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しかし、ふと違和感を覚えて銀河は彼女に視線を向けた。
泉が刀の柄に手をかける。そうして、すらりと刀身が抜き出され──銀河が目を見開く。その口から真紅の液体が噴き出し、唇の端に線を引く。体を貫いた刀は鉄製の枝のように背中からにょきりと生え、天井の照明を反射してぬらぬらと光った。
「やだ……ギンガ……」泉が声を絞り出す。
そんなつもりではなかった。銀河の腕を取り、身を擦り寄せたかった。彼の体温を感じ、匂いに包まれたかっただけなのに。これは違う。こんな、鉄と錆と残酷な臭いを嗅ぎたかったわけではない。泉は必死で刀を抜こうと試みたが、体が動かない。それどころか手が勝手に柄を回し、ぐりぐりと肉を抉る感触が伝わってくる。銀河ががくりと床に膝をついた。
「あああああああ!」泉が絶叫する。
頭の中に何かが入り込み、踏みにじる。目の前にいるのは、刀で貫かれて当然の男──大好きだった父ちゃんと母ちゃんとじいちゃんを悲しい目に合わせた男──アタイをこんな体に変えた──
再び柄を握りしめた泉は、力を込めて刀を抜き取った。銀河の口から絶叫と共に大量の血が飛び出す。しかし泉の目にはもう何も映らない。無表情のままうずくまる銀河を見下ろすと、機械的に刀を構え直した。
「ははははははは!」アキトが笑っている。
その声は泉にとってはただの音でしかなかったし、銀河には耳を切るサイレンでしかなかった。
「どうだ、銀河。痛いだろう。体より心が痛いのではないか? どうだ、信じている相手に裏切られる気分は?」
「う……」なんとか床に手を付き、体を支えようとした銀河は再びがくりと落ちた。手の平がぬるりと血で滑り、体重を支えることができなかった。身を裂かれるほどだった痛みは、じんじんと疼く程度に変わっている。痛みを感じなくなっているというのは、まずい兆候だと知っていた。体温が失われている。指先がじりじりと痺れ出す。
「これは俺からの慈悲だ。その小娘に……かわいいペットに留めを刺させてやる。お前がその手でフェイという名の女を殺したように。雪を殺したように」
ぼんやりと、銀河はその言葉を聞き流した。
フェイは自ら銀河に殺されることを望んだ。彼女は何も言わなかったが、彼女の考えは全て伝わってきた。フェイは銀河を愛し、その愛す者の手で逝くことを望んだ。だから彼女自身に干渉し、銀河を本気で殺そうとした。銀河がまた、本気でフェイを殺せるように。しかし最後の最後で、彼女は本心を押し殺すことはできなかった。
ギンガ──フェイが耳元で囁く。彼女の、心の声が聞こえてくる。
私にはお前を抹消する義務がある。アキト・シーナの血を継ぐお前を……アキト・シーナの増幅装置であるお前を……だが、私にはできない。だから、殺せ。その手で殺せ。私の生命をお前の中に取り込め。一つになろう、ギンガ。何も、柵などない場所で一つに……
憎まれているのだと思っていた。増幅装置という言葉が何を指すのか、その頃は分からなかったから。だが今は分かる。彼女にはアキト・シーナの狂気を止める務めがあった。そのためには末端装置である銀河の存在を抹消しなければならなかった。だが、できなかったのだ。だから死を選んだ──銀河を愛したから。
「強く生きなよ……ギンガ……」それがフェイの間際の言葉だ。
だから言葉通り、強くなる道を選んだ。彼女の意思を継ぎ、アキト・シーナを抹殺するため──そうか、彼女の意思だったんだと銀河は気付いた。燃えるほどの憎悪、父親への憎しみ、殺意、全ては──ひょっとすると、フェイが最後の力で植え付けた "彼女の意思" だったのかもしれないと。
泉の力など他愛もなくちっぽけだし、ほんの少し傷を騙すことができれば、彼女から刀を奪い返し、斬り殺し、アキトに留めをさすことができる。今ならまだ間に合う。今ならまだ、椎名銀河の生命は活動を停止していない。
だが、今となってはどうでもいいと銀河は思った。疲れていたし、眠たかった。
これでやっとフェイと会える。雪とも会える。またゆびきりができる。永遠に一緒にいると、どこにもいかないと、ゆびきり。
銀河は目を開いていた。霞む目で泉を見上げていた。彼女の手がゆっくりと下がるのが見える。妙にゆっくりと動いている。刃先はきっと、左の肩口から切り込み、斜めに気管をかき切り、右の脇腹へ抜けるだろうと思った。もしも泉にその力があるのなら。
だが、泉は刀を振り下ろさなかった。代わりに小さく「……ギンガ……」と声を振り絞るようにして呟いた。彼女の表情は無のままでロボットのようだったが、唇だけがおかしな具合に上がり、言葉を紡いでいた。ぽろりと光のない瞳から涙が零れる。
そして銀河は、彼女の手がぎこちなく動くのを見た。まるで、ネジで動くオイルの切れたからくり人形のように。ギギギと軋む音が聞こえたような気すらした。その手が左右長さの違う、ちぐはぐなパンツのポケットを探る。取り出されたのはボロ切れだった。銀河はすぐにそれが、彼女の顔を無理やり拭ってやった布だと気付いた。
「ごめんね」泉の唇が再び動き、
「ダメだ!」銀河は声を限りに叫んだが、力が入らず、ほとんど声にはならなかった。それに、飛びついて刀を奪い取りたかったが体が言うことをきかなかった。
柄を掴む泉の手がゆっくりあがる。首筋に刃をピタリとつけた彼女は、
最後にほほ笑んだ。
最後まで純粋だった泉の体内を巡っていた液体は、想像通り奇麗だった。それを浴びながら、銀河は倒れてくる体を受け止めた。自分の生命も活動を停止しかけているはずなのに、まるで泉の体液が生体エネルギーとして染み込んでくるかのように、すんなりと動くことができた。泉の体は軽い。改めて、小さく華奢であることに気付く。
こんな場所で、こんな風に死ぬべき少女ではなかった。まだ知らないこともたくさんあったろうに。これから楽しいことも辛いことも──いや。
髪を真っ赤に染め、銀河はゆっくりと顔を上げた。
ここで終わって良かったのかもしれない。世の中には知らない方が良いことが山ほどある。そうして人は、汚れていく。柵や因縁や、いろいろな不要物に塗れて。
それはほんの数分の間に起こった出来事だったのだが、銀河にはまるで何十分もの時間が流れたように感じられた。アキトは笑っている。まだ笑い続けている。銀河が目覚めたことを知らずに。
完全に顔をアキトに向けた銀河は、ゆっくりと、目を開いた。
「ぅおおおおおおぁぁぁぁ!」
慟哭なのか咆哮なのか、銀河自身もよく分からなかった。ただ、声を上げながらがむしゃらに目の前の標的に飛び掛かった。アキトがハッと目を見開いた瞬間には、既に目の前に銀河の姿があった。ガッとアキトの顔を手の平で覆い尽くすように鷲掴んだ銀河はそのまま体重を載せるようにして床に叩き付けた。バキバキと頭蓋が割れる音が響いたが、アキトは薄ら笑いを浮かべたまま銀河の腕を掴んだ。
「飛んだか。理性を失えば、攻撃が単調になる。お前など……」言いかけ、言葉をのみこんだアキトは見開いた目に恐怖の色を載せた。「なっ……なんだ、何をしている……」
銀河は答えない。燃えるような憎しみに染まった瞳は獣のように光り、上下する肩の動きに合わせて、ふーっ、ふーっ、と呼吸が漏れる。
「やめろ、銀河……やめ……」アキトは逃れようともがくが、人間離れした力は強すぎて顔を逸らすことすらできない。体中からエネルギーが抜けていく。顔を掴む銀河の手を通して吸い上げられているように、熱がどんどん体外へ逃げてゆく。膨張していた風船がしゅるしゅるとしぼむように、枯渇してゆく。
同時に、銀河の胸に空いた深い穴が埋まってゆく。みるみる癒され、穴が閉じ──
「模倣……ではない……のか……」アキトが笑い出す。ははははと笑い出す。「吸収……銀河……お前の力は……相手を殺し吸収する呪われた力……」
狂った笑いではなく、純粋に腹の底からアキトは笑っていた。ぎらぎらとした光が瞳から消え、どこかすっきりとした表情がそこにある。銀河はゆっくりと手を離し、姿勢を整えると彼を見下ろした。
「はははは……素晴らしい。呪われた力をそのまま持っていくか……それもいい。銀河、生きろ。呪われた生を背負って生きろ……お前を待っているのは、退屈で鬱蒼とした闇のみだ」アキトの声が小さくなってゆく。生命の灯火が消えるのを告げている。カウントダウンを始める。五、四、三、二──
「……お父さん」彼の元に跪き、手を握り締めた銀河はぽつりと尋ねた。「僕を愛していますか」
アキトが体を起こす。小刻みに震えながら、最後に残った生命エネルギーを全て費やすように。そうして銀河の耳元に口を付け、
「ああ。愛していたよ、銀河」
それきり動かなくなった。
光が消えた瞳はどこか一点を見ていたが、銀河を見てはいなかった。口元には笑みが貼り付いていたが、まるで道化のようだった。
「僕も愛していました」
ぽつりと呟いた銀河は、もたれ掛かるアキトの体重を受けたまま天井を仰いだ。
涙が溢れてきて止まらなかった。そのまま声に出して泣いた。子どもに返ったかのように泣いた。
これから永遠の時間が待っている。
どんなにもがこうとも、自分自身では停止できない時間が。
先に苦痛と絶望しかない道を永遠に歩く、孤独な自分の姿を思って泣き続けた。
《了》
最後まで読んでくださってありがとうございました。
ほかの作品をこちらで掲載するかどうかはまだ分かりませんが、自サイトにいろいろ、作品を公開しております。
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拙いイラスト、マンガなどもありますので、ぜひご訪問くださいませ。
難波★ちな