不運
「えっ………あああああああああああっ!?」
天宮叡嗣は何度もいうように不運である。
幸い、今まで命に関わることは無かったが、それでも不運な目にあってきた。
そして、そんな不運も、今回は少し毛色が違うらしいと、叡嗣は叫び声とは裏腹に冷静な頭で思った。
遡れば、数十秒前。
バイト帰りに道を歩いていたら後ろから包丁を持った男が警官に追いかけられていた。
まあ、この程度のことは日常茶飯事だ。叡嗣からすればよくあることである。
問題はこの後。
自衛の為と、走ってきた男の横っ面を殴りつけたが、なにかクスリでも決めているのか、叡嗣の拳は効かず、腹を刺されたわけである。
まあ、ここまでは一回はあったことだ。その時は死にはしなかった。
しかし、今回は違ったようだ。
刺された上に男がバランスを崩し、腹を割かれ、しかもなぜか知らないが空いていたマンホールに落ちた。
しかも、ふつうなら数メートル程度の深さしかないだろうにかれこれ数十秒落ち続けている。
叡嗣は悟った。
「あ、これ死んだ」と。
そして、ゆっくりと目を瞑り、薄れる意識に身を任せた。
「ぐほっ」
なんとも言い難い衝撃が叡嗣の身体を襲った。
「ゴホッゴホッ、おえっ」
むせながら、叡嗣は上半身を起こし、痛む背中を擦る。
頭はクラクラするし、背中は痛み、気分は最悪。
なんで、こんなことにと思い返し…………叡嗣は慌てて自分の腹を見る。
「!?…………ない」
確実に刺されたうえに割かれたはずの腹には、包丁も、傷跡も、血のあとも、ましてや腸が出ていた痕跡もない。そして、痛みも。
それこそ、まるで全て夢だったかのように、なにもないのだ。
不思議に思っていると、ふと叡嗣は周囲が異常なことに気がつく。
見渡す限りの草原。真横には叡嗣の身長の3倍はあるだろう高さの大岩。
空を見れば澄みわたる蒼穹。燦々と輝く太陽。
どう考えてもおかしい。
いや、ハ○ジじゃあるまいし……と、叡嗣は首を振る。
第一、叡嗣が居たのは東京の住宅街だ。街路樹や家の庭に芝があることはあっても、基本はコンクリートしかない場所だ。
それがどうして、こんなハイ○にでも出てきそうな風景に居るのか。叡嗣が混乱するにはこの風景だけで十分だった。
「……どこ、ここ」
かろうじて、そんな言葉が叡嗣の口から出たのはかれこれ5分程が経った頃だった。
それまで、そよ風に吹かれながら草の香りを嗅ぎながら、ただ呆然と叡嗣は座っていた。
「…………東京にこんなところあったか……?いや、それより俺刺されてたような……夢?いや、もしかして死んで、死後の世界とか?」
ブツブツと叡嗣は考えを巡らせる。
ふつうに考えれば夢だろう。なんせ、叡嗣の生きる21世紀の東京にこんな自然は殆ど無い。
誘拐の可能性もないだろう。誘拐ならわざわざ叡嗣のような人間を誘拐する必要は無いし、しかもこんな場所に連れてくる必要も無い。
もっと言えば、叡嗣の記憶では直近の出来事として男に刺されていたことが上げられる。そんな人間を誘拐するだろうか。
そんな事よりも、ここが死後の世界…………例えば天国だとした方がまだ説明がつく。
「………………」
立ち上がり、自分の服装を見る。
シンプルな白のロングTシャツにこれまたシンプルな黒のパーカーに、黒いパンツに、黒いスニーカー。
全身黒いが、バイト帰りと同じ服装だ。
しかし、周りを見る限り一緒に持っていた荷物がない。スマホも、家の鍵も、買ったばかりのから○げクンもないし、冬休みだからとMMORPGからFPSと徹夜で続けるために買ってきたエナジードリンクもない。
ポケットも探るが、スマホが、ましてやビスケットが出てくるわけもなく、虚しい感触が叡嗣の手に帰ってくる。
「いや……いや、本当に、、、ちょっとまってよ」
叡嗣は周りをもう一度見渡して呟いた。
別に、死んだなら死んだでそれでいい。形あるものは壊れるのが常だし、生もいずれ死に変わるのは当然の摂理だ。
しかし、それでも死んで死後の世界とかに来たのであればそれなりの案内があって然るべきではないかと、叡嗣は思う。
せめて、『ここは天国です!』とか『閻魔様に審判をしてもらいましょう!右に進んでください』みたいな看板くらいはあっても良いんじゃないかと思う。
しかし、そんなものはなんにも無いし、あるものと言ったら、土が剥き出しになった幅10メートル程の道のようなものが少し先に見えるくらいだ。
「…………」
叡嗣は先に見える道を見る。
「…………ここに居てもしょうがないか」
暫し逡巡し、叡嗣は呟くとその道へと歩みを進めた。