ストックの花言葉
私はとにかく逃げた。逃げて、逃げて、逃げて。誰か私に気づいただろうか。彼は、気付くだろうか。気付いてくれるのだろうか。
婚約が決まって長く、弟が成人したら結婚して家を出ることになっていた。その間、彼は私を蔑ろにはしなかったが、別段、構いもしなかった。最低限、その言葉がよく似合う。彼は五男と言っても貴族であったし、大きい商家だとしても庶民を嫁にもらうのは嫌だったのだろう。
しかし、それに私が耐えられなかった。だから、逃げたのだ。正式に結婚が決まり、調印し、改めて二人きりになって、置かれた距離と重い空気に耐えられなくて。いっそのこと、彼の事なんて、好きでなければよかったのだ。ただの政略結婚だと割り切れば、こうはならなかった。
なにせ、周りの友人達は愛する人と仲睦まじく街を闊歩しているのだ。羨ましいし、妬ましくて、その度、彼を思い出した。恋しかった。自分にそれは許されないと理解していたが、心はそれを受け入れきれずに。上辺だけの夫婦になりたくなかった。
父にはメモを残してきた。いつかこんな日が来ると思って、いつもポケットに忍ばせていたのが幸いした。本当に幸いかは、別としてだ。きっと我が家は大きな損失がでるだろう。私の貯蓄で賄える筈もなく、家族には迷惑をかける。許してくれとは言えない。よく父には、うまくやれと言われていたが、これだけはどうにもならない。もしかしたら、母はこうなることを予見しているかもしれない。そうなれば、父は備えているだろう。そう願うしかない。親不孝で申し訳ないが、走り出している今、どうしようもない。
鞄には売れるものを詰めてきた。あまり高い物だと下町では扱えないので、手頃そうで尚且つ金になりそうなものを見繕っておいた。日が沈む前に換金して、隣町へ行こう。悲しいけれど、彼が好きだといった髪も短くして、売ってしまおう。私だとバレないように、思いっきり見た目を変えてしまおう。私は、私を捨てたんだ。
気が付けばあれから、七年が経った。最初の頃は仕事もなく、何度か死にかけたけど、どうにかなるようになってきた。たまにあのまま結婚していたらどうだったのかと考えるが、きっと今程楽しくはないだろう。彼は私を好きでなかったし、今頃他の貴族と結婚して子供だって居るに違いない。だと言うのに、私は根なし草であちこちを転々としているのだから、笑い種だ。憧れていた仲睦まじい恋人だっていない。
そういえば、生活が落ち着き始めた数年前、ふいに実家から連絡が来たのは驚いた。先ほども言ったが、根なし草の私によく届けられたと思う。だが、それなりの商家だ。色々と伝ががあるのだろう。色々と。
いきなり出ていったことにはお怒りだったようだが、どうにかなったらしく、気が向いたら顔を見せろと書いてあった。甘いなあ、と涙が出た。勘当を言い渡されると思っていたのに、顔を出していいとまで書いてあるとは。因みに彼がどうしたとかは書いてなかった。
一度だけ、彼を見掛けたことがある。見間違う筈もない、何年も恋した相手だ。兄弟の中で一番くすんだ赤い髪とすらりと高い身長、意外と筋肉がついた身体。本人はその髪色が好きでなかったようだが、落ち着いた色味が私は好きだった。密かに、その色の刺繍糸を探し回ったくらい。
まあ、とにかく、その時はとても焦った。とてつもなく、焦ったのだ。話をしていた宿屋のおじさんに、私の事を尋ねたのだから。すぐ横に、私が居ることに気付くことはなかったが。私なんてその程度なのだと、その日は思い切り泣いた。やはり、初恋というのは拗らせると厄介だ。自分を可哀想だとは思わないけど、やはり、私の事はなんとも思ってないのだ。探していた理由も分からないが、報復かなにかだろう。勿論、その日のうちに町を出た。
そんな私だが、最近、一つの場所にいつもより長く滞在中だ。田舎とも、都会とも言えない、所謂片田舎の外れにある大きな塔だ。といっても、その下に家を構える老夫婦に雇われているだけだけど。老夫婦は町の人達から大層信頼されており、仕事を斡旋してもらっている。そして、随分前から無人だった塔に、防犯を兼ねて住まわせてもらっている。古のうんちゃらかんちゃらと話していたが、謂れはさっぱり分からない。
塔内部は、壁に沿って大きく螺旋階段が築かれ、ずうっと上まで続いている。体力と利便性の問題で、上まで行ったことはない。部屋はまあまあ中頃にあるので、毎日結構疲れる。家賃はかからないので、贅沢は言えない。
昔は、中央部分に居住部屋ごとの床があり、滑り棒があったそうだ。老朽化により、外され、長い長い滑り棒だけが残った。何でできているか知らないが、長い割りに棒は軽い。棒幅跳びができるくらいだ。実際、たまにそれで遊んでいる。
「さて、今日はどうしようかなー」
今日は仕方なく、仕事を休みにした。老夫婦に働きすぎと怒られたからだ。
「上まで言ってみる?…いやいや、止めましょ?行きはよいよいだよ…」
いつも一人でいるので、独り言が増えてしまった。誰かがいたら、間違いなく不審にに思われるだろう。
「…ん?ばあちゃんかな?」
不意に気配を感じて、明り窓をそっと覗いた。彼女はいつも私を下から呼ぶのだ。大きな声で。登ってくるなんて珍しい。
「え」
下から肩で息をしながら登ってくる姿に、反射的に身を隠した。居る筈のない、彼がいた。
「そこに!いるのは!知ってるぞ!」
ぜえはあ、と息切れまでしっかり届く。その距離に彼が、いる。頭を抱えて必死に考えるが、逃げるには降りなくてはならない。その階段には、彼がいる。詰んだ。あとはもう、滑り棒しかない。でも、扉の前には彼がいる。詰んだ。そうだ、棒があるのは彼の反対側、つまり、上だ。どうにか驚かせて、登って、引き付けて、跳ぼう。体力的に考えれば、私が有利だ。よし、逃げよう。
「…よし」
大きく深呼吸をして、勢いよく立ち上がる。もう一度息を吸うと、ドアを力強く押し明けた。
バン!
「は!?」
作戦成功だ。彼は足をとめ、目を丸くしている。蝶番で扉が戻ってこないうちに、すぐに駆け出した。
「あ、待て!逃がしてたまるか!」
我に返った彼は、声だけは威勢がよかった。追い付かれたら負けだ。ちらりと後ろを振り向けば、ばちりと目があった。途端、獣が獲物を定めたように、目が細くなりスピードを上げてくる。捕まるものかと、私もペースをあげた。もう、滑り棒は手の中だ。そのままの勢いで階段を蹴り飛ばして、重心を反対側へ向ける。がつん、という衝撃と共に階段へ投げ出された。
「いったぁ…」
受け身を取ったつもりではいるけど、相手は階段だ。普段の遊びならともかく、本気の飛び込みは角が刺さる。
「…な、……か!」
「ん?」
彼が何か叫んでいた。顔を上げれば、表情は見えはしないが、何かおかしい。
「そんなに、俺が嫌いか!身体を張って逃げるほど!」
「………は?」
悲痛な叫びに呆けてしまった。彼が、それを言ってしまうのか。もう、言葉の意味を理解するとか、そういうことはいい。苦しくなる呼吸を落ち着かせて、逃げないと。せっかく、ここまで逃げてきたのに。
「あなたは、私を好きじゃない。昔から、知っているわ」
逃げないと。それだけを考えて、階段を降りる。出てくる言葉は、自分に言い聞かせているのか、彼への返事なのか。ただ、彼に捕まれば、七年前と同じだ。上辺だけ、最低限のお付き合い。持ちつ持たれつ、何も変わらない。
「私は、あなたが好きなのに!」
何も変わらないのが辛くて、苦しくて、そうして逃げた。無言が生み出すのは、安らぎではなく、悲しみで、心が締め付けられる。逃げないと、私はこの恋を終わらせるために逃げたのだから。
「あなたが、好きだから逃げたのに…!」
自然と溢れる涙に歯止めが効かない。彼と仲睦まじい恋人同士になりたかった。政略結婚に夢物語を描いたと言われてもいい。彼と幸せになりたかった。
「逃げるな!」
「離して!」
掴まれた腕を振り払っても、彼の力は強くびくともしない。逃げると言っても、駆け降りた訳ではないのだから捕まるのは当たり前だ。自分でも動揺しているのがよく分かる。
「離さない。七年前のように、逃げてみろ、俺は今度こそ死ぬぞ!」
「なんでよ!離して!意味が分からない!」
ぶんぶんと腕を振り回すが、結局彼の手は離れない。それどころか、強くなる一方だ。
「お前が好きだ、ミシェーラ」
「そんな、そんな嘘ついたって!」
「嘘じゃない!」
「嘘よ!」
「俺を見ろ!ミシェーラ!」
一際大きな声に、反射的顔を上げるとオレンジに似た目が私を見ていた。昔、シトロンの様だと思った瞳は、耐えるように揺れている。
「好きだ」
「き、気のせいじゃ」
逃げたい。逃げたいし、目を逸らしたいのに、吸い込まれるように視線を外せない。
「苦手なダンスを一人で復習してるとこも、考えてる姿も、笑いを堪えきれずに口角が上がるところも好きだ。あと…」
「も、もういいです…!」
何の拷問かと、片手で手を振りながら一歩後ずさる。さすがに顔を見ていられなくて、足元を見るしかなかった。ふと、気付いた。
「俺の髪色に似た刺繍糸を探すところもいじらしいし…」
「あ、あの!」
「なんだよ、まだ嘘だって」
「ほんとにすいません…あの…逃げませんから、本当に逃げませんから、着替えてきても…?」
尻窄まっていくのも、仕方ないと、もう、なんだか本当に顔が見られない。七年も根なしの生活をしているのだから、寝巻きを見られたぐらいで動揺しない。普段なら、動揺しない。断言する。ただ、相手が悪すぎた。
「きがえ」
「きょ、今日は休みの予定だったので、お恥ずかしながら、寝巻きでして…」
「ねまき」
「はい、あ、夜着といった方が…?」
「よぎ」
「あの…?」
腕の力がすっと抜けたと思うと、今度は身体が浮き上がった。
「悪かった。部屋の前で待ってる。頼むから逃げないでくれ。準備ができたら話をしよう」
呆けている間に部屋まで運ばれ、降ろされると静かに扉は閉じられる。扉に寄りかかり、ずるずると座り込んでしまう。所謂、お姫様だっこだった。
「あつ…」
頬を両手で挟めば、手がひんやりしていて気持ちがいい。年頃でもあるまいし、むしろ行き遅れの部類だというのに、自分が情けない。乙女か。
「いや、純潔だけど、そうじゃないでしょ…」
「ぶっ!げほっ、げほっ!」
吹き出した音がした。しかも、むせこんだ。思わず立ち上がったが、明り窓から彼は見えない。座って休んでいて、気管に入ってしまったのだろうか。
「と、とにかく着替えよう!」
そう、着替えだ。最低限の洋服を思い起こして、どうにか余所行きの服を組み立てる。小さなクローゼットを勢いよく開けた。
「あるわけないじゃない!仕事用だわ!」
膝から崩れ落ちて、頭をかきむしる。見上げてもクローゼットに可愛らしい服なんてない。一着もない。スカート?勿論ない。
「あぁ、もう…それなりにしよう…髪止めくらいなら、ある、し…」
おしゃれをしようとしている自分がいる。気付いた瞬間、錆び付いた金具のように、動きが固くなる。同時に恥ずかしくなってきて、短い髪を軽く握った。
「逃げたい」
彼から逃げた私が、どの面下げて話すというのか。だが、逃げ道はないし、方法も思い付かない。せめて、逃げやすい格好にしようか。そうだ、そうしよう。そうと決まれば話が早い。
「お待たせしました…」
「いや、大丈夫だ」
扉を開ければ、すぐ横に腰を下ろしていた彼が立ち上がる。そのまま少し頭をさげた。
「では、失礼します」
「ああ、またな」
よし、成功だ。話はした。要求は達した!通り過ぎよう。
「逃げない約束だよな?」
「は、はいっ!」
堂々と目の前を通過する予定は、やはり予定で終わった。唸るような声を聞いて、通過出来るほど私が強くなかった。
「女性の部屋に入るのは悪いが、ミシェーラを外に出すと逃げられそうだ。失礼する」
「ど、どうぞ…」
そこに拒否権など存在していなかった。結局手を引かれて部屋に戻る。
「俺が好きならどうして逃げたんだ」
扉を背にして、彼は真っ直ぐ私に問いかけた。逃げ道がないと分かっていても、探してしまうのは許してほしい。仕方ない、早くお帰りいただこう。頻繁に逃げる女なんて、彼には相応しくない。
「貴方と幸せになりたかったからです」
「あのままではなれなかった…?」
不思議そうに瞬きを繰り返す彼に、私は頷いた。こんなに表情豊かだっただろうか。
「私は、そう思っていました。だから、逃げました。貴方から逃げれば、婚約は破棄され、別な方と結婚なされると」
「…その、どうしてそう思ったか聞いても?」
「会いに来るのは、行事と打ち合わせの時でしたし、お食事にお誘いしても殆んどお断りされてしまいましたし、稀にお食事できても、会話はありませんでした。政略結婚でしたし、耐えられなかった私が悪いのです。」
「た、たまに会いに行ったよな…?」
「そうですね。天気の話をよくしました」
「そう、だな。俺もその記憶が強い…」
先程の威圧感はどこかへ消えてしまって、彼は苦虫を噛み潰してしまったようだ。片手で顔を覆って、ため息まで出ている。
「…やっとジュリオの怒りが腑に落ちた」
「お、弟のですか?」
久しぶりに聞いた弟の名に首を傾げた。努力家で、穏やかな性格の弟が怒る。どう言うことか、答えを聞く前に腕を引かれた。
「俺はミシェーラが好きだ。間違いはないし、他と婚約も結婚もしていない」
「は、離して!」
抱き締められているのはすぐに分かった。逃げ出そうと胸を押しても、抑える力の方が強い。
「昔はミシェーラと一緒に居たらどうにかしそうで、避けていたのは認めるし、正直今も頭の中ぐちゃぐちゃしてて、どうしたらいいのか分かんねえし、好きなんだ、ミシェーラ。頼むから、どこにも行かないでくれ」
「わ、私は貴方から逃げた身、です。隣にいる資格はないです」
「だから、さっき逃げようとしたわけか…」
ぎゅうっと、先程より力を込められる。肩に顔を埋められて、思わず固まってしまった。押し返す力は負けて、彼の胸にぴったりくっついてしまっている。どうしよう、どうしよう!身体は熱いし、彼の匂いが近いし、逃げられないし。ダンスの時もこんなには密着しなかったのに。もう、うまく言葉も出てこない。
「ミシェーラは、俺に捕まったんだ。だから、俺の傍に居るしかない。もう絶対に逃がさない」
「あの、 ティオン」
至近距離で聞くには心臓に悪くて、もう一度胸を押してみる。すると離れはしなかったが、勢いよく顔が上がったので、驚いて見上げてしまった。シトロンの瞳が、輝きを増して真っ直ぐ私を見下ろしている。
「もう一回」
「…ティオン、離してください」
何がもう一回なのか分からず、胸を押しながら同じように抗議してみた。すると、深く深呼吸してから、口を開いた。
「好きだ、ミシェーラ」
「ティ、オン、あの…その、離して…」
「耳まで赤い」
そんなこと自分がよく分かっていた。至近距離で、しかもはっきりとした声で、目を見ながら好きだと言われたら、誰だってこうなる。恋した相手なのだから。
「ミシェーラ」
気付けばベッドの上だ。確かに部屋は広くないし、近くに立っては居たけど、背後にベッドではなかったし、あれなんでどうして天井と一緒にティオンを見上げて?
「俺のことはまだ好きか?」
「あの、そと、まだ朝だし、というか、会ってまもなくというか、あの、その!」
「会って間もなくない、七年耐えた。それとも、俺のこと嫌いか?七年も探し回るのも気持ち悪いよな」
分かりやすく目尻を下げて、自嘲気味に笑った彼に慌てて首を横に振った。そうして、今度は満足そうに笑うのだ。
「ミシェーラ、俺のこと好きか?」
「ずるくないですか…」
「いやいや、そうやって涙目で煽るミシェーラの方がずるいだろ。で?」
「でって、なんです…」
「好きか?」
「………………すきです」
「やっと聞けた」
嬉しそうに照れ笑いを浮かべたティオンが愛おしくて、思わず頬を撫でる。目を丸くした彼は、したり顔でその手を握り、顔を首筋に落とす。
「俺も好きだ、ミシェーラ。悪いけど、夜まで耐えられない」
ミシェーラは夜がよかったもんな、と付け足されて、自分の失言に気づくまであと三秒。
なかなか落ちなくてすいません。
お付き合い頂いてありがとうございました。
ストックの花言葉がぴったりだと思ってこの題にしました。ティオン視点も書けたらいいなあって思ったり。
※スコットじゃないですよね、ストックですよね…。すごく大切なところ間違えるなんて最低でした…。
題を直させていただきました、すいません。
追記 2020.2.18
たくさんの方に読んでいただいているようで、驚いています。
評価やブックマークもいただきまして、本当にありがとうございます。 個人的に短期間にたくさん読んでいただいて、評価、ブックマークしていただいてが初めてなので、本当に本当にありがとうございます。
追記② 2020.5.3
ティオン視点投稿しました。期待に添えるか心配ですが、よろしくお願いします。