君に手向ける花はもう決まってる
赤紫色の花がゆらゆらと風に泳ぐ。
「綺麗だよな」
照れたように笑う君。わたしはそれにつられて花を見つめ、そうだねと小さく返事をした。
「だろ? 俺の誕生花だってあいつが教えてくれてさ。それから好きになっちゃって。ここには咲いてるから、毎年来るんだよ。ちょっとだけ摘んでいって飾ろうか」
柔らかくて優しい微笑み。花を掴む手は大きくて、少し筋張っている。昔はもっとふくふくとした手だったのに、いつの間にかこんなにも男らしくなっていた。
手だけじゃない。細かった腕はたくましくなり、女の子に間違われてしまうほど可愛らしかった顔は凛々しくなった。変わってしまった。
でも、変わらないものは確かにあって。
たとえば照れ臭い時に耳たぶに触れる癖だとか、その穏やかな微笑みだとか。
だけどきっと、それらがいつか失われてしまったとしても、絶対に変わることのないものはひとつだけある。
「きっと、えりこも喜ぶから」
何を言ってしまっているの。笑い返しながらもわたしは心中で呟いた。
それまで全く興味もなかったはずの花が好きになったのは「あの子が教えてくれたから」で、摘んで帰ろうとするのは「あの子が喜ぶから」のくせに。
● ● ●
君とあの子と、わたし。幼なじみ同士の三人は、ほとんどいつも一緒にいた。誰か一人が欠けていてもしっくりこなくて、もう一人を探してしまうのだ。
三人でひとつみたいだ、とわたしは思っていた。でも、君とあの子はいったいどう思っていたのだろう?
「ねえメイ、もうすぐゆうちゃんの誕生日でしょ? プレゼントは何がいいと思う?」
とある日。あの子がわたしの元を訪れて、不安げにそう尋ねた。声が少し震えていた。
いつもは元気いっぱいで、自分の取る行動のひとつひとつに自信を持っているようなのに、君のことになると別人みたく臆病になる。あの子はそういう子だ。毎年誕生日とかクリスマスとかそういうイベントのたび、他に頼ることのできる人はいないんだ、という様子でわたしのところまでやってくる。
こういう時、わたしは君がよく読んでいた雑誌を広げてあげるのだ。そこばかり開くせいで、栞なんて挟んでいなくてもすぐに分かるページ。
「あっ、そういえばゆうちゃん、これ欲しいって前に確か言ってた! ありがとう。さすがメイ、今年はこれにするね!」
頬を上気させつつ元気に言って、その場を走り去っていく。でも訊かなくとも本当はあの子の中でも結論は決まっていて、わたしに確認したいだけなのだ。
一週間後の誕生日当日。君は欲しかった腕時計をもらって、とても嬉しそうに笑っていた。
「見ろよメイ、かっこいいだろ?」
相談してきた日のあの子と同じように、頬を上気させて。あまりに符合している様子に、わたしはまじまじと君を見てしまった。
好みにぴったりのものをプレゼントされたことはもちろんだけれど、あの子からもらったのが嬉しかったんでしょう? 喉まで出かかった言葉は、そうだね、という返事で誤魔化した。
それがほとんど毎年恒例のこと。好き合った者同士というのは、似通ってくるものであるようだ。
● ● ●
変わらないものなんてない。君とあの子の関係も徐々に変化を見せた。
君があの子を何か言いたげに見つめていたり、あの子が君に期待するような目を向けていたり。あの子が何か言いたげに見ている時もあった。
周囲にはどちらの気持ちもバレバレだったようで、公認カップルのように扱われていた。しかし実際には付き合っておらず、ただの幼なじみ同士でしかなかった。そんな曖昧な状況がしばらく続いていたのだ。
それが崩れたのは、中学最後の夏休みも終わりを迎えた頃。
毎年、夏の終わりごろには花火大会があり、わたしたちは三人一緒に見に行っていた。その年も同様で、お祖母さんが縫ってくれたという浴衣を身にまとったあの子は、女のわたしから見てもとても綺麗だった。
君は隣に立つあの子を何度も何度も盗み見ていた。悟られないようにしていたつもりだろうけれど、わたしには分かった。たとえ、気づかれないぐらい上手に隠せたとしても、君があんなにも美しく着飾ったあの子を気にしていないわけがなかったんだよ。
色とりどりな光に照らされる二人を眺めると、とてもいい雰囲気。邪魔者だと分かっていたから、数歩下がったところでわたしは何も聞こえていないふりをした。
こういうきっかけは気を利かせたわたしが今まで何度も作ってきたけれど、君は勇気が出せなくて総てふいにしてきた。今回も駄目かな。諦め半分期待半分で、どのような結末を迎えるのかじっと待った。このまま時間が過ぎて行けば、いつも通り。自分に言い聞かせていたのに――その日の君は、違った。
「えりこ」
そう君が話しかけた後は、花火の音に掻き消されてしまってわたしには何も聞こえなくて。
だけど、すぐ傍にいたあの子にはもちろん聞こえたはず。少ししてから垣間見たら、あの子の顔は暗い中でも分かるぐらい真っ赤に染まっていたもの。君がいったいどんな言葉を紡いだのか、想像するまでもなかった。
「メイ! あのね、やっと言ってもらえたんだよ。ゆうちゃん、言ってくれた……嬉しい」
しかも報告をしっかりと受けたのだから、知らないふりなんてしようもなかった。
わたしがいつも通りに「よかったね」と呟いたのを確認したように、あの子は反対側の隣に立つ君へと視線を戻す。
二人はとても幸せそう。わたしはそれを見ながら安心すると同時に、目に映したくない事実から目を背けた。あの子が現れるまで、君のことはわたしがずっと独占できていたのに。
この年以来、わたしが君たちと一緒に花火大会へ行くことはなくなった。
● ● ●
高校の入学式。成績のいいあの子と一緒に通いたくて頑張った君は、同じクラスになることができてとても嬉しそうだった。
「えりこの奴、自己紹介で最初っから飛ばしてさ? クラス中が大爆笑。あいつやっぱりすげえよ」
早速ムードメーカーのような存在になったという自らの恋人について語る様子は、自分のことを話しているかのように誇らしげ。そういう君の方はクラスメイトと仲良くなれそうなのか少し心配になって尋ねたら、弾けるような笑みを浮かべたっけ。
「ばっちり。もう友達もできたし、問題ない」
確かに、君はいつもクラスの真ん中にいるようだった。小学生の頃は引っ込み思案で、はにかみ屋で、わたしに連れて行かれるまま同級生と向かい合い、会話しているような子だったのに。時の流れというのは本当に、人をこれほどまでにも変えてしまう。
「今日はいい天気だし、三人で散歩でも行くか? メイ、川べり歩くの好きだろ?」
別に嫌いではなかったが、そこまで好きというわけでもない。わたしがよく川原に行きたいとねだった理由を、全くと言っていいほど分かっていなかった。だが、勘違いだということを説明しようもない。わたしは最初から諦めていた。
うん、というわたしの返答を聞き、君は微笑んでから歩いていく。その手には携帯電話があって、会話を漏れ聞く限り、あの子と連絡を取っていた。後をついていくわたしのことなんて振り返りもせずに。
君があの子よりも優先してわたしを見てくれたことなんて、一度もなかった。
あの子と落ち合ってから向かった川べりは桜がもう散り際で、淡い色をした花弁がまるで雪のように降り積もり、絨毯を作っていた。ひらひらと目の前を踊る花弁を掴まえる真似をしてから、綺麗だね、と言おうとした時。
「もう散り始めてて残念だけど、綺麗だね」
「確かに。でも、また来年見られるよ。それにほら、春の花はまだあるし……他の季節にも、たくさん咲くだろ?」
「秋にはゆうちゃんが大好きな花が咲くもんね?」
あの子がからかうように見上げてくるから、君は少し照れ臭そうにして「やめろよ」と軽く顔を背けていた。あの子はそれに笑って、笑顔に応じる君もやっぱり笑顔で。
わたしの前なんかでは一度も見せたことのないような、甘い顔。二人の手はしっかりと絡み合うようにして繋がれていて、ひとつのイキモノであるみたい。声にすることすら叶わなかった感嘆の思いは、空中で中途半端に掻き消える。
わたしはいつだって二人の幸せそうな後ろ姿を眺めてばかりいた。
● ● ●
文化祭や体育祭に、定期テスト。様々な行事を繰り返して、今まであれほど机に向かっているところなんて見たことがないというほど勉強し、見事に大学へ合格した。その上で迎えた高校三年生の三月。君は高校の卒業式の日を迎えた。
卒業おめでとう。聞こえるかどうかも分からなかったがそう告げたら、君はこんな時だけは聞き逃すことがなくこちらを振り返る。
「ありがと。制服着るのも今日が最後だよ」
入学式の時と同じ照れたような様子だけど、ますます精悍になった顔の造り。そのせいだろうか。わたしの目には、背筋を伸ばして立つ君は未来への希望に満ち溢れているように映った。
「ゆうちゃん! 卒業おめでとう!!」
すらりと伸びた長い手を大きく振り、スカートのプリーツを揺らして、あの子が駆けてくる。君は一瞬にして笑顔になった。
「えりこも卒業おめでとう」
ポケットに留められた薔薇のコサージュ。黒い筒。三年間同じクラスで過ごすことができた仲良しで有名な君とあの子は、学部は違うが同じ大学に進むことが決まっていた。
「大学楽しみだね」
「そうだなー。自分で時間割組むとか初めてだから、ちょっと不安。っていうか講義がどんな感じなのかが一番不安だけど」
「そんなのちゃんと説明されるよ。オリエンテーションあるんだから。ゆうちゃんは相変わらず心配性だよね」
「えりこが楽観的すぎなんだって」
あの子は昔から可愛い子だったけれど、麗しいと言ってもいいほど日増しに美しくなっていた。大輪の花は徐々に綻び、鮮やかに匂い立つ。しかも素直で明るくて、わたしとは大違い。地味で、口数が少なくて。せっかく話しかけてくれてもほとんど一言を返すだけで。君をずっと眺めていても気づいてもらえるわけないって、知っていた。
だってわたしは――。
君たちはどんどんと歩いていく。お揃いの紺色のブレザーの後ろ姿を見るのは今日が最後だけど、たとえ制服をまとった背中を拝むことはなくとも、これから先も君たちは仲良く並んで道を進むのだろう。そしてきっと死ぬ時まで寄り添うに決まっている。わたしのことなんて置き去りにして。それならそれでもいい気がしていた。君が幸せなら、それで。
この時が幸せの絶頂期なんて知りもしないで、わたしは無責任に思っていた。あんな結末を迎えるのならば、置き去りに進んでくれた方が、よっぽどよかったのに。
● ● ●
騒がしくセミが鳴く。ギラギラと力強く輝く太陽は、真っ青な顔をしたあの子とはまるで正反対だ。
「ねえメイ。どうして? どうしてだと思う? 何でゆうちゃんなの? 他の誰かじゃないの……ゆうちゃん、何にも悪いことしてないのに」
両手で顔を覆うあの子に、わたしは何も言ってあげられない。きっとどんな言葉を紡いだところで、あの子が納得することなんてなかったに違いない。わたし自身が受け入れることも呑み下すこともできていない事実を、上手く消化させてなどあげられない。傍に寄り添っていることしかできなかった。わたしはなんて無力で、情けないのだろう。
闘う君の前では、今まで通り元気いっぱいに振る舞っていたらしいあの子なのに、わたしの前ではいつも泣いていた。どうして――永遠に答えなんて見つかるわけないのに、独り言を呟いて、きつく抱きしめてきた。すがるみたいに。
でもそうして耐えなければならない日々さえ、もう終わった。涙を隠さなければならない相手がいなくなってしまった今、彼女は息をするのも苦しそうにして座り込んでいる。
「メイに分かるわけないよね……誰にも分かるわけない。でも……何でなんだろう。死にたい人なんて他にいくらでもいるはずなのに、ゆうちゃんでなきゃならない理由なんてないはずなのに」
透明な雫がぼたぼたと床に落ち、水たまりのようなものを作る。あの子の虚ろな視線の先には、君がいた。いや、君ではなかった。君であったものが存在していた。
小さなフレームの中で君が満面の笑みをこちらに向けている。その少し手前には白い布に包まれた箱があった。
「これが、これがゆうちゃんのわけないよ……だって、ついこの間まで、あたしの頭を撫でてくれてたんだよ? こんな、こんな小さな箱が、ゆうちゃんなんだって言われたって……!」
あの子が、君の残骸を無表情に見つめるわたしに言っていたのか、それとも他の誰かに向けていたのかは分からない。でも、あの子の言葉は止まらなかった。
部屋の外では、黒い服を着た人たちが深刻そうな顔で何かを話し合っている。その手にはハンカチがある人がほとんどで、しきりに目の辺りを押さえている。
この時のつい数時間前、棺の中に納められた君を見た。成長してたくましくなっていたはずの腕は細くなり、いつでも穏やかな微笑みを湛えていたその頬はこけている。でも、痛々しい針の痕が残る腕の内側が、最期まで懸命に闘ったことを示していた。
でも、その事実はかえって遺された人の心に大きな傷を残したらしい。
皮肉だった。君が頑張れば頑張った分だけ、治ることを信じて待ち続けていた人たちの嘆きを増したなんて。
特にあの子は、乗り越えることが出来そうもないほどに毎日泣いていた。
桜の花は君の優しい笑顔を思い浮かばせ、真新しい傷を抉る。街を歩けば君の姿が目の前を横切っていき、傷が塞がるのを阻む。花火を見るとあの日の告白が蘇って、傷は化膿する。だけどわたしにとってもそれは一緒で、行く場所行く場所には君の欠片を見つけられた。君を忘れようとして生きるにはあまりに思い出が多すぎたのだ。それだけわたしたちは幼い頃からいつも一緒だった。
わたしたちが最も苦しめられたのは、秋口に咲くあの赤紫の花。
近所にある群生に、君がいる。君の幻がいる。「綺麗だろ?」とか「メイ」とかいう声が今にも聞こえそうで辺りを見渡すのに、ヒグラシが寂しそうに鳴くだけ。君の声を掻き消して、わたしの胸を乱していく。
君がどうして去ってしまったのか、わたしに難しいことは分からない。ただ、君がもうどこにも存在しないということは揺るがなくて、それをあの子はとても悲しんでいた。後を追って消えてしまうのではないかと思うぐらいに、ぼろぼろだった。
そして君は、そんなあの子を慰めることさえできない。小さな箱に収まるぐらいの物体になってしまったのだから。声を発することもなく、笑顔を見せることもなく、動くことすらないモノになっては。
「メイ。ちょっと風邪気味だから、病院行ってくるな」
いってらっしゃい。いってきます。笑顔を残して出ていく後ろ姿が見えるかのよう。思えばあれがわたしと君の最後の会話だった。わたしは最後の最後まで去っていく君の背中しか眺めることができなかったのかと気づくと、可笑しくもないのに笑えてきそうだった。
やがて君がいた証である白い箱も姿を消し、存在したことを証明するものは写真だけになった。しかしそれは写し身でしかない。本物の君などであるはずがない。触れたところで、フォトフレームのガラスが冷たい感触をもたらすだけ。その凍るような冷たさは、窮屈そうな箱の中で目を閉じていた君の手に触れた時の温度と似ていた。
毎日見ていたはずの笑顔をこれほど遠く感じる日が来るなんて、わたしは思ってもみなかったのに。全身で絶望を表せるあの子が羨ましかった。
だって、涙をこぼすこともできないわたしは、どうやって悲しんだらよかったの?
● ● ●
あの子は婚約したという。
君とは全く似ても似つかない容貌をした男の人の隣で、楽しげに笑っているのを見かけた。幸せそうだった。
でもひとつだけ、君と彼に似ているところを見つけることができたよ。優しい微笑み。君はいつだってあんな顔をあの子やわたしに向けてくれた。彼はきっとあの子を幸せにしてくれる。あの子はそういう人と結ばれることができたのだ。
よろめく足を懸命に動かし、わたしはあの場所へと向かっていく。
生きているということは進むこと。あの子は間違いなく進んでいる。君は安心した? それとも自分が幸せにできなかったこと、悔やんでいる? いや、悔しいだろう。悲しいだろう。でも優しい君だから、喜んでもいるのだと思う。
だけど今のわたしが足を動かすのは、前進するためではなく終わりを迎えるため。
風にそよいでいる赤紫色。シュウメイギク。君が愛おしんだ花。君が毎年欠かさず訪れていたところに咲き誇っている。わたしが君と出会ったのもここだった。
よろり、よろり、倒れるようにして座り込む。君はどこにもいないのに、季節はめぐっていった。君がいなくなってから、五度目の秋を迎える。
この秋は、わたしにとっての最後の季節になった。
できることなら、君にもう一度会いたい。でも同じ場所に行くことは、きっとない。だって、わたしは嘘つきだから。
君が大好きだった。
あの子のことも好きだったけれど、ずっと憎んでもいた。君が奪われたようで面白くなくて、それなのに協力するそぶりを見せて。でも、わたしに面白くなく思う資格があるはずなかった。
だってわたしは、初めから二人の幼なじみなんかじゃなかったから。二人の隙間に入り込みたくて、あの子と同じ土俵に立ちたくて、幼なじみなんだって自分自身に言い聞かせてきた。
でも、違う。わたしたちはいつだって二人と一人だった。いや、正確にはそれも違う。
だってわたしは――。
声にならない声で、君の名を呼ぶ。記憶の中の君はいつだって笑っている。あの子が『あの世』と呼ぶ場所でも、笑っているのだろうか?
意識が薄らぐ中、決して忘れまいと強く刻みつけていた映像が蘇る。
「シュウメイギクっていうんだよ」
ここに初めて君と一緒に来た時に、君はそう教えてくれた。
「でも、あんまり贈り物には向かないんだって」
わたしは全く花についての知識を持ち合わせていなかったので、どうして? と首を傾げた気がする。
「花言葉が、さ。あんまりいい意味じゃないんだとか。『忍耐』に『薄れゆく愛』……何かもの悲しいだろ? 秋は感傷的になる季節だからなのかもしれないけど、こんなに綺麗なのにな」
そうか、感傷的になる季節なのか。でもわたしにとっては出会いの季節というイメージしかなかった。君に出会ったのは秋だったから。
少し寂しげな横顔を見て、それから花へと視線を向けた。自分がそんな言葉に当てはめられているということを知る由もなく、ただ刻み付けられた運命に従って生きているシュウメイギク。
「あと、これを誰かに贈る時って――」
不意に君が言った。
その後に続けられた説明を聞けば、シュウメイギクという花がどうして贈り物には向かないかが腑に落ちた。でも、それを知ってもなお、わたしはこれを君に贈ろうと思う。
消えてしまったその時から、君に手向ける花は決まっていた。
体から力が抜ける。目を閉じる。意識が暗く深く、どこまでも潜っていく。寸前に見えた青い空はどこまでも遠かった。
「これを誰かに贈る時って、さよなら、って意味になるらしいんだ」
わたしを拾ってくれてありがとう。さようなら。
○ ○ ○
夕暮れ時、道の向こうから駆けてきた小学生ぐらいの少年が不意に立ち止まった。赤紫色をした花の群生の辺りで。彼はそちらにそろりそろりと向かっていき、背の高いその花を掻き分ける。
「何してるの」
母親らしい女性が後からやってきて、そんな息子へ怪訝そうに声をかける。
「おかーさん。猫、死んでる」
近づいていった母親は彼が指し示したものを認め、わずかに眉根を寄せた。
「本当だ……埋めてあげましょうか」
親子は協力して近くに穴を掘り、その猫を埋めてやる。間もなく土に隠れて見えなくなったが、少年はその場から離れようとしない。
「どうしたの?」
「あの猫、鈴してた。飼い猫だったのかなあ」
「そうかもしれないわね」
「家に帰れなかったのかなあ……? 飼い主、きっと悲しいだろうね」
「そうね――」
親子は手を繋いで歩いていく。彼らの帰る家へとまっすぐに。
彼らは知らない。少し離れたところにある墓地に、その場に咲き誇っていたのと同じ花が手向けられた墓があったことなど。
そして、
「シュウメイギク、ゆうちゃんは毎年見に来てるぐらい好きだよね。どうして?」
「だって、メイに会わせてくれたのはあの花だから。俺にとっては、シュウメイギクはお別れの花なんかじゃなくて――出会いの花だから」
メイは過去になされたこの会話を知らない。
2014年に発表した作品のWEB再録です。
萌芽つゆり様(http://xxxxx36.tumblr.com/)よりタイトルを頂き、そこからの着想にて物語を組み上げました。この場をお借りして感謝の意を述べさせていただきます。ありがとうございました。