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空白の数年間のあとに残った記憶の、一番最初のページに巣くって消えないのは火星の赤茶けた殺風景だ。
もっとも、そこが火星であると知ったのはもっとずっと後だ。重たい瞼を開いたとき、瞳に映ったのは若い東洋人女性の姿だった。黒髪を頭の上で二つの団子状にくくり、そこからさらに長く細い三つ編みが垂れていた。伝統的な中国の人民服を着た彼女の真っ黒な髪と、同じく真っ黒な鋭い瞳が印象的で、初めて見たときの姿が一番強く脳裏にこびり付いている。フェイ・ホンメイは厳粛な第一印象とは裏腹に、穏やかで優しい女性だった。
彼女に会うまで銀河にとっては、地球という惑星のほんの一角が世界の全てだった。人類が既に火星へ進出していたことはおろか、火星が地球から追放された "PSY" と呼ばれるならず者たちの巣窟になっているという事実を知らなかった――もっとも、火星が地球を出た宇宙に浮かんでいる別の惑星だということすら知らなかったわけだが──ともあれ、いろいろな事実を忍耐強く教えてくれたのがフェイだった。
五歳の頃、雪に打ち明けた秘密は一つだけだった。触れずに物を動かすこと。だがその頃、銀河の秘密は三つに増えていた。相手が何を考えているか瞬時に知ることができ、そして、目で見ずとも近くに人がいるかいないかを察知することができた。なぜ増えたのか、銀河にも分からない。それに関する記憶が一切残っていないからだ。ともあれ、身の回りで起こる "怪現象" を制御できずに憔悴してゆく銀河に、彼女は的確にコントロールする術を教え込んだ。
なぜフェイが銀河の秘密に驚きも恐れもしなかったか、それは彼女自身が同じような能力を持っていたせいだ。同じ秘密を共有する者として親近感を抱いた銀河は、彼女を心のより所としていた。過ごしたのはほんの一年ほどだったが、暮らしは平穏で充実していた。しかし訣別した今、銀河は彼女との思い出をできるだけ頭の奥底へしまいこんで、思い出さないようにしている。それでも意識が深層を漂っているときには、フェイは必ずこうして目の前に現れた。
「ギンガ」鋭い漆黒の瞳で、彼女はまっすぐに銀河の瞳をのぞき込む。「忘れるな。憎しみに身を委ねてはいけない。冷静になれ、己を確立しろ。いったん内側に潜るんだ。内から外へ、ゆっくりと目を向けろ。お前の周囲には広い世界が広がっている。その外にはさらに広大な銀河が広がっている。宇宙に限りはない。いくらでも、お前の力を受け止めてくれる……」
彼女の瞳が急に鋭くなる。怒りで燃えている。怒りより憎しみに近い、憎悪。
「いやだ、フェイ、やめてよ……」
繰り出される青竜刀をかわし、握った刀の切っ先をフェイに向けた銀河の声は震えている。
「振り抜け、ギンガ。私を貫け。でなければ私が! お前の首を!」
実際に人を斬ったのは初めてだった。肉、骨の感触、そして血の臭い。初めて手に伝わった重たさをいまだに覚えている。一生、忘れることはないだろう。
フェイの口の端から、細く赤い糸が垂れている。輝いていた瞳は落ちくぼみ、濁っている。死だ。銀河は思った。これが死なのだ。死の臭い。体中から光が失われてゆく、それが死ぬということ。
「ギンガ、忘れるな……」
フェイの手が小刻みに震えている。握ると銀河の手も真っ赤に染まる。
「私は、常に、お前と共に……」
「フェイ!」
叫んだ銀河はハッと目を見張った。泉の顔が目の前にある。
しゃがみ込み、両膝に肘をつけて頬杖をついた彼女は、軽く首を傾げると、「もう朝だぜ」と短く告げた。
たき火は消えていた。バケツの中の水もすっかり冷めているようだ。すでに日が昇り、周囲は陽光で包まれている。物思いに耽ているうちに眠ってしまったのだろう。寝覚めに呆けることもなく、銀河は肩から提げていた古びたバッグから鉄製の水筒を取りだし、バケツの水を詰め始めた。
「……それ、どうするつもりだよ。水筒なんかに入れちゃって」泉が気味悪そうに尋ねる。
「持ってゆく」きつく蓋を閉め、銀河は水筒を元通りバックにしまいこんだ。「持っていれば、何にでも使える」
「何にでもって、何に!? まさか、飲むつもりじゃないだろね?」
「まあ、飲むこともできる」
泉の瞳が、口が、大きく開く。「死んじゃうよ。苦しんで死んじゃうんだよ」
たき火の跡を足で軽くならし、銀河はゆっくりと土手の上へ向けて歩き出した。
「死なないよ。シドクザウムは高温に弱いから、煮沸消毒で予防できる」
追尾しながら泉が尋ねる。「シドが、何?」
「ずっと昔に政府が公表した、自然水から検出された毒性物質の名称だ。例え皮膚接触したからといって、致死量が蓄積されるには一生分の年月がかかる……それも、生まれたときから摂取し続けていれば、の話だから」
「ええと……ちしりょう……ちくせき、一生……」じっくりとかみ砕くように、銀河の話を頭の中で何度も繰り返した泉は、「それってさ、川の水を飲んで自殺しようと思ったら、自然に死んじゃうのと同じだけの年がかかるよ。ってこと?」彼女なりの結論を導き出すと、答え合わせを求めて銀河の顔を覗き込んだ。
「まあ、どの道、生水を摂取していればいずれ他の雑菌にやられて体調を崩してしまうだろうけど」微かに笑った銀河が答える。「単純に論ずればその通り。政府が指定した物質に限っては、人が死ぬことなどそうそうないってこと」
「ええっ、そんなのおかしくないか!?」泉が憤然と声を荒らげる。「だって、水が足りないからって、スラムじゃ大変なことになってんだぜ? 金持ちばっかり、水の無駄遣いしやがって……川の水が普通に使えるんなら、みんなもっと風呂にも入れるし、飲み物にも苦労しなくて済むじゃないかよ!」
「そうだな。それに気付いているからあの人たちは、あそこで生活しているんだ」銀河は軽く背後を振り向いた。段ボールの家が数軒、相変わらずひっそりと建っているのが見える。「最初に発表されたのが誤報だったのか、意図的だったのかは分からない。だけど今は明らかに違う。水でコントロールしているんだよ。治世をね。そうでなけりゃ裕福層にもあれだけの水が回るはずはない。水処理場は秘密裏に作動しているし、ちゃんと海水や川の水が使われているんだ。世界的に」
「だったら、誰かが……そうだ、ギンガがそれをスラムのみんなに教えちゃえばいいんだよ!」
鬼の首を取った様子の泉を、銀河は軽くたしなめた。
「それはあまり賢い考えではないな……政府が遅発毒性」言葉を切った銀河は、泉にも理解しやすいように言葉を選んで言い直した。「毒がすぐに効くのではなく、少しずつ溜まっていって、最悪な最後を迎えると発表したのはなぜだと思う?」
「ええ、うーん? もし水に触っちゃったとき、そいつが死ななかったら、ホントは毒じゃないって分かっちゃうから?」
自信なく語尾をあげる泉に、銀河はにこっとした。
「正解だ。だが、少しずつ体に貯まると言われれば、そこには近寄りたくなくなるだろう。いつ死んでしまうか分からない不安に追われて過ごすのは、誰だって嫌なはず」
「でもさ、それと、みんなに知らせるのがいい考えじゃないのと、どう関係があるのさ?」
「政府が実際に毒を混入しかねないからさ」銀河がさらりと答える。「何年も騙されていたと知って国民が黙っていると思うか? 暴動を防ぐ一番の良作は、虚実を力ずくでねじ曲げて真実にしてしまうこと。その上でいよいよ飲料水が足りなくなったって、どうせしわ寄せがいくのは貧困層。貧しい命が何万失われたって、裕福な連中はなんとも思わないってことさ」
それはスラム出身の泉自身が一番よく分かっていたはずなのだが、改めて誰かの口から聞くとショックが大きく、何も言えずにうつむいた。泉の父親と母親は、子供が生まれてくることを望んでいなかった。そもそも彼らは籍を入れていない。森野は母方の姓で、泉はほとんど祖父に育てられた――両親はたまに姿を見せたが、娘にきつい折檻をすることはあっても愛情など与えてはくれなかった。それはスラムはよくある光景で、全く珍しくはない。そして売られた子供たちは、むしろ両親の元を去れることを喜んだ。
普通にあふれている飲料水や食料を制限することで、家族を目減りせざるを得ない状況を作り出し、捨てられることが幸せであるかのように錯覚させる境遇に子供たちを追い込んでいる、そのシステムを明確に理解したわけではなかったが、泉にもスラムの貧困が人為的に作られたものであるということだけは理解できた。
「アタイたちは、人間じゃないっていうのかよ……」
「そのシステムを作り出したのが、お前もうすうす気付いているとは思うが、VoE、その創始者、アキト・シーナ……椎名秋人だ」
泉は目を見張って銀河を見上げた。
なぜ、今まで気付かなかったのだろうと不思議に思う。最初に銀河の名を聞いたときにすぐ気付くべきだったのだが、誰もが "アキト・シーナ" とその名自体が一つの単語であるかのように呼んでいたから、てっきり日系の欧米人だと思っていたのだ。銀河が名字と名前を逆にしてシイナと発音した瞬間、明確に悟った。
「ギンガの、家族か……?」泉はぼう然と言葉を捻り出した。「ギンガがイノチを狙ってる、アキトさんは……」
「父親だよ」
泉の瞳が、これ以上ないほど大きくなる。一瞬後、ふ、と表情が歪み、瞳からぽろぽろと涙がこぼれ始めた。
「父ちゃんなのに、なんで殺すなんて言うんだよ……殺したくなるくらい、父ちゃんを憎んでるのか?」
「じゃあ、お前は、イズミ」銀河がまっすぐに泉を見据える。初めて出会ったとき、容赦なくVoEの者達を切り捨てたときと同じ、凍り付いた鋭い瞳で。「お前をそんな姿にした男を許せるか? あの男がいなければ、お前は両親と共に幸せに暮らしていたかもしれない。お前の人生を壊した男を許せるのか? その息子である、俺を?」
フェイ・ホンメイは許せなかった――頭の中で言い捨てた銀河は、軽く口角をあげた。
互いに互いを必要とし、分かり合えていると思っていた。だが、一族ごと火星へ追われたフェイは家族の仇であるアキト・シーナを許せなかった。その息子である、ギンガ・シーナごと憎んだ。二人が親子であると知った瞬間に、彼女は剣先を銀河に突き付けた。
だから殺した。
向かってくる彼女の下腹に、深く刀を突き刺して。
今でも覚えている――銀河は両手を軽く上げ、目線を落とした。肉を貫く感触。血の臭い。こうして凝視すれば、今だって手のひらがべったりと真紅の血に塗れているような錯覚に陥る。
椎名雪は、息子とのゆびきりを守らなかった。彼女はきっと今ごろ、この世界ではないどこかで千本の針をのみ続けていることだろう。椎名秋人は何かに取り憑かれ、息子を捨てた。森野泉の両親も自分たちの欲望のままに娘を捨てた。愛など、情など、約束など。この世にそんな不確かなものは必要ない。必要なのは椎名銀河自身、そして腰に下げている刀のみだ。
「分んないよ!」泉が声を張り上げる。「そんなこと言われたって、分かんない! アタイ、バカだからかもしんないけど、だってギンガはアタイを助けてくれたもん。ギンガが本当は笑ったら優しい顔になることだって知ってる。ギンガはギンガだろ、誰の子供だろうと関係ないだろ。これからもっといっぱい話して、友達になりたいって思ってるんだ。アタイの父ちゃんと母ちゃんが売りに出してくれなかったら、アタイ、外の世界を見ることもできなかった。ギンガとも会えなかった。だから、アキトさんが子供を集めてることが悪いことなのか、そんなの分かんないよ!」
ぼう然と、一息にまくし立てて鼻をすする泉を凝視した銀河は、ふと眉を下げた。垂れた鼻水と涙で顔はぐしゃぐしゃになっている。肩を上下させた彼女が頬を紅潮させたまま、ぐいと腕で鼻の下を拭ったので、透明の筋がてらてらと伸びて頬に線を描いた。
ふ、と笑いにも似たため息を漏らした銀河はショルダーバッグの中から水筒を取りだし、同時に出した布きれに水を染み込ませて泉に差し出した。
「ほら、顔を拭けよ」
「い、いやだっ!」途端に泉の顔が青ざめる。「どく、どく!」
「大丈夫だと説明しただろう」銀河が一歩近寄ると、
「でも何かいやだっ!」泉も一歩引く。
ため息をついた銀河は、再び水筒の蓋を開けると口をつけて中の水をごくごくと飲んだ。水筒を下ろし、「これで安心か?」ぽかんと見ている泉の腕を引き寄せて、有無を言わさず布きれでぐいと顔を拭う。「女なら、少しらしくしてはどうだ」奇麗になったのを確認するとそのまま布きれを泉に押し付け、背を向けて歩き出した。
地面に落ちそうになる布きれを慌てて掴み直した泉は、その背中を見つめ、手の中の布きれに視線を落とし、再び顔をあげるとにんまりと口角を上げて笑顔を浮かべた。
銀河の心遣いが嬉しい。何より、銀河が予想に違わず優しい人物であることが嬉しい。例えアキト・シーナがどんな悪人であったとしても、やはり銀河は銀河で別人だ。短絡的に考えた泉は彼を追って走り出した。その優しい銀河が父親を手にかけようと決心するほどの何をアキト・シーナがしたのか、泉には全く考える余地もなかった。