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泉の先導でたどり着いたのは、第九地区と呼ばれる工業地帯の外れにある刑務所だった。もっとも泉は、それが囚人を収監するための建物であったと気付いていないようだったが、なるほど、大がかりな人体実験を行うには都合の良いカムフラージュだと銀河は思った。大勢の人間が護送されてきても、誰も気に留めない。刑務所というレッテルを貼り付けるために、VoEが金に物を言わせて情報操作をしているか、政府が共謀しているか。あるいは囚人をそのまま実験体として使用しているのかもしれない。
周囲には、工業地帯特有の煙臭さに混じり、何かが饐えた臭いが充満している。それは生ぬるくねっとりとした空気に混じり、体にしつこくまとわり付き、息を詰まらせた。それに、目に見えないはずの大気が暗い灰色に染まっている。建物に収容された人間たちの憂鬱が漏れ出ているかのように、空気は暗く、重たい。
二人は少し離れた敷地外の茂みから建物の様子をうかがっていた。灰色の外壁は古い二階建てアパートメントの屋根ほどの高さがある。通常であれば壁上に張り巡らされているはずの電条網は見られない。だが、
「……外壁上部からの侵入は不可能だな」
遠視スコープを顔から外した銀河が呟き、泉は不思議そうに尋ねた。
「なんでさ? 何もないじゃん。手下がいないとこを探して壁をよじ登れば……」
「見てみろ」
銀河にスコープを渡されて覗いた泉は「わお」と軽く声を上げた。
特殊レンズを通してみれば、光の線が幾重にも壁上を這っている。ほんの小さな小動物とて、到底くぐり抜けられるようには見えない。
「さっきは見えなかったのに」
「赤外線レーザーだ。肉眼では見えないが、マイクロ監視カメラがあちこちに設置されている」簡潔に説明した銀河は、
「すげぇな、どうなってんだよ、コレ」
と感嘆しながらスコープを四方から眺めている泉に尋ねた。
「一体、どうやって外部へ脱出したんだ? イズミが外へ出られたということは、どこかに穴があるんだろう?」
「毎日、力のテストをされるんだ」
泉の口をついて出てきた言葉は唐突だったが、銀河は黙って聞き入った。
「一 日に朝と夜と二回、薬を飲む。注射もされるんだぜ。で、力に変わりないかどうか、テストされるの。アタイ、それがすっごく嫌でさ」言葉を切った彼女が小さ く息を吐く。「だって、絶対に頭が痛くなるんだ。好きじゃないことを無理やりさせられて頭が痛くなるなんて、やってらんないだろ? だから、逆らったん だ。薬、飲まなかった。そして、注射器を力を使って割ったんだ。そしたらチョウバツシツって呼ばれてる部屋に入れられて……」
そのときのことを思い出し、泉はぶるりと体を震わせた。
生臭い腐臭の漂う小部屋は、一筋の光が差し込むこともなく、ただ真っ暗だった。じめじめと蒸し暑く、息が詰まった。閉じ込められているのが長い間なのか短い間なのか、時間が全く分からなくなり、そのうち生きていることを投げ出したくなってくる。
「本当に、死んじゃうかと思った。だけど、気付いたんだ。部屋に少し涼しい風が入ってきてた。部屋の隅っこ、床に穴が開いてて……ほんとに小さな穴だったんだけど、指で少し引っ掻いてみたら簡単に崩れた。床のカケラで塞いであったんだ。穴は外に繋がってた」
彼女以前に幽閉された者が掘ったトンネルなのだろうか。だとしたら、その誰かもまた脱出できたのか。できなかったのだとしたら、その誰かはどうなったのか──疑問を抱きつつ、眉をひそめて銀河は尋ねた。
「外とは、外壁の向こうか?」
「なあギンガ、カミサマっていると思うか?」
答えずに聞き返す泉の言葉は全く唐突だったが、それでも銀河は丁寧に答えた。
「神様が本当に実在するのなら、スラムと市街地でこうも身分の落差が起こりはしなかっただろうし、泉がこの施設に収容されることも、俺が親父を追うこともなかっただろうな」
「信じてないんだ?」泉が微かに笑う。「……でも、それでも、アタイは信じてるよ。きっと、カミサマが逃がしてくれたんだ」
「神様が?」
「そう」と呟いた泉は、微笑を浮かべたまま再び話し始めた。「小さなネコを見たんだ。触ろうとしたらすぐに逃げちゃったんだけど、少し走っては立ち止まるんだ よ。でも近寄ればまた逃げるんだ。まるで、アタイについてこいって言ってるみたいだった。だからその後について行ったんだ。そしたらまた穴を見つけた。壁 に空いてたんだ。ネコはそっから迷い込んできたんだよ。だから外に出た。だって、きっと、カミサマがアタイに逃げろって言ってたんだ」
あまりに出来過ぎているような気はしたが、それを奥尾にも出さずに銀河は尋ねた。
「その穴はどこにあるか、覚えているか?」
「分からないよ」泉が少し申し訳なさそうに目を伏せる。「だって、この壁ってば、ずっと同じように続いてるだろ……覚えてるのは、穴をくぐった先に大きな煙突が二本見えたことくらい」
「大きな煙突が二本?」
銀河はぐるりと周囲を見渡した。工業地帯だけあり、周囲には高い煙突が無数にそびえている。しかしよく見てみればそれぞれ少しずつ色やデザインが異なっている。
「どんな煙突だったかは覚えているか? 例えば、何か線が入っていただとか、色だとか」
「うーん? 白かったと思うんだけど……」考え込んだ泉の瞳がぱあっと輝く。「そうだ、線が入ってたかも。赤い線。なんか、クリスマスにもらうキャンディみたいだって思ったの覚えてるよ」
銀河は再び周囲に視線を向け、煙突を見比べた。幸いなことに、白地に線の入った煙突は東側に集中している。
「行ってみよう。ひょっとして活路が開けるかもしれない」
とはいえ、外壁に近寄りすぎればすぐに不審者として見咎められてしまうだろう。距離を置きながら銀河は周囲の様子をうかがいつつ歩き始めた。