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「な、ギンガ、フェイって誰?」追尾しながら泉が尋ねると、
「……なぜ、その名を知っている?」銀河が厳しい口調で聞き返した。その声は少し緊張し、こわばっている。
「寝言で名前呼んでたよ。ひょっとして、コレ?」
背を向けたままの彼が見えるはずもないと知りながら、小指を立ててみせた泉は、足を動かしながら話し続けた。
「夢にまで見ちゃうなんて、よっぽど好きなんだな。熱いねぇ」
「彼女なんかじゃないさ」嘲笑した銀河は、「……俺がこの手で殺した相手だ」冷酷に言い放った。
足を止めることなく前を行く背中が目の前にあるというのに遠くを歩いているように感じ、泉はそれ以上何を聞くこともできずにうつむいた。そして、ぼろぼろに擦り切れた自分の小汚い靴を凝視し、ひたすら足を動かすことに集中した。聞かなければよかったという後悔と罪悪感に包まれる。
銀河が本当は優しい人間であるというのは、事実ではない。事実かもしれないが、今はまだ、あくまでも泉の主観に基づいた印象でしかない。実際、彼の本質を何一つ分かってはいないのだから。ほんの半日前に出会い初めて "顔見知り" になったばかりだ。だからこそ彼の過去を少しでも知りたいと思ったのだが、これ以上踏み入るべきではないという本能の警告に泉は逆らえなかった。
やがて銀河がピタリと足を止め、右手を振り仰いだ。視線の先に大きな煙突が二本、少し遠方に並んでいる。白い塔に、横三本、赤いラインが入っているが、泉の表現したクリスマスのキャンディにしては陰気で、イベントの浮かれた雰囲気など持ち合わせてはいなかった。
「あ、あれだよ。間違いない」銀河の視線を追った泉が少し興奮気味に声を上げ、
「静かに」咄嗟に彼女の口を塞いだ銀河は慎重に外壁へ視線を向けた。
泉の言っていたように、小さな穴が開いている。確かに小柄で細い泉であればなんとか抜けられる大きさだろう。だが成人男性にはどう逆立ちしても通れるものではない──考えた瞬間、微かな、それでも鋭い痛みがこめかみを貫き、手を当てた銀河は軽く目を閉じた。空白の記憶を無理に思い出そうとすると、いつもその症状が現れる。そうして今、何かが込み上げてきていた。それが失った記憶の一部なのかは分からない。だが、じわじわと体の奥から湧き上がった何かは、おかしな焦燥感となり胸で渦巻き、不安感へと変わってゆく。
それを払うように小さく首を振り、銀河は目を細めて外壁を見上げた。全神経を集中させ、糸を張り巡らせる。蜘蛛が獲物を絡め取るために巣を張るように。しかし糸は震えることなく、近くに生命の存在がないことを沈黙をもって知らせた。
「大丈夫、誰もいない」
口から手が離れた瞬間に、ぷはっと喘いだ泉は、それでも声を潜めて尋ねた。
「なんで分かるのさ?」
「さあ、どうしてだろう」
銀河が意味ありげな笑みを浮かべたので唇を尖らせた泉は、「なんだよ、感じ悪い……あ?」唐突に閃いた考えに目を見開いた。「ひょっとして、ギンガもアタイと同じ? 何か力を持ってるのか?」
「さあね」
微笑を浮かべたままさらりとかわす銀河に泉が詰め寄る。
「そうなんだな? そうなんだろ? でも、どこも変わりないよな……あ、ひょっとして!」
興奮した泉は、いったん潜めた声を再び張り上げた。
「アタイと一緒で見えない部分がアレなのか。キンタマが四つあると──」
「ないっ!」
目を見張った銀河に素早く言葉を遮られ、キョトン、と彼を見つめた泉は次の瞬間、大声で笑い始めた。
「あはは……その顔! なんだよ、そんな顔もできるんじゃん! あはははは」
銀河が憤然と呟く。「……そんな言葉を簡単に口にするな」
「ええ、だって、キンタマはキンタマだろ。キンタマでないなら、なんて呼べばいいんだよ。アタイの父ちゃんはキンタマって呼んでたよ」
「……もういいよ」銀河はがくりと肩を落とした。諫めたつもりが連呼させる羽目になってしまった。これ以上、どう諭しても無駄だろう。
銀河の照れくさそうな、気まずそうな表情があまりにおかしくてゲラゲラと笑い転げていた泉は、ふと湧いた考えに表情を正した。
「あのさ、ギンガ……答えたくなかったら答えなくていいんだけどさ」前置いてから遠慮がちに尋ねる。「アキトさんを……って思ってる理由ってひょっとしてそれなのか? 父ちゃんに、実験に使われたから恨んでるのか?」
「実験……に?」
泉の言葉で改めて銀河は考えた。
実験体にされたのだろうか。あるいは? 確かに、最後に残っている記憶の中で藤村さんと出会った場所は、普通の家ではなかった。無機質な白い壁に囲まれた、どこか。温かい家庭の和らぎなどどこにも見られなかった。側にあったのは機械、ケーブル、光、音──
銀河は軽く瞳を閉じた。痛みが再び襲ってくる。キーンと耳鳴りがする。白くなる。
実験、何のために? いや、実験体になどなってはいない。最初から持っていたのだから。泉とは違う。フェイとも違う。彼女たちのように人工的に植え付けられたものではない。最初から、手で触れずとも動かせた。飛ばせた。雪とも違う──雪? なぜ、雪? 母親は違う。違ったはずだ。PSYでは──
「ギンガ、大丈夫か?」
泉の声で一気に現実に引き戻され、銀河はハッと目を開いた。饐えた大気が鼻をつき、現実感が妙に強く漂った。
もはや不安感に押し潰されそうになっている。もう少し、あと寸でのところで何かを思い出しそうだったが、思い出したくなかった。真実を知るのが恐ろしい。だが、泉の言う通りだ。なぜVoEを、創り出されたPSYたちを、父親を、こうまで憎んでいるのか銀河自身にも分からない。恐ろしいほどの殺意。それがどこから、なぜ、湧いているのか。それを知る必要があるだろう。