「女の子が、同じ女の子を“好き”になるなんて――――」
ぶぉぉぉん。熱風を吐き出すドライヤーを遠めから髪にかける。あまり近すぎると頭皮がやけどしたり、髪質が傷む原因になりえるからだ。あらかじめ水分は拭っておき、熱風でサッと乾燥。その後で冷風に切り替えて細部まで乾燥させる。時間がかかるし毎日するのは面倒だ。
しかし、このひと手間が重要なのだ。するかしないかで、髪の色艶に雲泥の差が生まれる。実際に件の方法を試してみたところ、髪の毛に光が綺麗に反射して“天使の輪”見ることができたのだ。
……って、これ全部、彩世ちゃんが教えてくれた綺麗の秘訣。なにげない日々の努力の積み重ねが、女の子の可愛さを引き立てる。彩世ちゃんが言うと説得力が違う。彩世ちゃんがそのまま美の体現者である女神様その人であるから、彩世ちゃんのお言葉は天啓と同義。
この方法を教えてくれた際には、彩世ちゃんがその御手を以ってあたしの髪を乾かしてくれたのだ。彩世ちゃんの神聖なる指先が、ごわごわのウール同然だったあたしの髪を、ケント紙表面のような滑らかさに再生させてくれた。
あのときの、彩世ちゃんの指が通る感触は忘れることができない。背筋にまでビクビクと伝わる、悪寒に似て非なるカンカク。猫じゃらしで撫でられたようなこそばゆさに、あたしは悲鳴を上げてしまった。
彩世ちゃんが顔を覗き込んでくれた。彩世ちゃんのダークブラウンの瞳に、ちんちくりんのあたしの顔が映っていた。あたしの瞳にも、きっと彩世ちゃんが映っている。彩世ちゃんだけが映っている。
きゅう、と胸が苦しくなった。痛くてモヤモヤして悲しくなって、それがどうしようもなくて。彩世ちゃんの前であたしは涙を零してしまった。嫌だったからじゃない。よくわからない不安が胸いっぱいに押し寄せて、溢れた。
泣きじゃくるあたしに、彩世ちゃんは手をぎゅってしてくれた。あたしの
体をぎゅって抱きしめてくれた。そしたら今度は嬉しくなって泣いてしまった。
ぶぉぉぉん、かち。ドライヤーをフックに引っ掛けてから、鏡の中の自分をチェックする。ドレッサーにある椿オイル配合のヘアミストを三回プッシュし、髪全体に馴染ませる。髪の艶が増すだけでなく保護もしてくれるし、香りも良い。なにより彩世ちゃんと同じものを使っていることが顔をにやけさせる。
左、右、頭頂。もう一回だけ左右を向いて確認。
「よし、カンペキ!」彩世のお風呂上りの姿を思い出して、鏡にもにっこり愛想を振り撒く。ジューサーが小気味よく回る音に導かれるように、あたしは洗面所を後にする。
◇◆◇◆◇
「彩世ちゃん、おはよう」
「おはよ、さっきはごめんね。知ってたら一緒に入ったのに」
(はぅ、一緒にお風呂ですとっ!?)
「ぅ、ぅん。今度、ね」
「今度ね。あ、今日ちゃんと椿オイル使ってるね。ん、いい匂い」
なるべく平静を装っているのに、刺激的なおコトバが臓腑をえぐる。今からでも一緒にお風呂に入りたい、けど無理を言って困らせるのもダメ子ちゃんだ。ここはグッと我慢する。
「今朝はね、じゃーん。エッグ・ベネディクトを作ってみたの。このポーチドエッグが難しくて一個失敗しちゃった。ゆらかちゃんはこっちの綺麗にできたのよ」
エッグ・ベネディクト、そしてポーチドエッグ。彩世ちゃんが唱えるだけで、いやらしく感じてしまう。いま流行の朝食メニューの名称を声に出しただけなのに、なんという破壊力だ。
きっと彩世ちゃんのクチビルがいけないのだ。リップも塗っていないのに満点の血色。イロ、ツヤ、カタチ、そのどれもが一級品。佐藤錦と比較したとしても負ける要素がひとつもない。
(たぶん糖度もすごいんだから)
天河家名産の彩世錦を眺めつつ、あたしの指定席に座る。新しいおうちを建てるときにお義父さんがこだわったのがキッチンだ。狭いスペースを有効活用しようとキッチンカウンターに大きめの天板を特注してくれたのだ。
天板はL字になっていて、長辺に椅子が三脚と短辺に一脚置かれている。作った料理をすぐに並べられる上に、ダイニングテーブルを置かなくても済むのだ。家族四人でご飯を食べるときは、長い方にお母さん、あたし、彩世ちゃん。短い方にお義父さんが座るようになっていた。
あたしのお母さんは看護師をしている都合で夜勤があるから、一緒にご飯を食べる機会が限られている。お義父さんも最近は早く家を出ることが増えてきたから、朝食は必然的にあたしと彩世ちゃんの二人きり。二人での食事の場合にはお互いがLの角っこに座る。なぜなら角っこは隣同士でありながら向かい合えるという両方の特性をもつ奇跡のポジションだからだ。
あらかじめ準備されていたランチョンマット上には、エッグベネディクトと彩り野菜サラダと三種ベリー・スムージーが並ぶ。彩世ちゃんは料理を並べる器にもこだわっている。自宅での毎回の食事はそこいらのレストランにだって負けていない。これあたしの自慢!
ピィ、カシャリ。彩世ちゃんがデジカメでブログ用に料理を写真に収めるのも朝の定番。嬉し恥ずかしいことに、あたしを一緒に映してくれているのだ。エッグ。ベネディクトのお皿を持ち、なぜかエプロンを着せられて僅かに体を左右にしならせる。彩世撮影監督の指示なのだ。
「ゆらかちゃんが作りましたっていう表情で、そうそう可愛いわ」
ピィ、カシャリと四、五枚ほどが撮影される。あたしも最近始めたブログ用写真を撮るためにモデルと撮影監督を交代。スマホを構えて、シャッターを数度押した。あたしと違い、堂に入った彩世ちゃんのポーズ。テーマは「おねえちゃんの料理」のはずが、気がつけば焦点が彩世ちゃんだけを捉えている。これでは「おねえちゃん。が料理」だ。
でも。勝手に撮っちゃった彩世ちゃんだけを映した写真はあたしのスマホの中に保存する。今日以外にも写真は撮ってあるし、全部ちゃんと残している。写真をどうこうする気なんて毛頭ない、ときどき一人で眺めるだけ。
あたしには彩世ちゃんみたいに「写真撮らせて」なんて言うことはできない。彩世ちゃんは、たぶんお義姉ちゃんとしての純粋な好意を向けてくれている。
それに比べて、あたしが彩世ちゃんに抱いているのは、世間一般の常識からは外れているイケない感情。一生叶わない、望むことも願うこともいけない想い。
女の子が、同じ女の子を“好き”になるなんて――――。
小学生が、一緒に暮らす高校生の義姉を『好き』になるなんて――――どうしたらいいかわからない。
仲の良い友達のサラちゃんにも誰にも抱いたことのない気持ち。あたしだけの彩世ちゃんへの気持ち。
いまは彩世お義姉ちゃんの好意に無邪気に甘える義妹を演じているけど、夜になると苦しくなってくる。以前に彩世ちゃんの前で泣き出してしまったときみたいに、胸が痛くなって、ベッドの中で泣いてしまう。
薄い壁を一枚隔てた先にいる彩世ちゃんを想うと頭がもっと変になってしまうのだ。また、あたしのことをぎゅってして欲しい。よしよしと髪を撫でて欲しくなる。スマホに収めた、彩世ちゃんの隠し撮り写真を見ても、苦しさは全然治らない。もっとしんどくなってしまう。
『いただきまーす』彩世ちゃんとのシンクロ挨拶を作り笑いで終え、温かいエッグ・ベネディクトにナイフを入れ、口に運ぶ。半熟の黄身が蕩けだしてソースと混じり、サーモンやマフィンをまろやかに包み込む。
「どうかな、変じゃない?」
「うん、美味しい! 彩世ちゃん料理の天才!」
元気さを取り繕い、至高の料理を胃に収める。途中、何度も口をつけたスムージーで朝食を締めとする。最初は綺麗に盛り付けられていた三種ベリーがスムージーが溶け始めたことで、グラス内に沈み埋もれていた。
「はい」彩世ちゃんは長柄のパフェスプーンを手渡してくれる。なにも言わなくても、いつもあたしのことを見てくれている。
「彩世ちゃん、ありがとう」スムージーをかき回し、ほじくりだしたブルーベリーにあたし自身を重ねてしまう。
もしも彩世ちゃんがあたしの想いを気付かれたら、どうなってしまうのか。
嫌な顔をされるかもしれない。変なものを見るような目で見られるかもしれない。気持ち悪がられて二度と口を聞いてもらえないかもしれない。
ココロの大部分では気付いて欲しいと求めながら、ゼッタイに知られたくないとの不安もある。
だから、あたしは自分勝手な想いを抑えなくてはならない。彩世ちゃんに嫌われるくらいなら、お義姉ちゃんと義妹で充分幸せだ。
『ごちそうさまでした』のシンクロ挨拶でお互いの顔を見合わせる。「あっ」と彩世ちゃんのユビがあたしのクチビルをなぞった。
「ゆらかちゃんおひげ。ん、甘い」スムージーの跡を掬い取ったユビに、彩世ちゃんの舌が這う。
肺の奥がまた疼きだす。ここで泣いてはいけない。いま泣き出してしまったら彩世ちゃんを困らせてしまうから、普通にしていなければいけない。彩世ちゃんに嫌われたくないから!
「ぁりがとぅ……」あたしは精一杯笑って見せて、顔を洗うために洗面所に戻った。ドレッサーの鏡には複雑な顔の小学生が映っている。
(あたし、がんばったんだよ。泣かなかったんだから)
鏡の中の小学生は大好きな女性の笑顔を真似してから、蛇口をひねった。