今は、ふたりぼっちの世界で。
女は訝しそうに、呆れたように、しかしどこか嬉しそうに目を細めた。
「笑いながら言うから、冗談なのか本気なんか分かんない。……ほんと、あんたって何考えてんのか分かんないわ」
無表情ともいえる顔で女がそう言うと、男は泣きそうな顔で微笑んだ。
女は、「介入」の力を持っていた。
望んでいないのに、他人の心の中に介入してしまう。結果、人が何を考えているのか、何を思っているのかが簡単に読めてしまうのだ。「読む」というより「聞く」の方が正しく、たとえどんなに静かな――例えば図書館のような場所にいたとしても、女にとっては都会の喧騒の中に立たされているのとなんら変わらなかった。耳を塞いでも聞こえてくる声は負の感情の方が圧倒的に多く、女は子供の頃からそれらに触れて生きてきた。
しかし、女の能力はそれだけではなかった。
「人の心を読む」だけではなく「自分の心を読ませてしまう」力まで持ち合わせていたのだ。
喜怒哀楽のすべてを、他者に読まれてしまう。女が無表情であっても、それは変わらない。自分は何も望んでいないのに。
家族との関係が壊れるのは、あっという間だった。
【お母さんが怒ってる】
『この子はまた、私の考えてる事に気付いているみたい。どうなってるの?』
【やだな、聞きたくないのに】
『おもちゃでも買ってあげたら、この子も大人しくなるかしら』
【……おもちゃなんていらないのに】
『あんまり喜んでないわ。どうしよう』
【お母さん、困ってる】
『まただわ。まさかこの子、私の心でも読んでるの?』
【……気持ち悪い子、って、思われた】
うまくいくはずが、なかった。
読めるのは、自分の視界に映る人間の心だけ。そんな制約は、何の意味もなかった。数十メートル先にいる人間だろうと、自分の視界に入れば心が読めてしまう。他者との関係も上手くいくはずがなく、女が他人との接触を避けるようになるのは当然の流れと言えた。
女は、感情を持たない人形のようになっていった。
やがて、誰も近づかないような森の中にある小屋に、たった一人で住み始めた。
男は、「断絶」の力を持っていた。
望んでいないのに、他人の感情を遮断してしまう。他人が何を考えているのか、全く分からないのだ。
他者の心が読めない。それは、この世界を生きる人間のほとんどがそうだと言える。しかし、大体の人間は、顔や声色で「なんとなく」でも他者の気持ちを察したり、場の空気を読んだりすることができる。
男の場合、それすらもできなかった。他人の顔は全てのっぺらぼうのように見えたし、声も平坦にしか聞こえず、感情の起伏によって変化するそれらを理解することもできなかった。
どんなに目を凝らしても、耳を傾けても、何も分からない。全てを断絶しているせいで、親の愛情すらも理解できなかった。
何もない世界。男は子供の頃から、そんな場所で生きてきた。
しかし、男の力はそれだけではなかった。
「人の心を断絶する」だけではなく、「自分の心を断絶してしまう」力まで持ち合わせていたのだ。
お前は何を考えているのか分からない、と子供のころから言われ続けた。喜び、怒り、哀しみ、楽しみ……。笑ったり泣いたり、声を荒げてみたり。自分としては精一杯、感情を表しているつもりだ。それでも他人から見た男はどこまでも無表情で、よく言えばポーカーフェイス、ありのままを言えばのっぺらぼうだった。
医者に行けば口をそろえて「知的障害」「コミュニケーション能力の欠如」だと指摘される。実際、そうなのかどうか男には分からない。
どこに行っても「空気を読めない」と言われ、嗤われる。人形のようだと馬鹿にされる。男が他人との接触を避けるようになるのは当然の流れと言えた。
男は、感情を持った人形のようになった。
やがて他者との接触を避けるため、誰も近づかないような森の中にたった一人で踏み込んだ。
女と男が出会ったのは偶然なのか、必然なのか。それは、誰にも分からない。
小屋の窓から外を見ていた女は、目を疑った。こちらに向かって歩いてくる男の感情をまるで読めなかったからだ。あの男はロボット、あるいは人形なんじゃないかと考えた。心を読めない、そんな人間と出会うのは生まれて初めてだったからだ。
小屋に向かって歩いていた男は、目を疑った。こちらを見ている女が、驚愕しているのが分かったからだ。あの女はロボット、あるいは人形なんじゃないかと考えた。のっぺらぼうではない、そんな人間と出会うのは生まれて初めてだったからだ。
女は「介入してしまう」力で、自分の心を男に読ませた。結果、男は女の表情や声の変化、感情の起伏だけは理解できるようになった。
男は「断絶する」力で、女に心を読ませなかった。結果、女は『男の心を読んでしまうのではないか』という恐れもなく、安心して隣に座ることができた。
二人が同居するようになったのは偶然なのか、必然なのか。それは二人にも分からなかった。
「前に言ってたろ。二人でいつか『普通』になりたいって」
男が言うと、女は無言で頷いた。
「普通っていうのがどういうのか分からないけどさ。多分ほとんどの人は、ある程度の『介入』も『断絶』もできるんだと思う。俺たちはそのどちらかが欠けていて、できない。だから、他人とうまく付き合えなかった」
だけどさあ、と男は照れ臭そうに笑った。
「そのおかげで、君に逢えた」
女は笑わない。あくまでも無表情を装って、男を見つめ続ける。
「俺さ、本当に嬉しかったんだ。今まで、皆のっぺらぼうなんだって思ってた。声は電車のアナウンスみたいに事務的で、感情を込めるって意味が分からなかった。だけど、君だけは違ってた。……俺はまだ、『君の』表情しか分からないけど。君はちゃんと笑うし、泣く。怒ったら、声がひっくりかえる。それが分かって、本当に嬉しかった。やっと世界と繋がった、というか」
男の言葉を黙って聞いたいた女は、ようやく口を開いた。
「――……私はもう、感情なんてもの捨てたつもりなんだけどね」
「だとしたらそれ、失敗してる。君は感情がある。俺が保証する」
「保証されても困るんだけど」
一切困ってなさそうな声で、女は言った。男は笑う。
「ほら、照れてる」
「……もういいわよ、なんでも。それで?」
話の続きを促すと、男はこくりと頷いた。
「俺、思うんだ。もしも普通になれる方法があるのなら、それは禁断の果実なのかもしれないってさ。……変な力を持ってるせいで、君は苦労したと思う。けれどもしも、その『介入』の力をなくしてしまったら、君は完全に自分の中に閉じこもってしまう気がするんだ。今まで否応なしに介入しきたせいで、今度は他人のすべてを、……きっと俺の事も拒絶してしまうんじゃないかって」
「……他人を拒絶してるというのなら、今もそうだと思うけど?」
「俺の事も?」
女は答えない。男はしばらくしてから苦笑した。
「誰もいない、――他人を拒絶するだけの世界ってさ、寂しいよ」
苦しさの滲み出ている声だ、と女は思った。
女は『この男には介入できない』と思っていたが、実際はそうではなかった。一切介入できないのなら、断絶の力を持つ男の表情や声の変化は分からない。男がこれまで会ってきた他者のように。
少なくとも女から見れば、男の顔はのっぺらぼうではなかった。ちゃんと笑うし、――初めてここに来た時は泣いていた。
「……あんたはもしも普通になったら、介入したがりのお節介な人間になりそうね」
「それは、今もそうだと思うけど? あ、あとさ」
「なに」
「俺が言っても伝わるかどうか分かんないけど。――好きだよ」
へらへらと笑う男を見て、女は訝しそうに、呆れたように、しかしどこか嬉しそうに目を細めた。
「笑いながら言うから、冗談なのか本気なのか分かんない。……ほんと、あんたって何考えてんのか分かんないわ」
無表情ともいえる顔で女がそう言うと、男は泣きそうな顔で微笑んだ。