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新形の有害物質が検出されてから、水辺に近寄る者はなくなった。皮膚接触により取り込まれるシドクザウムは発がん性の他に血液を凝固させる性質を持つ。即効性はないが、一度体内に潜り込むと蓄積し、二度と外へ出ることはない。それを恐れた人々は自然に河川敷や海岸沿いの土地を離れ、生活圏は次第に狭まっていった。もともと敷地の狭い日本では、深刻な土地不足が引き起こされている。スラム街の人口密度はますます濃くなり、細い通路に車が立ち入るスペースなど見られないほどだ。
もはや命を惜しむ気力すらないのだろうか、川岸にはそれでも数点、段ボールで作られた簡易ハウスが見られた。ひっそりと静まりかえっているせいで中に人がいるのかいないのか、いるとして生きているのか死んでいるのか、全ては不明だったが。
ごつごつと石が背中に当たる感触は不快だったが、大きめの石を選んで枕に仕立て上げ、ごろりと地面に横たわった泉は、顔だけを横に向けて銀河を眺めた。火を興した彼は、無言のまま古ぼけたバケツにくんだ川の水をかき混ぜている。
「なあ、それって体に悪いんじゃないの?」
泉が声を掛ける。銀河は答えない。そのやり取りが、出会ってからずっと続いている。
どんなに無視されても全くめげずに泉は話しかけ続けた。
「なんか、触るだけで死んじゃうって聞いたよ。だから、その辺に生えてる野生の草とかも食べちゃダメだってさ。すごい病気にかかって、全身から血をふき出して苦しみながら」体を起こした泉は頭の横にかざした両手を丸めて空気をわしづかむと、鼻の頭にしわを寄せて仰々しく続けた。「のたうち回って死んでしまうのだぁ」
「……それなら」ぼそっと小声で銀河が呟く。
返ってこないと思っていた答えが思いがけず耳に飛び込んできたので、一文字も聞き漏らすまいと泉は身を乗り出した。
「なぜ、彼らは生きていられると思う?」
銀河が示す指の先を追った泉は段ボール製の小さな集落を確認し、「生きてるかどうかも分からないじゃん」首を傾げながら答えた。
「住人が管理していなければ段ボールなどすぐに劣化し、今ごろ原型を留めてはいない」
「ああ、そっか」泉が地面を這って銀河に近寄る。「ギンガ、鋭いね。アタイと違って賢いんだ。すげぇな」
それに対する返答はなかったが全く気にも留めず、背を返して駆けていった泉は枕にしていた石を両手で持ち上げ、銀河の対面に持ってくるとそのまま座り込んだ。
「アタイさ、父ちゃんと母ちゃんに売られたんだよ。ぶいおーいーってのが人を買ってて、アタイみたいなクズでも当面の生活できるくらいの金を出してくれるんだってさ、二人とも、すごい嬉しそうに話してたっけ」
無言だった銀河の眉がピクリと上がる。どこか懐かしそうに泉は話し続ける。
「結構ぶたれたしさ、あの人たちのことは何とも思ってないけど、いちおう親だからね。それに、アタイ、自分がバカだってちゃんと分かってっから」
焚き火の周りの石をどかし、地面を払って底の土を露出させた泉は、細い薪を手に取ると地面を掘り始めた。
森 野 泉
三文字の漢字がミミズの這ったような線で形成されてゆく。
「これが、アタイが書ける全部の文字……読める全部の文字でもある」
「学校へは通わなかったのか?」
ほんの三文字であっても書けることが誇らしいとでもいうような、満足気な笑顔を浮かべる泉に、銀河は簡潔に尋ねた。
「当たり前じゃん。そんな金があったら、いくらアタイでも売られたりしてないよ。学校なんて金持ちが行くとこだろ? アタイの住んでたスラムにはそんなもん建ってなかったし、周りで字を読み書きできるやつなんて一人もいないよ」
うつむいた銀河は、周囲に積み上げた枝の山から一本引き抜くと、炎の中をかき混ぜるように突っ込んだ。できるだけ枯れたものを選んではみたものの、まだ水分の残った枝は薪としては役割不足で、なかなか火が移らない。辛抱強く燃えるのを待つように、銀河はいつまでも枝をたき火の中で踊らせ続ける。
「ねえ、アキト・シーナを捜してるっていってたよね?」
そのキーワードに反応した銀河がハッと顔を向け、泉は皮肉気に口元を歪めて冷笑した。先ほど地面に文字を彫った枝の両端を持ち、軽く力を入れるとピキリと小さく情けない音を立てて折れ曲がった。乾燥していないせいで、完全にまっぷたつには折れていない。焦げ茶色の樹皮を突き破った白い植物繊維が、鋭い先端を宙に向けている。泉は軽く指の先で突いてみたが、なぜか、先ほど首と胴が離れて地面に転がった痩せっぽちを思い出して気分が悪くなったので、折りたたんだ枝をたき火の中に放り込んだ。
「その名を聞いたか? お前がいたという研究所で」
「泉だよ」
素早く直され、銀河は軽く眉をひそめた。泉が続ける。
「お前じゃない、泉だ。泉って呼ばないと答えないよ。ほら、言ってみ? いーずーみーちゃん」
銀河の硬い表情が揺れ、泉は得意になって胸を張ると再び促した。
「恥ずかしくなんかないよ、ほら、ほら」
「……いずみ……」ポツリと吐き捨てるように呟いた銀河が "どうだ、これで気が済んだろう" とでも言うように、憤然とした表情を浮かべたまま間髪入れずに続ける。「いたのは何番施設だ? あの男は本部にはいなかった……どこにいるのか、知っているなら教えて欲しい」
「あのさぁ」鬼気迫る様子にたじろぐことなく、泉は肩を落とすとまじまじと銀河を見つめた。「疲れないかな?」自分の眉間にしわを寄せ、人差し指でならしてみせる。「いっつも、ここが寄ってる。怖い顔して、物騒な話ばかりしちゃってさ。口に出したことは本当になっちゃうって、じいちゃんがよく言ってたよ。ネガティブな話題を口にすれば、どんどん自分が不幸になっちゃうって」
「余計なごたくはいい。情報だけ教えろ」それでも少し気まずそうに顔を逸らしながら、銀河がとがめる。
「うーん……でもなぁ」唇を尖らせて考え込む泉の表情がぱっと明るくなり、「そうだ、こうしよう。誰も傷つけないって約束しろよ!」身を乗り出すと鬼の首を取ったように声のトーンをあげる。
銀河がそこで初めて、驚いた様子で目を見張った。
「分かってるって、アキトさんとケンカでもしたんだろ。ダメだよ、そんな短気なことじゃ。人間、ちゃんと話せば分かり合えるってじいちゃんが言ってた」
彼の様子などお構いなし、泉は両手を動かしながら同時に口も動かし続ける。
「だから、なっ。アタイと約束しろよ。もう誰も殺さないし傷つけないって」
「……不可能だ」
淡々と告げた銀河が立ち上がり、泉は口を開けたまま見上げた。
「どこいくの? もう暗いよ」
「情報が何もないのなら、行く……自力で捜し当ててみせるまでだ」
「ふーん、まあ、いいけどね」せせら笑った泉がまくし立てる。「で、そうやって一人で捜し続けてどれくらい経つわけ? アキトさんにたどり着くまでに、何人の人間を殺すつもりなんだよ。だいたいさぁ、外界をうろついてるのなんてどうせ、さっきの奴らみたいに何も知らないのばっかだろ。ただ命を無駄にして寝覚めが悪くなるだけじゃん。それともギンガは、誰かを傷つけてもなんとも思わないんだ? そんなの、その辺をうろついてるロボットの掃除屋と一緒だ。そんなヤツならこっちが願い下げだね。勝手に行けよ」
返しかけた踵をピタリと止めた銀河は改めて泉に向き合った。
彼女の言うことは正しい。
別に銀河とて、好きこのんで刀を振るっているわけではない。必要に迫られて持つようになっただけだ。そうして、泉の言葉で気付いた。護身のために持っているはずの武器を、最近、進んで振るっていたと。命乞いする者を、何人、非情に切り捨てただろうか。
「……どうしろと言うんだ」
銀河が再び元の位置に腰を下ろしたので、泉はにっこりと満面の笑顔を浮かべた。
「じゃ、約束。はい」小指を差し出し、まっすぐ銀河の瞳を見据える。「無駄に人を傷つけない。アキトさんに会っても傷つけない。話し合うって、約束」




