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「ねえ、お母さん」
ベッドの横に腰掛け、雪の温かい体に頬をつけた銀河は、端正な顔をのぞき込んだ。雪の色白い頬にほんの少し、赤みが差している。そんなときは大抵、彼女の体調が良好を保っている。それを知っているから銀河の心も弾んでいる。秋人が飲み物を買いに病室を出た隙をつき、銀河は母親の耳元でこっそりと囁いた。
「僕の秘密、教えてあげようか」
「なあに、秘密って」
五歳の息子が子供特有の、他愛もない告白をするのだろうと予期していた雪は、その予想を裏切られてより一層色を落とすこととなる。
「あのね、僕、触らなくても動かせるんだよ」
言うなりベッド横のサイドボードに視線を移した銀河は、鋭い目つきで載っている写真立てを凝視した。幸せそうな笑顔の秋人と雪が肩を並べ、秋人の腕には赤ん坊が抱かれている。その写真立てが、ずり、と動いたとき、雪は落下するのではと思った。だが、受け止めようと手を差し出す間もなく写真立てはふわりと宙に浮き上がり、そうして雪は息子の秘密が、とんでもなく大きな、他に知られてはいけないものだと知る。
「ね、すごいでしょ、お母さん」
得意満面に銀河が笑うと、花瓶さえも、背の高い点滴スタンドすらも浮き上がり、自由自在に動き回る。
「やめて、銀河……」恐怖に包まれ、雪は両手で頭を抱えた。「やめなさい!」最後はほとんど金切り声で叫んでいた。
銀河が目を見開く。彼の顔に畏怖と驚愕が広がっていき、音を立てて宙に浮かんでいたものたちが床に落ちる。写真立ての脚が外れて写真が飛び出し、花瓶は割れ、水しぶきが舞う。点滴スタンドは一層派手な音を立てて倒れたので、驚いた病院関係者や秋人が部屋に飛び込んできて、惨状に目を見張った。
顔面蒼白な妻と、それよりもっと顔色を無くした息子を抱き寄せ、秋人は低い声で尋ねた。
「何があった?」
「いいえ、何も……」雪が言葉を濁らせる。「窓から、のら猫が入ってきて……すぐに出ていったのだけれど」
秋人は窓へ目を向けた。確かに窓は開きっぱなしだ。そよそよと白いカーテンが風に揺れている。すぐ外に生い茂った木の枝が見えた。雪の病室の前には古い巨木が生えている。そこを伝って猫が入り込んだと雪は言っているのだろう。だが、
「そうか。ケガがなくて何よりだ」
妻の頬にキスをした秋人は、腕の中で震えている息子に目を向けた。色白の雪よりも色を無くした様子は尋常ではない。病室の中で暴れ倒したのが猫などではないと、息子の態度が語っている。それに秋人は知っている。確かに五階の病室よりも高い木が表にそびえてはいるが、猫が飛び移れるほど窓と枝が近くはないことを。
病院からの帰り道、秋人は、往路とはうってかわって沈み込む息子に尋ねた。
「何があったんだ、ギンガ? なぜ、写真立てや花瓶は床に倒れて壊れたんだ?」
銀河は押し黙る。無言のまま、右手で左の小指を包み込み、胸に当てている。
集まった大人たちが病室の掃除にかかっているとき、雪はこっそりと銀河に小指を指しだした。そうしていつもとは少し違うゆびきりを交わした。
ゆびきりげんまん 嘘ついたら 針千本 のます「ゆびきった」
そのあと雪は厳しい声で、銀河の耳元で囁いた。
「いい、ギンガ。絶対にその秘密をお母さん以外の人に話してはいけません。そのことでどうしても辛くなったら、誰かに話したくなったら、いつでもここへきなさい。学校を休んでも構いません。お母さんはいつでも、あなたの味方だから。あなたの側にいるから」
「猫だよ、お父さん」父親に顔も向けず、銀河はぼそぼそと呟いた。「お母さんは窓からって言ったけど、違うよ。僕が連れてきたんだ。お母さんに見せたくて……僕、叱られると思って言えなかったんだ。ごめんなさい、お父さん」
秋人は微妙な表情を浮かべ、息子の頭に手を載せるとぐしゃぐしゃと強く髪を撫でた。柔らかい毛先が絡まるのも気にせずに撫で回した。母親が喜んでくれると思っていた秘密が実はそうではなかったことよりも、父親に嘘をついたことの方が銀河をうちのめした。それは銀河が父親についた初めての嘘だった。
その嘘がきっかけだったのかは、銀河自身にもよく分からない。
ともあれ、それから父と息子の関係は少しぎこちなくなった。正確には、雪と秋人の関係も。秋人はますます研究に没頭し、ほとんど家へは戻らなくなった。家には使用人がやってきて銀河の面倒をみたが、不思議と長くは続かなかった。ある日、ぱったりと来なくなってしまうのだ。そうして秋人から新しい使用人を紹介される。前任者は急な都合で辞めざるを得なくなったと聞かされて。
そうして七人ほど、使用人の入れ替わりがあったある朝、目覚めた銀河がダイニングルームへ向かうと珍しく秋人の姿があった。すでに来ているはずの藤村さんの姿はなく、戸惑う息子を秋人は笑顔で見下ろした。
「お母さんのところへ行こう、ギンガ。見つかったんだ、お母さんを治す方法が見つかったんだよ。もう使用人など必要ない。今度からはお母さんとお父さんがいつもお前を見ていてあげられるからね」
それは嬉しい知らせのはずだったが、全身を逆撫でされるほどの悪寒に襲われた銀河は、凝固して父親を見上げることしかできなかった。秋人の瞳は笑ってはいない。口の端は笑っているように上へ歪んでいるのだが、瞳はまっすぐで硬く、ぎらぎらしていた。
「藤村さんはもう "いない" 」
その言葉を聞いたとき、銀河は吐き気がするほどの頭痛を感じ、ほとんど父親の手を振り払って逃げ出したくなったが、そのまま素直に手を引かれるに任せた。秋人は何か別のものに変わってしまったかのようだった。少し見ない間に怪物がお父さんを食べてなりすましてしまったのだろうか、と銀河は思った。だが、どうすることもできない。五歳の子供には、父親とすり替わった怪物を退治することなどできない。
病室へ着いたとき、銀河は秋人から五百円玉をもらった。何か好きなものを買ってきなさい。と秋人は言った。お父さんは少しだけ、お母さんと話があるんだ。と言った。銀河は何も欲しくはなかったけれど、素直に従った。きっと、逆らって怒らせれば、お父さんになりすましている怪物が暴れ出すだろうと思ったのだ。
かといって病室から遠く離れる気にもなれず、少し先の談話室でジュースを一本だけ購入した銀河は、一つ先の病室の壁にもたれ掛かって呼ばれるのを待った。急に怒鳴り声が聞こえた。父親と母親が怒鳴り合っている。それなのに病院スタッフは気付いていないかのように、病室へ近寄ろうともしない。母親はほとんど金切り声で叫んでいる。それは、銀河が聞いたことのない声だった――いや、一度だけ聞いたことがあった。銀河が秘密を打ち明けたとき、彼女は同じように叫んだ。やめなさい! と。
その後の記憶は曖昧だ。銀河の記憶には空白の数年間がある。おぼろげに思い出せるのは、普通の民家で過ごしはしなかったということだ。病院へ通うこともなくなった。雪が病院からいなくなったからだ。それに、不思議と、藤村さんに会った記憶がある。藤村さんはもういないと秋人は言ったが、ともあれ銀河は藤村さんと会話を交わした。いや、会話だったのか、余りよく覚えてはいない。彼の口は動いていなかったような気がする。
だが確かに藤村さんは、"いい天気ですね、坊ちゃん"と告げた。外は大雨だった。
それ以外に銀河が覚えていることは何一つない。そこから十一歳まで、記憶が飛んでいる。気付いたときには外にいた。雨が降っていた。藤村さんが、いい天気ですね。と言ったときのことを、灰色に曇った空を見上げながら思い出したのを覚えている。そのとき既に、VoEに対する、父親に対する憎悪に支配されていたこと、そして、誰かに追われて逃げていたことも。