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14 絢斗、心がざわつく

 無事に学期末テストを終え、成績をぐんと上げた絢斗は振り分け面談も無事にクリアし、来年度は留学クラスに内定した。戀が芸能クラスではなく留学クラスを選んだことは教師たちをひそかに喜ばせたらしい。

 学年主任の畠山に「ケンブリッジにでも行く気になったか!」とバカでかい声で話しかけられた戀は、「なりません」と素っ気なく返していた。あの教師は個人情報を保護する気がない。絢斗と戀が付き合っているということも、翌週には周りに言い触らしていたと養護の森がこっそり教えてくれた。


「なんで畠山ってイギリスの大学勧めんの? さっき俺にはインペリアル行けって言っていたし。俺の頭じゃ行けるわけないのに」

「うちの高校、どういうわけかイギリス推しでしょ」

「そうなの?」

「そうだよ。だから充くんもイギリス英語教えてたでしょ。振り分け面談の先生たちも全員イギリス英語だったし」

「もしかして、だから俺面談通ったの? あー! 充さんに色々直されたのも全部それか!」

「気付いてなかったの? 学校のテストは教師の攻略だって言ったのに……」

「そういうことか! うわ、俺マジ充さんに感謝!」

「充くんも幸ちゃんも、もうすっかり三井くんちの工房に入り浸る気満々だよ?」

 絢斗の家の裏にはかつて曾祖父が作った工房があったらしい。祖父の代までは使われていたが、伯父の代になり騒音問題など世間がうるさくなったため、工房の土地を売って木材の入手がしやすい山間に移設している。

 肝心の伯父がドイツの工房に籍を置き、デンマーク、スウェーデン、ノルウェーあたりをふらふらしていることもあって、工房の管理は実質絢斗が行っている。長期の休みにはほぼ工房にこもって作りたいものを作りたいように作っている。近くには伯父の知り合いの工房が幾つかあり、バイトがてら色々教わったりもする。

「それが勉強教わる条件だったし、定期的に換気しないと建物がダメになるから逆に助かるんだよ。ところでさ、なんで充さんあんな英語話せんの? 留学したことないって言ってたけど……」

「充くんのお兄さんの奥さんがイギリス人なの。元々着物に興味があったみたいで大学生の時に日本に観光に来て、たまたま充くんの実家に立ち寄って、そこで若旦那に一目惚れしたんだって。当時高校生だった充くんにみっちり英語教えたのも彼女」

「へえ。そんで日本に嫁いできたんだ。しかも呉服屋の若女将だろ、色々大変だったんじゃないの?」

「充くんの実家、若女将の勧めでイギリスに支店出したおかげで本店の存続ができてるようなものらしいから、いいお嫁さんもらったってすごく大事にされてる」

「着物ってイギリスの方が売れるんだ」

「コレクターがいるんだって。伝統工芸品みたいな高価な着物ほど日本より外国の方が売れるって言ってた。一昨年ニューヨークにも出店してるし」

「すごいな」

「たまたま若女将の家族が誠実な人たちだったからってところはあると思う。イギリスは若女将のお兄さんが支店長だし、ニューヨークは弟が支店長になってる。若女将が大旦那と大女将と一緒に本店守ってるから、若旦那も世界を飛び回れるし、充くんも好きなことできるんだろうし」

「鎹なんだな」

「かすがい?」

「子は鎹って言うだろ、その若女将が鎹なんだなって」

「そうかも。若女将って物凄くポジティブで明るいの。一緒にいるとこっちまでいつの間にか明るい気分になってるような、そんな人」

 目を細める彼女に羨望が見えた。

「結城、もしかして羨ましいの?」

「そう……かも。わたしにはない明るさだから」

「そう?」

「そうでしょ」

 小さく笑う彼女の表情には確かに翳りがあり、検査帰りなのだから当然だ、という思いが絢斗の中にある。


 あの皮膚の採取のあとは血液と細胞の検査が続いている。彼女自身の数値の安定を確認する以外に、彼女の免疫細胞が既存の病気の治療に役立つかも調べられている。どちらかといえば後者がメインで、それを条件に彼女の病気の研究が続けられているらしい。

 彼女が頼りにしている看護師までもが「もしかしたら戀ちゃんは救世主になるかもね」と残酷な期待を口にする。残念ながら彼女の免疫細胞は彼女にしか作用せず、培養することも難しいらしい。朗らかに笑いながら「戀ちゃんの免疫細胞が早くみんなの役に立てばいいのにね」と悪意の欠片もなく言い放った看護師を、絢斗は信じられない思いで眺めていた。


「疲れてないならどっか寄り道する?」

「行きたいとこあるの?」

「俺は特にないけど、結城は? たまにはどっか寄り道しなくていいの?」

「んー……特に思い浮かばない。三井くんこそ、どこか寄らなくていいの? せっかくだし」

「俺もさっきから考えてるんだけど、特にこれといって」

「わたしも。人が多いところ苦手だし。どうせだったら家でのんびりしたい」

「俺ら、若さ足りなくない?」

「学期末テストに若さが吸い取られちゃったんだよ。しばらくはぼーっとしたい。それとも、もっときゃっきゃした方がいい?」

「そのままがいい。俺うるさいのダメかも」

 乗換駅のコンコースを歩いていると、いきなり彼女が「あっ!」と声を上げた。

「忘れてた! 三井くん! バレンタイン!」

「あっ、俺も忘れてた。うちの学校で覚えてるヤツどんだけいるんだ?」

 コンコースのそこかしこはすでにホワイトデーの文字に切り替わっている。

「二月の頭までは覚えてたのに……」

「チョコくれるつもりだった?」

「一緒に選びに行こうと思ってたんだけど……」

「俺、結城んちに行かない土日もフツーに家で勉強してたわ」

「わたしも。いつも金曜が最終日だったから終わったらって思ってたんだけど、学期末は水曜終わりだったし」

「バレンタインは先週の火曜だったのか。明日で地獄が終わるってことしか頭になかったなあ」

「しかも木曜日は面談」

「金曜に結果もらって、土日は爆睡だった」

 テスト終了の翌々日には全教科の回答が一斉に返ってくると同時に面談結果も知らされ、土日は抜け殻になっていた。

「わたしも。家でぼーっとして終わった。なんか忘れてるなーって思うこともなくて、今まで縁がなさ過ぎたせいか完全に忘れてた」

「充さんや幸太さんには?」

「あの二人チョコレートあんまり好きじゃないから、子供の頃からいらないって言われてて……そういえば、今井さんたちも何も言ってなかったよね」

「あいつらも忘れてるんだろ。じゃなきゃバレンタインとホワイトデーまとめてやるとか」

「あーそれだ。だいぶ前に今井さんが言ってた。そういえば三井くん、誰にも貰わなかったの?」

「俺知らない人から物貰わない主義だから」

 知らない人から貰った食べ物を口にできる方がどうかと思う。手作りなど言語道断。海音も黒田も同意見なので絢斗の考えが偏っているわけでもないはずだ。

「さすがにテスト中に呼び出すほどの強者はいないか」

 それほど学期末テスト期間中は校内全体が殺伐としている。

「呼び出されたら普通に迷惑だし」

「あー、そろそろ記念告白の時期だね」

「俺は平気だけど、結城は? 大丈夫?」

「太田さんと常に一緒にいる約束してる。あとは三井くんに張り付いてる」

「張り付かれとく。結城ってあの三人の中だと太田と仲いいよな」

「んー、そうかも。なんか太田さんって安定してるから、一緒にいても気を張らなくていいっていうか」

「なんか雰囲気柔らかいし、妙に勘がいいしな」

「服とかいつもかわいいから色々聞いたりもするし」

「結城はあんま学校でかわいい格好しなくていいからね」

「あ、うん。学校は今まで通り」

 にっと笑う彼女の手を絢斗はぎゅっと握った。

「俺の前でだけかわいいのがいい」

「わかった。努力する」

 彼女は照れたようにそっぽを向いた。


 つい先日、黒田に「結城は絢斗と付き合うようになってかわいくなった」と言われ、満更でもない気分でいたのだが、その後に続いた「絢斗の雰囲気も柔らかくなったし、色々気を付けた方がいいよ」という暗に含んだ言い方に心底げんなりした。黒田は件の犯人の目星がついているのだろう。

 さらに、細川が大人しかったのは学期末テストに必死だったかららしい、と黒田に聞いた海音の、終わったらひと騒ぎありそうだな、との煽りを多分に含んだ言い方にもうんざりしている。


「どうかした?」

 乗り込んだ電車は帰宅ラッシュが始まり、少し混んでいた。行きに彼女から「帰りは混むかも」と言われ、二人分のリュックをコインロッカーに預けてきたのは正解だった。

 戀を胸に抱えていると、顔を上げた彼女が真下から見上げてくる。この角度は色々まずい。

「色々気を付けないとなって考えてた」

「眉間にシワ寄ってるよ」

「三学期終わるまでは俺に張り付いてて」

「黒田くんに何か言われた?」

「気を付けろとは言われてる。海音はひと騒ぎありそうだって脅すし」

 様々に形を変える唇から目がそらせない。戀をびっくりさせた日から今日まで、二度目のチャンスは未だ巡ってこない。

「再来週に今井さんたちを着物教室に誘おうと思ってるんだけど……やめた方がいいかな」

「あーそういえばそうだったな。ひとまず太田に相談してみれば?」

 黒田が察しているくらいだ、勘のいい太田も気付いているかもしれない。

「そうする。明日早速訊いてみる」

「俺もついてくから」

「着付けに興味あるの?」

「全く。着物姿を生で見てみたいだけ」

「あ、もしかして黒田くんも来るかな?」

「来るかもな」

「なんでむっとしてるの?」

「黒田には見せたくないから。俺からは誘わない」

「黒田くんは今井さんにしか興味ないよ」

「いや、あいつはきれいなものが好きなんだよ」

「ああ、じゃあ今井さんの着物ちょっと奮発して豪華なのにしてもらおう」

「そういうことじゃない」

 ん? と小さく首をかたむける彼女は男を何もわかっていない。確かに黒田は純粋にきれいなものが好きなだけのようだし、今井もそれがわかっているから特に揉めることはなさそうだが、大抵の男は色のついたフィルター越しに女を見ている。

 今も周りのオヤジどもの視線が鬱陶しい。

「もたれていいよ」

 彼女が何か言う前に、絢斗は彼女の後頭部に手を回し、自分の肩に彼女のおでこをくっつけた。彼女の髪が指に心地好い。指先で感触を確かめていると、肩と腕に少しだけ彼女の重さが加わった。


「なんか、周りにいた女の人たち三井くんのこと見てたよね」

「そうか? 周りにいたオヤジどもは結城のこと見てたけど」

 コインロッカーからリュックを取り出す。

「なんかちょっとむっとして、イチャイチャしちゃった」

 照れ隠しのように笑う彼女を引き寄せ、ほんの一瞬のキスをした。

 腕の中の彼女が慌てたように周りを確認する。

「誰もいないから」

「もう、びっくりするから」

「あー、俺またびっくりさせたのか。爽やかなキスってどんなキスだ?」

「ちょっと、こんなとこでキスキス言わないでってば」

 慌てて立ち去ろうとする彼女の手を取り、いつものようにポケットに入れる。

「帰りちょっと寄ってもいい?」

「ご飯食べていく?」

「充さんいるの?」

「今日は遅くなるって言ってたけど、簡単なものでいいならわたしも作れるから。作り置きのお総菜もあるし。三井くん、お父さんはいいの?」

「出張中」

「三井くんのお父さんって出張多いね」

「現場に詰めてるんだよ。うちの親父、橋の設計してるから」

「そうなの? すごい!」

「設計は手先不器用でもできるからって」

「サラリーマンって言ってたから、もっと違う仕事なのかと思ってた」

「建設会社の社員だからね」

 そっか、と言いながら、彼女は家のドアを開けた。


 彼女と一緒だと駅からの道のりは押し縮められたかのようにあっという間だ。

 それまで絢斗は一人黙々と歩いていた。音楽で耳を塞ぎ、ただ真っ直ぐアスファルトの先だけを見て、無駄な時間を一秒でも減らすことばかり考えていた。信号に阻まれればただ苛々していただけなのに、彼女が隣にいると小休止に思えるのだから笑える。一刻を争っていたのに、彼女の視線に誘われるように空を見上げ、花の香りを探し、水溜まりを飛び越え、雨粒に走り出す。雨上がりを嬉しそうに眺める彼女の視線の先の光芒に同じように絢斗も目を細める。大きく豊かに広がった時間がぎゅっと圧縮されて色濃く残る。




「結城も料理上手いんだな」

 彼女は単純に手際がいい。隣で手伝いながら見ていても不安がない。

「でも充くんの方がやっぱりおいしいよ」

 彼女の家では炊飯器ではなく土鍋でご飯を炊く。炊飯専用の土鍋があるらしく、だから米がうまいのかと感心したものだ。

「そうかなあ。自分が作るとおいしい気がしないって言うだろ、それじゃないの? 俺味噌汁なんてここでしか飲まないからテンション上がるし」

「家で作らないの?」

 彼女から味見用の小皿が渡される。沁みるようにうまい。

「家で作るのはインスタント」

「そっか、幸ちゃんが味噌汁好きで、充くんはご飯に味噌汁がないのは不完全だって考えだから」

「なんか、結城んちってしっかりしてるよな。充さんってレトルトとか絶対に使わないだろ」

「そうだね。わりとぱぱって作っちゃってる。時間があるとコンソメとかホワイトソースとかまとめて作ってるし、冷凍できるものは下ごしらえだけして冷凍してるし。このお揚げもナスもキノコもネギも、全部カットして冷凍してあるし、お出汁も一度にたくさん作って冷凍されてるし、食べるときにまとめてお鍋に入れてあとは味噌を入れるだけになってる」

「あの人も趣味にのめり込む方だよなあ」

「充くん、最初は料理人になることも考えたんだって。でも趣味を仕事にすると楽しめなくなるからって、興味があったヘアメイクを仕事にしたんだって前に言ってた。実家にも貢献できるしって」

「なんで実家?」

「ほら、着物の時って髪型とかメイクも変えないと合わないの。着付け教室の他にヘアメイク教室もやってるから」

「へえ。結城も着物着るとき化粧するの?」

「わたしはあんまりしないけど……したほうがいい?」

「そうだなあ、俺はそのままがいいな。触り心地変わりそう」

「三井くんそればっか」

「俺もう結城の手の感触は覚えたし。目隠しされても絶対に結城の手ってわかる自信あるから」

「太ったり痩せたりしわしわやかさかさになったりしても?」

「どんなに変わっても。結城の指や爪の形も、それこそ骨の形も覚えてるから」

 食卓に料理を並べていた彼女の手が止まった。ゆっくりと振り向いた彼女の瞳が揺れている。

「ごめん、気持ち悪かった?」

「違う。本当に覚えたの?」

 やけに真剣な顔で訊かれた。

「覚えたよ。毎日触りまくってたし」

「それって、一生忘れないものなの?」

「忘れないだろうね。結城の形や感触がこの先俺の作るもの全ての基になるんだから」

 彼女の目からぽろっと涙が零れ落ちた。






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