形を確かめるようにやはり一度手のひらに包み込み、均等にレモン汁を注いでいく。そのときの視線の鋭さもまた堂に入っていた。


「俺、刺したよな」

 熱々のレモネードに息を吹きかけながらひと口ふた口と喉を温めたところで、唐突に彼が切り出した。

 戀は彼の目を見て肯いた。

「だよな、まだその感触が手に残ってる」

 彼の声は微かに震えていた。その感触が残る手をあえて見ないようにしているのが、ダイニングテーブルの向かいに座る戀にもわかった。

「わたしね、子供の頃に事故に遭ったみたいなの」

 自分ではなにひとつ覚えていない。だから、トラウマのようなものも残っていない。当時四歳になろうとしていたのだから何かしら覚えていてもよさそうなものだが、本当にこれっぽっちも覚えていない。

 戀の一番古い記憶は、叔父である結城 幸太(こうた)とその親友である小田 充(おだ みつる)に絵本を読んでもらっている場面だ。父も母もその両親である両祖父母も写真の中の存在でしかなく、戀には初めから幸太と充しかいなかった。

「海音に聞いた」

 素っ気なくも労りのこもった声に戀は心を決めた。

「そっか。そのときにね、発覚したの」

 レモネードに落としていた視線を彼に向けた。彼はどんな表情を見せるのだろう。戀はじっと彼を見ながら思い切って口を開いた。

「わたしね、難病患者なんだ」

 眉を寄せた彼の表情からは、疑問以外は読み取れない。目の前にいる戀が一般的な難病患者のイメージとは大きく懸け離れているせいだろう。難病といえば、人は大抵入院患者を思い浮かべる。

 何かを目まぐるしく考えている様子が、彼の瞳に現れていた。

「自己再生機能と自己防衛機能に異常がある」

 ますます眉を寄せた彼を見ていると、なんだか戀は妙にわくわくしてきた。彼の目には同情の欠片もない。

「自然治癒力ってあるでしょ、それが異常に高いっていうのかな、」

「だから!」

 彼は戀の説明を遮るように鋭い声を上げた。

「そう、だから刺されても平気なの」

「平気じゃないだろ」

「平気だよ。物凄いスピードで傷は塞がるし再生される」

 自嘲にも似た思いが戀の中にはある。手の中のレモネードをゆらゆらと揺らす。人工の光を受けた液体の中に溶けきれないハチミツが透明な帯となって揺らめいている。

「平気じゃない。痛がってただろ」

 怒りのこもった声だった。戀ははっとして顔を上げた。

「傷はすぐに塞がるかもしれないけど、痛みの痕跡はなかなか消えない」

「どうして……」

「えっ」

 息をのむ戀に彼が慌てたように腰を浮かした。

「痛みの痕跡って」

「ああ、俺、家具職人、家具を作る人なんだよ」

 浮かした腰を落ち着け、彼は少し照れくさそうに告白した。「なりたい」でも「なるつもり」でもなく「なんだ」と彼は言い切った。

「だから割と刃物傷が絶えなくて、傷は治っても痛みの痕跡が傷を受けた場所に残るから、同じ作業をするときにしばらくは躰が拒絶反応起こすっていうか、そんな大袈裟なもんじゃないんだけど、腰が引けるような気がするっていうか……」

 はっとしたように顔を上げた彼は、痛みを堪えるかのように顔を歪めた。

「俺がそばにいて平気?」

「平気」

 戀は即答した。自分から飛び込んだことと、その後の一切を主導できたことが大きい。受け身であったなら、きっとこうはいかなかっただろう。

「本当にごめん、痛かったよな」

 レモネードをローテーブルに置いた三井 絢斗は、再びかしこまって頭を下げた。よく見れば彼の手には、小さくもはっきりと残っているいくつもの傷痕があった。

「三井くんで三人目」

「なにが?」と顔を上げた彼の表情に険が浮かんだ。「まさか、刺した人が?」

「そうじゃなくて」と戀は苦笑いする。「痛みの記憶を気にしてくれた人」

 幸太と充だけが戀の痛みを自分の痛みとして引き受けてくれる。実際はどうであれ、二人も戀と同じように痛がってくれるから、戀は痛みに耐えられる。強くいられる。

「わたし、麻酔が効かないから検査の時痛くて」

 思わず顔をしかめると、目の前の彼も同じように顔をしかめた。他人に同調することの少ない彼にしては珍しい。自身の経験則に限っては例外ということだろうか。

「難病って?」

「まだ原因も治療法も何もわかっていないから、難病」

 へえ、という彼の声の背後から、玄関ドアの解錠音と「ただいま」が聞こえてきた。

「あれ? 充くん今日は撮影で遅くなるって……」

「もしかして、海音のヘアメイク?」

 海音が教室に駆けつけたことを思い出し、あっ、とお互いに顔を見合わせたところで、件のヘアメイクが文句を言いながらリビングのドアを開けた。


「ちょっと戀、聞いてよ! 今日の撮影来週に持ち越しになったんだよ! 元々急な話でなんとかスケジュール調整したっつーのに! 腹が立ったから高級和牛買ってきた」

 ほら、とデパ地下の紙袋を持ち上げた充が動きを止めた。

「誰?」

 威嚇するような充の誰何に、彼はすっと立ち上がり、「はじめまして、同じクラスの三井 絢斗です」と折り目正しく頭を下げた。靴を揃えるところといい、この挨拶の仕方といい、彼は戀が思っていたよりもずっと礼儀正しい。

「ってことは、あのスニーカー、幸太じゃないの? 道理で見たことないと思った」

 生活能力のない幸太の一切合切をスタイリングしているのは充だ。

「幸ちゃん今日は遅くなるって」

 充の目がすっと細められた。

「僕も遅くなるって言ってたよね」

「言ってたね」

 たじろぐ戀に、充の目がますます細められる。

「で? 誰もいないはずの家に男連れ込むとは一体どういう了見?」

「連れ込むって……」

「だから言ったのに……」

 彼の小さな呟きを充は耳聡く拾った。

「へえ、君は、三井くんだっけ、この家に誰もいないとわかっていてのこのこ押しかけてきたんだ」

「あ、いえ、結城さんが熱っぽく……」

 わー! と戀が慌てて遮ろうと声を上げたところで遅かった。

「熱? 戀が熱出したってこと?」

「そう、ですけど……」

 充の剣幕に気圧されている彼に、戀は恨めしげな視線を送る。

「何があった?」

 荷物を放り出す勢いで充が戀に駆け寄ってくる。

「カッターで手のひらをざっくり切ったの」

「誰がやった」

 戀の額に手のひらを当てた充の鋭い声に、間髪入れず言い返す。

「自分でだよ。うっかりして」

「うっかり?」

「そう、うっかり」

「見られた? まさかこの男に見られて脅されたとか?」

「三井くんは知ってるけど脅されてはいない」

 充の視線が三井に一瞬流れ、すぐさま戀に戻ってくる。

「ちゃんと説明して」

「ちゃんとも何も、うっかり手のひらざっくりってだけ。で、いつも通り熱が出て、彼が保健室に連れて行ってくれて、帰りも送ってくれて、お礼にレモネード出したところ」

「ん? 三井? 三井 絢斗?」充がまじまじと彼を見た。「もしかして、海音の友達の?」

 戀は焦った。嘘がバレる。

「そうです。今日ちょっと騒ぎを起こした三井 絢斗です」

「海音が、友達が人刺したかもって慌ててたけど?」

 これでもかというほど棘を生やした充の追求に、彼は落ち着いて対応した。

「確かにカッターの刃は出ていましたし、目の前の人間にそれを向けてしまいました。そのときちょうど熱でふらついた結城さんが倒れそうになったので慌てて支えて、それが変な誤解を生んで、一時教室中がパニックになりましたが今は誤解も解けています」

「たしかに、誤報だったって連絡入ってたけど」

 充の声を聞く限り、半信半疑といったところだ。

「で、なんで戀のこと知ってるの?」

「なんでって……」

「付き合っているので」

 言い淀む戀に、またしても彼が助け船を出した。

「えっ?」

 充の間抜けな声が小さな家に響いた。




「充くん、三井くんのこと結構気に入ったでしょ」

 夕食を一緒にという充の誘いを丁寧に断った彼は、まだ話し足りなそうな名残を見せながら帰っていった。

「礼儀正しいし、姿勢もいいし、清潔感もある。悪い子ではないけど、カッターの刃を他人に向ける軽率さもある」

 今日の出来事をざっと説明したあと、何故カッターの刃を人に向けたのかを彼から聞き出した充は、同情を見せながらも、理由はどうあれ煽られた方が負け、と切り捨てた。

 戀はむしろ、普段何があっても冷静さを失うことのない彼がどうして制御できないほどの怒りに駆られたかに興味があった。

「うーん、なんか複雑」

 目の前ですき焼きをつつく充が悩ましげに唸った。

「僕ね、戀のことを妹みたいって思ってたんだけど、実際は娘みたいに思ってるんだなって思い知った」

「なにそれ。もしかして、三井くんが娘のこと掻っ攫うかと思うとかわいさ余って憎さ百倍って感じ?」

「そうはっきり言われると反論したくなるんだけど」

「わたし、幸ちゃんと充くんの娘のつもりだけど」

「ちょっともう、僕を泣かせる気?」

 戀のとんすいに次々高級和牛を放り込んでいく充の目が赤い。充は涙脆い。戀の代わりにいつも泣いてくれる。

 充は叔父の幸太が戀を引き取る際、どうしても仕事を休めない幸太の代わりに、それまで勤めていた会社をあっさり辞めて戀の面倒をみてくれた人だ。

 幼い戀の相手をしながら育児について様々に勉強し、戀が小学校に上がると同時に、興味があったヘアメイクの専門学校に通い、元来手先が器用でセンスのいい人だったせいか、あれよあれよという間に今の地位を築き上げた。戀にとっては叔父の幸太と同じくらい近しい存在だ。

「で、どういう風の吹き回し? 彼氏って」

「どうもこうも、女の子として大事にしてもらいたいなって思って」

「大事にしてるでしょ、僕も幸太も」

「それは娘としてでしょ。女の子として、だから」

「要するに、遅まきながら恋愛に興味が出てきたってことか」

「そうはっきり言われると否定したくなるんだけど」

 戀が充の言い方を真似ると、真似られた充はふんと鼻を鳴らした。

「その相手が、彼?」

「そ。一応難病だってことも説明してあるし」

 充はふーんと鼻を鳴らしながら、戀のとんすいから肉をごっそり強奪していった。

「あんまり酷なことしなさんな」

「大丈夫だと思う。彼、ドライなところがあるから。それが彼氏の第一条件だったし」

「あのねえ戀、恋愛っていうのは条件で始めるもんじゃないでしょ」

「だってこの先も恋に落ちる気がしなかったんだもん。だったら、好きになれそうな人と付き合ってみてもいいかなって」

「戀って本当、打算的だよね」

 溜め息をつくように充が笑った。

「ごめんね、逞しくて」

「打算的ってのは悪いことじゃないよ。だから、きっちり計算してから行動すること」

「今のわたしはいのち短し恋せよ乙女だから。少しくらいは感情で動くかもね」

 ふざけて言ったフレーズが、すき焼き鍋から立ちのぼる湯気の向こうで充の瞳を鈍く揺らした。






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