「あたしには彩世ちゃんだけが総て」
玄関扉の鍵を閉めた彩世ちゃんがあたしのことをぎゅって抱きしめてくれた。背の低いあたしに合わせるために膝立ちになって、強く体を引き寄せてくれていた。桃源坂女学院の制服越しに僅かに伝わる体温。ラベンダーの香りのデオドラントスプレーに混じり彩世ちゃんの汗の匂いが感じられたから首筋にさらに額を押し付けた。
彩世ちゃんはなにも言葉にせずに、あたしの背中を規則的に撫でてくれていた。泣きじゃくり言葉がでないあたしを落ち着かせるために、いつもこうしてくれる。
(あたし最悪だ)
彩世ちゃんに迷惑をかけないようにすると誓った矢先にこの失態。面倒がられて嫌われたって当然なのに、彩世ちゃんは抱きしめてくれる。あたしの涙で制服が汚れることも気にせず、あたしが苦しくないくらいの力でぎゅっとしてくれている。
(なんで……なんで彩世ちゃんは、こんなにあたしのことをわかってくれるのだろう)
血のつながりもなく、一緒に暮らし始めてまだ半年くらいしか経っていない。お母さんとも違う優しさ。汐見くんとお姉さんの関係とも違うカタチ、あったかくて心地よいカタチ。
あたしに本当のお姉さんがいたとしても、彩世ちゃんのように接してくれたのだろうか? 仮に、あたしと彩世ちゃんが本当の姉妹だったとしても、彩世ちゃんは今と同じように抱きしめてくれてたのだろうか?
たぶん違う。彩世ちゃんは優しい。とても優しいから、あたしのことも構ってくれているんだ。あたしがひとりではなにもできないから、仕方なくご飯の支度や家のことをやってくれている。
態度や表情には出さないけれど、彩世ちゃんはきっと、あたしのことなんて……なんとも思っていないんだ。
あたしがどんなに彩世ちゃんのことが大好きでも、彩世ちゃんにとっては、あたしなんてただのお荷物。ただ面倒なだけのお邪魔虫。厄介者。
あたしがいなければ、彩世ちゃんが部活動を辞める必要もなかったし、お友達と遊びに行くこともできる。アルバイトをして好きなお洋服を買ったり、その気になれば読者モデルだってできるはずなのに。
「ごめんなさぃ、ごめんなさい」
気がつけば言葉にしていた。震えながら溢れた彩世ちゃんへの謝意が、再度あたしの落涙を呼び起こした。
恐怖が全身を強張らせる。鼻と喉からは嗚咽がもれるのに、あたしの体はロープで縛られたように動かなかった。すぐに泣き止んで笑顔を浮かべながら「冗談だよ」とでも言うことができない。悲しみが、不安が止まらない。
あたしを繋ぎとめてくれていた両手が緩み、体が解放された。いつまでもグズグズ汚い顔をしているあたしに彩世ちゃんが愛想を尽かしたからに違いない。もう二度と口も聞いてもらえないかもしれない。
「……ぁ」ぴったりと、おでこに熱が伝わってくる。さらさらの髪が耳に触れてこそばゆく、甘い汗の芳香が鼻腔に満ちる。頬の両側はたおやかな手のひらが覆い隠す。恐る恐る目を開くと、唇が触れそうな距離に彩世ちゃんの顔が迫っていた。額から鼻先までが接触していて、閉じられた瞼からは彩世ちゃんの睫毛の長さを実感する。
「ゆらかちゃん」
いつもと変わらないように――――、それ以上の慈愛の旋律があたしの名を奏でた。不意に緊張と不安が霧散して、全身が驚くほど弛緩する。彩世ちゃんの支えがなければへたり込んでいたほどに。
「一緒に、お風呂入ろっか」
◇◆◇◆◇
43℃よりも低温のシャワーを浴びる。クマの顔をしたボディスポンジには、彩世ちゃん愛用の天然植物石鹸がメレンゲ状になっていた。彩世ちゃんは泡を掬い取り、手で直接あたしの体を洗ってくれた。
「スポンジで直接ごしごししちゃうと、お肌が荒れちゃうのよ。だからこうして、手で洗ってあげるのが一番なの」
絹のような指先が、あたしの貧相で未成熟な全身を泡のドレスに仕立て上げてくれた。くすぐったくて恥ずかしくありながら、魔法の指先に身を委ねる。いつまでも彩世ちゃんの手の感触に酔っていたい衝動に脳が麻痺し、何度も声を上げてしまう。
あたしが呆としている間に彩世ちゃんは手早く体を洗い終えていて、二人で湯船に浸かった。半分ほど張られていた浴槽のお湯がちょうど肩くらいまでに上がる。
彩世ちゃんは浴槽に背を預けていて、あたしはそんな彩世ちゃんに背後から抱きしめられる形で湯に浸かっている。豊満な膨らみを背中で感じ、肩を撫でられる手の感触を味わっていた。嬉しいけど、照れくさいから逃げ出そうとしても彩世ちゃんの手は許してくれない。あたしのペタンな胸やポコッとしたお腹を引き寄せるのだ。
お湯のせいか、彩世ちゃんの所為かの区別ができないほどに首から上が熱っぽくなり、耳までが痒くなる。女神の抱擁からの脱出を諦めて、あたしは幸せだけを全身で感じることにした。
彩世ちゃんはなにも言わないし聞かない。“沙羅双樹”を鼻歌で奏でるだけだ。ときどき音程が外れるけど、その心地よさに自然と瞼は重くなっていく。
ほんの少し前までココロを支配していた不安はない。あたしの内側のガラス瓶は、彩世ちゃんだけで満たされている。
いつでも、どこでも、一緒にいたいと願っている。一緒にご飯を食べて、一緒に登校して、一緒に買物して、一緒にテレビを見て、一緒にファッション誌を読んで、一緒に勉強して、一緒にお風呂に入って、一緒の布団に入って、すぐ隣で寝息と体温を感じながら眠りたい。
出かけるときには手を繋ぎたいし、お揃いの格好もしたい。二人だけで旅行もしてみたいし、望めるのなら恋人になりたいし――――キスもしたい。
やっぱり、あたしは変な子だ。保育園のときには汐見くんのことが好きだったはずで、今でも嫌いじゃない。サラちゃんとのおしゃべりや買物は楽しいし、もっと遊んでいたいとも思う。
でも彩世ちゃんは別。ちんちくりんなあたしとは違い、可愛くて綺麗で完璧な女の子。まだ十年くらいしか生きていないけど、憧れよりも大きくて強い感情があたしのココロを押し潰そうとする。
初恋で、ひとめ惚れ。この先に彩世ちゃんよりも素敵な人が現れるなんて考えられないし、あたしには彩世ちゃんだけが総て。他に欲しいものなんてない。
あたしは、彩世ちゃんが欲しい。
「彩世ちゃん……は、卒業したら、どうする、の」ぼんやりとした意識で口が軽くなっていたから、あたしのココロの声が喉から零れ落ちた。
「そうね。どうしようかな。就職するかもね。大学ってお金掛かるし、この家のローンも結構有りそうだしね。お父さんたちには内緒よ」
「なにに、なるの?」
「なりたいものって特にないかもね。OLとかかな? 介護師さんだったら認定資格だからすぐに取得るから、働き口はありそう。人の役に立つなら悪くないしね。ゆらかちゃんは将来、インテリアコーディネーターだもんね。いいなぁ、夢があって」
「なれるかどうか、わからないよ」
「なれるわ絶対。“可愛すぎるインテリアコーディネーター”とかで本書いたり、テレビに出たり。雑誌の家宅診断コーナーでコラムとか持ったりできるかも。だったらいいな。そのときには、わたしの家のデザインとかもゆらかちゃんにしてもらうからね。
ううん、ゆらかちゃんの初仕事はわたしの家にしてもらう。それまでにちゃんと貯金しとかないとね」
(彩世ちゃんが将来建てる“家”って、それは誰と住むためのものなの?)
左の耳元で囁かれる彩世ちゃんの将来とあたしの将来に暗い影が差すようだ。悪いことばかりが頭をよぎる。彩世ちゃんが誰かと結婚して子供が生まれて、家族として住まうための家。
インテリアコーディネーターになっていたとして、あたしはそんな初仕事ができるのだろうか。あたしから彩世ちゃんを奪った人物の隣で微笑む彩世ちゃんと赤ちゃんを前にして、あたしはどんな顔をしているのだろうか?
「――――――ぃるの」
「すきなひとはいるの」自分でも聞き取れないほどのつぶやきに、彩世ちゃんはあたしの体を密着させるほどに締め付けてきた。
「いるわ」
「っ!?」
ビクン。体が跳ねそうになるが、彩世ちゃんの締め付けがそれを阻止していた。どうしても知りたいことだけど、絶対に聞きたくなかった内容だ。腕ごと抱かれているせいで耳を塞ぐこともできない。
「わたしには好きな人がいるの」
耳たぶに息がかかる。背筋がゾクゾクと痺れるような感覚と同時に、意識は闇に堕ちていく。目の前が暗く、閉ざされていった。
※今話のあらすじは「一緒にお風呂に入って、カレシのことを聞く」の一行でした。